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■ ”自分が判らない”?
”自分がわからない”という原因のひとつには ”自分を認められない”というのがあるんじゃなかろうか。 それが原因であるならば いくら他人に「誰か本当の私を教えて」なんて ”自分”のアイデンティティの欠片を訊ねてみても 所詮、無益な事に終わるのじゃなかろうか。 ”自分の考え”でさえ認められない”自分”を ”他人”の考えによって認められることなんて できるんだろうか? それは”自分”より”他人”の方が比重が重くなるという事になると思うのだが、 それは認められるんだろうか? ”自分が判らない”→”だから本当の自分を一生懸命模索している” この行為自体既に自分を大事にしたがっている という事ではないのか?
だったら答えを出すのも又、”自分”でないと いけないんじゃなかろうか。 そうじゃないと真に納得できないんじゃなかろうか。
でも、「自分のことを判ろうとする」のに 必死になるのって、ちょっと違う気がしないでもない。 結局”自分”は”自分”の内にあるんだから、 このまま一生懸命自分の信じられる道を生きてりゃ いつか”自分”が”見えて”くるもんなんじゃないかって思う。
それまで、ワクワクしながら、でもその時に見つめたい一点だけは忘れないで、 日々を歩いたり走ったりしてればいいさね。
2002年06月03日(月)
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