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■ 書くという事
本当にココロの中で思っている事って 私の場合 うまく口では表せられない。 何か私の心の真実を それも結構私にとっては大切なことを 伝えたかったりするとき 口で伝える事があまりに下手で 自分でも愕然とし閉口してしまうくらい 拙くて うまく言葉にならなくて わかってもらえないのは 当たり前で しかも 口にするとかなり響きがクサかったりするときもあって 自分としてはかなり落ち込みどころである。
こうやって文章にしようとすると、話そうとする時よりはうまくいく・・と 思っているつもりなのだが・・。
「喋る」スピードは、私には速いのかもしれない。 何でもない事――雑談とか――を話すのであれば全く苦ではないのだ。 そこに在るのは「考えない私」だからだ。 だが自分の内側――それこそ脳内世界や私の中に深く入った先にある「考える私」が表に出て口で話すことによってその中の何かを伝えようとすると、これが本当に難しいのだ。 まず共感してくれるような相手があまりいない。 一緒に道を探ってくれるような相手があまりいない。 そして歩調の合わない時あえてそういう話をすると、どうしても「喋る」のではスピードが速いのだ。
文章だと、模索しながら綴っていける。 さっき喋った言葉に消しゴムをかけることは出来ないけれど、 さっき書き付けた文字を消して書き直すことは出来る。 それは「内側にあるものを模索し、何度も考え直してひとつのものにまとめる」行為そのものだ。 「喋る」のでは後ろに流れる言葉を止める事は出来ない。 だが「書く」のではそれが出来る。 そこがスピードの差につながる。 そこが「じっくり考えられるか否か」につながってくる。
こんな私は頭が弱いんだろうと思う。 アドリブでうまく話題を運べるような、機転の回る人間では決してないだろう。 だが自分はこれでいい。 妥協するのは好きじゃないけれど、書くことによってだけでも、自分の内を模索する手段のひとつに微力ながらなってくれるのなら、何も否定する事はないだろう。 なにより書いててなかなか楽しいし。 自己満足と蔑んだって構わない。 だれしも一つくらいささやかな自己満足を持ったっていいと思うのだ。
2002年06月26日(水)
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