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■ 究極の架空
たまに夢想する。 ファンタジーに出てくるような世界や、御伽噺にあるような世界。できごと。 小さい頃はよく(いやまぁ今でも?/笑)そういう架空の世界の事を考えては、 自分がその世界の住人だったらとフヨフヨ想いを馳せていた。 だが架空と呼ばれているようなそれらは、私たちが生み出したもので。 もともとある世界をベースに、実は事実に即してつくられているものも多い。 そこに、ちょっとした夢を加えるのだ。人のつくりだした、人の中にある夢を。
既にそこで、人の中に存在しているものを具現化しているのだ。 それは一体何を意味するのか??
本当に此の世に存在しないものというのは、 おそらく人の意識にすら存在しないのではないだろうか。 いや、人の意識にすら存在しなくても、在るものだってあるかもしれない。 私たちが意識するという時点で、そこにその概念は少なくとも存在する。
その、「存在する」ということの意味の大きさ。
その時点で既に、完璧な架空なんてありえないんじゃなかろうか。 半架空だ。
私が云いたいのは、人の考え出すものや人が意識できるようなもの全ては、 この世界に存在しうるものなんじゃないだろうか、ということだ。 別に今じゃなくたっていい。ものすごい古代でもいい。紀元前でもいい。 何百年後、何世紀後とかでもいい。この銀河系の中ですら、なくたっていい。
私たちは、本当は何か知ってたんじゃないだろうか。 私たちは、私たちが作り出したものの中で「知っている」と思っている事は勿論知っている。 それが、実在するものだと認識している。 だが、私たちが作り出したもの以外については? 作り出した概念の中でも、「知っていると思っていない」事については? もしかしたら、無意識だけども知っているかもしれないのだ、私たちは。 私たちが知らないと思ってるだけで。 だって、これらと比べるのはおかしいかもしれないけど、 目だって見える範囲の光線による情報しか見えないし、 耳だって聞こえる範囲のヘルツによる情報しか聞こえないし、 感覚だって皮膚にある感覚点を外されたりしたら判らない。 私たちの身体には、ある種の制限がかかっているのだ。 どうしてこんな制限がかかっているのか考えるものまた面白いけれどとにかく、 私たちが「知っている」と思っている世界が全てではないという事だ。 それはおそらく、意識の概念的な部分においても同じなんじゃなかろうか。 だからさ、もっと夢持ったっていいんじゃないかな、っていう…(笑) …ちょっと、強引かな?(笑)
2005年07月30日(土)
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