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■ 死生学の授業より
部屋を整理していたら、死生学の授業で書かされたミニレポートみたいなんが出てきた。 当時書いたものをデータとして打ち込んで、捨てる。 このデータを載せようかと思ったが、色々考えが変わったので(私の中で)最新の考えのものを載せることにする。
今の考えが面白いとは思わないけれど、昔の考えは今のよりも面白くないので。 *************** 死生学レポート
「Q1.病気や老いや死が人間にとって必要ですか」
(今の考え) 病気や老いや死が、人間にとって必要かどうかはよく判らないのが今の正直な感想だ。 人間にとってそれらが必要だとか、必要でないとか、人間が判断すべきものなのだろうか。 その人それぞれの主観に頼ったら、その人間にとって必要であったり必要であってほしくなかったり、様々な答えが得られることだろう。かつては私もその主観にのっとって、「必要である」と答えていた者の一人だ。
だが、我々の病気や老いや死というのは、本当は何にとって必要なプロセスなのだろうか?
いや、必要であるからそのプロセスは生じるのだろうか。 それとも、そのプロセスが存在することがまずはじめにあったのだろうか。
たとえば。 私達は生命活動を維持するために、食べ物を摂取したり排泄したりする。 病気はありていに言えば、外部からの刺激もしくは内部刺激によって一般状態が悪いほうに変化することの総称のように思うが、摂食行動などもこれに似ている。異化と同化だ。ミクロレベルでの「状態の変化」である。 これは、生命活動を維持するために必要だから人間というか生命が取っている行動である。 一見、病気や老い、死といった超自然的ともいえる「抗えない」ものにくらべて、摂食行動というのは自分でどうとでもできるような現象に見える。 が、これを極限を突き抜けて中断すれば、たいてい死ぬ。
たいてい私達は、生きる限り死を避けようと生きてくる。 そのために途方も無いエネルギーを費やして、費やして、費やし尽くしているといっても過言ではない。 どうして死を避けようとするのか? 私達は何をそんなに恐れているのか? 死がもたらすあらゆる意味での喪失を恐れているのか?
どうして私達は喪失を、本能的に恐れて避けようとしているのだろうか。 どうして喪うことは、痛みとなるのか? この「恐れ」は何によって、何のために、得られた…いや、植えつけられたものなのだろうか。 私達は本当は、私達人間のためのみに生きているのではないのではなかろうか。
病気も、老いも、死も、次々変わる環境にその種が適応していくために踏まざるをえないステップである。 世代交代を以ってして、遺伝子の改良を以ってして、種がつながれていく。
…それは、一体何のために?
「病気や死や老いが、人間にとって必要か」という問いは、 主観的な考えを抜きに考えると、 結局はこう問うているのと同じことなのではなかろうか。
―――そんなの、こっちが知りたいもんだ。
「人間にとって」必要かどうかは、正直のところわからない。 なぜなら、この場合でいう「人間」の定義がよくわからないからだ。
どういう存在としての「人間」にとって、それらが必要であるとかないとか問いたいのか その定義こそ、生老病死と併せて本当は問いたかった内容だったのだろうか?
私はもっと、問いたいことがある。 先生の云うことを聞かず、自分の興味の向いたおもちゃばっかりでしか遊ばない子どものように。
2006年08月22日(火)
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