脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 「死」と「こだわり」から

私たちは生きていく上で、色んなこだわりや執着を持っている。
○○が好きだとか、○○が欲しいだとか、○○でいるのは嫌だとか、
悩みに囚われる気持ちとか、
色々。


だが、この前チラ見したチベットの仏教の本では、
死ぬ瞬間にこだわりがなくなると。
最も仏だか何だかに近づけると。
書いてあった。


「死」は、この世のものを「手放して」あの世に行く出来事とも取れると思っている。
ということは、
「生」は、あの世のものを「手放して」この世にやってくるものなのだろうかと思っていた。
が、
本当に死が「こだわりをなくす」ということになるのなら、
死の世界では何も手にしない状態と変わらないことになる。
執着するものが何も無い世界。
当然、手放すものも何も無い。
手にするだとか手放すだとか、そんなものを超えた世界。


同じ未成年者でも、生きてる人は犯罪を犯しても名前が出ないのに、死んだ人は堂々と名前や写真を出される。
どうやって生きてたかとか、報道されまくりだ。
生きてないから、人権とかが無い。
人権があるように見えるのは、その死者の関係者がいるからだ。
これって一体どういうことだろうな、と、思っていた。


おそらく、もう死者は本当に違う次元にいってしまうのだ。
私たちの世界のきまりごとや概念なんて本当に関係なくて、
あちらにはあちら独自のものがきっとあるのだ。
そしてそれは、もしかしたら仏教が云わんとしていること。
仏教って本当に、こちら側の人間のための宗教なんだろうか?



やはり、こちらとあちらは根本的に違う世界なのかなと思った。
自分で勝手に妄想しておいてアレだが、
私はそれにどうしようもなく惹かれる。


今まで、全く自分の概念にない世界に埋もれたことがなかった。
生きている限り、この世に存在しているものはある程度イメージ可能なものばかりだろうと思う。
その世界は、私の期待を裏切らないだろうか。
いや、裏切ってくれるだろうか。


2006年12月08日(金)
初日 最新 目次 MAIL HOME


My追加