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■ 「死」と「こだわり」から
私たちは生きていく上で、色んなこだわりや執着を持っている。 ○○が好きだとか、○○が欲しいだとか、○○でいるのは嫌だとか、 悩みに囚われる気持ちとか、 色々。
だが、この前チラ見したチベットの仏教の本では、 死ぬ瞬間にこだわりがなくなると。 最も仏だか何だかに近づけると。 書いてあった。
「死」は、この世のものを「手放して」あの世に行く出来事とも取れると思っている。 ということは、 「生」は、あの世のものを「手放して」この世にやってくるものなのだろうかと思っていた。 が、 本当に死が「こだわりをなくす」ということになるのなら、 死の世界では何も手にしない状態と変わらないことになる。 執着するものが何も無い世界。 当然、手放すものも何も無い。 手にするだとか手放すだとか、そんなものを超えた世界。
同じ未成年者でも、生きてる人は犯罪を犯しても名前が出ないのに、死んだ人は堂々と名前や写真を出される。 どうやって生きてたかとか、報道されまくりだ。 生きてないから、人権とかが無い。 人権があるように見えるのは、その死者の関係者がいるからだ。 これって一体どういうことだろうな、と、思っていた。
おそらく、もう死者は本当に違う次元にいってしまうのだ。 私たちの世界のきまりごとや概念なんて本当に関係なくて、 あちらにはあちら独自のものがきっとあるのだ。 そしてそれは、もしかしたら仏教が云わんとしていること。 仏教って本当に、こちら側の人間のための宗教なんだろうか?
やはり、こちらとあちらは根本的に違う世界なのかなと思った。 自分で勝手に妄想しておいてアレだが、 私はそれにどうしようもなく惹かれる。
今まで、全く自分の概念にない世界に埋もれたことがなかった。 生きている限り、この世に存在しているものはある程度イメージ可能なものばかりだろうと思う。 その世界は、私の期待を裏切らないだろうか。 いや、裏切ってくれるだろうか。
2006年12月08日(金)
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