Spilt Pieces
2002年05月21日(火)  痛み
何となく、ぼんやりとした気持ちがある。
もやもやしている。
そして、とても不快。


私は、誰かに似ていると言われることが好きではない。
それは、たとえ大切な友人であっても、だ。
自分のアイデンティティが、とか考えている自分がいるのも確かだが(「似ている」と言われることで崩れるくらいなら、自分に今も自信がないということなのかもしれない)、単純に、嬉しくない。


今日の出来事。
「〜に似てる」と、笑われた。
何も笑うことはないだろう、とか思いつつ、相手も自分もかわいそうになった。
そもそも私は、「〜」が誰なのか、知らない。
おっとりとした感じで話していたせいか(初対面の大学院生の前でぎゃあぎゃあ騒ぐことができるような人間でもない)、「てきぱきしてないところまでそっくりだよね」
だから、私はその人のこと、知らないって。


写真を見せてもらった。
たれ目なところが確かに少し似ているかもしれない。
だからといって、その顔が似ているというだけで、個性まで一緒にしてしまうのはいかがなものか。
何かするたびに、見知らぬその人との対比をしては笑う。
失礼な人たちだ。
研究室に出入りしなければならない理由さえなければ、もう口もききたくないとさえ思った。
近頃腹黒くなってきた私は、そんなことを思いつつニコニコ笑う。


別に、見知らぬ「〜」さんが悪いわけでは決してない。
そして「〜」さんも同様に、私のことなど知らないのだ。


先入観というのはおそろしい。
「似ている」という言葉は、ある意味先入観の表れ方ではないのか。
自分の中に以前からあった別の人に関連するデータを、「似ている」と思った人を判断するときの情報とするのは間違っていると思う。
しかも、本人に関する第一印象よりもタチの悪いことに、根拠は全くない。


私は気の強い性格をしていると思う。
しかし、外見は逆だといつも言われる。
幸か不幸か、おとなしくていい人に見える、とのこと。
そして実際、しばしば自転車に乗っているときでさえ道を尋ねられる。
それでも、本当は違うのだと思うと、とても騙しているような気がする。
見た目も自分の一部なのだから、多少は諦めなければいけないのかもしれないけれど(しかも逆ではないし)。
だが、いくらなんでも全く関係のない、しかも会ったことすらない人を例に挙げてそれを基に判断されるのはさすがに腹がたつ。


ちなみに、冒頭に書いたもやもやは、何もその出来事一つで発生したわけでもない。
いくら自分が内面を変えようと頑張っても、外見だけで判断されてしまっては無力感を感じざるをえない。
例えばこの先どんなに変わったとしても、分かってくれるのは昔からの友人たちだけだろう。
外見など、と思いつつも、自分にもそういう傾向があるのは確かだ。
何とも言えない気分。


私は私でいればよいのだろうと思う。
それでも時折、アリとキリギリスの話は悲しくなる。
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