Spilt Pieces |
2006年01月16日(月) |
年々、本音の言葉が減っていく気がする。 ごちゃごちゃ考えすぎているからかもしれない。 たくさんのことを知れば知るほど、たくさんの人を知れば知るほど。 誰かに語りかけるための言葉は、消えていってしまう。 自分の小ささを知ってしまうから。 自分の無知が分かってくるから。 「最近、独り言のような言葉ばかり言ってるんだ」。 ぼそっと口にしたら、友人が、「私もそうだよ」と、あっけらかん。 「もっと、身近にある些細なことに気がついたり、心を配れたり。そういう文を書けるようになれたらかっこいいなとは思うんだけど…」 「でも、」 「それって、自分の素直な言葉じゃないかもしれないから」 「かっこつけずに自分と向き合えるだけ、大人になれた、って思うようにしてる」 「自分のことばっかり考えちゃうって、幼いかもしれないけど、それを認められなかった頃よりは、ちょっと成長してない?」 何だかなあ。 彼女の笑顔って、意図的なものが感じられない分、すごく輝いて見える。 他の誰が何を言っても、揺らがないだけの自分がいればいいのに、って、ずっと思っていた。 だけど、私はいつだってすぐに揺らいでばかりいた。 少女と呼べる年齢だけじゃなくて。 この年になっても、そう。 でも、たくさんたくさんのことを考えていると、どうしても、貫けなくなる。 そういう考え方もありかもしれない、とか、私には分からない経験を踏まえて言っている言葉なのだろうから、とか。 漠然と、譲れないもの、はある。 でもそれは、今日明日では変わらないにしても、今年と来年では違うかもしれない、その可能性を捨てきれるものでもなく。 変わっていきたいの、柔軟に。 認められなかったものを認められるようになる自分を、軽いとは思いたくない。 ただ段階が変わっていくだけなのだと。 そう思いたいから。 年々、本音の言葉が減っていく、というより。 年々、少しずつは何かを学んでいるのだと思いたい。 痛みを知れば、人前で泣くことは減っていく。 悲しみを知れば、笑う回数は増えていく。 笑える瞬間がいとおしくなる。 笑い合える相手を大切に思う。 くだらない話ばかりでも、別に不安にならない。 本音は、言わなくても、分かってくれる人たちがいるから。 必要なら言う。 でも、なくても分かってくれる。 だったら、自我を押し付けていた時間を、相手をどう幸せにするか考える時間に置き換えたっていいじゃないか、って思う。 …そうは言ってもなかなかうまくいかないんだけど。 無意識のうちに、粗雑に周りを振り回してきた自分なのに、大事なものは、ちゃっかり確保していたのかもしれない、なんて、最近よく思う。 何年も前から付き合いのある友人たちは、よく当時の私から離れていかなかったな、と思ったり。 過去の自分にとってより、今の自分にとっての方が、大切だと思う。 だけど当時の私はそんなこと分かっているはずもなく、大事な人たちを泣かせたし、迷わせたし、怒らせたし。 それでも、どうして傍にいてくれたんだろう。 どうして必要としてくれたんだろう。 ふわふわと浮きながら、大事なものをきちんと大事にできる自分になれたらいいな。 ぼんやりのんびり、笑っていられる時間が好き。 |
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