Spilt Pieces
2006年11月20日(月)  ピアノ
母が弾くピアノは、たどたどしい。
私同様に楽譜を読めない彼女の音は、
何度同じ曲を繰り返しても、
大抵同じ場所で引っかかる。
つっかえつっかえ、小さな音色が家の中で響く。
和室のドアを開けた。
母の背中がいつもより小さく見えた気がして、
声をかけられなかった。
どうして涙ぐんでしまったのか、
何となく、我ながら直感的には知っている。
認めたくないけれど。


数日前、母に彼と交際していることを話した。
秘密のない、友達みたいな親子の私たち。
だけどこれに関してだけは、どうしても言えなかった。
どうしても。
結局、連絡を取り合っていることすら、8月からずっと、
黙っていた。
何を尋ねられても、全て茶化して。


母に話を始めたとき、
緊張しすぎると笑ってしまう私の変な癖のせいか、
母はとても楽しそうな表情で追いかけてきて、
ソファの隣にちょこんと腰かけた。
だんだんと真顔になれる程度に落ち着いてきた私を見て、
急に姿勢を正して、膝の上に手を置く母。
真剣な顔で、覗き込んできた。
目が、一体何があったのかと、言葉以上に語りかけてくる。
搾り出した台詞に、
母が、視線を下に落とした。
「そう…」
その直後、すぐさま元気な表情を浮かべて、
「最近彼氏ほしいって言わないから、
何かあったのかなとは思っていたけど」
なんて、冗談めかしながら笑った。
だけど、視線を落とした瞬間の母が本音だったと、
分からないほど、鈍感にはなれなかった。


「続くかどうかなんて、分からないし」
言い訳がましく継いだ私に、
母が返してきたのは、
「あなたのこと、お母さんはよく知っているから」
という、静かで、
だけど強い言葉だった。
「その人一筋にしか、なれないでしょう?」


私は、母には、聞いてほしかった。
昨年までとは違う彼のこと、
あったかい時間、
そんな些細な、
のろけ話。
でも、少しでも話題をその方向へと傾けると、
毎回話を逸らして、
毎回目線を逸らして、
「反対はしない。
だけど、応援は、できないから」
と言うばかりだった。


「スープの冷めない距離なんて、
9割以上の人にとっては叶わない夢だと思う。
でも、それでも、近くにいてほしいと思うのは、
どうしたって、本音なの。
だけど、お母さんは、あなたの幸せが一番だと思ってる。
お父さんとお母さんは、福岡と栃木で結婚したの。
育った環境も学歴も、何もかも違うお母さんのこと、
ただの一度も反対せずに、
ただの一度もきついこと言ったりせずに、
すごく大事にしてくれたお養父さんお養母さんに、
とても感謝しているし、尊敬している。
でもその代わり、お養父さんは、いつも言っていた。
『子どもが同じような選択をしたとしても、
決して責めてはいけないし、
反対もしてはいけない。
祝福してあげなさい。
認めてあげなさい。
自分達の子どもを、信じなさい』って。
だからお母さん、
お養父さんやお養母さんのように人間できていないけれど、
あなたが誰とお付き合いしても、
誰と結婚しても、
どんなに遠くへ行っても、
絶対に反対しない。
でもね、今は、応援はできない」


まるで、結婚すると言ったかのような、言葉。
ただお付き合いしていると言っただけなのに。
でも、母がそこまで言う理由、私にも、何となく、分かる。
遠距離で、一度別れていて、
それでも、
やり直した私たちは、
たぶん世間的には割と結婚適齢期な感じで。
私は、相手が大事にしてくれる以上は、
別れるなんて想定もしないような性格で。
それに、母は知らないはずだけれど、
彼が、すごく必要としてくれているのだと、
私自身、強く感じている。
「さとが、隣にいてくれたらいいのにと、
思うたびに寂しくてたまらなくなる。
電話をしていると、そばにいる気がするのに、
抱きしめられないのが辛いよ」
電話を切った後、
母の顔を見る。
いつもと変わらぬ表情をしている。
だけどどうしてだろう。
たどたどしいピアノの音が、
私に何かを訴えかける。
今のまま、彼との関係を続けていいのだろうか。
小さくなった背中を、
守れない距離に、
いつか行くかもしれなくても?


私は、家族が好きだ。
かわいくて、寂しがり屋で、人付き合いの下手な、
ちょっと自信のない、だけど明るくて優しい、母。
自分とあまりに似ているがために毎回毎度反発して、
たまに口を利くのも嫌なくらいなのに、
結局離れられずに、話し込んでしまう父。
ぶっきらぼうで頑固で、だけどいつでも穏やかで、努力家で、
いつの間にか大人になっていた弟。
昔から願っていたのは、
ただ家族の近くにいることだった。
願っていたのに、外に出た。
知らない世界を知ってみたかった。
24年のうち、遠く離れたのはたった1年。
それなのに、
23年なかった恋を、
そのたった1年の中にあった出会いの中で、
見つけてしまった。
どうしてだろう。
どうして?


私は、彼のことが、とても好きです。
とてもとても好きです。
そばにいたくて、
時折すぐにでも飛んで行きたくて、
あまりの寂しさに、泣きたくなる。
ベッドに潜って、めそめそしている自分が、
ちょっと情けないくらいに。
だけど、別れたいと思う瞬間がある。
母の背中を見たとき。
雄弁なはずの父が、黙り込むのを見たとき。


お風呂に入りながら、
遠くに聞こえる母のピアノの伴奏に合わせて、
小さく歌ってみた。
もう冬になろうかというのに、
まだ完成しない「小さい秋」。
「だーれかさんが、だーれかさんが」
そう言いながら、湯船の中でうずくまった。
何で、涙が出るんだろう。
せめてもっと、流暢に弾いてくれたなら。


ごめんなさい。
別れたくないのに、別れなかったらどうしようなんて思って。
ごめんなさい。
親のことが大事だと言いながら、彼と別れる気がしなくて。
全部本音だと言っても、信じてくれる?
胸が痛い。
考え過ぎだって、誰かは笑うかもしれないけれど。


何も考えない自分になれたら、楽なのに。
祖父が、一人で暮らしていて、
その背中を見るのが、
私はとても苦しくて。
母の背中は、時折、何となく、
祖父のそれに似て見える。
どうしたらいいんだろう。
誰も答えなんかくれない。
周りがみんな優しすぎて、
だけど苦しそうで、
だから、私は、
結局のところ、
何も選べずに、
同じ場所でじたばたを繰り返してばかりです。
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