イラクで拉致された三人について、 穿った考え方をしすぎていたかもしれない、 と思ったのは今日の夕方になってからだ。
三人がそれまでに取っていた行動は、 誉められるべき素晴らしいことも含まれていて、 「正しい情報を得て正しい理解をし、あらゆる偏見を取り除き」 と自分で書いていながら、 どこかで彼らは自らストーリーを演じているのではないかと 疑心に満ちた考えをしていたように思う。
実を言うと今も疑っている。 開放声明に偏ったヒロイズムの匂いがするからだ。
ただ、どんな理由であれ、 自衛隊が戦地に赴いているのだということを 再考するきっかけにはなった。 そして友人の言っていた、 「日本に生まれただけでラッキー」 という言葉を思い出した。
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今日の食事は自分で作ろうと思い立ち、 一人スーパーへ車で出掛けた。 一通り食材を選んで廻り、カートを押してレジへと並ぶと 隣のレジに母親に良く似た姿の女性を見かけた。
正確に言えば、自分が子供だったころの母親の姿だ。 年齢にしてみれば恐らく自分より少し歳を取ったくらいだろうか。 奇妙な、デジャブにも似た感覚。
屋上の駐車場へ戻ると、既に日は傾きかけていて 遠くの丘の上に建っているマンションの陰影がくっきりと綺麗だった。 なんとなく帰るのが勿体無くて、カーオーディオを切り 我慢していた煙草を二本だけ吸い、ゆっくりと心地の良い時間を過ごした。
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僕にとって母親の存在は何だったのだろう、と考える。 上手く言葉で言い表せないが、躾るときは正しく叱り、 限度を超えるまでは束縛せず、といったバランスは取れていた。 そこに、今の僕の持つバランス感覚の根源がある。
だが、その影響で少し優等生っぽく振る舞い過ぎている気がする。 大失敗しないようにと考えすぎかもしれない。 僕はそれを人とのシラガミと取ってしまいがちだ。
本音でとことんやり合えばいい、と言うのは楽だが、 実現するのは難しい。 でも、気にしてないと思っていても結局は気にするのなら、 一度全て人の所為にして、やりたいようにやってみるのもいい。
まあ、実際は「やらないで後悔するよりはやって後悔しよう」と 考えても、実際その狭間で苦しくなって愚痴ってしまうのが 人間というものだけれども。
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