日々の思い

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ミレー展を見て
2003年09月19日(金)

福岡市美術館にミレー展を見に行く

ちょうど小学校の中学年のころだろうか教科書にミレーの名画といわれる「落穂拾い」や「晩鐘」が載っていたのを覚えている。
その当時私の家は農家だったので、稲刈りが終わると稲を干すために「稲小積み」というのをした。
そのときの子供の手伝いは稲束を抱えて三角錐状に積み上げる「稲小積み」のところへ運ぶことが主な仕事だった。
稲が身体のあちこちをちくちく刺してきてとてもいやな役目だったがその当時は家族中でやって、子供たちは貴重な労働力だった。
疲れてくると、積み上げが終わった稲の陰でこっそり隠れたり座り込んだりしてよくサボったものだったが・・・・

その仕事がすっかり終わったころは気候的に少し肌寒くなってくる。
農家では自分のうちの田んぼの稲を一通り積み上げると、あたりに落ちている稲穂がないか見廻って拾って回ったものだった。
それでもまだあちこちに残っていたりする。
その落穂を小鳥たちがついばみにやってくる。
そして、ほかにも町の人たちが何人かで連れ立ってやってきていたものだった。そして一粒一粒を丹念に拾って帰る。
子供だった私にとってそれは当たり前の初冬の行事であって、それ以上の何者でもなかった。それで、教科書に載っている「落穂ひろい」を見ても「ああどこでも同じことをするんだなあ」と、単純に思っていた。

今、年齢を積み重ねてきて同じ絵の前に立ったとき、私の心にそれはまったく違ったものに写っていた。
そこにいる農夫たちのなんと貧しいこと。
そして、なんとたくましく力強いこと。

この展覧会はミレーとヨーロッパ自然主義の画家たちの作品が展示されていた。そこにあった絵は、美しい女性たちや心和む景色ではなく19世紀の貧しくも力強く生きた農夫たちであり、シャツや靴がなくともたくましく生きている子供たちだった。
会場を巡って進むごとに生きるって、こういうことなんだと心に激しくしみこんできて瞼の奥から湧き上がってくるものを押しとどめるのにかなりの労力が必要になったくらい。
シャツはつぎはぎだらけ、つぎを当てる布さえなく破れたままのズボン、老女の手は太く節くれだっている。
しかしどの絵を見てもどこかに希望の光が差し込んでいて、力強いのだ。

なかでも強烈に印象に残ったのはヨゼフ・イスラエル作「嵐の後で」だった。
海のそばの家で嵐が過ぎ去った家のドアから海が見え、暗い空の一角に青い空と差し込む光、ドアの入り口にたたずむ少女と老婆、貧しいテーブルには幼い少年が座ってもくもくと食事をしている。
お皿に載っているのはほんの少しの食事、多分少年の分だけしかないのだろう。老婆の目はしっかり見開かれていて、絶望よりも働こうという気力が勝っている。

人が多く、なかなかゆっくり見れる状態ではなかったが久々に生きることの意味を突きつけられてさっぱりと胸を張っていたいと、いい緊張感で美術館をあとにした。




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