あまおと、あまあし
あまおと、あまあし
 万葉歌謡/あし(葦) 2003年01月09日(木)


「芦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕べは 大和し思ほゆ」


「あーあ。あんなの、山じゃないよね」
 背後からの投げやりな声に、私は手を止めて振りかえった。
 東の方角へと開けた二階の窓辺、他人のベッドに腰掛けた姉が、外を眺めている。
 窓の外に広がるのは、冬の青空、それから、なだらかに続く山並み。
「なにが?」
 なんとなく、姉の答えはわかっていた。けれど、一応たずねてみる。
 案の定、姉は大げさに目を見開いて、私を責めたてる。
「何がって、美緒、あんた、あんなのが山だって思ってるの? あんなごつごつしてて、
美しさのかけらもないようなのが、大事な浅間を隠してるなんて、許せないと思わない? 煙だってちょっとしか見えないじゃない」
 信じられないという言葉を全身から振りまいて、姉は一気にまくし立てる。
 私は、気付かれないように小さく溜息をついて、再び洗濯物を畳む作業に戻った。

 郷里に残っていた姉が結婚して、私と同じこの街に来てから、いったい何度同じ事を繰り返したのだろう。
 夫婦喧嘩をしては私の家に転がり込み、鬱憤の全てを私にぶちまけ、それも私が真剣に聞かないと怒り、実家へ舞い戻る、姉。
 最初のうちこそ、真剣に彼女の家庭を心配したりもしたのだが、それも馬鹿らしくなってしまった。
 小さい頃から変わっていない、姉。
 どんなに間違った意見でも、周囲の人が同意しなければ癇癪を起こし、周りの大人が慰めてくれるまで、寒い冬空の下に飛び出すような、少女のままの、姉。
 彼女に翻弄される両親の姿に、何度失望しただろう。
 ひとつも叶えられなかった少女の私の願いは、今も胸の奥底にしまいこまれている。

「ねえ、聞いてるの」
「聞いてるわよ。浅間山が、一番って事でしょ」
 振り向きもしないで答える私に、姉が苛立つのが解った。
「違うわよ。佐久に育ったなら、山って言えば浅間なのよ。あの綺麗な姿と、煙を見ないと落ちつかないのが、普通なのよ」
 普通なのよ、と強められた語気を、私は聞き流して立ち上がった。
 畳みあがった洗濯物を、タンスの決められた場所にしまっていく。
 ぱたん、ぱたん、一つ一つ、仕舞いこんでいく。
 姉に投げつけたかった言葉、両親に投げつけたかった言葉、胸の中から今にも溢れそうな言葉を、ひとつひとつ、閉じていく。
「もう──普通は、結婚して家を出たら、ホームシックにくらいかかるのが普通じゃないの? 例えば山を見て、故郷を思い出して寂しくなったりするもんじゃないの?」
 私が同意しないので、苛立ちが限界に達したのだろう。
 姉は立ち上がり、窓枠をぱしりと掌で叩く。
 いいえ。
 懐かしいって思うのは、戻りたい場所があるからこその感情だもの。
 帰りたいとは思わない。誰も自分の話を聞いてくれない、そんな場所になんて。
 私は姉に向かって、自分にできる最上の笑顔を作った。何不自由無い、幸せな人間に見えるような、笑みを。
「ぜんぜん、寂しいなんて思わないわ。私、幸広とこの街に住めて、幸せだもの」
  
 乱暴な足音が階段を下って行き、やがて客間でぱたばたと荷物を畳む音がする。
 台風の目はこれで、郷里の実家へと移動するだろう。そして三日もすれば、優しい旦那様が迎えに行くはずだ。
 ようやく静かな日々が戻ってくると安堵して、姉が先ほどまでいた場所に腰を下ろす。
 窓の外の、名も知らない山々。
 その向こうに少しだけ見える、青い、稜線。昇りつづける、噴煙。

 思い出さないわけが無い。
 幼い頃から、何度も見上げつづけた風景を、忘れてしまうことなどできる筈が無い。
 けれど、それを認めてしまうことは、私にとって負けなのだ。
 帰りたいから帰る、居たくないから出て行く、そんな都合の良い場所など、あるはずがないのだから。
 糸の切れた凧のように、あちらの空からこちらの空へ、ふらふらとしている姉にはわからないような苦労が、私自身にだってある。
 帰りたいと一言口に出せば、一気に崩れ落ちてしまうような、そんなぎりぎりの感情が。
 その感情と戦い、無数の小さな幸せを寄せ集めて、自分自身の天秤を平行に保つ努力こそが、きっと「幸せな家族」を作り上げることなのだから。

 だから、何度同意を求められても、私は言わない。
 空のふちに僅かに見える噴煙に、幼い頃の日々が思い出されるなんて。
 もう一度、あのなだらかな青を見たいなんて、絶対に。




むむ。少々強引気味でしょうか。
しかも超ローカルネタ。
私自身は浅間山なんぞこれっぽっちも好きじゃありませんが。(暴言)


歌のストレートな感傷とは逆の方向から攻めてみたかったんですが……。
いかがでしょうか。
次は「馬酔木」



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 著者 : 和禾  Home : 雨渡宮  図案 : maybe