あまおと、あまあし
あまおと、あまあし
 万葉歌謡/あさがほ(桔梗) 2003年01月05日(日)


「朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕顔にこそ さきまさりけれ」


 どこまでもどこまでも、薄は岸辺に打ち寄せる波のように続いていた。
 白銀の水面を超え、駆けてゆく、金茶色の背中。
──まて、まってくれ、玄藩之丞。
 俺を置いてゆくなと叫ぶのか、それとも俺も連れていってくれと叫ぶのか。
 どちらなのか解らず、そこで口篭もる。
 たたらを踏んだ足下に、影が差した。
 幼い子らを後ろに従えた、彼の妻。

「あんたは、行かないのかい──紫円。玄藩之丞の一の子分の、お前が」
 きりと細い目が、問い詰めるように彼をねめつける。
 行きたい、だが。
 紫煙は面を伏せ、奥歯を鳴らした。
「行けるものなら、とうにこの場にはおらぬ」
「ふん、音に聞こえた朝霧の紫円も、単なる腰抜けだったかい」
 堂々たる風情で腰をおろしたお夏の、手入れされた太い尾に、幼い子等が無心にじゃれついている。まだ丸く和毛に覆われたその顔に、遠い記憶の中の面差しが重なる。
 俺達にもあった、草むらに跳ねる虫を追い、萩の波を飛び越え、薄の下をくぐりぬけ、ただ楽しいだけの日々が。
 しかし、時は通りすぎた。世界は変わり、獣が自由に道を描ける時代は終わったのだ。

「……その子等を、守らねばならん。今や草むらさえも俺たちのものではない。夜の暗がりはどんどん狭くなり、人は怪かしを見破る術を身につけた」
 ぱたり、ぱたり。お夏の尻尾は、秋の日に乾いた地面を往復している。その先に混じる白を、捕まえようと飛び跳ねる二匹の子供。
 そうだ、と紫円は自分自身に言い聞かせる。
 時はまた巻き戻されるのだ。
 地面を耕し、食物を得ることばかりに無心なあの人間達を、からかい、戯れに時を費やす時間は終わった。赤い鳥居に奉られ、畏れられながらも愛される時は終わったのだ。
 もう、狐が人と関わる事は無いだろう。
 野狐に戻るのだ。山奥深くに追われる、獣のひとつになるのだ。

「紫円」
 どおん、と遠くの空を揺らす音と同時に、お夏が一片の動揺すらも含まぬ涼しい声で言った。
「行かないのかい」
 行けぬ、再度紫円は答え、忌々しい音から逃れようと耳を伏せた。
 行けぬ、行けるわけが無いだろう。来るなと言われたのだ。来るなと、他ならぬ玄藩之丞から。
 薄と萩に覆われた桔梗ヶ原が、深い森であった頃から、共に駆け、共に狩り、共に遊んだ玄藩之丞が、拒んだのだ。俺を。
「追うてはならぬと、頭の命だ」
 歯軋りしながらの言葉に、お夏は涼しい眼を斜めに向ける。
 いっそ憎々しいほどの、澄んだ秋の空がその眼差しの先にある。どこまでも高く、果ての見えぬ蒼穹、刷毛でなでたような淡い雲、古よりいっかな変わらぬ風景が。
 ついついと蜻蛉が群れなして過ぎて行くのを見送り、お夏が言う。
「あれはもう、頭ではないだろう。黒い獣と戦うことだけを望み、あたしら一族を捨てたんだ。あれはもう、どの一派の頭でもない、ただの狐。桔梗ヶ原の狐は、もう誰の配下にもあらぬ」
「お夏、ぬしは」
「あれは、最初からどこにもはまれぬ男だったさ。あたしや、洗馬のあたしの親族を、暴れん坊の勘太夫から守るために、やむを止まれず徒党を組んだがね。自由な男だったさ。誰より、駆けることの似合う男だったさ。だから、あたしは惚れたんだ」
 遊びつかれた子供たちが、鼻を鳴らしながらお夏の胸元に顔を押し付けて甘えはじめる。お夏は子等の背中を優しく舐め、乳を与えるためにごろりと身体を横たえた。
 ごおおん、再び遠くの空で忌々しい音が鳴る。
 その音は次第に大きくなり、やがて雷鳴のような轟きと、甲高い獣の悲鳴のような音とが、間断なく鳴り響く。 
「俺は」
 耳鳴りのような、しかしもっと禍々しく地を揺さぶる音に圧倒されながら、紫円は目を閉じた。
 浮かぶ、すらりとした背中。長い尾が地を掃き空を撫で、跳躍していく、その後姿。ずっと、追っていた。追いつづけ、追いつづけ、いつか彼の一の子分と呼ばれるまでになった。
 だが、真の望みはそんな事ではなかった。
 増えつづける子分も、名声も、そんなものは欲しくはなかった。
 ただ。
「──追いつづけたかったのだ。ずっと、奴のことを」
 ふんと、夏が鼻を鳴らす。
 目を明ければ、秋の日差しがくらりと眩暈をおこすほど眩しい。
 しかし黒い獣の起こす地響きはいよいよ激しく、金切り声のような獣の遠吠えと共に、全てを圧倒しねじ伏せようと音量を増している。
 あの音の向かう先、ぎらぎらと光る道の真中に立ちふさがり、玄藩之丞が待っている。一世一代の、大勝負を挑もうと。
 彼はもう、戻らぬだろう。子分が妻が友が泣き叫び、引き止めたとしても。
 行くなと留めて、聞き入れる男ではない。
 ならば。
 ならば、己はどうするのか。
 背後に一声、お夏の鋭い鳴き声が上がった。
 
 眼下、どこまでも続く薄の波頭を飛び越え、紫円は走り出す。
 たった一匹、黒い獣と立ち向かう男のもとへと。




2003年突発企画。

「やまと万葉の花」/京都書院
より、花や歌ごとに連想される短編を書いてゆきます。
題名となるタイトルや歌と、SSの内容が全然関連ないじゃんみたいなツッコミは不可(笑)
あくまでも、習作。
「私のうちで連想される物語」であります。悪しからず。


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 著者 : 和禾  Home : 雨渡宮  図案 : maybe