あまおと、あまあし
あまおと、あまあし
 万葉歌謡/あせび 2003年04月16日(水)


「池水に 影さへ見えて 咲きにほふ
          馬酔木の花を 袖に扱入れな」


 もちろん、一面の花畑なんて望んじゃいなかったさ。
 生まれたときから指折り数えて、善い事をした記憶なんて片手でたりるほどしかない。一方で悪いことなら、両手両足使っても足りないくらい、覚えがあるんだから。
 そういうわけで、俺はとりあえず驚いた。
 驚くしかないだろう。目の前が一面、鈴なりの真っ白な花で埋め尽くされていれば。
 
 俺の目の前、細い小道の両脇に、胸元ほどの高さの木がどこまでもどこまでも続いていた。木はびっしりと花房で覆われ、所々から覗く艶やかな緑色の葉が、花の白さをいっそう引きたてていて、どうしようもなく目が眩んた。 理由も解らないのに、胸が痛んで、だから俺は思ったんだ。迷ったに違いないって。
 小さい頃から、方向音痴にかけては天才的だった。
 中学を卒業して、生まれ育った街を後にするまで、代わり映えもしない古い路地の間で、何度迷子になったことだろう。
 祭りがあると言っては迷子になり、トンボを追いかけては迷子になり、その度に俺はなす術も無く道の上で立ち尽くし、泣き喚いたもんだ。

 そうだな、結局俺は、ずっと迷っていたのかもしれない。
──ぜんぶ、に。

「やれやれ、この期に及んで迷子か」
 そう独り言をつぶやいた俺に向かって、ざわと風が吹き付けた。
 花も揺れる。鈴のような花は、楽の音の変わりに、聞き覚えのある声を発した。
「──相変わらず、馬鹿だね、お前は」
 聞き覚えのある声。
 馬鹿な。
「馬鹿だね、本当に。こんな景色を、後生大事に覚えてたなんて」
 花が揺れる。声が鳴り響く。
 その声を、俺が間違える事なんてありえない。
 お袋の声。
 だが、お袋は──。

 俺は驚きのあまり、腰を抜かしてその場にへたりこんだ。
 我ながら、情けない有様だったさ。
 敵対する組の若い衆と、ドス一本で向かい合った時だって、俺は汗一つかかなかったはずだ。
 それが、とっくに踏みにじって捨てて、忘れたはずの人間の声に、おびえたんだ。
「こんな花、あたしは嫌いだったのに。お前は覚えていたんだねえ」
 声は俺の動揺なんか無視して、しんみりと語る。
「だ、誰だっ。隠れてないで姿を現せっ」
 わたわたと足を動かしながらの声は、凄みも迫力もまったく吹っ飛んだ情けないものだった。
 当然のように答える声はなく、変わりに──。

 目の前の湿った土の上に、ひとつ、ひとつ、飛び石が現れた。
 そんな物の存在なんてすっかり忘れていたのに、不思議なことに蘇った思い出と色味も形も寸分変わらない。
 少し右上の欠けたひよこ、それから真ん中がくぼんだカエル、ちっちゃい俺が暇に任せて生き物に見たてた飛び石の連なりが、白い花木の下にずっと道を描きだした。
 ざわざわと、花が鳴る。
 その先にあるものを見たくなくて、俺は目をつぶろうとした。
 けれど瞼が言うことを聞かない。視線は吸い寄せられるように、緩やかな坂の先へと向いてしまう。

 そこにはやっぱり在った。
 黒々とした柱と、真っ白な漆喰の壁。
 開け放たれた木戸の脇に立つ人影を、見たくなくて、俺は飛び起きると一目散に駆け出していた。
 馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な。
 そこにいるはずが無い、そんな筈は無い。
 俺は喚いていた。喚きながら、必死に走っていた。
 花が揺れる。少し緑味を帯びた波が、俺の目の前で渦巻いてうねる。
 戻らなくては、戻って確かめなければ、それだけを必死に念じて俺は白い渦に飲み込まれた。
 何もかもが白で埋め尽くされたその一瞬、「馬鹿だね」とあの声が──。


──これでこの話はおしまいだ。
 目を覚ました俺は、救急病院の真っ白な天井を見上げてたってわけだ。
 ざわざわと人の声が廊下からひっきりなしに聞こえて、それがきっと花の音に聞こえたんじゃねえかな。
 そうだな、馬鹿馬鹿しい夢だったさ。
 最後の最後って場所で、お袋の声にびびって逃げ出したなんてな。
 え、お袋か?
 お袋は──ぴんぴんしてたさ。

 退院した足で向かった老人ホームで、俺の顔を見て『馬鹿だねえ』って笑いやがったよ。
 次にあの場所へ行くときは、あんな花じゃなくてもっと違う景色を看られるように、少しは目を開けときな、あたしは絶対にあんな場所をあの世の入り口になんかしないよ、だとさ。
 なんだかな。俺だってあの世への入り口なら、もっと綺麗な場所がいいさ。柄じゃねえって言われてもさ。湖とか、山とか、もっと色々あるだろう。
 ああ、そういう理由だ。ちょいと旅に出るってのは。
 もう少しばかり最後にふさわしい景色を、頭ん中に叩きこんでおこうと思ってな。
 ケロ太だのピヨコだのって名前をつけた石が、あの世への飛び石だなんてしまらねえだろ。──子供の頃迷いに迷った俺が、なんとしても帰りつきたかった場所が、あの小道だったとしても。
 ああ、もう時間だ。行かなきゃなんねえ。
 遅れたらまたお袋に笑われちまう。また迷子になってたのかい、なんてな。 
 この年で親子旅行だなんて、お前も笑っちまうだろう。
 笑ってろ。いいさ。
 しょうがねえ、お勤めだと思って行ってくらあ。
 じゃあな。




長らく放置していた企画もの、万葉歌謡の三題目です。
や、投稿の締め切りもあったけれど、イマイチ方向性が見えてませんで。
これで良いのかなあ? 
くさはらを目指しつつ手前の湿原で留っているような感じでしょうか。
もう少し試行錯誤してみたいかと思います。
定期的な更新も含めて。

次は「紫陽花」


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 著者 : 和禾  Home : 雨渡宮  図案 : maybe