2002年07月09日(火) またしても 日本の弁護 いたします
ネットゲームにはまりまくりの、たまり@ウロンゴンです。
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私:「洗い物は私がやるよ」
彼:「え、いいよ」
私:「いいよいいよ」
この会話ってよく考えてみると不思議です。
私たちが「いいよ」を無意識のうちに連発していたとき、
同居人の香港人のエリックに「『いいよ』ってどんな意味?」と訊かれて、
そういや、「いいよ」って、状況によって意味が変わるなぁと気づきました。
彼が言った「いいよ」は、「やらなくていいよ」の「いいよ」で、
私が言った「いいよ」は、「やるからいいよ」の「いいよ」。
つまり、それぞれ<否定>と<肯定>を表しているわけです。
「いいよ」ってなんて不思議な言葉なんでしょ。
このことで日本語について色々考えてみたんですが、
例えば、
「まあ、前向きに検討しておきますよ」
これを商談の場で言われたら、
かなり高い確率で商談不成立と私たち日本人は分かります。
他にも、
「明日●●に行こうよ」と訊いて、
相手が5回くらい軽く頷きながら「うん」と力なく答えた場合、
「うん」って言ってはいるけど、あんまり行きたくないことが分かります。
本当は「行きたくない」と言いたいところだけど、
はっきり断っちゃ悪いという気持ちがあるわけです。
こういう日本人の性質をよく、「YES・NO がはっきりしない」と
西洋人に非難されます。
それを聞いて日本人は、
「YES・NO をはっきりさせなくちゃだめだなぁ」
と反省してみたりします。
確かに、外国人相手に話をする場合は、相手にちゃんと意思が伝わるように、
日本人にしか分からない回りくどい表現は避けた方がいいと思うのですが、
日本人同士なら、簡単に肯定の「YES」か否定の「YES」か想像つくので、
あいまいな表現のままにしておいていいのでは、と私は思うわけです。
西洋人に言われたからって反省することないのです。
このあいまいな部分こそ、世の中の潤滑油だと思うわけですよ。
「日本人は YES・NO がはっきりしない」と偉そうに指摘する西洋人の社会にだって、
充分はっきりしない部分があります。
その代表は、待ち合わせ時間。(これは西洋人だけじゃありませんが)
ほっんといい加減です。遅れて当たり前といった印象を受けます。
例えば、10時に待ち合わせした場合、
10時30分にのうのうとやって来るなんてこと、ザラ。
でも、本当に重要な待ち合わせの場合、
「10時ね」と言ったら、それは本当の10時を指していたりします。
これが日本人の私には判断つきにくい。
西洋人同士の間では、一口に「10時」と言っても、
状況に応じて、「遅れてもいい10時」と「きっかり10時」の判断がつくのでしょう。
遅れてくる西洋人に対して、
「10時と言ったらどんな状況でも10時に来い!」なんてこと、私は言いません。
だって、西洋人の間ではそれでうまくいってるんだから。
そして、外国人の私がその判断がつかないことを彼らは知らないんだから。
これは、しょうがない。
それぞれの国の中だけで成立する暗黙の了解は、傍から見たら奇妙なことですが、
よそ者が「それはいけない」と口出しすることじゃないと思います。
堂々と自信を持って「あいまいに」いけばいいのです。
だから、私たち日本人も胸を張って、「あいまいなYES」を使い続けましょう。
外国人相手にやらなければいいだけです。
<おまけ>
インドの人は、相手が喜ぶようなことしか言わないお国柄です。
たとえ赤痢で死にそうになってたとしても、「大丈夫だ」と言います。
それが彼らの思いやりだったりします。
道に迷い、道端で「■■はもうすぐですか?」と人に訊くと、
たとえそれが10キロ先だろうと、
「ああ、もうすぐだ。すぐそこの角だ」とほざいたりします。
こればっかりは、切れそうになる。
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「おいしいレシピ」に
「リンゴとナツメのココナッツケーキ」を追加。
つづく。
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