たてつづけに台風が来るようです。これでは「熱帯」はなかなか解消されませんね。 昨日、ふと思ったのですが詩人の社会への参加のしかたあるいは登場のしかたとして、文字ではなく声ではどうかな、と。
詩人の朗読CDは結構出ていると思うんですが、自主制作で詩集を作るんじゃなくてCDをつくるんです。 いやいや、そんなもの誰も買わないからWeb上で詩の朗読をするんです。 どうでしょう。すこしは「うそ臭さ」も消えないかな。 60年代に寺山修二が主張していたように戦後詩は「書き言葉の詩」であって、実はいまだに肉体を喪失したままであるのかもしれません。 肉体、つまり「声」ですね。
最近ぼくのサイトの掲示板で話題になった「詩のボクシング」もその流れでの試行であるのでしょう。 「ボクシング」じゃなくて詩人の朗読というのは一度だけ目撃したことがあります。吉増剛造さんのもの。驚きましたよ。はっきりあれはトランスだと思いました。 いつだろう・・・・もうずいぶん昔です・・・。
声に出しても出さなくても詩を書く人は「頭」の中で自作詩を誦していると思うんです。だけど書くだけでも恥ずかしいのに朗読だけは勘弁してほしい、という詩人の多いことも知ってます。 ぼくだって自分の声がインターネットに乗ってるとおもうと、「恥」と思うかもしれないです。 詩をどう捉えるか、ですよね。読むのか読まないのか・・・。
ミュージシャンのサイトだとやってる人は多いです。音楽家は書き言葉じゃなくて「音」が表現媒体ですから当然だけど、詩人もそうかな、と。
で、想像するだけで詩は変わるものが出てくるでしょうね。 「ナトリウム」とか「猫と南風」なんて、どう読んでみんなを驚かしちゃろ、と楽しくなります。 ぼくの独特の読点のつけ方もおもしろがってもらえるかも。
うむむむ、書きながらずんずん恐ろしくなってきただよ。 しかし声に出す、と考えただけで血がかぁーっとなってくるからこれはやはり、すごいことなんだな。
松本さんの一言「言葉を二次元の紙の上から解放する」
音楽ができないで詩を書いているひとりとしては、こう考えて見ました。 だけど、にわかに自作に自信がなくなったら漱石の短編でも朗読するかもしれません。
顔も住所も電話番号もあきらかじゃないけど、声は許容できるリアルかもしれません。 でも、サイトに来る人減るだろうな。。。。
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