2002年09月18日(水) |
「Nearness of you」を聴く。「語ること」を読む。 |
聴かず嫌いというわけではないんだけど、なぜかあんまり聴かなかった、マイケル・ブレッカーのニアネス・オブ・ユーを聴きました。 バラード・ブックとサブタイトルがついているように、珠玉のバラードが集められています。いわゆるスタンダードは少なく、このセッションのメンバー、ハービー・ハンコックのチャンズ・ソング、パツト・メセニーのサムタイム・アイ・シーとセブンデイズ、ブレッカー自身のオリジナルなど、本人曰く「現代のバラードアルバム」として仕上がっています。
東京JAZZ2002で現在の充実ぶりを見せつけたブレッカーですが、このアルバムでも実に気持ちのいいテナーサックスを吹いています。 ロマンティックでメロディアス。コルトレーンのバラードを念頭において作ったというだけあって、心に染み入るような音を聴かせてくれます。
最初聴いた時に少し違和感を感じたジェイムス・テイラーの歌2曲も、優しさを強調するように聞えます。もともと嫌いな人じゃないですしね。
ハンコックとメセニーのバックアップはすばらしくて、それぞれのピアノとギターはさすがです。とても美しい。 一番綺麗なバラードだな、と思ったのはミルトン・ナシメントの書いたナセントという曲。メロディがたまらなく好きです。
以上、「朝の部」でした。
さて、「昼の部」です。 サンデー毎日に連載されている辺見庸さんの「反時代のパンセ」。週刊誌の中では唯一、読みつづけているコラムです。書かれていることすべてに同意を持つわけではないですが、単純明快でなく、自らと苦闘しながら書かれておられる姿には共感を覚えています。 古くなりますが9月1日号の第51回「語ること」も考えさせられる内容でした。
20歳ほども年下の評論家と話をしていて、一種の失語症になりかけたというのです。意識が「割れて」しまった、と言いますから、言葉の意味も文脈もトンでしまったのでしょう。「彼は『正しい男』だ」と辺見さんは書きます。「正しすぎる男」だ、と。しかし、彼は正しいことばかり語っているにもかかわらず、意識が割れ、「言葉が舞い散らかってしまった」というのです。
辺見さんは言葉を選んで慎重な言いまわしをしておられるけれど、つまりその「語り」がうわっつらだけだと批判しているのですね。 そして、それは言葉にかける語感や重さの違いによるものだと述べておられる。 語られる言葉に肉体が貼りついていない。その言葉の脆弱さを語られて(書いて)おられる気がしました。
その若い評論家とは別に、辺見さんと思想信条もまるっきりことなる、故・古山高麗雄さんとの語らいを紹介されています。 思想信条が異なるけれど「精神の生理」がぴたりとあったと。意識は割れなかったし、言葉は舞い散らからなかった。 それは何故でしょう? 「正しさ」一辺倒の語りは、辺見さんもあげておられるロラン・バルトの言うように「言葉の損耗」が起きます。「泡の中に支えられている」に過ぎなくなります。 心を打つもの、あるいは響くものはそうじゃない。 「光を語るのに光の側からの抽象のみではだめなんだ」と辺見さんは述べます。
ぼくが一番反応したのはその部分でした。 闇がなければ光もないのです。例えば絵です。幽霊の絵が何故、不安な存在感のなさがあるのかというと、影がないからです。幽霊は気持ち悪いですけれど人の心は打ちません。 それが言葉にも言えるんじゃないでしょうか。陰影のないただの「正しい美しい言葉」は「幽霊」じゃないか、と。
辺見さんが古山さんから得たヒントを教えてくれています。
『他者にせよわれにせよ、人間の正しさや美点よりも瑕疵(かし)にこそ世界を考えるヒントがある』
辺見さんは闇を撃つのは光ではなく、もっと深い闇だと。闇に肉薄する言葉を持つことだと述べておられます。そして、それは口で語ることではない。語りを減らし、書くことを増やそう、と決意を披瀝してこの稿を終えています。
文春9月特別号でも、ネットの世界でも書くことに意識的な人ほど「言葉が舞い散る」ことに鋭敏に反応しています。たんに正しいこと、たんにうそぶくこと、影のない言葉たち。肉体のみえない言葉たち。そういうものに対して。 松本さんが書きつけておられた「うそくさい言葉」への拒絶感覚にもつながっていると感じました。
なかなか考えるポイントを頂いたコラムでした。
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