| 2003年06月19日(木) |
自分を「器」と語りだすまで |
詩人はときとして「この詩は私が書いたのではなくて、私という『器』をとおして『なにもの』かが書いたんだ」という事があります。 これは、たぶん詩人をめざすすべての人は知っていると思います。 あまりに多くの詩人が同じニュアンスのことを述べていますから。
さて、ぼくはどうでしょう。 「詩的衝動」という言葉があります。それは「歌いたい」という衝動に似て、みずからの感情の流れのままにそれを言葉に乗せて表現したいという衝動です。 それは初期において美しく、そして必ず消えていきます。なぜなら「衝動」だから。自然発生的な詩的衝動というものは、自然発生であるが故に気まぐれです。
一見、何も書いていないようで指定された言葉、あるいは選んだテーマ、あるいは気になる文章、単語、そのようなものをアタマの中で転がしつづけているのも、また、詩を書いているということです。そしてそれを毎日、自分に課すとしたら。それは詩を書いている事になるでしょうか。ぼくはなると思います。
ある意味、ぼくの詩が質的に変わりだしたのは、ネットで偶然、そういう位置に自分をはめ込んでからでした。嵌めこまなければわからない事、嵌ってみなければわからない事、それは確かにあって、しかも嵌っているところからいつでも出れるという状態である事。あるいは嵌っている自分を見つめる自分がいること。そういう条件がそろってから動き出したんです。言葉が。
詩を書くことを、とにかく毎日何かの形で続ける事。なにも字を出さなくてもいいから考えつづける事。そのことが基本で、ほとんどそれしかありません。 自分が「器」に過ぎない、と思うのはずっと後になってからでしょう。むしろ考え抜いたあとに言葉が現れます。 自分を消すんです。とにかく「いない自分」が書くのです。
だからぼくは「絵を描くように」という言葉を使います。動き出す絵をどれだけ美しく描けるか。「詩より詩的なもの」というひとつのピースをいかに提供できるか。 ぼくのやっている事はそういう事なのかもしれません。
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