本年度の芥川賞受賞者、吉村萬壱さんのみじかなエッセイが京都新聞上に掲載されていました。
吉村さんは1961年生まれ、京都教育大卒で大阪在住。 彼は自宅から歩いてすぐの喫茶店に20年以上続けて通っているといいます。決まった席に腰をおろし、数十分の読書の後、『我慢し切れなくなって』大学ノートを開くのです。表紙には学生時代からの日記の通し番号74が…。毎日、日記を書かないと落ち着かないのだそうです。
使うのは万年筆。ゆっくりと一文字ずつ丁寧に書きます。省略のない文字で。彼の形容を借りれば次のようになります。
『半ページほど進むと、水に浸したティッシュのように精神がフラットになってくる。同時に世界が映画「マトリックス」のように、この世界が文字によって成り立っている気になる。いらだちがおさまり、世界と和解する』
なんともこれは、ほとんど書道ですね。と思ったら本人も
『文字を書くのが眼目であって、内容はどうでもよいのだ』と。書くことが思い浮かばなかったら本から抜書きしたり、窓から見える看板を書き写すといいます。 文字だけでなく時には絵も描きます。その絵もまったく意味をなさないもの。 だから日記は脈絡がなく、論理もなく、秩序のないどろどろ状態だとか。 で、そのどろどろの中に小説のタネが隠れているのだ、と。
この話は詩人の荒川洋治さんの「日記のススメ」を思い起こさせます。荒川さんもとにかくなんでもいいから書いてごらんよ、とすすめておられました。 カオスであり、無意識と意識とのはざかいのような、言葉以前のもの。あるかたが「夢ウツツ」と表現されたような境地ではありませんでしょうか。
吉村さんは「どろどろ」を蝶の変態になぞらえています。 さなぎの中は変態のために、いったん液状化するのです。芋虫が蝶になるのだから、さもありなん、と。 それが吉村さんの場合、今回の作品「ハリガネムシ」になったのでしょう。
さてさて、ネツトで毎日、カチャカチャ「書いている」ぼく「ら」はそうなりうるかな。きれい過ぎないかな、などと思っていたら、朝日新聞の集金のおばちゃんが来ました。朝日はぼくは読まなくて、イエノモノが日刊スポーツを購読しているから来るんだけど、集金の時にくれる小冊子「暮らしの風」には、これまた芥川賞作家の玄侑宗久さんの「べラボ―な生活」というコラムが連載されています。 「プロとアマチュア」というタイトルで、両者は実は反対語ではないことを書かれていました。 もともとプロとはギリシャ時代の聖職者、医者、弁護士のこと。つまり、神と職業仲間の宣誓する(プロフェス)ことで認められた職業人であるのです。 一方、アマとはオリンピックで貴族が入賞するために、職業的に体を鍛えている人(人力車夫や郵便配達人など)を排除する目的で考え出された「概念」。 なんだか、ゆがんでますな。
と、いうことは皆、なにかのプロなわけでしょう。と、ぼくは思うのでした。玄侑さんはだから、『プロとアマチュアの両立が可能だ』と。 つまり彼がめざすのはプロの技術を持ち、アマチュアの一生懸命さでことにあたる、ということでした。
『心をこめれば技術が向上するとは言いきれないが、技術を持ちながら心をこめることは、心しだいで可能なことだ』 やがて心が技術を導くと信じるものの 『技術がある程度身についた時の初心という心』が問題なのだと。
うむむ。「初心」か。それはやはり「どろどろ日記」に帰っていくのかな、と思っていたら、珈琲を呑みながら何気なく開いた「週刊現代」の編集者あとがき(なによんでんだろう)にとどめのような言葉が。
「慣れなきゃダメだけど、慣れてもいけない」 一時の不調を脱した時のヤンキース、松井秀喜の言葉でした。
うーん、これはやっぱりシンクロですよね。 ぼくはこういう言葉たちを捜していたんでしょうね。たぶん。
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