散歩主義

2005年04月02日(土) ネット ケイタイ 文学

ブログに作品を書くことについて某氏から忠告を受けた。
「書く必要はない」と。
特に創作に関してはなんにもならない、という。
前提として「本当にプロになるのなら」という断りが前に来る。

ネット「なんか」で遊んでいる場合じゃない、と。
パソコンを使うことはよいけれど、作品を外に出すなとのことだ。

文学に没頭するのならネットとの接続を切るぐらいでなければ駄目だという。その証拠に…と某氏は様々な例を挙げて説明してくれた。

ネットとはいったい何なのか、もう一度、考えたい。
広いように見えて実は「狭い」のかもしれないし。

インターネットとケイタイによる生活の変化は平野啓一郎氏が言うように、100年か200年に一度の大変革だと思う。
世界像が変わった。
だけど逆に囲いこんでいるとも言えるのだ。可視の画面のみの世界だけが世界であるかのように。
そして、いつものことながら「こぼれ続けるもの」はいる。

平野氏は語る。
…今の十代や二十代の多くは、「本当の自分」と「社会的な仮面」という二つの顔を使い分けている。もちろん、どの時代でも人間には二つの顔があって、その間には「最低限の距離」が必要とされていた。ただ、かつては本音の部分を表現するには現実社会に踏みだす必要があったから、虚実の間は割と近かった。それがネット社会の発達で、今は匿名の「自分」が言いたいことを無責任に表現できる。歯止めなく分裂が広がる状況には深い危惧を抱きます。
一年間のフランス滞在中、日本の若者の集団自殺や引きこもりの多さについてよく尋ねられた。日本の中高年の大部分は「だらしないだけ」「甘えている」との認識しかないようだけれど、彼らの将来への失望感の深さは、同世代として、肯定はしないが理解はできる。現代社会の見逃せない矛盾がそこに表れているととらえないと、問題はますます深まっていく。
この十年間で、戦争体験のある世代がかなり減って、一方で排他的ナショナリズムや右傾化が進んだことは、注意したい。
「無知」と批判されて縮こまる理想主義に対し、「脅威には力で対抗すべき」と勇ましい現実主義が幅をきかしているが、そうやって六十年前に起こったことは何なのか。「無知」な世代に伝えるためにも、歴史を反芻しつつ、作家として社会に問いかけ続けたい。…

(京都新聞4月2日朝刊・シリーズ「60年目の肖像」より。日替わりで識者が戦後60年を語っています)

自殺にどんどん不感症になっているような世間は、ある一方では実に簡単に人を殺す社会でもある。

モブ・ノリオ氏は「破壊して何かが生まれる時代はとっくに終わっている」という。
文学は何も変わらないんだろうか。
「何が変わった?」と某氏はいう。
「とにかくあんたが向かうのは原稿用紙だ」と言うのだ。




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