だいたい小説よりも詩を読んでいたし、書いていた。 小説でも長いのは積極的に読んでこなかったし、書かなかった。 ただ、はまると怖ろしいことになるのはわかっていた。 他に目がいかなくなるのだ。
長い小説…。 ユリシーズ、チボー家の人々、カラマーゾフの兄弟…。 最近、高村薫さんの小説のうち長いものばかり再読している。 「地を這う虫」という優れた短編集もあるのだけれど、この人の長編小説は凄い。小さな字で上下二段500ページ近い「照柿」を今日読み終えた。 二度目なので少し早かったかな。 その前に「マークスの山」を再読した。これはそこまで長くない。
この二つの作品のラストは切ない。息を呑む。 続けて読んだせいで「1Q84」一色の脳味噌の色が大部変わった。
高村さんの「レディ・ジョーカー」も長い。 「新リア王」「晴子情歌」も長い。 実は全部揃っている。 何故だか再読の旅に出てしまった。
自分が長いものを書いていないから余計そう思うのかも知れないけれど 小説の醍醐味は長編にある、と信じている。 短編小説の妙味、美しさ、余韻はむろん理解できるし、そもそもそれをめざして自分も書いてもきた。 だけどやっぱり長いのは凄いのだ。
ただしどこかで「判断」しないと作品によっては時間の無駄になる。 だめだ、向いてない、とおもったらさっさと読むのは止めたほうがいい。 他の作品に向かったほうがいい。
書くのはどうだろう。 感覚だけでは書けない。 橋本治さんが「題材では書かない。テーマで書く。だからとてつもなく長くなる」と書いていた。橋本さんの作品にも長いのが多い。珠玉の短編もあるけれど…。
それとたぶん…書くことが好きでないと書けない。
で、長編小説をとにかく書ききったら、違う地平が必ず見えそうな気がして書き始めた。
そういうとき高村さんの作品はとても励ましになる。 その本が横にあるだけで励みになる。真っ向勝負の作品群。読み終えたときの虚脱にも似たカタルシス。それを思いだすだけで自分も前に進めそうな錯覚を抱ける。錯覚でかまわないからとにかく、あこがれて、それから腰を据えて、自分の書きたいテーマを決めて書いていく。
ぼくのこれまでの最高枚数は四百字詰め原稿用紙130枚くらい。
高村さんの「照柿」は1400枚だ。読み終えたときの「ズシーン」がたまらない。くどいようだけれど。 せめて700枚くらいの作品を書いてみよう。
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