2009年08月18日(火) |
「人は先ず描くものであった」 |
厳しい残暑が続くけれど、朝晩の気温や夕暮れの風などは、もう夏の終わりが始まっていることを告げている。
その終わりにあたって、今年の夏はどうだったかと振り返ると「高村薫を集中的に読んだ夏」となる。
一人の作家の長編だけに絞ってここまで読んだことは果たしてあったか。 正確にいつからになるのかは読書メーターや日記を振り返らないとわからないけれど、とにかくこの夏は高村薫の本を読み続けた。
他に読んだのは村上春樹「1Q84」と山田詠美「学問」があるぐらいだ。 (それと江國香織さんの週刊現代の連載を切り取ってつくっている私製の本が進行中、というところ。)
高村さんの作品は全部家にあるので、再読の形になったけれどミステリ作家と呼ばれていた頃の作品は読んでいない。直木賞を獲った「マークスの山」から読み始め、「照柿」「レデイ・ジョーカー」「晴子情歌」「新リア王」そして最近出た「太陽を曳く馬」と読み進めた。
ほとんどが上下巻の二冊。そうでないものも小さな字の二段組みというタフな連続読書になった。 「タフ」というのは長さだけでない。テーマがシビアであること。著者が問い続けることをやめない、ということ。読者が感じ続け、考え続けなければならないということ故である。
今「太陽を曳く馬」の下巻に入っている。いよいよ宗教との格闘が始まり、終わりが見えてきたので日記にも書けるようになった。
この膨大な長編を連続して読もうと思ったのは、「マークスの山」「照柿」「レデイ・ジョーカー」が合田雄一郎が主人公の物語であり、「晴子情歌」「新リア王」の主人公が福沢彰之であって、「太陽を曳く馬」で両者が出会うからであった。
全編読み通しての感想はまだまとまらないけれど、いろんな意味でとにかく凄い。二人の生き様を追いながら読むという狙いの手応えは十分にあった。
今現在では「太陽を曳く馬」上巻にあった「人は先ず描くものであった」という記述が強く心に残っている。 「太陽を曳く馬」とは北欧の洞窟に残された原始人類の描画につけられたタイトルである。そして作中、高村さんは認識するのだった。言葉以前に人は描くものであった、と…。
しかし絵を考えることによって余計に言葉のことを考えさせられる。そして考えに終わりがない。まして、つたないけれども言葉をつかって「作品」を書いている自分であるのだからなおさらだ。
言葉を持たない者は生き延びていけない。高村さんは最近のインタヴューでそんなことも語っていた。
とりあえず読書の先を急ぐ。
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