私が中学2年生の頃、冬のある日。
母は、炬燵に入ったまま動こうとしなくなった。 一日中、炬燵に入って横たわっていた。 生気がまるで感じられなくなった。 ずっと猫に向かって 「おまえはいいなぁ、おまえはいいなぁ。」 と囈語のように繰り返していた。
母は、自律神経失調症という病気になった。 たぶん、鬱病も併発していたんだと思う。 今まで明るく接してくれていた母が、急に別人のようになった。
得体の知れない恐怖が、また、襲ってきた。
…もしかしたら、母がこうなった直接の原因は私かも知れない。 その日私は何時も通り、のつもりだったのに。 その日母は何時も通り、じゃなかったから。
朝にね、母が私を起こしに来たの。 私は中学2年の冬は登校拒否をしていなくて、学校へはちゃんと行っていた。 でもこの日、私はふと学校が休みたくなって、深い意味はなくて、さぼれれば良いなぁ、なんて思って母の呼びかけを無視して布団に潜り込んだ。 登校拒否をしていた時の意思表示。学校へ行きたくない意思表示。 本当に登校拒否をしようと思ったんじゃなくて、ただ単にずる休みがしたかっただけ。 そんな軽い気持ちでそうしたのに。
この日の母はすごく動揺した。 狼狽えた気配が布団越しにも伝わってきた。
私は吃驚してすぐに起きて、その日は学校へ行ったんだけれど、 その次の日くらいから、母が炬燵で横たわるようになった。
…は。 「もしかしたら」なんてごまかしているけれど、こんなの確実じゃないか。 母はこの朝、また私が登校拒否を始めると思って狼狽えたんだ。 それが母の心に大きな波紋を起こした。 さぼりたい、なんていう私のふざけた甘い心が、母の背中を押してしまったんだ。 限界の向こうへ。
引金を引いたのは、私だ。
…どうしてなんだろう。 もっとそういう意識を抱いて然る可きだと他人事のようには思うんだけどな…。
2003年01月29日(水) |
姉との緩和、母の限界 |
姉は中学を卒業した頃から、私に対して冷たい態度をとる事はなくなっていた。 寧ろ、仲良くしようという意思が感じられた。
私はそれを素直に受け止める事が出来なかった。 私は姉に対してどうしようもない恐怖を抱いていて、それを解きほぐすのは難しかった。 姉が話し掛けてきても、必要なことだけを一言二言話しては黙る、というようになっていた。
私は姉の前では笑えない。 笑う事ができない。
私は自分から姉に話し掛けることは先ずない。 話し掛ければ姉は普通に答えてくれる事を分かっているのに。 それでも私の恐怖は消える事はなくて。
私は姉の前ではうまく口を開く事が出来なくなっていた。
それでも以前のような嫌悪感は大分緩和されていたと思う。 ただ姉の前で口を開く事、笑う事にどうしても抵抗があるだけで。
私たちの関係は、少しは増しなものになっていた。
そこにきた、母の限界。
……お母さん。 貴方の心労は如何許りでしたでしょうか。
子供が皆登校拒否を繰り返す。 祖父がそれに対して取り乱して母に詰め寄る。 祖母も何とかしなさいと責める。
私は思う。 母は逃げ出しても良かったのに。 私たちのような子供なんか捨ててしまっても良かったのに。 こんなにどうしようもない家族なんて、私だったらきっと耐えられなくなって捨ててしまう。
それでも捨てずにずっとずっと守ってくれている。 それが母の愛というものなのですか。 こんな私たちでも無条件に愛してくださるというのですか。
私には分からないです。 貴方はどうしてそんなに優しいの?
…優しさの限界の答えが心の病だったとしたら。 そこまで追い詰めたのは間違いなく、私たち家族。
マイナスまでいったら大爆笑してやる。
兄が登校拒否をしていた時、祖父は兄を殴った。 怒鳴りながら殴った。 出ていけと叫んだ。
私が登校拒否をしていた時、祖父は私の服を剥ぎ取った。 その服も俺が出した金で買ったんやと、怒鳴った。 そして言った。 「頼むから学校へ行ってくれ!」 「何でうちの子だけがこうなるんや… 俺は恥ずかしい!」 くしゃくしゃの顔をしながら言った。
ある夜。 母、姉、兄、私が居間にいた時に、母が祖父に呼び出された。 呼びに来た祖母は言った。 「むちゃくちゃするかも知れん。」 母は、恐怖した。だから私たち子供に言った。 「一緒にきて!」 母は、子供が見ている前では流石に祖父も暴力は振るわないと思ったんだろう。だから私たちに懇願した。
だけど、私たちは誰も動こうとしなかった。
困惑した顔をしながら母は祖父の家へ行った。
1時間くらいたった後。 母は顔を真っ赤にして、何か声を上げながら帰ってきた。 腕を見せてきた。 …膨れ上がった手首。
「布団たたきで体中めちゃくちゃ叩かれた! もう出てくわ!!」 母は財布だけを持って家を飛び出した。
もう夜なのに。もう夜なのに。
不安になって、じっとしていられなくなって立ち上がったけれど、でもどうしたら良いのかわからなくて、その場から動けずにいたら祖父と祖母がやってきた。
「お母さんは?」
「出て行った。」
「そうか…お母さんはもう死ぬかも知れんな。 そうなったら俺のせいや。 もしお母さんが死んだら俺も死ぬからな。」
祖父はずっと繰り返した。
お母さんは自殺するかもしれんな。 俺のせいや。 俺も死ぬ。
誰に言うでもなく、何度も何度も繰り返した。
繰り返される言葉に、私は耐えられなくなった。
私には小さなプライドがあったの。 姉の前では絶対に泣かないっていう、小さなプライド。
だから、この時も泣くつもりは全くなかったの。 なかったのに。
「うわー!!」
涙が止まらなくなった。 その場に立っていられなくなった。 しゃがみ込んで、せめて泣き顔だけは見られないように下を向いた。 私が泣き出したことに皆驚いたけど。
だけど私自身だって驚いていたんだよ。 小さなプライドはがらがらに崩れ去って。
ただ私は声を上げて泣くしかなかった。
祖母は言った。 「大丈夫やから、大丈夫やから。」
祖父に対して言った。 「子供の前でなんて残酷なことを言うんや!」
祖父は言った。 「俺が悪いんや。」
姉と兄はずっと黙っていた。
次の朝、目が覚めると、台所に母の姿があった。
良かった。 母は、帰ってきてくれた。
本当に、良かった。
…うん。良かった。
思い出して書く事がこんなにきついとは思わなかった。 日記を書く時、毎回思い出しては体が震えるんだけれど、 今回は吃驚するくらい震えて止まらなかった。 過去のことなのに、感情がリアルに蘇ってきて涙が出る。 どうしたら過去を冷静に振り返ることが出来るのかな。 過去の事だと割り切って考える事は出来ないのかな。 人間の心ってなんて厄介なんだろう。
兄は中学3年の頃は殆ど学校へ行っていなかったんじゃないかな。 ずっと、家にいた。
中学を卒業しても、ずっと家にいた。 高校には行っていない。バイトもしていない。今もずっと働いていない。 中学卒業から、ずっと。
でも、外には出るから引きこもりって訳じゃないと思うんだけど。
こういう状態の兄を、祖父はもう諦めたという。 「あいつはもう死んだものやと思う」と言っていた。 兄が中学卒業したての頃は、何かと兄に対して行動を起こしていたけれど、今はもうその言葉通りに何もしない。
ただ、年に1回、今でもお年玉を母に託して渡してくれるけれど。
…祖父は心配なんだろう。 本当は、心配なんだろう。 本当に、心配なんだろう。
何だかしみじみ思う。 うちの家系は不器用なんだろうな…。
兄が中学の頃に登校拒否をしていた理由を私は知らない。 兄は自分の事を一切話さないから。それは今も変わらない。 私と兄は今、きっとすごく仲が良く見えるだろう。 私は兄が大好きだし、一緒に出掛けたりもする。 でも、心の内を私たちはお互いに曝け出した事は一度もない。 兄にも確かにあるであろう葛藤を、私は知らない。 私が今ここでしている葛藤の告白を、兄は知らない。
それでも私たちは仲が良い。 冗談を言い合える、同じ事を同じ風に笑い合えるくらい、仲が良い。
…でも。 一つ、朧げな記憶がある。 兄が中学生の頃、私が小学生の頃、場所は居間で。
貴方は母に全身を使って締め付けるプロレス技みたいなものを掛けてなかった? 苦しそうな母の顔と、へらへらしたような兄の顔。 母を放せと叫び続ける私。
本当に朧げな、不確かな記憶なんだけれど、もしかしたらただの夢を事実として記憶しているだけなのかも知れないけれど、今もこの光景は私の中に刻み込まれています。 私はこの朧げな記憶を確かめるべきなのかな。 もし確かめたとして、私はどうしたいんだろう。 もし本当だとしたら私は兄になんと言いたいんだろう。
……分からない。
…そうできたらいいのにね。
姉が高校を辞めた頃に、私は中学生になった。 新しい環境。冷たい空気。
この学校は、嫌いだ。
確信した。 私はこの学校を好きになれない。
友達は出来た。 休み時間に話す子も出来た。 放課後に一緒に遊ぶ子も出来た。 休みの日に一緒に出掛ける子も出来た。 だが、学校自体が好きにはなれなかった。
締め付ける感覚。排他的な感じ。 小学校の時とは明らかに違った。 生徒に接する教師の態度がどこか違う。 この学校には、生徒を分ける境界線がある。 私は所謂「真面目」なグループに入っていただろう。 教室には所謂「不良」というグループの子もいた。
人のタイプが急に増えた。 面白い人、大人しい人、人を見下す人、何時も笑っている人…。 この人は好き。この人は嫌い。 私は好きなタイプ、嫌いなタイプを境界線で分けていった。 私も人から境界線で分けられるようになった。 私を嫌う人もいた。 それは当然の事。 人の数が多ければ、好きと嫌いも増えてくるのは当然の事。
小学校の頃のなあなあは、中学校では通じなくなっていた。 私を嫌う人は、私を嫌う意思を端々から発していた。 私はそれを息苦しく感じた。
そして、学校に行きたくなくなった。 学校というものが、人というものが、怖くなった。
子供が学校へ行かない事に、母は最初怒った。 行くように促した。私が小学生の頃は、無理やり引っ張って連れて行かれた事もあった。 でも、姉が中学校、高校で登校拒否、兄が中学校で登校拒否、私も中学校で登校拒否をするようになって、 あまり何も言わなくなった。 母は朝私に声を掛けて、私が学校へ行く意思のない素振りをすると、一言「そうか」と言って居間に下りていった。 暫くそれを繰り返すと、朝に声を掛けてくる事もなくなった。
…嘘は、吐かない。取り繕わない。 誓約。 一つ、言おう。
私は姉が「ずるい」とずっと思っていたから。 だから私も「姉のように」楽をしたいという思いが心のどこかにずっとあった。
苦しい故の登校拒否。その感情も確かにあったけれど。 それと同時にさぼりたいが故、楽をしたいが故の登校拒否でもあった。 そういう気持ちも、確かに、あった。
私は心の病の姉を出しにして、さぼろうとするずるい人間。 姉を出しに言い訳をしようとする卑怯な人間。
これから後の狂気も、私のこの心が招いた事。
当時はあんなによく遊んでいたのに、と思うと、あれが私たちなりのなあなあだったのかと思う。
姉は中学生のうちに何度か鬱病を繰り返していた。 中学3年、受験生になっても何度か繰り返していた。
そして冬、高校受験。 姉は私も知っている頭の良い学校2つを受け、その両方ともに合格した。
姉は、友達が多い。姉は、頭が良い。 友達に借りたノートのコピー、通信教育の教材。 それらで姉は学校へ行っていなかった時の分を勉強し、取り戻し、そして頭の良い学校に受かった。 姉は、すごい。努力を知っている人。姉は、努力家でもある。
高校に受かった姉。 春から通い始めた姉。 そこに1年通う事なく辞めていった姉。
高校は義務教育ではない。 出席日数が足りなければ、単位が足りなければ例えどれだけ頭が良くとも2年に上がる事は出来ない。 高校に入っても幾度か鬱病を繰り返し、その度に学校を休み続けた姉は、その両方が足りなくなった。 年下と同じ学年になる事を拒否した姉は、高校を退学した。
この後暫く姉はバイトをする毎日になる。
うん、好きだなぁ…。
最初は、声を掛けた。
「何で学校行かんのや?」
姉は、答えなかった。
「何で何も言わんのや?」
姉は、答えなかった。
ああ、追記しよう。 祖父は気が短い人でもあった。 かっとなりやすい人でもあった。
何も答えずにぼーっとしている姉に、祖父は怒った。 祖父の世界では、子供は学校へ行くもの。それ以外は許せない事。
「学校へ行かんのやったら出て行け!」
それでも姉は、何も答えなかった。
だから、祖父は実力行使に出た。 姉を外に捨てようとした。
でも人間って重いよね。 玄関先まで引きずっていくことは出来たけれど、それ以上は無理だった。 母や祖母も祖父の行動を止めようとしたし、だからそれは不可能だった。 姉を玄関に落としたまま、母や祖母は祖父を何とか説得していた。
この間、ずっと姉は無抵抗だった。されるがまま、引きずられるがままだった。 祖父に落とされた場所に座って、ぼーっとしていた。
この人はどうしたんだろう。
そう、思った。 姉が怖くなった。 どうしようもなく、怖くなった。
私の姉に対する今までの感情が「恐い」なら、この時から「怖い」に変化したと思う。 このニュアンス、分かってもらえるかな。 以前はもっと物理的な恐怖だったのだけれど、この頃からは心理的な恐怖に変わった感じ。 あ、でも物理的といっても暴力を振るわれたとかそういう直接的なものじゃなくて。 「分かる恐怖」から「分からない恐怖」に変わったというか…うーん。 気持ちの表現って難しいや。
貴方は気付いていない。 その言葉もまた人を苦しめている事に。
2003年01月21日(火) |
この日記の本当の始まりは、ここから。 |
姉が、学校へ行かなくなった。
たぶん、姉が中学2年か3年の事だったと思うので、私は小学校高学年頃かな。 正確な年や日付は覚えていない。 ただ、急に姉が学校へ行かなくなった事を覚えている。
姉は朝から晩まで居間の真ん中に座っていた。 寝る時もそこから動かなかった。 朝から晩まで、夜中まで、ずっとテレビを付けたまま、居間の真ん中に座っていた。 姉はテレビの前に座ってただぼーっとしているように見えた。
私が朝起きて居間に行くと、姉が居間の真ん中に座って寝ていた。 私が小学校から帰って居間に入ると、姉が居間の真ん中に座って何をするでもなくテレビの前でぼーっとしていた。
この人は何をしているんだろう。
そう、思った。 そして、同時に「ずるい」と思った。
私は学校が好きではない。 高校は自分の意思で選んだ、自分の好きな学校だから高校は好きだったけれど、 小学校、特に中学校は好きではない。 だから、熱が出て休めれば喜んだし、仮病を使って休んだ事も多くあった。 順を追って後で書くけれど、中学校の頃の私は断続的に登校拒否をしていた。
姉は、ただぼーっと居間に座っているだけで、学校へ行かなくても誰にも何も言われていないようで、 だから「ずるい」と思った。
私は姉を見る時、きっと軽蔑するような目をしていたと思う。 直接姉に対して言葉を掛ける事は出来なくて、ただ、視線で姉を嫌悪していた。
暫く後。
祖父はお金持ちで、でも昔そのお金の一部を友達に騙し取られた事があるという。 これが、祖父の心の傷になったのだろう。
祖父は被害者意識が人一倍強い。 祖父は体面を気にする。 祖父は自分を中心にして考える。 祖父は祖父の考えでしか私たちを見てはくれなかった。 気に入らない事を排除しようとした。 機嫌が悪いと周りの人間に当り散らした。
でも普段は面白い人だった。 普段は優しい人だった。 普段は孫を可愛がってくれる人だった。
きっと私たちがずっと普通の可愛い孫でいられたなら、祖父も苦しまなかっただろう。 私たちはお互いを思い遣りながら生きていけただろう。
だけど私たちは普通の可愛い孫ではいられなかった。 だから、祖父は苦しんだ。 そしてその苦しみを周りにぶつけるから、周りもまた苦しんだ。 私たちの苦しみは輪になって繋がって、どんどん悪い方へと落ちていった。 相互作用は私たちを悪い方へ悪い方へと導いていった。
今思い返せばそれはなんて些細なきっかけ。 でも私たちの悪い連鎖はここから始まるんだ。 ここからどんどん周りに作用しながら膨れ上がっていくんだ。
親が離婚したのは姉が小学生の頃。 その頃の私はまだ小さくて、父の記憶は全くないし、顔も写真で見た事がある程度。 思い出なんて一つもない。 これは私にとってとてもいい事だと思う。覚えていなければ、余計な感傷を一切抱く事がないから。
が、姉は小学生までは父と母と一緒の思い出があって。 それが、離婚という別れを見て。
これも彼女の心に傷を作ったんだろう。
そして、父と別れた母は、自分の両親の膝元へと戻った。 私の祖父と、祖母。 私たち家族はその二人の家のすぐ隣に住みだした。 家の裏からお互いの家へ行き来できるようになっている造りで、大きな二世帯住宅のようなものだ。お風呂、電話は共通だった。
これは、私たち家族全員にとって金銭的にはプラスになる。 たぶんこの家に越してこなければ私たち家族は生きていけなかっただろうから。 離婚する前は物凄く貧乏で、姉は食べる物がなくて石鹸を齧った事もあると言っていた。姉が偏食なのはこれが原因だと言っていた。 私たちが今ここまで生きてこれたのは、間違いなく祖父、祖母の援助のお陰。
だけど、精神的にはどうしようもないほど大きなマイナスになった。 祖父の存在、祖父の言動、祖父の行動は私たち家族にとってどうしようもないほど大きな負荷となった。
この家で姉は心の病になった。 この家で母は心の病になった。 この家で兄は学校へ行けなくなった。 この家で私は学校へ行きたくなくなった。
一家全員どこか心を病んでいった。
私の狂気はもっともっと先の事。
姉は頭が良い。勉強が出来る。頭の回転が速い。 ただ私から見ると、それは姉にとって必ずしもプラスにはなっていないと思う。 姉は頭が良い分プライドが高かったし、姉は頭が良い分知ってしまう事も多かったんだと思う。
姉は外面が良かった。 姉の友達は皆姉を優しいし面白いしと思っているみたいだった。
うん、それは正解なんだろう。 だって姉はそう振舞っているんだからそれで正解。 でも、家の中では女王様だったよ。
家族に対して命令形。 紅茶作って。 ご飯早く。 それとって、あれとって。
些細な事かも知れないけれど、それが積み重なるとこの家で一番偉いのは姉だと思うようになって。 誰も姉に逆らえなくなって。 そして姉は助長する。
それして、あれして。早く。
家の中では女王様。 家の外では優しい優しい良い人。
どうしてそこまで態度を変えるのか。 たぶんこの内と外との態度の変化も姉自身のストレスになっていたんじゃないかと今は思う。 頭が良くても、どこか不器用な人。 姉は、そんな人だったんだろう。
なんて今そう思う事が出来ても、当時は私は母にまで命令する姉を嫌っていたし、居間の真ん中に座ってふんぞり返っているような態度も嫌悪していた。
どんどんどんどん嫌いになった。
姉の写真が居間の机の上に置いてあった。 友達に囲まれて楽しそうな、笑顔の写真。
なんだろう、すごく、イヤ。
深く考えずに、その写真の姉の笑った顔に、シャーペンで幾つか穴を開けた。 満足。 嬉しくて、母に見せたりした。
「…あんた、怒られるで…」
言われて、初めて気付いた。 そうだ、これは姉の写真だ。姉の持ち物だ。姉はこれを見たらきっと物凄く怒る。
後日案の定姉がその写真を見て言った。
「誰がやったん!?」
視線は私を捕らえたままで言った。
姉は誰がやったか分かってるんだ。でも、私が自分から名乗り出て謝るのを待ってるんだ。 私はただ黙っていた。知らないふりをした。謝罪の言葉を発するなんて出来なかった。 きっと認めたらもっと怒られると思って、何も言わずにいた。
尚も言い募る姉。 「あんたちゃうん?あんたがやったんやろ?」
分かってる。 分かってる。 やったのは私。 知ってる。 知ってる。 悪いのは私。
でも、認める事、謝る事は出来なかった。黙っている事しか出来なかった。
そうこうしているとその場は母が助け舟を出してくれて、うやむやになった。
助かったと思った。 そして、もっと姉が怖くなった。
母、姉、兄、私。
私は母が大好きで、兄が大好きで、姉が苦手だ。 小学生、中学生、高校生の頃は、大嫌いだった。 一時期は、憎んでさえいた。死ねばいい、死んでしまえ、こいつが家族じゃなかったら私はもっと幸せだとずっと思っていた。 …正直、今でも、いなければいいと、思う。ただ、以前ほど激しくは思っていないけれど。
物心ついた頃から、姉は私に対して冷たいところがあった。 例えば名前を呼ぶ時。私の名前の下に「豚」とつけるのが不思議だった。 私はごくごく標準体型で太っていなかったのに、なぜ豚と呼ばれるのか不思議だった。
「あんたは林檎箱に入れられて捨てられてた子や。」と言われた事もあった。 よく分からなかったけど、ただ、「ああ、この人は私に対して意地悪を言っているんだ。」という事は分かった。
友達と二人でしていた交換日記に勝手に書き込まれた事があった。 私が友達に対して書いた物にボールペンで勝手に返答して。消せない字。 もうこの頃からすでに私は姉と出来れば会話したくなかったし、 話し掛けるのも怖かったので、直接姉に文句は言わなかった。胸中で毒づいていた。 次の日、友達に交換日記を渡しながら「ごめんな、お姉ちゃんが勝手に書いてしまってん。」と言うのはすごく居心地が悪かった。どうして私が謝っているんだろう。
風邪を引いて、苦しくて、涙が出て、我慢できずに吐いてしまった時。 「汚い、どっか行って!」 確か、そう言われた。 自分がどうして泣いているのか分からなくなった。苦しいのか、悔しいのか。 ただ、涙が出た。
この頃私は小学生で、姉は中学生で。 姉からのこういう行動は虐められていると思うほど酷い事でもなかったし、ただ姉は私を嫌いで私にキツク当たっているのだと思っていた。そして私も自然姉を嫌いになった。
嘘は吐かない。
どれだけ私が醜かったか。 どれだけ私が自分勝手な思いに囚われていたか。 どれだけ人を思い遣る事が出来ていなかったか。
あの頃の私はおかしかった。 どうしようもなくて足掻いていた。 傷付けている事も気付かずに、ただ被害者の顔をして憎んでいた。
あの頃の事は誰にも言えない。 言えないけれど、重くて重くて仕方がないんだ。 胸の中に圧し掛かっていて、辛くて辛くて仕方がないんだ。 誰にも言えない。だけど誰かに知って欲しい。 このままじゃ苦しくてどうしようもないよ。
この日記を書く為に、いろいろと思い出す。 あの頃の事を思うと苦しいけれど。 今も手が震えてきて、心が震えてきて苦しいけれど。
きっと全部、嘘を吐かずに、取り繕わずに私のした事を告白できたら。 …少し、楽になれるかも知れない。 だから、絶対、どんなに私のした事が醜くて、どんなに最低な人間だと思われても、それは変わらない事実だから。
だから。
嘘は、吐かない。
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