脳内世界
柳

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます

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■ 指切り

「心中立て」というものがあったらしい。
こころのうちに定めた義理をたてる。
遊女たちにおいては、商売以上に客の男に対して表す真情、とされている。
想う男に「心をあげているのは貴方だけなんです」と、その真情を示そうとするのだ(最初は本気の遊女ばかりだったが後々になるとお得意さまを引き止めておくための”てれんてくだ”として専ら使用されるようになったというが)。
初めは口約束。
しかしそんなのは誰にでもできるという事で、段々引き止めておくのが困難になるので(まぁ職業柄上致し方ない事だと云えよう)、女は次の手として「起誓文」という誓いの書をたてる。でもそれでも足りなくなって、今度は「血判」を押す。
そして次第にエスカレートしていって、「髪切り」→「爪剥ぎ」→「指切り」→「情死」となるのだが、ここで思い出すのは一つの歌。


「♪ゆーびきーり げーんまーん
うーそついたら はーりせんぼん のーますっ♪

ゆーび切ったっ♪」





・・・・あながち、あったかもしれない・・・、と、いうことだ。
指切りでダメなら、死、・・ってな。

2003年01月31日(金)

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■ プリン

「ふどし」を調べようとして、辞書を見ていた。
お馴染みの三省堂の新明解国語辞典(第三判(←古い))である。
お目当ての言葉「ふどし」は見つからなかったが、代わりに私の目に入ってきたものがあった。
プディングである。

プディング:[pudding]洋風の、ぶよぶよした生(ナマ)菓子。カスタードプディングが代表的。[なまって、プリン]


ぶよぶよかよ!(爆)

なんかちっともおいしくなさそうだぞ?!


そりゃ否定はしないけどさ。
確かに洋風でぶよぶよした生菓子だよ、プリンは。
でもなんか理不尽だぞ?
(前、タコヤキ嫌いだった友人がタコヤキのことを「な、なんかタコヤキってグチョグチョしてない?」と言っていたが、それと同じくらい形無しの表現だ(笑))

・・・じゃあゼリーは?
ゼリーだって洋風のぶよぶよした生菓子だろ!

そう思って調べてみた。

ゼリー[jelly]�.璽薀船鵑鰺呂�し味をつけて、型に流し込んで固めた菓子。[広義では、それに似た薬品をも指す]�△�だものの汁(シル)に砂糖を加えて煮詰め、冷やし固めた菓子。

細かっ!!



・・・ババロアはどうだババロアは。

ババロア[フ bavarois]牛乳・卵・生クリーム・ゼラチンなどを煮たものにくだものの汁(シル)などを加え、冷やし固めた菓子。


・・最後にもう一度プリンを。


プディング:[pudding]洋風の、ぶよぶよした生(ナマ)菓子。カスタードプディングが代表的。[なまって、プリン]




・・ぶよぶよでも好きです。

2003年01月30日(木)

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■ 「DNAの塩基は4種類もいらない」だと?

聞き捨てならん。

生命の設計図、DNAは四種類の塩基(ATGC――アデニン、チミン、グアニン、シトシンだ――)と糖とリン酸から構成されているのだが――
この四種の塩基のうちの一つ、アデニン(他の三種に比べ大きな働きを担う)のアミノ基を酸化してイノシンという物質が得られる。そのアデニンとイノシンだけからでも二重らせんが作れる、と云うのだ。
「DNAの塩基は4種類もいらないかもしれない」って、
そりゃ2種だけからでもDNAが組み立てられるかもしんないけど、
組み立てられりゃいいってもんじゃないでしょ。
DNAにはその生命体を構築する為のプログラム役があてがわれてるのは尤もだけど、
そのバリエーション豊富な生命設計プログラムを通して種を如何に持続・発展させるかという使命も担ってるんだろ?いわば究極を模索し続ける、永遠の試行錯誤。
それを足蹴にするような事云ってどうすんのさ!!
2種類でいいわけないでしょ?!塩基がずっと4種類だったのにはきちんと理由があるんだってばきっと!!
「自然がつくったものが必ずしも最高のものとは限らないのです」?
じゃあなんでそういう「最高のものとは限らない」ものがこんなにも命を発展させられてるんだよ。その歳月たるや(同じ生命の尺度から見ても)伊達じゃないよ。
たいしたことないモノだったらとうの昔にみんな滅びてるっつの。

それから。
タンパク質は20種のアミノ酸から出来ているのだけれど、それも12種くらいまで少なくできるかもしれない、と。
そりゃ材料を簡素化すりゃあするほど扱いやすいから?ヒトの手で生命を作り出し易くなるだろうけど?(それでも出来るかどうかは甚だ疑問だけれど)
「グルタミン酸とアスパラギン酸は形もはたらきもよく似ています」からそういったものを一つにまとめようとするってのはどうよ。
そりゃ「今」!「我々の」目から見たらそうかもしれない。
けど!
重大な事実や本質はいつも後から発見されるもんでしょ。
もしかしたらグルタミン酸にはアスパラギン酸にない特別な効能があるかもしれない。そしてそれは、ある特定の条件下で初めて判るようなものかもしれない。
いっしょくたに扱っていいものだとは思わない。
分かれているのにはきっと理由があるに違いないと思う。

専門化が進めば進むほど見方がどんどん一面的に削られていく。
その奥にあるもののもっと大きな意図を理解したい。





――たいして何も知らんのに突っ込んでいける愚かさと無謀さは餓鬼の特権よ。

2003年01月23日(木)

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■ 菜の花畑

ゆらゆら揺れる菜の花の向こうに
おひさまのようなあの人の
ほほえみが
見えたような気がした
いつのまにか満開になっていた
いつのまにかあたり一面きいろだった
あなたはそのきいろだけを私に残して
いつのまにかいなくなるのだろう。


はっぱの緑が目に痛いほど眩しかった、
春の日。

2003年01月22日(水)

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■ 太陽になれなかった星。

ほんのちょっとだけ
大きさが足りなかった大きな大きな星は
名残惜しげにその姿を
未だに誇示
太陽には かなわないのに

「自分も太陽になれるハズだったんだぞ」
と
フツウの星としては
大きすぎるそのからだを
そこに示す。

ひとりで輝きを独占している太陽。
ほんとは見たくもないってのに
引きつけられて
離れられない。

ほんのちょとだけ
ほんのちょっとだけだったんだ。
でもそのちょっとが
こんなに大きい。
ひっこみのつかない
大きなからだ。


太陽に なれなかった星。



***************

でもホラ
この太陽系の
他の惑星の中では
キミって一番
大きいよ

気休めにしか
ならないかな



2003年01月21日(火)

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■ 祈りの歌-The Songs of TAZE-



ひどく純粋な憧れを抱いていた。


意識が全て持っていかれそうになる。
余計な雑念が全て消えていく。

そこにあるのはただ、美しい声、声、声。多重に重なる肉声。
そのことばには共感していない筈なのに
その祈りを必要としてはいないのに
どうして音楽になると こんなにも離れられなくなるのだろう。

色々な音楽が周りには溢れているけれど
この調べたちより美しい調べを私は知らない。
性質の異なる、美しさ。

孤高の美しさを保ちながら傍に降りてきて
引き上げてくれるのは、上を示してくれるのは。

魂が、素直にうち震える。


私も音に呑み込まれてしまえばいい。
大きな調べの流れの一部に。
大きなうねりに呑み込まれて。

共に上に。

2003年01月20日(月)

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■ ひこうきぐも

真っ青な空に
ひとすじの白いひこうきぐも。
いっそきもちいいくらい
あんまりくっきりしてたから
なやんでたこと ふっとんだ。

ちょうどわたしの すすむ道。



2003年01月19日(日)

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■ ながれ

川の流れを止めようと
手をさしこんでも
無駄だった。

小鳥を飼っていたけれど
ある日カゴから
逃げていた。

雪だるまを作ったけれど
何日かしたら
とけていた。


止まってって言ったけど
逃げないでって言ったけど
とけないでって言ったけど

言ってもどうにもならないものも
あるらしかった。


そして目の前には
あたらしい雪だるま。

2003年01月18日(土)

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■ なみだ

かなしくてくるしくて
泣いた。
相変わらず苦しいんだけど
涙はあったかくて甘かった。



ちょっとだけ、
微笑った。




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蛇足:
どんなに悔しくて
苦しくて
辛いときに出た涙でも
私にとっては
いつも
あったかくて
甘い味がした。
つめたくも
しょっぱくもなかった。
それが無性に哀しいときもあったけど
多くは
「あまい涙なんて、へんなの」
って
ふにゃ、と
笑ってしまうものだった。

「なみだ」は
感情をコントロールする手段だと、
思う。


2003年01月17日(金)

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■ 見上げると、宇宙。

夜空を見上げてみる。
まっくろだ。
星がある。
目線を戻す。
街がある。
ネオンがある。
普通の、普通の地上の夜。

また上を見上げる。
できるだけ首を上に向けて、
夜空しか見えないように。

ひろがる黒に
きらめく星。

広がるは広大な宇宙。

地上につながる空。
地上につながる宇宙。

手を伸ばしたら溶け込む位置にある。
見上げたら吸い込まれる先にある。



見上げると、そこには。

2003年01月16日(木)

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■ 泣き桜

灰色の雲
桜の花びらに
霧雨降って
しとどに濡れた
うすくれない

したたり落ちる
そのかんばせが
美女の泣き濡れた
顔に似て。




2003年01月15日(水)

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■ 科学と哲学

科学−宇宙物理学−と哲学の両面から宇宙の起源についてアプローチできたらいい。
この、今在る宇宙について、科学者達はその宇宙が「なに」であるかを検証し論じる事に夢中で、「なぜ」という問いに踏み出せないままでいるように思える。
周りは一体どうなっているのか。それを観測し結合定数をはじき出し理論と数式を以って宇宙を果てまで見通そうとする。
細部まで検証し分析することによって見えてくるのは、
その奥にある何か大きなものの存在ばかりだ。
そしてそれが判らないでいる自分達だ。
「なに」であるかが判っても、
それが「なぜ」あるのか。
「何の為に」「何を以ってして」あるのか。
それは本来哲学の領域なのだろうが、
めざましい速さで日進月歩し、知識があまりに広大になりすぎた物理学や自然科学のスピードに哲学の方が追いつけなくなってしまった為に、宇宙が「何の為に」あるのか、という問いに深く踏み込めなくなってしまったのだ。
どうして理系学問が細分化し専門化が進みに進んだか。
ちょっと名前を聞いただけでは何の研究をやっているのかさっぱり判らないような専門性の高い(?)域にまでそれぞれが細分化している理由。
それは、範囲があまりに広大になりすぎたためだろう。
全部を網羅するのは到底出来ない。だから研究対象の、扱う範囲の的を絞る。そうしなければ、扱えなくなってしまったのだ。
その道の専門家がそうなのだから、況や哲学者においてをや、である。

宇宙の起源やこれから、そしてこの今の現状。
何も知らないゼロから、ヒトは知ろうとし始めた。
元々知らなかった。
知らなかったら知らないままで変わりなく生きていける筈なのに、私達は知ることを選んで、選び続けてきたのである。
一生涯をその研究に捧げる者も珍しくなく、――いやむしろ数え切れない――それでもなお明確に明かされる事の難しい問題。
存在していながら、認められていながら、それでもなお周りに問い続ける。
それは生まれてすぐ生き別れた片親を探す様に似ている。
その存在によって、自らで自らを肯定したいのだ。
生きていながら、未だなお信じられない。いや、信じる信じないというより、「知りたい」のだろう。
自分が何者かという事を。

今はまだ、「なに」であるかに終始しているこの宇宙に対する論も。
そのうち「なぜ」在るのか、という論に変わってくるのではないかと思っている。
しかしたとえ「なに」であるかが全て判ったとしても、「なぜ」在るのかという問いまでその時判るか、というと、「判らない」という可能性の方が高いような気がする。

究極的な「なぜ」在るのかという問い。
何故この宇宙が在るのか?何の為に在るのか?何に向かっているのか?私達が「なぜ」と宇宙に問い掛けるのはなぜなのか?
問い掛けるような私達が宇宙にいるのは「なぜ」なのか?


―――科学者さんたち、頑張ってくれないだろうか。

2003年01月14日(火)

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■ 「必然」

「偶然」なんてモノは。
本当は存在しないのかもしれない。

偶然は必然に内包されている。
偶然は、必然の名の元に起きる、
その必然性を隠す為の功名な纏い布に過ぎないのだ。
全ては必然の名の元に。
しかしそうとは気付かない当事者が、
偶然だと見誤るのだ。
「たまたま」を装うから、
信じられない出来事も受け入れる余地を残すのであって。
いや、それが「必然」だと信じないから
「偶然」だと思われているだけなのかもしれない。

何故ならこの宇宙における「存在そのもの全て」が、
「必然」だからだと思うからだ。
「起こるべくして起こる」のは、
その必要性があるからだ。
「在るべくして在る」のは、
その必要性が、役割があるからだ。
ただ在るだけではない。
「偶然」生まれたのではない。
必要があるから生まれるのだ。
ただ存在するだけなのに、
どうしてこの世界にはこんなに秩序がある。
多分に、そこには「意志」が働いているからだ。
「存在すること」に「意志」が働いているからだ。
向かう先が、あるから。
この世界や宇宙における全てには、向かう先があるから。
全ての存在が必然のもとに生まれるのだ。
偶然ではなくこれは必然だ。
向かう先が何かなどは知らないが。
何かに向かっているのだろうと思う。
そしてその「向かう先」が何であるかを科学者達が論じているのも又、
何かに向かうための「必然」なのかもしれない。

しかし「必然」というのはなかなか乙なものだ。
運命が決定されているみたいで嫌いだ、と言う人もいるかもしれないが、
私は結構好きだ。
たとえば偶然旧友に会うとする。
しかしその友人がその後の人生に大きく関わってきたことになるとする。
「あのときたまたま会ってなかったら今の自分は無かったろう・・」と、偶然に驚嘆するとする。
しかしそれは起こるべくして起こった必然で、会うべくして会った必然だったと考えたら。
なんだかいろいろな偶然に意味が見出せそうで素適ではないだろうか。
「偶然」と聞くとあまり役割を成さない意味のないもののように聞こえるけれど、
「必然」と聞くと大きな役割を成す意味のあるものに聞こえるのだ。
意味のあるもので満ちている日常が、必然で満ちている日常が、なんだかとても面白く思えるのだ。
「たまたま」だと後の気持ちに残らないが、「起こるべくして」と考えると後々まで感慨深い。
ただそれが言いたかっただけなのだ。
「必然」の方が、なんだかロマンに溢れているよと。

2003年01月13日(月)

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■ 誇り

カッコ悪くても誇れる自分というのがいて。
カッコ良さげでも誇れない自分というのもいる。
自分でこんなこというのもかなりキてるとは思うのだけど。

要するに、自己満足の世界なんだけど。
自分に対して最終的に決定を下すのは、いつも『自分』しかいないと思っているから。
自己満足でオケオケ。

端から見ててどんなにカッコ悪く見えても。
みっともなくても。余裕が無くても。
誇れる自分であれるのなら、それでいい。

でも逆に端から見ててカッコ良さげに見えても。
賛美の声や、羨望の眼差しがあっても。
誇れない自分であったなら、意味が無いのだ。

『許せる自分』てどんな自分?
『許せない自分』てどんな自分?

自分にその決定を下せるのはやっぱり自分しかいないと思ってる。
『許せない自分』にいくら周りが『それでいいんだよ』っていったって納得できないのと同じだ。

『誇れる自分』てどんな自分?
『誇れない自分』てどんな自分?

自分という存在を肯定して、それに背かずに行動した時にしか、『誇れる自分』というのは存在しないと私は思う。
自分に背いたら、それはもう既に自分じゃないんだ。
自分じゃない存在にどれだけ周りが賛美をしても、それは『自分』にとって何の価値も無いんだ。
それって誇れない。とてもじゃないけど誇れない。

『誇り』って大切だと思う。
ともすれば慢心に傾いてしまうから難しいと人は云うけれど、
本当は、もっと全然違うものじゃないかって思うんだ。
だってそれって、アイデンティティの最高の肯定。最上格で認めているって事でしょう。
誇りって美しい。
誇りを持って生きるって、美しいと私は思う。
最上の自分の美学に適った生き方を通している感じ。

誇りを持って生きていけるようになりたい。
必要以上にへりくだったり、低めるのは好きじゃない。
そんなのは無意味だと判ったから。
ただいるのは在りのままの自分。
器とか視野とか、そんなのも含めて全部。
その在りのままの自分に、誇りを持って生きていけるようになりたい。
そう、思う。

2003年01月02日(木)

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■ 悪夢

厭な夢を見るんだ。
そう、厭な夢。
『怖い』んじゃなくて『厭な』夢。
起こって欲しくない最大級のことが夢の中で起こってる。
私はその事態に途中までは対処できるんだ。
できるんだけど途中から、どうにも対処できなくなって
私は叫んで逃げ出したい衝動に駆られるんだ。

「モウイヤダ コンナノイヤダ」

って。
そしたら私は逃げ出せているんだ。だって夢だものね。
私はそうして起きているんだ。
そして思う。
何か、厭なものを見ていた。と。
思い出したくても思い出せない。
でも、絶対に起きて欲しくない事が起きていた、と。
そして、ああよかった、と。
『今』起きているコッチが現実でよかった、と。
アッチではたまったものではない、と。
そうして胸を撫で下ろすのだ。

でも。


悪夢っていうのは、何の為?


『今』の良さを判らせる為?
警告を示してくれる為?
今のままではいけないよって?

それとも・・・
最悪の事態が起きるのを予測して
それに備える為?
慣れさせて、ショックを和らげる為?
これって結構合理的?

でも。
もしそうだったとしたら。
私は目を逸らしてはいけなかった。
夢の中で、目を開いていなければいけなかった。
『眠る』という行為自体無意識の影響下にあるのだから、
無意識的に目を逸らす―要するに、目を覚ます―事を意識的に
妨害するというのは、かなり難しいんじゃないかと思うのだけれど、というか『意識』が働いた時点でもう半覚醒から覚醒に移行しつつあって、本当の意味で『夢の中で目を開く』という事が出来るのかどうか疑問なのだけれど、
やっぱり、どういう状況のショックだったのかくらいは、起きた時に思い出せるくらい目に焼き付けておきたいと、
覚醒状態にある今は思うのだ。

だって。
悪夢から目を逸らしてばっかりっていうのは。
すぐに起きちゃうっていうのは。
なんだか厭だ。
まるで、今までも私はそうやって、厭な事から目を逸らしてばかりだったと。
自分で自分に再確認しつづけているみたいで。
そんな自分が厭だと思うからだ。


夢の中にあるような「最悪の事態」。
その事態は私の夢の中ではアタリマエで。
その事態ってのも何パターンもあって、毎回違ってて。
逃げられないその事態を回避する術を私はその夢の中で知らなくて。
「そういう事態」をありのまま私は受け止めるのだ。
その夢の中では、私はずっと、そういう日常で。
まるでその悪夢を受けるのを、「決まっていた」かのように捉えている私がいるのだ。
夢の中では、「絶対起こって欲しくない事」がアタリマエのように起こる。
私は完全に夢に呑まれてしまうのだ。それがアタリマエだと思えば思うほど。
そんな日常ありはしないのに。
だから、はっと目が覚めた時思う。
ココは何処だ?と。
私にとって本当の現実である筈の日常世界が、私にとっての非日常に置き換わる瞬間だ。
その本当の日常世界は、私の夢の中とは比べものにならないほど平和で。
信じられないほど平和で。
つい今し方まで命の危機を感じていた――そしてそれがアタリマエだった――夢の中とは差が激しすぎて、逆に戸惑うほど。
そしてその戸惑いと同時に私は忘れてしまうのだ。
『どういう』最悪の事態に瀕していたのだろうか、という事に。
詳細な悪夢についての記憶がすべて吹っ飛んで、残るのは安心感と不安感。
『ああよかった、私はコッチの世界で生きていて、本当によかった・・・』
というのと
『私は何に対してこんな厭な気持ちを抱いていたのか、もう思い出せない。・・・・忘れてしまって、本当によかったんだろうか。』
という不安感。
忘れてはいけない危機。
目を逸らしてはいけない危機。
そういうものから一歩飛びのいてしまって、次、どう対処したらよいのか判らないような、そんな不安感。
こんな不安感ばかり残されても。



――ねえ悪夢って何の為?


や、別に初夢が悪夢だったワケぢゃないですよ(汗)これから見るし・・でも新年早々縁起悪いな自分



2003年01月01日(水)
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