脳内世界
柳

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます

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■ 選んだものが廻ってくる。

「好きでこんなとこに生まれたわけじゃない」
とか
「あの子には何の罪もないのにあんな不幸な境遇に生まれて」
とか。
生まれてくるのには全く選択権が無いような言い方がされているのを聞く。よく聞く。

だが、そうだろうか。

本当に私達は自分の生まれ先を自分で選んでないのだろうか?

生まれる前なんてはっきり云って覚えてない。
ましてや自分の出生先を選択する、などと。
だが、私達は覚えてないのだ。
知らないのだ。
知らないのに、言い切れるんだろうか?

大人になると全く覚えてないと思うが、
3,4歳くらいの小さな子供の中には「生まれる前を覚えてる」と言う子もいるらしい。
その「生まれる前」の環境の表現は様々だが、「あそこに行こうと思った」とか「ドアを選んでいった」とか云ってた子もいるという話だ。
そんなのは子供の想像力が織り上げる作り話ダロ、って笑う大人もいるだろう。そこまで行かなくとも、懐疑的な見方をするのが普通だ。
だが、「無いもの」より「何かしら在るもの」の方に耳を傾ける方が少なくとも何かを掴めるきっかけにはなる。
火のない処に煙は立たぬ。ってちょっと違う??

だがそういう証言(?)がある限り、「あながち・・・」という見方もあると思うのだ。

思えば私達は常に選択をしている。
そして私達は何者にも属さない。
そして何者も自分のものには成り得ない。
自分のものは、生まれてから死ぬまで、いや、もしかしたら生まれる前や死んだ後も、自分のものなのだ、と思う。
「自分」は「自分」にのみ属している。
それ以上でもそれ以下でもない。
そして自分が自分のものである以上、自分の選択した行為はすべて自分に廻ってくる。
自分に廻ってきたこの出来事は、いつか自分がどこかで選択した出来事の結果なのだ。と、思う。
それが意識的にしろ無意識的にしろ。

自分の選択した事、というのにも、二種類あると思う。
実際に行動に移して選択した(例えば「車で出かけた」とか「何が起こるのか判らないボタンを押した」とか)場合と、
頭の中だけで意識の方向を変えた場合(例えば「自分はこうなるような気がする」とか「何か事故に遭いそうな気がする」)だ。
後者の方は第六感と言った方がいいのかもしれないが。
でも、そういう出来事を「感じる」というのは、「自分の潜在意識の中でその出来事を決定付ける」という事だろう。何かしらの確信を持つという事だ。
潜在意識には「流れ」があると思う。
自分の「潜在意識的に」思っている流れの方向に、ものは流れていくような気がするのだ。
だからやっぱり「自分の選択した事」というのは、その流れによって巡り巡ってくるものがあると思う。
言葉の使い方が下手な上に無駄に多いし、云ってる事が二転三転するので判りにくいが。

「選択」したものには「結果」が待ち受けている。
そしてそれはすべて自分にのみ属するものだ。
私達が日々「選択」する出来事や意識は、
何らかの相応しい、あるべき形ですべて自分に廻ってくる。
悪い事をやったから悪い事が廻ってくるとか、
良い事をしてやったから良い事が廻ってくるとか、
そんな極端なことを云ってるんじゃない。
自分の選択した些細な行為・意識一つ一つが、また自分に何らかの形で還元されるのだ。




還元されたものに気付いた時は、ちゃんと受け止められるといい。





でもこれは今の自分が、ここに居てよかったと思うからこんな平和ボケしたお目出度い甘ったれた無知な言葉が吐けるのかも(駄目だ・・自分で云ってて落ち込んできた)しれないし、これから先物凄く困難な状況に立たされた時何かに後悔するかもしれない。
そして色んな人に刺されそうな危険な言葉かもしれない。
が、刺されるほど沢山の人は読んじゃいないだろう・・、もしくは読み流しだ。


でも今掴んでいる(と思っている)確信はこれだった。





選んでたよ私達は。
きっと何処かで選んでた。



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いつもいつも(根拠なしの)確信や観念のみで話を進めているので、主張していることがひどく薄っぺらな感じな気がするからなるべく根拠のしっかりした、事実に基づいた事を言いたいと思うのに、脳が足りない。こんなんじゃまともなエッセイ書けないわけだな。趣味で勝手にやるぶんにはいいんだが、試験で小論とかだと駄目だ・・・。



2003年02月28日(金)

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■ 存在への問いかけ

人々が問い掛けた先には、
いつも答えが待っていた。
試すように、待ち構えていた。
そしてステップを上らせるのだ。
「永遠の問い」という名の階段の。


問いかけには、受け答えがあった。
それは一種関数的で、
ある存在に対してもう一方の存在が必然的に在る様に似ている。
私達は常に問う。問い続ける。
それは素朴な疑問であり、究極の問いでもある。
自分達の存在についての問い。

私達は存在している。
この宇宙に存在している。
そして私達は問うことをやめられなかった。
「なぜ」私達が在るのかという事を。

そんな問いを持てる私達が在る理由は?
私達は何故己の存在を問うのだ。
「在れ」ばそれでいいと見過ごせないこの衝動は。

くだらないとせせら笑う人も居る。
もっと他の建設的な事を考えろと呆れ返る人も居る。
でも問うという衝動が抑えられない人も居る。

それには多分理由がある。
「問う」という衝動が存在するのには理由がある。
「問われる先」が存在するからだ。

存在には理由があると思っている。
無いと存在出来ないのだ、などと高圧的な事を云っているのではない。理由があるのは必然なのだ、その存在が気付こうが気付かまいが。
私は、そう思っている。
何の根拠もあげられない、非常に心もとない主張だが、それでもある種の「確信」を思わずにはいられない。

そう考えると、問う事もあながち意味のある事なのではないかと思えてくる。


問われる先まで辿り着きたい。
輪廻転生が利くのなら、記憶がすべて無くなっていてもいい、私は必ず「問い」を思い出す。いや、思い付く。
そして問われる先へ辿り着くまで何度でも転生しなおす。
なんて貪欲で単純なのだと見下しても構わない、
それでも私はこの確信を失くさない。


今はまだ身体の中のちっぽけな筋細胞ほどの存在だとしても、ずっと転生を繰り返していれば、外を見回す眼球くらいにはなれるだろう。もしくは、その情報を処理し考える脳だ。
意識体を持つ身体そのものには、なれないかもしれないが。

2003年02月19日(水)

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■ 「はだかの王様」 考

18世紀オーストリアの首相、リエトバーグという人物は、男ながらに女よりもオシャレ好きで、1日に30回も服を着替えていたという。
おそらく服の数やそれにかける金もハンパじゃなかったろう。
いやはや民衆が貧しくて苦しい思いをしているというのに、贅沢三昧・・・

この話を見ていると、アンデルセンの童話「はだかの王様」を思い出す。
たしかあの王様もオサレが大好きで、「よし!今日はこの服にしよう!」とか云ってオサレ三昧の生活を送っていたのではなかったか?
んでもって実はイカサマ服飾屋の二人に「トクベツな服」だかなんだかを作らせたんではなかったか。
イカサマ服飾屋が作った(と演じていた)服は実は何もなくて、でもその服のうそっぱちの素晴らしさを語った上に「これが見えない方は見る目がない」みたいな事を云って、明らかに見えないのにそれを悟られたくない大臣たちも「うむ、これは素晴らしいですな!」などと云っていたんだっけ。

浅はかな見栄が滑稽に皮肉られている風刺物ですな。そら泥棒も笑う罠。
しかしそれ以上に思ったのは・・・
オサレに金を湯水のようにかける王様。
いやはや実にファッションにこだわりがあったのでしょうな。
そんなにファッションに拘るんだったらいっそ何も着ないファッションでもして笑われちまえ!
・・みたいなものが、あるような。
うーん、でも「裸っていいじゃないか!」とか民衆の人達が云ってジブンの服を脱いでお祭り騒ぎしだした、みたいなエンディングを聞いたことがあったから、あの話はそこまで皮肉ってたわけじゃないのかな・・・いや、むしろ逆か?
服にアホなくらい金かけてお澄まししてるくらいだったら、いっそのこと服着ない方が気もラクでいいじゃないか!みんな着なけりゃ関係ないさ!
=もちょっとラフに人生いこうよ
・・や、ここまでええかげんじゃないか。
しかもやたらポジティブシンキングで気持ち悪い。


・・・でも、アンデルセンにはやたらファッションに金かける貴族や金持ちがアホに見えていたんではなかろうか。
私だったらそういう意図で話を書くが。


・・童話、ちょっと自分なりに見方を変えてまた読み直してみるといいかも。

2003年02月18日(火)

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■ ワレワレハ地球人ダ

交通技術や通信技術のめざましい発達によって、
この地球上においての時間的距離の概念が驚くほど短縮させられてきた。
インターネットなど、間に距離を感じさせないが如くだ。
(大袈裟な表現だが)たとえ地球の反対にいる人間にメールを送っても、瞬時に届いてしまうのだ。
世界中の異なる地域に住んでいる何カ国もの人と、同時にチャットでお喋り出来るのだ。さながら隣にいる者に語り掛けるかのように。

距離の境界線が、事実上ほとんど無くなった。

そしてどうだろう、もし自在に皆が使えるような言語翻訳機が出来たら。
たとえ全く言語の分からない人とでも、自在に意思疎通が図れるのだ。それこそ首狩族の方達とまともな話し合いが出来るかもしれない。アイルランドの方達の不条理さに満ちた不思議な会話を堪能できるかもしれない。
そりゃ文化は違うから価値観を共有出来るとは限らないけれど、とりあえず普通に会話が出来るのである。


言葉の境界線が、無くなる。



・・・そうやって技術が発達するにつれて、地域と地域、国と国との「境界線」や「仕切り」が無くなっていく。

すると、区切りなんてどうでもよくなってきそうな気がするのだ。
勿論国ごと、地域ごとの固有の文化は生きたままだ。
生きたままだが、周りの状況が分かるようになってくると、周りを意識の中で遮断する必要が無くなってくるように思うのだ。
そんな意識が出来て初めて、「私たちはこの地球に同じように生きている人間なんだ」と思えるようになるのではないかと思うのだ。

私達は本当の意味で、「地球人」ではないような気がする。
「地球人」であるという自覚は、あるんだろうか。
この星に共に生きているという自覚は、あるんだろうか。
いやむしろ自覚してないからこそ本当の「地球人」なのか。
それとも他の星の住人が存在すると知って初めて、「地球人」である事を実感するのだろうか。

共に地球の上に生きているということ。
地球人であるということ。
地球人としてのアイデンティティ。

地球に生きていながら最も大切なことを私達は、
気付いていないような気がする。


―――何故「気がする」かというと、
私自身、気付いていないと思うからだ。



―――ワレワレハ地球人ダ!!






――また電波なものを・・・



2003年02月16日(日)

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■ オリジナルでいこう

「「自分」の手段で成功する事ほど誇らしい事はない」と思うのだ。

人と自分を比べると、はっきりいってキリが無い。
上にはいくらでも居るだろうし、逆もまた然りなのだ。
自分の価値観で他人と自分を比べていちいち落ち込んだり、つまらない優越感を抱いたり、・・・・こういうのは大抵、度が過ぎると、それだけで終わってしまうのだ。

確かに、自分と他人を比較することはある意味では大切だと思う。何故なら、その事によって人は自らをより高めようと思ったりするからである。比較によってプラスに働く事だって、多いに有り得るし、それは結構な事であると思う。

だが、それだけでいい。それまででいい。人と自分を比べるのは。
極めて主観的な価値観に基づく無限の比較は、比較以上のものにも、それ以下のものにも成り得ない。そしてそれは、時間の無駄である。
比較は何の為にするか。
自分を鼓舞する為でいいではないか。
他人の優れた能力に触発されて自分も高められるのなら、比較すればいい。
が、比較によっていちいち一喜一憂するのは間違っているような気がするのだ。

人と自分は違うのだ。
違うものを、同じ物差しで測って見たって。
ましてや、その長さの違いに一喜一憂するなど。

違う存在であるならば、相手がどんなに自分より優れているように見えても、卑屈になる事などないのだ。
何を落ち込む必要がある。
相手は、自分自身をよく知っていただけの事なのだ。
相手は、相手の方法なりに、成功しているだけなのだ。
自分だって、「自分の方法」や、「自分の成功」というものがあるはずだ。
その「自分の方法」で自分の「成功」を勝ち取れば、それは何より誇らしい事なのだ。
その時には

「これは私のオリジナルです」

と堂々と胸を張れる事だろう。

その時には、もはや他人と自分を比較して卑屈になる事など無いだろう。


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・・・自分に言い聞かせてるみたいでちょっと情けない文だな(笑)



2003年02月15日(土)

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■ 素朴な疑問


ずっと疑問だったのだけれど。
・・・sometimesってほんとは50%くらいの頻度を表す副詞の筈なのに、なんで訳が「ときどき」なんだ?
50%って日本語じゃあ「ときどき」なのか?
一ヶ月の半分はあるような時って、「ときどき」って言うのか?
「海外旅行ってよく行く?」
「ときどきね〜」
・・この場合の「ときどき」って、年に十回も行かないようなニュアンス含んでないか?たまに、って感じしないか?
"Do you often travel abroad?"
"Well,sometimes."
これだと確かにsomeなtimesなんだから結構(年に半分くらいの頻度くらいは)行ってそうな感じがするんだが。え、しないって?私の感覚がおかしいんだろうか。
「ときどき」。お馴染みの辞書(三省堂の第3版)で調べてみた。

ときどき[時時]その時その時。「―の風次第で」
� 壁�)そうしょっちゅうではないが、ある程度間隔を置いて何かを繰り返しする様子。「―見回ってくれ」
�△修Δい�状態が皆無ではなく、ある程度は見られることを表わす。「だれだって失敗は―は〔=いつかは〕するさ」

なるほど。
この場合のsometimesはどうやら�,諒�の意味を云っていたようだ。
だがどうだろう・・。コトバのニュアンスや、人々のコトバの受け取り方というのは日々変わってきていると思うのだ。
だって、「ときどき」って聞いてすぐに�,諒�の意味を思い浮かべる人は10人中10人も今、居ないと思うんだが。
初めて日本でsometimesの訳をした時は、「ときどき」が50%くらいで全く違和感無かったのかもしれないが、・・。少なくとも私は「ときどき」という言葉とsometimesはあんましイコールにならない。

ずっと思ってた素朴な疑問、感じてた微かな矛盾。
でもこれって私がおかしいだけ??
そう思うから未だに人に云ったことない、素朴な疑問。

2003年02月14日(金)

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人間(ひと)が人間(ひと)でなくなる直前に叫ばれる最期の人間(ひと)としての叫びは、なんと悲壮で痛ましいものであることか!

2003年02月12日(水)

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■ 戦争

今日の若者や学生の精神における低年齢化や学力低下を改善したくば、大東亜共栄圏を作ろうとしていた当時の様な戦争に巻き込み学問・思想を弾圧するのが最も手っ取り早い方法なのかもしれない。人は弾圧・抑制・制限されると何故か反射的に反発しだすものである。
いや、というよりも今より惨たらしい状況に身を置かれれば何者だって前の、より良かった状況を渇望する事だろう。
そしてまともな人間なれば極限の状態に追い込まれれば追い込まれる程真剣に自己や現状と向き合うようになる。精神的に逃げる者も出るかもしれぬが、それでも「暇だ」などという言葉や余裕は遠き彼方へ消え去るだろう。

―――だが、そこまでせねばならぬのだろうか?
戦争は都合よく加減などはしてくれない。
甚だしく「人道」に反する不合理を合理化させる矛盾を押し付け追いつめ、遂に「人を人でなく」させてしまうのだ。
向き合い考え、批判する思想や精神をも根こそぎ奪い去っていく。
本当の自己を偽らされたまま死んでいく人間だって数多く居た事だろう。
人に生まれておきながら人として死ねぬ事ほど哀しい事は無い。

思考の「麻痺」を免れた少数の者たちは、自己の中で自分としては背かずに「幸福だ」と微笑み死んで逝く場合もあるが、
そんな人間こそこの世から喪ってはいけないものであった筈だ、と切に思う。
本来なら最も日本、この国の発展に貢献できたであろう人材。
そんな人材は、いつの日か日本が平和で、素晴らしく誇らしい国となっている日を夢見て、散華していったのだ。
「悲劇」と片づけるにはあまりに彼らが浮かばれないが、
「栄華」とおだてあげるだけで済ます気には到底なれない。



自分が命を賭して逝ってまで、夢見た後の日本の姿すらも目の当たりに出来なかった人々がいた。

今の日本の有様を見て、彼らは微笑ってくれるのだろうか。



――願わくば戦争などといった悲惨なもの無しに、人が健全に人として全うし得るだけのもので在ることを。


2003年02月11日(火)

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■ フォアグラ

フォアグラはガチョウやアヒルの肝臓を人工的に脂肪のかたまりにしたものらしい。
飼育舎では太いポンプをガチョウたちの口に押し入れて、餌を無理矢理食べさせる。そして肝臓を肥大化させるのだ。
当時ローマ帝国では、鳥小屋を真っ暗にしてガチョウの水掻きを釘で止めて、運動不足にさせてまでより大きな肝臓を求めたらしい。


・・・・エグい。
どうしようもなくエグい。
今まで貧民無知(お.新しい四字熟語ができた)な私は、フォアグラって単に「ガチョウやアヒルの肉食べるついでに肝臓もいただいちゃったら意外に美味しかった!」程度のものくらいの認識しかなかった。そこまでしてるなんて知らなんだ・・。
元々あまり食べたいとは思っていなかったが、今回の話を知って更に食べる気がしなくなってしまった・・・・。
別に私が食べないからといってガチョウやアヒルたちが救われるわけではないが、なんとなく気分的な問題なのだ。

2003年02月10日(月)

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■ 帰路時に考えた事。


この太陽系の中だけで考えた、話。


多分この太陽系の他の惑星に知的生命体は現在いない。
無生物の世界が広がっている事だろう。
この地球も多分そうだった。
この夕焼けは多分、その頃からあまり変わっていない。
この太陽系で、無生物というのは当たり前なんだ、多分。

でも今ここにいる私達は。
道路を見ると車が走っている。
その中には人が乗っている。
私達が歩いている。
自分でなんか考えてる。
家の中には明かりが灯っている。
動いている。

・・・変な星だ。
なんでみんな動いてんの?
これが当たり前とか、変な話だ。

家に帰るとお母さんが洗い物しながら「おかえり」って云う。
動いてるよ、この人も。
電気もついてるよ。

なんだろねえこれは。
「地球真っ盛り」って感じだね。
もしや今が地球の全盛期なのかもしれない。
「環境問題が云々・・」と考えられるのも、
モトとなる環境と、それを考える人間がいるから考えられる、っていう贅沢な話で。
居なくなったら、なんも無いもんね?
今が地球の全盛期か。
すぐ近くの火星には水脈のあった跡があったり、地下に氷が実はあったり、という情報もある。
今は生き物居ない、らしいけれど。
もしかしたら、火星にだって文明のあった時代があったんじゃないか?
そう考えると、もしかしたら「文明の全盛期」って交代制なのかも、とか。考えてしまう。
「前火星だったから、次は地球の番かな」
「よっしゃやったるでえ!」
開花!
みたいな。
ごめんちょっとフザケすぎた。
でもやっぱり何かの「流れ」はあるのかも、と思う。
どの歴史でも栄枯盛衰は存在しているから、
その法則はおそらくその長さに関わらず、存在するもの全てに当てはまるんだろうと思い、それは文明や惑星や宇宙だって例外じゃないのでは、と。
盛りあるものはやがて衰えていくんだろう、と思っている。
それで考えていくと、今は多分地球の「盛」期なんじゃないかと思っている。
衰えるにはまだちょっと早いような気がしている。
衰える時は、色んなものが「尽きる」時のような気がする。
文明としてはアレだ、それを発明する「人」や、モトとなる「資源」や、生きていける「環境」が「尽きた」時だ。
星としての究極はアレだ、中の核融合反応が「尽きた」時だ。


そうやって色々考えると、今地球で色んなものが動いていてもオカシくないのかもしれない、と思えてくる。
今は地球の番だから。
こんなのがあってもオカシくないのかもしれない、と。




・・・でもやっぱり動いてる人やモノって、おっかしーの。
そんでもって、面白い。

2003年02月08日(土)

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■ 言葉

その人にはそれぞれの「言葉」があると思っている。
「言語」があると思っている。
その言語はその人の世界そのものを表しているとも思っている。
だから、単なる知識的問題だけじゃなくて、「何云ってるのかワカンナイ人」というのが居るんだろう、と思う。
同じ国の言葉喋ってるのに「何云ってるのかワカンナイ人」には二種類いる。
一つは、自分でも何云ってるのか判ってない人。
そしてもう一つは、概念や価値観や、持っている世界が余りにも違う人、だ。しかも大抵そういう人は「言葉足らず」か「余計な言葉が多すぎる」人、な気がする。
言葉、というのは難しい。
力のコントロールや采配が、難しい。
そこに「在る」ものと、如何にマッチした言葉が使えるか。
「もの」は別に物でも者でも雰囲気でもいいのだが、とにかく存在するもの全てにおいて、だ。
だがもし、その場をその人の世界がうまく支配できてれば、その人の言葉で表された「もの」は、どんな具合であってもとてもよくマッチしているような気がするのだ。
その人が発する「言葉」は、その人そのもののような気がする。
「言葉」は、雰囲気や感じや、五つの器官全てなどと共に場を支配する。
あの人の言葉、その人の言葉、私の言葉。
素適な言語世界を展開できることを淡く夢見つつ、今日も色んな「言葉」に触れる。

2003年02月07日(金)

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冒険の出来る勇気と愚かさを。

2003年02月06日(木)

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■ 過去の自分発見

過去の自分というのを思いもかけぬ処で発見してそのあまりの言動のマズさに驚愕してしまうといった事は無いだろうか。
たとえば交換日記だ。
私は自分や他人の文章が記されたものをあまり捨てられない性分なので、部屋の整理をしてくると大昔に友人と交わした交換日記なんかが出てきたりする。
そしてついじー、と見てしまうのもイタい癖である。
そこで衝撃を受ける。
何に、か。
自分の書いたことのマズさに、である。
「な、何でお前はそんなに偉そうなんだ、し、しかもなんて図々しいんだ?!」
一体何様なのかと思ってしまう言葉その他もろもろ、今見返すと目もあてられぬ痴態(というか、マズい)ぶりがありありと見て取れるのである。
ぱたりと表紙を閉じて思った。
こんな人間と交換日記してた相手のMちゃんは、私のことホントに何とも思ってなかったんだろーか・・。
閉口辟易して当然な気がするのに、日記を見てみても相手の受け答えはしごく普通である。まるでそう在るのが当然であるかのように。
当然なのか。
これは当然の私だったのか。
衝撃の度合いがまた一つ増えた。

当時としては自分は自分として自然に振る舞っていたつもりだったろうから、確かに意図的になんか悪い印象を与えた、なんて覚えは微塵もない。
だがイタくマズい人間というのは自分の言動のマズさには通常気がつかないものである。
当時の私がそのいい例なんだろう、多分。
というか、今もか。

当時の私に当時の友達はおそらく私に違和感なんて感じていなかったに違いない(日記から察するに)。それに確かに当時は普通に接していたような気がしたからだ。
し、しかし交換日記や手紙を見るにつけ当時の自分て・・。
と、凹む。
私は日常生活や学校でもやっぱりあのくらいの偉そげさだったんだろうか、あのくらいの図々しさだったんだろうかと考えるとちょっと頭が痛くなってくる。
そして気付いていなかったんだろう、当時の自分。

ということは今はどうか。
今私が自然に私なりに振る舞っているつもりでもその言動がイタいという事は充分にありうる。つーかこんなことマジで考えてる時点で既にヤヴァイのか。
未来の自分のみぞ知る、である。
むしろ未来の自分は内面よりも当時(今の)外面を見て衝撃を受けるのかもしれない・・・それも進歩してればの話か。

成長するって、難しい。
というか自分とちゃんと向き合うのが、意外と難しい。
衝撃に誤魔化されてちゃんと向き合うことを忘れなければいいのだが・・・。

2003年02月05日(水)

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■ 「荷物」

同級生で混雑するホームで、少女は電車を待っていた。
皆行く場所は同じだった。課外研修か何かだった。
荷物が少し大きくて重い。人も沢山いるし、この分だと車内で窮屈な思いをするであろう事は必至だった。
「座れるかな・・」
呟いて荷物を持ち直していると、ほどなくして電車がやってきた。
中に入ってしばし絶句。こんな細長い電車があっただろうか?
一席ずつが、二列。しかも通路が航空機より狭い。
「わ、ちょっと・・」
ぎゅうぎゅうと人の波に押されて、どこかで手から荷物が離れてしまった。
「あ・・!」
思わず首を伸ばし見やって、場所を確認してから観念してそのまま流されて後ろの席になんとか座った。
(降りる時に一緒に取って降りれば大丈夫だよね)
そう思い、のんびりと外を眺めているとやがて目的の駅に着いた。
友人が降りる中、目的の荷物を探しつつ車内を進んでいく。
(・・私の荷物は・・・、)
きょろきょろしながら探すが、
見つからない。
確認した場所にも無かった。
(え、やだ、なんで?!)
そうこうしている内にもどんどん人は外に流れていく。
だが見つからない内に降りるわけにはいかなかった。
早く見付けないと閉まってしまう、早く、早く・・。
少女の焦燥感は募るばかりだった。
ありそうなところにざっと目を通して早足で車内を歩くのに見つからない。
(どうしよう・・、荷物がないと・・)
少女は観念して溜息を吐いた。
(仕方ないや。駅一つ先送りして、その間にまた探そう。)
次の駅で降りるまでに荷物を見付けようと決めた少女は、少し余裕の出来た気持ちで車内を歩きながら見回していた。
扉は既に閉まっており、もう誰も乗っていない。
そのせいか随分見渡し易い。車内がやけに白かった事に気付いた。
そこで次の駅のアナウンスが聞こえた。



「え〜次は終点死人駅〜、死人駅〜。乗り越しをされるお客様は、車掌が命を戴きにぃー、参ります。」


電車は一両だった。
車窓がトンネルに黒く塗り潰された。
荷物なんて少女の頭からは吹き飛んでいた。


**************
ただこれに近い夢を見て、想像が膨らんだだけです。

2003年02月04日(火)

■■■
■■
■ 「ひとり」

ひとりになりたい、とふと思った子供が。
ひとりになりたくて、ぽそりと呟いてみた。
「ひとりになりたい」
そしてじぃと俯いたまましばらく黙ってみた。
実は子供の周りはともだちがきゃあきゃあと遊んでいて、
とてもうるさかったのだった。
子供はちらりとともだちを見ながら、また呟いてみた。
「ひとりになりたいんだ、ってば。」
ともだちはきゃあきゃあと他の子と遊んでいる。
その声がやたらと耳に障った。
子供はやおら立ち上がると、外へと駆け出していった。
ひとりになりたかった。
本当のひとりになりたかった。
こんなひとりは厭だった。

息をきらせて草がいっぱい茂っているところまで来た。
ねころんでみた。
静かに横を向いてみた。
そこはいつまでもいつまでも緑だった。
草は濡れていて、服も顔も手も余計に冷たくなった。



ひとりだった。
どうしようもなく、ひとりだった。



2003年02月03日(月)

■■■
■■
■ 「未知」という可能性

「未知」があるという事は、恐怖であると同時に希望でもあると思うのだ。
むしろ希望の方にばかり目を向けてしまうのは、私がお目出度い奴だからであろうか。

「未知」があるとはどういう事か?
私達の、まだ知らない事があるという事だ。
知らない域が世界がある。
知らない世界は、私達にとっては空白の世界だ。
もしかしたらそんな世界があることすら判らないかもしれない。
すると、その空いてる部分には手を伸ばす事が可能になる。
思いがけず伸ばした手が、何かを掴む場合だってあるのだ。
それは、「発見」だ。
「発見」は発展する。
要するに「未知」は、空白を掴む「可能性」をもたらしてくれる存在だという事だ。
まだ終わってないのだ、私達の世界は。
まだ道は途切れてないのだ。


「未知」という「道」が存在し続ける限り、私達がこの世界を見限る必要なんて無いのだ。見限らなくていいのだ。まだまだ色んな可能性が広がっている。


どこに続くかなんて全く判らないが、それでもどこかに続いているのだ、この「未知」は。

2003年02月02日(日)

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■■
■ 投込寺

・・今「遊女の生活(中野栄三 著)」という本を読み中なので(かなり興味深いためか楽しく読み進んでいる。次は「忍者の生活」が読みたくてたまらないのだが私の生まれる10年以上前に出された本なんで、あるか心配だ。・・潰れてないよね、出版社)、ちょっと先日今日と遊女関係の話題が続く。

その昔遊女は病などで死ぬと、「投込寺」に葬られたらしい。要するに無縁共同墓地である。寺の門前の埋穴に、弔われるでもなく、ただ遺体を投げ込まれるだけという無情さである。



人間は 穴から出でて 穴に入る
あな恐ろしや 穴の世の中




とは、本にあった句だが、ちょっとこの洒落は笑う気になれない。


2003年02月01日(土)
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