この前の高円寺ALONE「アンテナびんびんNight!」で はじめて宿題がでた。
それは 寺山修司の詩に曲を付けるという事だった。
その詩は
「初恋が忘れられなかったら」 と 「てがみ」 の
ふたつ。
はじめて読む詩だった。
その詩をノートに書き写した。
書き写しながら その詩の情景や言葉が ボールペンに乗り移ってくる感じがした。
ノートに書き移した詩を読んだ。 じっくり眺めた。 その情景に入っていける気がした。
確かに何か聴こえて来るものがあった。
もともとある詩に,曲を付け唄を唄う。 自分にとっては初の試みだった。
普段、曲を作る時も詩が最後まで出来ていて 後で曲を付けるということはやったことが 無いと言うか出来た事がない。
詩が先行の時も途中まで詩が出来ていて あとはギター弾きながら同時進行で 創っているので、結果、細かいところで メロディーに乗らないとか このメロディーに、この詩はちょっと違うとか 見えない制約をいつのまにか創っている時がある。
だが、今回 寺山修司のふたつの詩に 曲を付けるにあたって
Aメロ Bメロ サビ
そんなのは全く意味をなさない。
そんなのに全くとらわれず その詩から感じる言葉を 感じたままを唄う。 その詩の世界、そこで自分が見たものを唄う。
今回のふたつの詩
読めば読む程、何か 押し寄せて来るものがあった。
普段、自分が途中まで詩が出来ていて あとはギター弾きながらの同時進行で やっていたのは
自分の詩に対する、最終的な結末を 音楽に託されている部分が多々あり 音楽から導かれているものであり 音楽で締めくくられるものであり
詩だけで結末を迎える「詩」というものには 言葉の節々が 音楽で締めくくられる詩とはまるで違う。
というか そういう考えでいる自分が今、とても嫌なのである。
「アンテナびんびんNight!」の唄い文句ではないが 「詩に答えなどあってたまるか!」なのである。
そして その寺山修司の詩を何回も読んだ。 頭の中ではもう、唄が聴こえていた。 それをそのまま唄え! 今だ!。とおもった。
ギター握り、弦をはじいた。
一行一行から観えて来る 情景、感情をびんびんに感じながら 無心に身を任せ、体を解き放った。
今までの自分からでは 決して出来ない、唄が あっという間に産まれた。
なんとも言えない感覚だった。
寺山修司とセックスしたような気分だった。
今はうまく言えないが 自分にとって、詩を書き、唄うと言う事に 何かとても大切なものを 今回の宿題で教えてもらったような気がする。
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