体育の授業はもちろん男女別々なので隣のタケダのクラスと合同でした。だいたい冬はどこの学校でも持久走をやると思うのですが、うちの学校は確か秋にマラソン大会があって3学期に1,2年だけ駅伝大会がありました。そういえば2年のマラソン大会の様子を書いていなかったのを思い出しました。
中学の頃はバスケ部で毎日運動していたわりに上達もせずにただ「好き」というだけで続けていたのですが、どうも私は運動のセンスは無いようですね。うう〜。 それでも体育で私が唯一点数の取れるのが持久走でした。中学3年の時でしたか、秋の体育祭で全員リレーがあったのですが、走る順番がクラスで中間あたりだったのですが、それまでわがクラスはトップを快走。それが私の順番でみるみる追いつかれてしまって結局真ん中に一人速い走者を置いておいたそのクラスの作戦勝ち。この時はさすがに自分自身が不甲斐なくて拳を握り締めたもんです(笑)。結局うちのクラスは総合でも僅差の2位でそのクラスに負けました。
全国的に体育祭が秋でマラソン大会が冬にあるという幸運(?)には感謝しなければいけません。
マラソン大会に向けて私が自分に課した命令、「とりあえずひとつでも上」。 いわゆるリベンジってやつ。 今ではあれくらいなりふり構わず頑張ることなど出来ません。まあとりあえず異性の目を気にしない純真な性格だったのも幸いしたか?(笑)。 結果は「負けたのがコイツらなら仕方が無い」というメンツにしか負けていなかったので納得するしかなかったのですが、とりあえずクラスでは最初にゴールしたので良しとしました。(だって高校で国体クラスに平気で出ちゃうヤツとか陸上部長距離班のエースとかそんなのばっかりいるんだもんよ〜)
話が長くなるので高校2年のマラソンその他はまた明日 ↑書ければね ...(^^;;
高校生にしては破格の収入で念願のパソコンをゲットしたタケダは冬休みの頃はもう居酒屋バイトから足を洗って、落ち着き先である祖父母の家に住み込んでいて、私も自転車で通ったものでした。学校を基点にすると北へ向って7キロほど先が私の家で23分(最速記録/笑)。タケダの家はそこからさらに北へ向って6キロほど行ったペケペケ大学の近くにありました。 冬になると北風が強い。特にここはいちおう田舎といっても関東平野の一角なので風通しが良い。なので日中の下校時やタケダの家に遊びに行く時はそれこそ鬼の形相で向かい風の中ペダルを漕いだものでした。ブツブツと呪いの文句を風になびかせながら。
海くんは学校の近くにある百貨店で正月限定バイト。どうも栗きんとんの販売をしたらしい。って校内随一の秀才が受験を控えてそんなことしていていいのか??(笑) まあそれを言うならタケダもしかりで、本人は否定していたのだが、どうも部のM先輩に気に入られたらしくよく連絡を取っているようでした。冬服の制服でも分かるくらいとっても胸のふくよかな人で名前の通りMカップ?? お尻も大きいし正にタケダ好みだ(笑)。
相変わらず周囲の色恋には無関心でしたし、自分のそれは遅々として進まなくても焦ったりする発想もなく時間だけは刻々と過ぎていきました。
恋愛に「甘さ」を求めることもなく
色々と思い悩んで、世間一般に人間が感じる感覚を「既成概念」として嫌うようになり、どうも素直に物事を捉えられなくなっていた2年生の寒い時期。この時に培った「周囲の無思考な動向に迎合しない」といった感覚にはしばらくの間支配され続けることになります。今現在の方が、いちおー流行や大衆に支持されている商品とかに目が向くようになりましたね。要はめんどくさがり〜になっただけか??(笑)
3学期になり3年生はほとんど学校に来なくなり、杏さんとも会わない日々が多くなりました。そんな中でも私の気持ちは「チケット渡すべきか否か?」といった話題で持ちきり(笑)。 何月かは忘れましたが久々に杏さんの姿を見たのが曇天で今にも雪が舞い降りそうな寒い日のことでした。学食方面の外廊下から右に曲がれば教室のある校舎で左に曲がると生物室や図書室のある特別棟になるのですが、私は教室棟から特別棟に向って歩いていました。それでふと学食方面を見やると向こう側から杏さんが何人かの仲間と一緒に歩いてきました。
私の持つ彼女のイメージが変わってしまったのがこの日です。当時の日記にそれを記した記憶があります。それほどに杏さんの表情が硬く、押し殺していたであろうその内面が、何も知らなかった当時の私に不気味な彼女の影を思わせました。
彼女の体を襲っていたその病が深刻なことを知ったのはずっと後のことでした。
| 2002年07月28日(日) |
_/_/_/_/ 迷い _/_/_/_/ |
この日記を書き始めたときから感じていたこと。
自分自身のエピソードをこういった場で書いていくことには何の問題もないのです。しかし人間というのは望んでも一人で生きていくことなど出来ない生物であります。特に私の場合、周囲の人間の感じ方や体験を見聞して自分の考察をまとめ上げていった経験の方がはるかに多く、この日記で私の過去を振り返るに当たり、そういった私に影響を及ぼした人々のプライベートに触れなくては説明しきれないシーンというのが多すぎるのです。それは自分が周囲の人間の体験に溺れてしまって自身は全く動かなくなってしまったということと同義かもしれません。
もちろんその瞬間の全てを回想できるわけではないしそんな記憶力もありません。こうして年端を経た現在でも笑っては見過ごせそうもない苦い思い出もあります。こういった記憶を私事で、こういった公の目に留まる場に吹聴のごとく記しても良いのか迷っています。
ただ言えるのは、今現在付き合いのある友人たちはもちろんのこと、ここに記していく人間のすべてを私はきらいにはなれない、ということだ。今はその生命の有無も知らないその人々が、過去の私に見せてくれたあの笑顔の瞬間を、この先の未来でもどこかで発揮されていることを切に願っています。
最近更新が滞って申し訳ありません。仕事が忙しいのはこの不況の時には喜ばしい限りなのですが、それが続きすぎると体重の少ない自分にはまず体力が削がれてしまいます。言い訳なんですけどね。(^^;;
今後も頑張って更新していくので楽しみにしていてね。
家族に対して呆れることは多々ありましたが、それを口にして改善を迫るような気概など持ち合わせていない私は、「血縁」に対する興味というものが全く無くなってしまいました。家族というのはむしろ私にとって敵対関係とは言わなくても、反面教師な面しか見えてこなかったのです。
子供の頃から多くの時間を近くで過ごすのが母であり、父というのは仕事に出ていて家族の一員としてどれだけ子供に認識されるのか、世の中の親は考えてみる必要があるだろう。それは毎日の生活の多忙さを中断させても考えねばならない事柄で、子供にとっては将来の重大事である。家庭は母、仕事は父といった一般的な区切り方に依存して子供を育てるのはもう時代遅れなのである。 ...自分の家庭に満足していないからこう感じていたのではない。むしろ父親の家族に対する不干渉なところは、当時の私にはありがたかった。自分の生活態度や学力の低下、不摂生などの自覚を責めるべき人間だったはずだから...。またそれが逆に家族に対する疎外感になっていって、こうなるともう悪循環の繰り返し。ただひとつ言えるのは、私の家族がその機能を失った原因は多分に私の存在にあったことは否定のしようが無い。
私は子供の頃からことあるごとに母の言葉を口ぐせのように聞いていた。
「お前はお父さんの子だから」
私が持つ父に対する尊敬は全てこの言葉の中にあった。母はさも父をスーパーマンのごとく形容して私の向上心をあおった訳だが、果たしてそれがどのくらい有効だったか? 全てが画餅に帰した今、そして家族の形が変化した現在にならないと分からないことがあるなら、人間はこの先どうすればいい?
「お前はお父さんの子だから」 久しく聞かなくなったこのような言葉をもし私が使う瞬間がこの先にあるのなら、それは確固たる自信に満ちた刹那的でない言葉であるはずだ。 家族など欲しいものか と思っていた自分が現在のように心境が穏やかになったのは、出会ってきた人間の作用はもちろんなのだが、実は自身がそれを望んでいたからだろう。もう後ろを見なくてもいいし、過去の愚を繰り返さない気持ちにもなったから。そして自分の本心を隠さなくてもよくなったからだ。
時間の前後に食い違いがあることはご容赦いただくとして、よいタイミングなので家族について少し話していこうと思います。
私の母方の祖母は私が中学に上がって新居が完成して間もなく同居するようになりました。小学生の頃から近くの公団住宅に別々の部屋を借りて暮らしていたのですが、その頃から私は学校が終わると祖母の家に行ってお使いを頼まれるという生活が続いていました。まあおこづかいが欲しかっただけなんですけどね(笑)。お釣りをごまかして母に怒られたこともあります。 小学校の低学年までは丈夫だった祖母が半分寝たきりになったのは、当時の技術では簡単な手術ではなかった子宮筋腫、まあガンだったわけです。詳しいことは知らないのですが、その手術の際、医師の手際が悪く手術自体は成功したものの関係ない腎臓関係の方まで傷を作ってしまったのです。現在でいわゆる医療ミスってやつですね。 幼かった私には祖母のその変化に悲観を感じるほど多感であったわけでもなく、それでも元気な頃に比べるとだんだん小さくなっていった印象くらいは感じていました。
寝たきりとは言っても体はいたって丈夫なわけです。人為的な傷で腰の両方に尿を直接排出させる袋がぶら下がっている以外は。私がよくおつかいに行っていた頃は祖母自身がきっと参っていて動く気力も無かったのでしょう。もともと女手ひとつで4人の子供を育ててきた人でした。老後は十分な厚生年金がおりる位働いた祖母の印象はひたすらパワフルなものでした。その暗転の心境を周囲のものが実感するのは難しい。
その祖母とまた別居するようなことになってしまったのが高校の頃だったか卒業したあとだったか、正直記憶には無いのです。簡単に言えば私の父が祖母を追い出したのです。このこと以降私は以前よりさらに家族に対して無関心になっていきました。
批判をしないかわりに尊敬もしない。
家族に限らず、それが私にある人間の接し方でした。理屈をどうこねた所で、それが「楽」にむかって逃避している自分の姿であることは否定のしようが無い。
それがどうして「快楽」にむかわなかったのか、自分でもわからない。いや、そんな状況で得る快楽など欲しくなかったからだろうなぁ。
購入したチケットの開催期間が春休みに入ってからなので、なんともまあ気長なものです。丸々4ヶ月ほどの時間でどうして使い道が変わったのかというと、簡単に言えば杏さんには恋人として広く認知されている相手がいたからです。まあその程度の情報でくじける私ではないのですが(笑)、杏さん自身の口から聞いた言葉が私をあきらめさせるには十分なものでした。
「結婚式にはあおちゃんも呼ぶよ」
うーーん どうにもならんな...(^^;;
私の記憶の中で最も魅力的で輝きに満ちていた杏さんがこの時期の姿のままなら、恐らく今ある自分の未来はまた別の顔をしていたのだろう。彼女のことを振り返ると、なぜか私は幼すぎてさらに矮小だった自分というものに気付く。その自分が杏さんの恋愛の危機を察知できるほど敏感ではなかっただけで、彼女をデートに誘って了承を得る、その目的自体は果たせる状況も確かにあったのだ。 3学期に入ってから久々に会った杏さんの表情に以前のような活気が無いことだけは分かっていたが、その理由を知ったのはもうずっと後のことだった。
チケットが4枚というのは、デートとは別の日にもう2枚使う予定でいたからです。これが母に出来る最後の親孝行だという思いを抱きながら。
もちろん女性と2人でどこかに出かけた経験など...無かったはず。いや無かった(笑)。当然のようにこういった発想も私の人生で初めてのこと。不思議と胸の高鳴りなどは憶えていない。というか、そういった気持ちの高ぶりは無かった気もします。 この頃から一貫している自分の持つ理想の女性像があった。「私より頭が良いこと」。この点で言えば私のこれまでの選択はおおむね間違ってはいなかったといえます。ほとんど振り向いてくれませんでしたけどね(笑)。あきらめが早いのも問題なんですが。
とりあえず独りよがりのプランを立てました。まあまずは...映画だな。陸上部のNもそうだったし無難だろう。ただ私の中で「無難」などという言葉が受け入れられるのであればねぇ...。とパラパラとめくっていた情報誌の真ん中あたりに2つ折でイベントの告知広告が折り込まれていた。
今でもなぜか現存するその折込みを見て直感的に「これだ!」と決めた時分の気持ちと杏さんとの近い未来への思いなど、それらの記憶がよみがえっては来ないのが少々寂しい。図らずもそれは別の女性との決別の機会として使われることになるからだ。
予定ではね(笑)。
12月に入り私の後ろ向きな考察も一段落着いたようです。
文芸部室に出入りするようになって次第に私が興味を持っていった女性は「いっちゃん」ではなく別の女性でした。嶋さんに対する依存心とは別物でもあり、あっさりとその存在を忘れたくなるような淡い甘美さもあり、人並みな不安も同居するような、これが久々に抱いた私の「恋」だとすれば、それはそれは...はかなくも短いものでした。
当時の部長は既に代替わりをして私と同じ学年の女性がやっていたのですが、その前の部長が私が興味を抱いたこの女性であり、名前を「杏」さんとでもしておきましょう。 私の印象に残っている当時の杏さんはひたすら元気。冗談とコミカルな仕草で彼女のいる部室は笑いの絶えることがありませんでした。部長という職を退いてもなおこの部の中心に位置するのは杏さんに他ありませんでした。
今日の日記の冒頭には「12月に入り...」などと書きましたが、人間の気持ちが暦の切り替わりで左右できるのならこんな簡単なことはないようです。どうも自分自身や人間の生死に関する疑問やらを思っているのと同時進行で杏さんのことも考えていたようです。またしても嶋さんのことはそっちのけ...か?(^^;;
この頃の私の日記に杏さんはかなりの頻度で登場していました。現存しないその日記を読まなくても当時の私の発想はかなりの希望的観測が目立っていて、結局のところ相手の気持ちが不在だったということが手に取る様に分かりますね。
2年の2学期あたりはほとんどと言ってよいくらい嶋さんに手紙を書くという気の起こらない時期でした。少ないながらも往復した書簡の中で私は彼女の手紙の中に、徐々に私の考えに染まりつつある彼女の心の色を読み取ったのでした。もしかしたらそれはかなりの自惚れであって、実際は彼女自身が独自に到達しえた考え方だったのかもしれません。しかしながら可能性として私の考察を彼女の前にこれ以上安易にひけらかすのは彼女の心持ちにとって尚のこと不健康だと、他人の心配は出来る状態でした。
当時の自分の心境を思い出そうとすると、安易に蘇ろうとしないその記憶に単純なもどかしさを感じるし、それを生涯振り返りたくない気でいる自分がいる気もします。一昔前の自分ならきっとこういった再生を試みるという発想すら起こらなかったのだろう。
嶋さんの信頼を失っても、いずれ彼女から離れなくてはいけない。
そうはじめて感じたのがこの時期でした。 このままいけば、限りなく大切に思うだろう人だったから。
手紙を出さなくなってからも相変わらず嶋さんは私の中で恋人なのか友人なのか良く分からない存在でした。
以前お話した芝ちゃんについて。彼にウソを2回ついたと書きましたがその2回目がこの修学旅行。
こんな私でも人並みに集団生活ではしゃぎたくなったのが3日目の夜。その夜から京都のあるホテルにクラス全部が宿泊するようになりました。それまでは隣のタケダのクラスとはなぜか縁が無くて別々だったので夕食後は外出から帰ってきたタケダやNの部屋で消燈後もだべっていようと思っていました。そこへ現れたのが隣のクラスの担任。仕方が無いので大人しく自分の部屋に戻り出直すことに。
その帰りに廊下の隅にあったソファーに座ってたむろしていた1年時のクラスメート達がいて、彼らもまた私には比較的よく話を向けてくれる人々で、私もそこで立ち止まって話し込んでしまいました。消灯時間はもうとっくに過ぎていました。すると廊下の延長上の反対側から...
「こらぁーーーーー寝ないでなにやっとるかぁ!!」
という芝ちゃんの声。それで一斉に皆が逃げ始めた。その全てが目の前のドアから非常階段を使って逃げたのに対し、私はそのフロアにあるすぐそこの自室へ駆け込んだのであえなく御用。
「今話してたやつ出て来い!!」という声が部屋にこだまして仕方無しにスゴスゴとでていきました。芝ちゃんもまさか私だとは思っていなかったのでしょう。それでも怒りの矛先は収まらずついに私はウソをつきました。
「上の階の友人の部屋に貴重品を忘れたので取りに行っていました...」
こんなすぐバレるようなウソ(^^;;
この日の朝に私は芝ちゃんから声をかけられていた。
「おまえとこの班長は頼りないからなぁ。あお、今日はみんなのことよろしく頼むぞ」
彼のその言葉がベッドでうつむいた自分の脳裏にいつまでも響いて離れなかった。
2日目も広島。私はクラスの人間とは別行動の出来る別プランの瀬戸内に浮かぶある島めぐりに参加しました。隣のクラスの海くんと一緒でした。
宮島から本島へ戻る船だかその島へ向う船だかどちらか忘れたのですが、その船の船名が書いてある部分を見た海くん...
「どるらめえ...って何??」
...「いや、あれは え め ら る ど!!」
海くんはそういうことを本気で言ってしまう人でした。
そういえば2年の春の遠足で横浜に行った時も... あの年は豪華客船と呼ばれるクイーンエリザベス号が横浜に停泊していました。その近くに横浜博覧会で展示されていた「氷川丸」があって小さげに見えたのですが実はこっちもそこそこ大きいのです。現在は横浜博覧会の跡地に出来たランドマークタワーのすぐ横の広場にあったと思います。
どうも記憶違いだったようで、日程は4泊5日だったらしい。この不況と時間のなさからすれば、今だったら喜んで行っちゃいそうだなと思います。
さて、初日は東京駅から専用列車で一路広島入り。修学旅行になると中学でも高校でも「新幹線に乗って降りる」そんなマヌケな練習を体育館でやりました。まあ広島あたりだと明確な観光シーズンが無いので停車時間もそう長くはないのでしょうが、きまって降り遅れるのは男子なんですね。「ひかり」だと「広島」の後は限りなく「博多」と思われるので全くもってご愁傷様です。つーーか、修学旅行の車両に乗ってしまう一般客は大変迷惑そうにしています。私も1度遭遇したのですが「群れの力ってすごいなぁ」と思いましたね(笑)。隣のサラリーマンオヤジは女子高生の観察に夢中だし、世の中どっちもどっちだなっていったところか。はは。
1日目は宮島。ここは戦国期の有名な合戦場でもあって赤い大鳥居で有名な厳島神社がある。そこの資料館が毛利家ゆかりの品々が展示してあって、班員はそっちのけで図らずも夢中になってしまった自分がいた。
その夜の宿泊は海に面したホテルでした。残念ながらタケダやラザのクラスはホテルのキャパの関係で別の旅館風の宿に泊まったようです。 そのホテルは大部屋でクラスの1/3ほどの男子で1部屋。はっきりいってむさ苦しい(笑)。夕食も終わり就寝も近づくと、どこからか鼻を突くにおいが漂ってきた。どうもウイスキーらしい。わざわざ誰ぞが瓶ごと持って来て酒盛りが始まった。肴のない宴会ほど盛り上がらんものはないのだが、そこは恋多き年頃の集まりだ。冷えていない水道水とウイスキーの水割り、肴は恋話だけ...酒に慣れた大人では飲む気にならない状況だろう(笑)。
とっとと布団を敷いて横になっていた私は眠ろうと努力したが、その話がなかなか面白かったのでしばらく狸寝入りでした。話はクラスの女子全般に及んで 「うちのクラスでいちばんカワイイのって誰だ?」 ...どうもスーさんが1番人気らしい。 酒もまわった1人がことさら大きな声で 「でさぁ〜〜、あいつ! 山田花子(仮名)さぁ...」
3年で行われる文理のクラス分けが決まった11月の上旬、毎年私の高校は2年時のこの時期に京都/奈良/広島へ3泊4日の修学旅行と相成る。
理系クラスを選んだ私はそれによる直接的な不安と自分の中にあるモヤモヤから来る間接的なもどかしさで、自分が一体何を目指して目の前にある時間を使うべきなのか、使いたいのか良く分からなかった。理系クラスを選んだくせにその後私が最も力を入れた教科はなぜか世界史(笑)。1年に続き担任だった芝ちゃんが世界史の担当だった。
3日目に班行動があったので事前にホームルームで班分けがあった。男女混成という以外はこれといって規制も無かったのでクラス内は「はやいもの勝ち」の様相で行き交う人間の渦。 その渦中で私はきっと席を立つ気力も無くボケっとそれを眺めていたに違いない。「クラス」という単位から「班」に名前が変わっただけで、それを構成する面々がどのようなものだろうと、これといった関心事にはならなかったし、むしろ一人で行動したかったくらいだから。
2年のクラスのことを思い出すとどうしてもランさんの記憶がよみがえってしまう。実は大好きだったんじゃないか? って疑いたくなる(笑)。
前の席に座っていたランさんは、時折、そんな私を心配そうな目で見てくれていました。
そんなこんなで決まった班は私を含めて4人。クラス委員長の男子と女子2人。その1人は文芸部員で清々とした文章を書く人でした。この時は彼女が部員だなんて知りませんでしたがね。
そして迎えた当日の朝。
| 2002年07月17日(水) |
夢 睡眠 ノイローゼ |
この頃からタケダも私も勉強はそっちのけで調べていたことがあった。その成果を見せ合った訳ではないので彼のノートの内容は良く分からない。私は特にノート等に書き出していたわけではなく主に本を読んでいた。
タケダのノートには「夢 睡眠 右脳 悪夢」等の単語が多く並んでいた。彼は出会ったときから知能指数がどうのこうのと、私から見れば非常に滑稽な物差しで自分を支配していた。いや、支配されていた、といったほうが正しいのだろう。タケダの詳細な過去など未だに知らないしむしろ過去などは当時からどうでもよかった気がする。この高校に来てからタケダの考え方はかなり柔軟というか鈍化というか、とにかく変化していったように思われる。それはわれわれ仲間達には歓迎すべき変化であっただろうか。
私の興味はもはや自分のことだけだった。「自分は精神的な病なんじゃないか?」と疑い始めたのがこの頃。それを冷静に観察している自分。色々と調べた結果がクロでもシロでもどちらでもいいというのが正直な気持ちだったろう。
で、結果私はどうも病気ではないらしい。精神病と精神衰弱の違いは「自分は『病気なんじゃないか?』と疑っているか否か」で判別できるようだった。それすら疑わなくなった人間、要はそれが病であり「狂っている」ということだと。
まあ、こんな単純な線引きで見分けがつくなら医者などいらないんでしょうけどね。幸運なことに私は上の様な理由で自分が「病気だ」と思い込む状況からいち早く脱却した。
では一体、私は何者なんだ?
「死は冒険だ」などと本気で思っている自分は、いったい?
社会に出て職を変えずに仕事を続けているとどうしても仕事中心に毎日同じような日々の繰り返し。ちょっとした変化を感受できなくなったといえばそれまでですが、学生の頃の1年と今とではその時間の流れが前者の方が倍以上遅かった気がします。
高校にあがってからというもののこれといった趣味もなく、天文雑誌で出会った『嶋』さんとはほとんど星の話はしたことがなかった。年齢に分相応の恋愛なんてする気もなかったし、私が最も勉強に時間を割いていたのは中学時代のほうだ。この学校に来てから休日に連絡をとって出かけたりする友人など5本の指以下だったし、カラオケは嫌いだったのでけっこう好きなタケダに誘われても首を縦に振ったことは無い。学校に行けば誰と話すでもなく授業を受け、昼は人目を避けてボケッとし、約束するでもなく放課後の図書室に集まった友人に簡単に別れを告げてとっとと帰宅する。そして土曜の深夜は「さだまさしのセイヤング」というラジオ番組中に寝てしまい「ラジオ講座」の時間はベッドで爆睡(笑)。 ひどく長い間 考えていたと思っていた。
時間が経って振り返ってみると、それは私にとって重要なことであったかもしれない考察だが、それほど時間をかけて考えていたことではないことを今現在知っている。ただあの時の発想が愚かだったと思ったことはない。
人間はそれぞれ性格や趣向が違う。過去に判断の誤りがあってもいつかそれを忘れるのが人間である。だからこそ、少なくとも自分という人間は、だからこそ今日現在まで生きのびた。苦々しくて晴れない思いを抱いていた自分が時間をかけて変化していったのは、高校時代に出来た友人が根気よく私に付き合ってくれたこととその他色々な人間の様を見てきた結果である。
| 2002年07月15日(月) |
_/_/_/_/ ねみ〜 _/_/_/_/ |
こんばんは。 7月の末から8月にかけてむちゃくちゃ仕事が忙しいです。
この過去日記もこれから佳境に入っていくので
あいまいな記憶と朦朧とした頭の中で書いていくことに引け目を感じます。
というのは言い訳で
要は更新する気力がないだけで...(笑)。
自分のHPにリンクさせるでもなく友人に触れ回るでもなく
密かに続けているこの日記ですが
過去を今ほど整然と思い浮かべたのは正直初めてであります。
もともと文章を書くのは好きだがそれが「得意」と同義でないことはわかっています。
それでも『彼女』以外にもマイ登録をしてくださった方がおり
率直にそれを嬉しく思っています。
何より私にとって幸いだったのは
私が思いをめぐらせていた高校生の頃と同じようなことを考えている学生がいる
もちろんその全てが私と同一ではないのですが
彼女たちの日記の更新を毎日心待ちにしている自分がいます。
今を過ごしている彼女たちの日記に自分の記憶をシンクロさせて
そうして思い出した感覚は多い。
この場をお借りして私の日記をマイ登録してくださった皆さま
およびそうでなくても読んでくださっている方々に
残暑お見舞い申し上げます。
この頃私が読んでいた文庫本がロシアの作家であるトルストイの『懺悔』という独白物。トルストイといえば『アンナ・カレーニナ』や『戦争と平和』等の作品が有名であるが、私が隣町のお気に入りである本屋でふと立ち読みしていた時に手にしたのが、彼の作品にしては枚数の薄い『懺悔』であった。
今まで読んだ岩波文庫の青シリーズよりこの作品のほうが人間の生々しい姿と矛盾や真理をよく表しているような気がしました。持ち前の外圧に影響されやすい私の心はその本を何度も何度も、休み時間から放課後の図書室勉強の合間や就寝前など暇があれば寝ているかこの本を読んでいるか(笑)。
「人間は 信じること そのことで救われる」
色々と思い悩んでいた私にその言葉は強烈な印象で心の中に入ってきた。私はその言葉に妙な納得を得てしまったのである。
人間の何を見て、何を悟り得たつもりかは知らないが、この頃の私は人間生活から離れることに義務すら感じていた。超自然主義とでもいうんですかね? そんなこと出来る力もないくせに理想だけはいっぱし。あれこれと考えるのは勝手ですしそれで周りに害が及ばなければいいのですがね、人間である以上「社会」というコミュニティー以外で生きる機会など稀なことである。その最小単位の次にあるのが「家族」でありまず人間はそれを無視して生きることなど出来はしない。私の場合この先明らかに害を被るのが家族でした。
自分の考えは「逃避」だと思っていたしそれでもよかった。これを完成させるにはどうすればいいのか? 文明社会から離れて暮らすなら農業も悪くは無い。この腕力が非力な自分で勤まるかどうかは別問題(笑)。それが私の考察を根本的に解決するものではないと分かっていたので、より一層の考えを深める方法として「学問として考えていったらどうか?」と思い「哲学」という選択肢が浮上した。
学問の中に人間の全てを悟りうる術などありはしない。宗教の教義自体に万民を幸福にする術などある訳が無い。学問を学ぼうと、例えば大学へ通って色々な人間に会って様々な経験を重ねていく上で分かっていくのが「人間」というものであって、それは学問に裏付けられた思考でまとめられるものではない。宗教というものは個人が胸に抱く「信仰」それこそが最も重要なことである。だから子供を連れて布教活動を戸別にするようなあのしつこさには辟易してしまう。もっともらしいことしか言えない「信仰」の押し付けは大きなお世話である。
自分自身、分かっているようで何も分かってないこの状況をどう打破すればよいのか?
気が狂うには冷静だ 宗教に入るには信仰心が無い だったら?
私の高校は進学校のクセに専門クラスに分けて編成するのが3年からだったので、2年生の秋はそのクラス分けの希望調査がありました。ちょうどその頃私の前の席にランさんが座っていて、後ろの席からそれを回収して前に渡す時に「へえ〜理系なんだぁ〜 すごいねえ」といった彼女のセリフを今でも覚えている。 「いったい何がすごいんだか...」といった思いで苦笑を返したはずですが、私の苦笑は我ながら嫌味に欠けるらしい(笑)。全くの余談ですが、授業中彼女は前の席でその肩のちょっとしたあたりまで伸びた豊富な髪を大げさに掻き揚げる動作に何回も遭遇しました。クセなのかもしれませんが、そのたびに黒板が見えなくなるんです。正直うっとおしかったのですが、彼女の白髪は掻き揚げるたびに中からいっぱい出てきて、その濃紺のない均一な銀色をしたランさんの髪をぼんやり見つめる刹那は嫌いではなかった。
その頃の私は漠然と大学に進学することしか考えておらず、「いったい自分は何を学びたいのか?」その事を考えていればいいだけの状態でした。しかし自分の考察はより具体的な結論を導いてはくれない。それでも現実に「クラス分け」というものが存在する以上、ある程度の方針は決めなければならない。
もともとタケダもラザも文章を書く意思は大いに持ち合わせていたようだ。特にタケダは思うところの多い人間で純文学まっしぐら。もっとも彼を「マジメ」などと形容する人間に出会ったことはないが(笑)。
彼らが入部して間もなく私も1階の渡り廊下の端っこにある部室へ連れて行かれた。タケダは私がよく本を読んでいるのを知っていたし、女性ともっと接するべきだとでも考えていたのだろうか?(笑) 文芸部は先輩に男が1人いるだけであとは女性が10人強といったところでした。 そこで出会った女性の先輩達はみなさん気さくな人ばかりで、人間関係の見えていない自分にとっては過ごしやすく感じる空間でした。といってこの学校に来てからというもの、面識のない人間と能動的に会話した経験はなく、ただ質問されることなどに相づちを打ったり答えたりしていただけで自分から話を振る発想などはなかった。
そんな中、私はふと一人の女性の視線に気がついた。
その女性は会話の輪の中では控えめでいちばん外側で参加していたので、部外者の私と同じような位置にいたといえる。
何の下心もない満面の笑み。私とその子の視線が初めて交錯した瞬間がこの時だった。
「どうだった?」その日の帰宅時にそうタケダが評価を求めてきたのは、ラザの意中の人に対する返答を求めたものだった。
そうか、あの子か...
私は「きれいだね」と無難に評価したのを覚えている。それ以上に私の脳裏にいつまでも印象の深いきれいな笑顔に小さな疑問を抱いていたのだった。
「どうしてあの子はあんな表情をしていたのだろう?」 今まで出会ってきた数々の私に対する好奇の視線とは明らかに性質の違うそれが、この先10年以上忘れ得ないものだとは全く思いもよらないことであった。
この時期の私は「親友」というものに飢えていた。いや、それは単に自分自身の器が小さくて周囲を読みきれてなかっただけの話だが、日記に書くほどには友人に自分の考えを上手く理解できるように話すことができなくて自分からあきらめていた感じでしょうか。そんな自分を棚に上げて『嶋』さんに、こんな自分は友人のことを大切に思ってるのでしょうか? と被害妄想バッチリな質問をしていたのだった。そう、この時の私は自分の考えをいちばん話したかったのが彼女であり、そこに友人関係の理想像を重ね合わせていただけだったのだ。「恋愛」という意識は遠のいてもなお『嶋』さんは私の中に占める人間関係において最重要な人であった。
タケダはバイト先で出会った年下の女性と色々とあるらしく、噂は絶えなかったが、ラザはラザで意中の人をファンクラブ外で(笑)見出してその話が会話の中に頻繁に混ざるようになったのが10月頃だっただろうか。自分の決心もはなはだ薄いもので、努めて一人でいるその私を「孤独」と勘違いする自分がいたようで、さまざまな葛藤は快楽という蜜にめっぽう弱い。煮え切らない自分がいながらも、一人でいる寂しさを選ぶより、心を許せていないであろう友人でも自分を良くしてくれる人間の側にいたかったのかなぁ。
ラザの好きになった人は彼と同じ中学出身で一つ下の後輩。彼の話とタケダの誇張(笑)によるとその子はかなりの美形らしい。ことによるとこの学校でNO.1?と言いたげな2人のその表面的な情報には全く興味を抱かなかった私。 どうもその子が所属している部活が、2人が文化祭の時に私を連れて行ってくれたあの部であり、私はその時にその子を見ているはずだった。だが全く記憶にないのだ。そのうち2人はその部に入部する意向を固めたらしく、私はそっちの方が羨ましくてならなかった。
『嶋』さん宛に書いた手紙で投函しなかったものが私の手元に今でも残っている。この日記を書かなければ一生思い出さないだろうことがそこには色々書いてあります。それを投函できなかった理由は様々なんでしょうが、根源にある理由は「自分が偉そうに考えを述べるのはおこがましい」とでも思ったんでしょうかね。 今日はその中にあった「タケダの休学」について。
タケダの家庭は彼が幼い頃に母が離婚して、転校当初は再婚相手である養父のもとで暮らしていたのですが、おばあちゃん子だった彼はもともと実母とも折り合いが悪く当然のように養父になつくこともなかったので、高2のこの時期に彼は祖父母との同居状態を選ぶようになった。 それに怒ったかしらないが、養父が彼に対する縁組を解除して彼の経済的支援が無形化してしまったのが休学の原因なのだが、本筋としては「学校を退学して働く」というところでタケダの腹は決まっていたようだった。もともと祖父母に金銭的負担をかけたくなかった彼は中学の頃も新聞配達などして家計を助けていた。
養父は弁護士だったのだが、アタマの切れるタケダの主張は的を突いており、若くして彼を生んだ実母に対する養父の愛情のなさを感じていたことなども含めてこれまでの鬱憤が彼の中で頂点に達し、お互い引くに引けなくなってしまったのであろう。
こうやって時間がたって振り返ると断片化していたパズルがいとも簡単に組める。当時情報として小出しに得ていたものを組み上げていけるほど、当時は他者の人生に興味も責任も持てなかった。
タケダがバイトをするようになったのはこういった経緯もあったんですね。
結局タケダは退学はせず一時休学だけで戻ってきたのだが、このことが彼のその後の人生を大きく揺さぶったのは言うまでもない。
2学期の始業式だったかタケダに「話がある」と呼ばれ、生物室で話したことが退学の件についてだったはずだが、いったい自分がどんなリアクションをし何を思ってどう彼の力になったのか全く覚えていない。ひとつだけ言えるのは、私の言動がタケダの中を動かす原動力になるはずがない、と自分の無力を信じていたこと、それくらいだ。
夏休み頃だったか、タケダとラザがバイトに精を出すようになった。それに比例して私は人と交わる時間が少なくなっていった。もっとも自分にとってはそのほうが都合よく、2学期が始まっても隣のクラスに行くことはなくなったし、放課後にタケダと一緒に帰ることも無くなった。昼休みはたまに隣のクラスで知り合ったD君や陸上部のNが学食へ誘いに来たが、この頃は食欲もなく、授業が終わると彼らが来る前にさっさと静かな場所 すなわちニワトリ小屋のある植え込みでボケっとする日がほとんどになった。
何をそんなに考え込むようになったのか、上手く表現は出来ないが、攻撃の対象が自分自身に向っていくようになった。例えば中学の頃私は尊敬する担任の影響で教師になりたいと思っていた時期があった。しかし、自分は人に教えを説くような資格のある人間なのだろうか? いったい何を教えたいというのか? 周囲の友人達に理解させられないものをどうやって...。注釈:この頃の私の成績は限りなく下降線、底辺が見えてきたって感じ(笑)。やることもやらないで偉そうなことゆうとるなぁ〜と自分に言いたかったわけですね。
自分の力を疑うと人間は無気力になっていく
それまで自分は正しいと思っていたが、それは「道徳」という物差しがあるからこそ測れるだけであって、はたしてそれが絶対的な真理なのか? 私には判断の及ばない問題について考えるようになり、ドツボにはまっていったのである。
ん〜〜マジメだね〜 ぼくちゃんってば(笑)。
たまにタケダやラザと会ってバイトの話を聞いた。どうもタケダはバイト先の女の子にホレられたらしい、といった浮いた話を「あっそ」みたいに呆気なく聞いていただろうことは想像に難くない。いつしか私の命題は具体的な恋愛を許容しないようになっていった。当然「嶋」さんのことも...。
| 2002年07月07日(日) |
_/_/_/_/ わたくしごと _/_/_/_/ |
先日、1ヶ月ぶりに大好きな『彼女』に会ってきた。付き合い始めてから会うことにこれほど時間のギャップがあったのは今回が初めてである。 もともと私たちを分かつ物理的距離は大きい。いわゆる遠距離恋愛といわれるものだ。ただその経験を重ねつつ感じたことは、「遠距離」だから寂しいのではなく「会えない」それが寂しいのだ。
付き合い始めた当初、『彼女』と私を分かつこの距離は案外遠くは無い、そう感じていた。『彼女』に会う時は大抵どちらかが新幹線を利用して会うのだが、その交通機関のおかげで距離感をあまり感じない私がいたのは確かだ。その点で私は『彼女』より楽観的だったといえる。
「今伝えるべきことを伝えることが出来ただろうか?」 彼女とまたひとときの別れ、その帰りの電車の中で考えるのはいつもそのことである。
答えは決まって ノー だ。
もともと完全な意思の疎通などお互い無理だと思っている。ただそれがこの私たちの恋愛において障害にはなり得ない。たとえそれが盲目的といわれたとしても、私たちはお互いに「自分のほうが相手を信頼している」と信じている。それだけで十分だ。
先日は私が『彼女』の地元へ会いに行った。楽しいひとときは想像するより計画的な言動など出来るわけがないくせに、過ぎるのが早い。刹那に満たされたはずの満足感はひとときの「別れ」で忘却されたように、相手を願って止まない。
それでも離れなければならない、それが現実である。 『彼女』には小学生の娘がいる。まだ私はその子と上手に話をすることが出来ない。見た目は大人でも中身が子供な自分なのでそれも分からなくはない。ただ、私はその子に羨望しつつも、『彼女』のそばにいつもその子がいてくれるという安心を得ることが出来るし、それをこの上なく感謝している。
今はまだ、その感謝に報いる術が、残念ながら無い。しばらくはその子の存在に甘えるしかないのが現状だが、いつかその子に私自身を認めてもらうつもりでいる。その時にまた新たな「恋愛」が私と『彼女』、そして『その子』との間に生まれることを想いつつ、今は頑張っていこうと思う。
わが校の文化祭は毎年9月3週の土日に開催されていたように記憶している。生物部も休部状態ながら河川の水質調査の発表は毎年やっていたのでそれを展示する。結局夏休みに手伝ってくれる人は無く、なぜ入部したのか分からない新入生と顧問の先生とで仕上げた。と言うよりほとんど私一人でやったと言っても過言ではない。私に部長としての責任感など皆無だったが、この状況で負う責任など私にとって大した重さではなかった。
先輩がいた1年前もダテに展示して終わりといったわが部の文化祭だったので、2年生の時もそれに習っていた。もともと文化祭の喧騒の中に見を置くことなど考えてもいなかったし、校舎の南西の隅にある生物室とその特別棟周辺の静寂はここが学校行事の最中とは思えないほどだった。
こういう状況が『孤独』というものなんだろう...なんて考えていたのだろうか?
「孤独」なんて言葉には辟易する自分がいたはずなのに。状況というものはとある1面から見られがちだが、そんな判断で自分を「孤独」と呼ぶ人間がいるなら、それはそれで全く構わなかった。「冷静」だと信じていたそれはただの「無思考、無感情」でしかなかったくせに。
この頃、タケダ君とラザ君が仲良くなりよくツルんで行動するようになった。お互い顔を合わせる時間は比にはならないが、今でも私を含めたこの3人は心を許せる仲といえるだろう。この際、今後は敬称略でいきたい。← 実は面倒だった(笑)
ラザは私と同じで中学時代からバスケ部。彼は長身で優男風の出で立ちながら自分の持つ芯を失わないマイペース(のんびりといった意味合いではない)派だったといえる。後輩の女子が結成したファンクラブがあったという逸話があるくらい彼はモテモテだったらしいが、そこは『類友』というわけで、ラザも私と同じで意に染む相手以外は眼中にないようだった。 先輩との折り合いを欠いてバスケ部を退部してフリーだったラザと、前の学校では県内でも指折りの卓球実力者だった、これもフリーのタケダに誘われて私がこの文化祭でただ1つ楽しんだと思われるあるクラブ発表の教室。2人はその後フリーをやめこの部に入部。
そして半年後、私もこの部に入部した。3年といえば「受験」だというのにね〜。
これは全くの余談で、いったいいつのことだか記憶にはない。
とある晴れた学校帰り。私の家の直前の、上り坂が通学ルートの中で最難関。 行きはともかく、帰りは約束するでもなく、それでもよくタケダ君と共に帰っていました。その日もその『最難関』に差し掛かりました。 2人ともチャリを立ちこぎして登っていきました。とかくこういう時は全身を踏ん張って下の一部が緩くなるというもの...(^^;;
ぷぅ
その音が鳴って顔を見合わせた瞬間2人とも微妙な表情。原因はその音のトーンにあった。 特に踏ん張って出す時は「ぷう!↑」と尻上がりになるものですよね? その時の私のおならは...
ぷぅ......(↓)
と尻下がりになってしまいました!! 最も力を必要とする坂の途中でこんなとぼけた気合のかけらも無いおならが出ちゃったので、2人とももう腹筋に力が入らないくらい笑いこけて、押し歩いてその坂を登りました。
なんだかんだ私のパソコン歴は長い。もっともダテに長いというだけでOSの仕組みとかバイオスの設定とか厄介なことは何も知らないし出来ない。そもそもパソコンそのものに興味があったわけではなく、道具以上でも以下でもないくらいしか思ってはいない。
高2の夏に親いわく、パソコンを買わないか? と突然降って湧いたような話にいちばん興味を示したのはタケダ君だった。現物が来た時もいちばん喜んでいたのは彼で、正直私にとっては「ゲーム機」以外の何物でもなかった。タケダ君が私を見限らなかったのはこのパソコンのおかげかもしれない(冗談/笑)。
もう10年以上前のことですが、当時はコンピューターといえばNECの天下でPC98シリーズ以外はパソコンにあらずといった論調がまかり通っていた恐い時代でしたね。だから価格設定もデスクトップで30万円から。から。から。 タケダ君の薦めでそれにFM音源ボードとマウスをオプションでつけて...ってマウスが標準装備じゃなかったんですね〜当時は。今なら980円とかでも買えちゃうのに当時はいったいいくらだったんだ...。FM音源を付けること自体、イコール「ゲーム機」って自認するようなもんです。まあ実際ゲームしかやっていなかったです、少なくとも私は(^^;;
タケダ君はさすがに前の学校で理系クラスだっただけあって興味も能力も私の及ぶところではない。MS−DOSの組み込みやドライバの設定等は全部彼がやってくれたので覚えるはずも無いが...。
いわゆる「恋に恋をする」という状態は(男は特に)若い頃に多く見受けられる気もするが、私の場合はむしろ逆だった。20代後半になって初めて私はまともに恋愛する気持ちが育ったといえるので、まあそれは順当なプロセスだったんでしょうかねぇ。ホレられた方はたまったもんじゃないと思いますがね(笑)。まっその話は後日たっぷり時間を割きます。
嶋さんに対する恋は、手紙で自分の考えていることや思うことを語る、ということで大方満たされていました。よく言えば私の恋はプラトニックで、精神的な繋がりさえあれば十分なものであった。ようはこのプラトニックがハタチを過ぎても続き、いつしか肉体を受け入れることに躊躇する自分に育ってしまった、ってだけ。
(ほんとにそれだけ??) はは。
正直に、しかし言葉を選びながら、私は嶋さんに自分の現況における気持ちを書いて送りました。最初の手紙では伝わらなかったのか、嶋さんは「誰か好きな人が出来たんだね?」といったつれない返事。今思うと彼女は実は困っていたのかもしれない。何といってもまだ会ったことがないんですから、それも当然といえばそう。 ただ、私は行間にその人間の人柄を見るのが得意らしい(自画自賛/笑)。後日嶋さんに初めて会った日、彼女を好きになった自分に何の後悔もなかった。
この夏で憶えていることは、2つの水辺に遊びに行ったことだ。
1つは市内の清流にロンを自転車の前カゴに乗せて行ったこと。2つ目は終戦記念日に葉山へ海水浴に行ったことだ。
休み時間に隣のクラスに行かなくなってから、タケダ君と顔を合わすことの無い日が多くなっていった。そういった時間のギャップは、それがどうでもよい関係であればそうである程に、確実に人間関係を衰退させて余りあるものだ。ただ私たちにはそれが無かった。
不思議と彼は頃合のよい間隔で連絡を入れ、私を遊びに連れ出したのである。
ロンは泳ぐのが上手であった。地元の子供達に混ざりながら小さな体で流れに負けまいと泳ぐ。葉山はやたらと遠くてどうやって行ったのか記憶にない。海で泳いだ記憶は無く終戦記念日のサイレンを正午に海辺で聞いたのと葉山の御用邸が場違いな建物だったこと、そしてバス移動の間ずっと乗り物酔いだったこと、クラゲに刺されて海くんの腕がはれ上がっていたこと、そんな記憶だけが残っている。あとは「心から楽しんではいなかった」ということ。愛想笑いなどは自分自身最も忌み嫌っているものだったので、この日の自分はかなり仏頂面だったはずだ。最もそんなものが必要な友人などいないほうがいい、くらいに思っていた。
そんな自分でも、敬遠することなく接してくれたタケダ君には今でも頭があがらない。
「ひとりでいたい」 それが当時の私が持っていた率直な希望だった。社会に対する反発は過剰な道徳心に支配されていたからだ。それは中学の頃に大人から植えられたものに過ぎなかった。「考える」ということで私は受動的なそれから逃れることになったが、それが自分自身に対する失望に変化する。 社会がどうとか周りの人間が気に入らないとか、そういうことを考えている自分を笑うようになったこの夏。
そんな私に嶋さんは「色々考えるのは君のよいところだと思うよ」と言った。
もともと帰宅部同然だったので夏休みともなると学校に用事などは無い。それでもニワトリや金魚の世話があるので1週間に1度は通っていました。いかない間はどうも用務員のおじさんが見てくれていたようです。このおじさん、素性は知りませんが、私が入学してから毎日学校で挨拶をする唯一の人でしたね。 夏休みのチャリ通は汗だく。それでも家で黙って考えているよりは気分も晴れる。
自分はいったい何がしたいのか? 何をそんなに考えているのか?
星空のこと 嶋さんのこと タケダ君のこと 学校のこと 親のこと 本のこと 「人間」ということ 「無力」な自分のこと 生物のこと 死ということ 自殺ということ
それは無気力へのいざない。
うだるように陽炎を漂わせる街 そこに流れる停滞した水面と鯉 鬱蒼とした茂みの中にあるような児童館の入り口 過剰に冷え切った本屋 安堵をくれなくなった生物室 「滅」という名の甘美
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