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斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」

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2005年03月31日(木) 個人情報を守れない個人情報保護法

先日から僕のメールボックスには「個人情報保護法の施行に伴う規約改正」という件名のメールがじゃんじゃん届いている。
僕は、様々なネット関連のサービスを利用しているので、あちこちからじゃんじゃんメールが届く。
「個人情報保護法が施行されるので、それに対応して個人情報の取り扱いについて見直しました」という内容なのだけれど、きちんと読んでみると、とんでもない事が書いてある。
大半のマトモな企業は、納得のいく規約改正や再確認なのだけれど、いわゆるネット系企業の規約変更にはひどいものも存在する。

某社からきたメールの一部をそのままコピペする。



4月1日より全面施行の「個人情報保護法」に対応し、本サービスにお
けるお客様の個人情報の利用目的につきまして以下の通り明記させて
頂きます。ご確認の程宜しくお願い致します。

■某社における個人情報の利用目的

6) 弊社が提供する本サービス以外のサービスまたは弊社の関連会社
  が提供するサービスに関する各種情報を、会員に対し電子メール
  ・郵便等の方法を用いて通知すること。
7) 弊社の提携先が提供するサービスに関する各種情報を、会員に対
  し電子メール・郵便等の方法を用いて通知すること。
8) 本サービスを含む、弊社または弊社の関連会社が提供するサービ
  スの改善を図るため、アンケート調査および分析を行うこと。
9) 本サービスに関するキャンペーンおよび抽選により景品等の送付
  を行うこと。


すばらしい!!!

僕の個人情報は、某社社内に及ばず、関連会社、提携先企業にまで利用されてしまうのだ。
これは、個人情報は「提携先企業」までを含んで好き勝手に使わせてもらうよ、もしそれが嫌ならサービスは提供しないよ、という宣言であると僕は受け取った。
「ご確認の程宜しくお願い致します」との事なので、反論の余地はなし。
「提携先企業」の定義は、記述されていないので、それがダイレクトメール配信業者だったり、悪徳企業だったりする可能性も否定できない。
「提携先企業」としか書いていないので、何でもあり、と解釈するのが妥当だろう。

個人情報保護法では「利用目的を偽ったり、利用目的の範囲を超えて個人情報を取得したり、利用したとき」は違法である、とされている。
この場合、利用目的をきちんと「提携企業で利用する」と記述してあるので合法である。

一方で「本人の同意を得ずに第三者(提携先など)に個人情報を渡したとき」は違法である、ともされている。
僕は同意した覚えはないけれど、確認のメールが届いているので、法的には、本人の同意を得た、と解釈されるのだろう。

個人情報保護法は、「個人情報取扱事業者」に適用される。
この「個人情報取扱事業者」の目安は保持している個人情報が5,000件以上の事業者、とされている。
上記の「提携企業」が保有する個人情報が5,000件未満であれば、僕の個人情報は、個人情報保護法の対象ではなくなる可能性がある。
個人情報のロンダリングを行えば、どうにでもされてしまう危険性を感じる。
僕は、僕の個人情報は、個人情報保護法では守られない、と思う。

この企業から届いたメールには、詳細はウェブサイトで確認しろ、と書いてあったので、そのサイトを確認する。

「弊社は、当該個人情報の提供を受ける者が「第三者」に該当しないものとして取り扱い、お客様等の同意を得ないで、お客様等の個人情報の取り扱いを第三者に委託し、提供し、又は特定の者と共同利用することがあります」

おいおい。
すごいことが書いてあるぞ。

この某社は、僕の個人情報をどうするつもりだ?
僕の個人情報は、個人情報保護法に則り、好き勝手に利用することが可能なのか?

個人情報保護法の施行により、個人の情報が保護されるようになるのか、というと大甘だ。
この某社のように、「あなたの個人情報を好き勝手に利用しますよ」、と宣言メールを一本送っておけば、僕の個人情報は、限りなく無制限に利用されることになる。
「意図しない」個人情報の漏洩や流出に対しては厳しくなるけれど、「意図的な」個人情報の利用に関してはザル法だと思う。
何のための個人情報保護法なのだろう?
個人情報は法律で保護される、などとは考えない方がよいと思う。

と、いうことで、上記の企業には「利用目的には同意できません」、という内容のメールを送っておいた。
個人はそれぞれ、同意できないものに対しては同意できない、という意志を企業に対して表明すべきである。
個人は、企業にナメられてはならない。
意志を表明しなければ、それは同意、とみなされてもしかたがない。
自分の身は自分で守りましょう。


2005年03月27日(日) 地球儀ソフトで遊びながら思った

僕には日本国民としての愛国心がほとんどない。
日本という国家への所属意識もない。
日本への愛着があるとすれば、食事と日本語くらいだ。
食事と言っても、和食ではない。
長期間海外に滞在すると、食べたくなる日本食は、「カレー」、「ラーメン」、「焼肉」、「牛丼」である。
「牛丼」に関しては、今では米国に行ったほうが、本物が食べられるけど。

愛国心のない僕にとって、日本という地理的な制約のなかで、特定の政治や宗教のシステムに組み込まれてしまう事は苦痛だ。
かと言って、僕が国籍を変えようと思うと実際には難しい。
10年くらい前、年間の3分の1くらいを日本国外で過ごしていた僕は、日本国籍を捨てようか、と画策していたことがある。
海外の単一の国に長期滞在しようとすると、ビザやら税金やら何かと面倒だったからである。
でも、よく検討してみると、日本のパスポートを保有している事はメリットのほうが大きいので、日本国民でありつづけることにした。
日本語しかマトモにしゃべれないし。

そして、日本国民であり続ける最大の理由は、日本が実態の曖昧なワケのわからないモヤモヤ国家であるからだ。
確固とした資本主義でもなく、社会主義でもない。
特定の宗教にも依存していない。
日本が日本でありつづけるのは、四方を海に囲まれているという地政学的特性によるものだと思う。
僕が日本国民でありつづけているのは、そのいい加減さが心地良いからである。
日本人は「神に誓って」などという表現を使わない。
仮に「神に誓って」と言う場合も、人によってその「神」の概念はバラバラである。

日本は、地政学的には隔離されているはずなのに、どういうわけかアイデンティティーを持たないミクスチャー国家になってしまった。
そして、そのアイデンティティーのぐちゃぐちゃさ加減は加速する一方である。

僕は、その日本国民としてのアイデンティティーのぐちゃぐちゃさ加減こそが、日本人の日本人であるところなのだと思う。
日本人が日本人である事を意識しないのは、海という「自然の国境」に守られた国で生まれ育ち、「人為的に作られた国境」を意識することが少ないからかも知れない。
「自然の国境」で隔たれているからこそ、逆に自分達のアイデンティティーを敢えて意識することがないのではないか、と思う。

テクノロジーの進化により、物理的、精神的に地球は狭くなった。
なかでもネットワークによる精神的な部分の障壁は、言語の問題くらいである。
日本人が日本人であることを意識するのは、サッカーのワールドカップくらいのものだろう。

いずれ世界の国々でも、日本と同じく、人為的に引かれた国境の意味は薄れていくだろう。
世界単一国家が生まれるのではない。
人為的に引かれた国境線はの持つ意味合いが小さくなる。
僕にとって、国という単位は、たまたま住んでいる地方自治体程度の意味しかない。

文化も宗教も民族もそれぞれ細々と残るだろう。
だけどそれが、地理的に分け隔てられ続けるものなのか?
地理的な国境線の意味合いは、どんどん薄れていく。
強制力で維持し続けられるのだろうか?
もちろん、行政単位として、世界単一国家、世界単一政治体制などは、あり得ないし、あってはならない。
主義や思想を単一化するような強制力が働いてはならない。
行政単位は「システムの運営の便宜上」、残らざるを得ない。
だけど、僕は個人単位思想や宗教、システムは、ぐちゃぐちゃのミクスチャーになるだろうし、なるべきだ、と思っている。
既存の様々なシステムや思想が個人単位で入り乱れたアナーキズム。
アナーキズムという言葉が適当でなければ、ミクスチャーでもコンプレックスでもモザイクでもいい。

システムも宗教も文化も本来は地理的にはアナーキズムであり、ミクスチャーであり、コンプレックスであり、モザイクなのだ。
地理的にも時間軸的にも。
時間軸でも同じ状態が、「干代に八干代にさざれ石のいはほとなりてこけのむすまで」続く、という事は難しいだろう。
流動し続ける。
たまたま生まれた場所で人のアイデンティティーは決まらない。
僕は、人為的に引かれた国境線のなかで国民としてのアイデンティティーを感じろ、と言われても困る。
僕個人のなかでさえ、アイデンティティーはぐちゃぐちゃなのだ。

たまたま生まれた地域によって政治システムや宗教を分ける事は無理があると思う。
日本に住んでいれば仏教徒で、インドに住んでいればヒンズー教徒で、アラブに住んでいればイスラム教徒なのか?
そんなことはないと思う。

日本人である僕は、無宗教、というよりも何でもあり教徒である。
お盆には仏教徒になるし、クリスマスにはクリスチャンになるし、正月には神道だ。
僕の行動の指針に対するお告げを与えてくれるのはYahoo!の占いだ。
僕自身の葬式は、電飾霊柩車でエレクトリカルパレードをBGMにして欲しい、と思う。
お墓には僕のデータが詰まっているHDDを埋めてもらいたい。
僕の寿命が尽きる頃は、僕のことを一番理解しているのはサーチエンジンかもしれない。僕の「事実上の実体」ですら、いずれどこかのサーバー上に分散されて配置されてしまうかもしれないのだ。

僕のアイデンティティーは、メールアドレスとドメイン名である。
個人メールアドレスと個人ドメイン名は、本名ベースの独自ドメインなので一生変わらないだろう。
WHOISで検索できる僕の情報が僕なのだ。
いずれGoogleが僕自身より僕を深く理解するようになるかもしれない。
現在でもじゃんじゃん届くジャンクメールやダイレクトメール、テレアポの業者は僕自身より僕について知っているようだ。

国家単位でも、僕という個人単位でも、現在はアイデンティティは実体を喪失しつつ、デフォルメを続けている段階にあると思う。

と、「NASA World Wind」で遊びながら思ったのであった。
「NASA World Wind」は、こんな妄想を抱かせるほどとんでもなく凄いです。

また、ワケのわからない文章になってしまった。

■地球全体から道路1本まで眺められるNASA製3D地球儀ソフト「NASA World Wind」
http://www.forest.impress.co.jp/article/2005/03/07/nasaworldwind.html


2005年03月26日(土) 「ファシズム」と「資本主義」と「アナーキズム」

僕は「資本主義者」であり、「民主主義者」ではない。

一方で、真に正しい政治システムは何なのだろう、と考えると答えがない。
少なくとも僕は「民主主義者」ではない。
僕は愚民の多数決で意思決定がなされる民主主義を信じてはいない。
「民」の多くは愚かだ。
愚かな「民」の多数決によって運営される「民主主義」には、賛同できない。
僕は自分を「資本主義者」であり「民主主義者」ではないと主張する。

「資本主義」と「民主主義」は似ているようで、全く異なる。
資本主義は持てる者、力のあるもの、能力があるものが権力を握る。
民主主義は、持つ持たざる、能力にのあるなしに関わらず、平等に権利の配分を保証する。
民主主義は、権力を平等に配分するシステムだ。
僕は、そこに民主主義の危うさを感じる。
平等に配分された権力が、正しい選択を行なえるとは思えない。

企業社会、株式会社のガバナンスは民主主義ではない。
資本主義だ。
それに対して、政治社会は民主主義。
現在の日本には、このダブルスタンダードが共存している。

僕は企業社会に属した資本主義者だ。
僕は、株式会社、資本主義のシステムは人類の最も偉大な発明のひとつだと信じている。
企業社会は、資本主義システムのうえに成立しているのにも関わらず、政治システムは資本主義ではない。
なぜだ?
僕には理解できない。
どうして、納税額が全く異なるそれぞれの国民が、選挙の際に同じ一票しか投じる事ができないのか?
どうして、収入の多い人間は、累進課税により、懲罰的とも言える多くの税金を納めなくてはならないのか?
僕には理解不能だ。
どうして、結果の平等を保証しようとするのか?

僕が可能性を見出すのは、「ファシズム」と「資本主義」と「アナーキズム」だ。
「ファシズム」、「資本主義」、「アナーキズム」は言葉として、忌み嫌われる。
これらの思想は、検討されることもなく、最初から否定される。
本当にそれは正しいのか?
「ファシズム」、「資本主義」、「アナーキズム」は危険思想とされている。
本当に「民主主義」が究極の人類のガバナンスなのか?
僕には、そうは思えない。

「ファシズム」はヒトラーを彷彿させる。
だが、ファシズムは、たまたまアドルフ・ヒトラーという暴走した人物がいただけであり、ファシズムそのものが否定されるものではない、と思う。
カリスマが統治する世界が存在してもおかしくはない。
キリストだか、ムハンマドだか、ブッダだか、よくわからないけれど、カリスマ、もしくはカリスマの遺伝子による統治は選択肢とし否定できない。

「資本主義」は、一部の資本家のみが富を独占する、とされる。
だが、資本主義は、市場の原理、神の見えざる手が常に抑制力として作用する。
完全なる合理性が暴走を抑制する。

「アナーキズム」はテロリズム、混沌をもたらす、という。
だけど、「資本主義」と「アナーキズム」が組み合わされれば、そこでは、突然変異の発生と淘汰のプロセスが健全に機能するのではないか、と思う。

「ファシズム」、「資本主義」、「アナーキズム」は現代社会において、否定され続け、嫌悪感をもたらし続けている。
だけど、本当にそうなのか?
完全に否定できるものなのか?

僕は、「ファシズム」、「資本主義」、「アナーキズム」を否定できない。
僕は、民主主義者ではない。
民主主義は政治システムとしては破綻していると思う。
民主主義は、第二次世界大戦の反動で生まれた過渡的なシステムでしかない、と思う。
戦後60年を経た現在、民主主義はそろそろ再検討されるべきだ。
これから何十年かに渡って、民主主義は存続するだろう。
だけど、僕には民主主義が最終形態、最も合理的な政治システムであるとは思えない。

僕は政治家ではない。
政治にはいかなる影響も与える事はできない。

でも、経済の世界では、「ファシズム」、「資本主義」、「アナーキズム」が台頭するだろう。
世界のなかで政治では「民主主義」が存続するだろうけれど、経済社会では「ファシズム」、「資本主義」、「アナーキズム」が進行する。
世界経済は、国家のシステムを超え、究極の合理性へと向かう。
いずれ、経済を一国家が制御する事は不可能になるだろう。

グローバル企業は、既に小さな国家のGDPを凌駕している。
市場経済が「過渡的なシステムに過ぎない民主主義」を破壊していくだろう。

僕には、日本という民主主義国家のガバナンスのありかたと、現実世界の乖離がどんどん広がっているように見える。
民主主義は人類にとって、「結果の平等の保証」という意味で、ある種の理想形ではあるが、人類の進化を妨げているシステムであるようにも思える。

きっと僕は危険思想の持ち主なのだろう。
安定したシステムを破壊しかねない存在なのだから。

僕は政治には興味がないし、介入するつもりもない。
だけど、「民主主義」が究極のシステムだとは思えない。

とりあえず、累進課税は何とかしてくれ。
責任ばっかり大きくなって、手取り収入が増えない。


2005年03月25日(金) 空白

ここ数日間、僕はこのサイトの更新をしなかった。
本業が忙しかった、という言い訳もあるのだけれど、それは大きな問題ではない。
サイトの更新など、15分もあればできる。
通勤電車やタクシーのなかで、僕は文章を書いている。
本当の理由は、「アクセス数を下げたかったから」である。

先週、僕のサイトのアクセスは9,000/日を超えていた。
毎日、一万人近くの人が僕のサイトにアクセスする。
アクセス数が増加すると、当然のことながら、バカ、アホ、死ね、といった誹謗中傷メールやら脅迫メールが届く。
同時に2ちゃんねるにも僕のサイトは晒される。

個人サイトを持つ「個人」にとって、2ちゃんねるに晒されることは恐怖だ。
だが、実際に何度も2ちゃんねるに晒されてみると、それは大したことではないことがわかる。
2ちゃんねる経由のアクセスなんてアクセス全体からみれば、1%以下。
気にするレベルではない。
これは僕にとっても意外だった。
僕は、「2ちゃんねるに晒される」=「アクセス殺到」=「荒らされる」、というイメージを持っていた。
でも、実際には2ちゃんねるで晒されても、アクセス全体に占める割合は小さかったし、それによる僕に対する攻撃もたいしたものではなかった。
2ちゃんねるへの個人サイトへの直リンはマズいと思う。
だって直リンを張られた側からすれば、容易にリバースでログを解析できるから。
僕にとっては、2ちゃんねるよりも、いわゆる「まとめサイト」から影響を受けた方々からの直接攻撃のほうが大きかった。
免疫が出来ているとはいえ、メールボックスが誹謗中傷で溢れていると少しはヘコみます・・・。

僕のサイトはあくまでもマイナーでなくてはならない。
戦略コンサルタントというリアルの職業上、僕のサイトがメジャーになってしまうと、「機密情報を知りすぎている僕」のネット上での情報配信は大きな制約を受けることになる。
僕の発信する情報が大きな影響を与える事になってはならない。
僕は組織に所属するサラリーマンであり、個人事業主ではない。
僕の配信する情報によって、企業や市場に影響が起きてはならないのだ。

このサイトで書いている内容は僕の思いつきのメモである。
共感を得ようとか、有益な情報を配信しようとか、啓蒙しようといった意思はない。
エゴキャストであり、僕が便宜的にネット上でその時点での考え方を提示し、アクセスログにより、僕のその時点での考え方がどの程度、受け入れられるかを検証する場である。
僕のサイト上で発信した情報は、その日、その時思いついたことをメモとして記述しているに過ぎない。
僕が、自分自身で後で自分の思想を確認し、社会での受け止められ方を検証する場だ。
リアルな社会に僕の思想を反映したければ、本業でじゅうぶんに達成できる。

僕のサイトはメジャーであってはならないのだ。
僕がネット上での戦略コンサルタントの代表例になってはならない。
僕は突然変異種である。

僕は、アクセス数が沈静化するまで沈黙した。
僕のサイトはあくまでも僕自身に向けたメモであり、僕のサイトにアクセスしてくださる方々は僕の考え方に対してどのように受け止められるかの検証の役割を担っている。
僕には、サイトのアクセス数を増やそう、共感を得たい、僕の思想を広めたい、といった希望はない。
このサイトはあくまでも僕自身に向けた「エゴキャスト」である。
想定読者は僕自身なのだ。

アクセス数も下がってきたようなので、またサイトの更新を再開することにする。
書きたいネタなんていくらでもある。


2005年03月21日(月) 妄想と現実のループ

リアルワールドは僕らの脳内の妄想を反映したものである。
僕たちが生活しているリアルワールドは、僕らの脳内で生み出された妄想の産物。
都市は、自然ではない。
自然は、人工物である。
少なくとも僕らがこの国で接する自然の多くは、既に「自然」ではない。
街も森も海も僕たち自身も。
全ては僕たちの妄想が反映されている。
と、養老さんは言っていた。

僕らは、僕たちの脳内に生まれる妄想をリアルの世界に反映し続けて来た。
それが、文明ってやつだ。
脳内で生み出された妄想やイメージをリアルの世界に変換し続けてきた。

二次元世界も三次元世界も同じなのだ。
三次元世界も僕たちの妄想が生み出した。
僕たちの生きるリアルワールドは脳内ワールドの反映である。

二次元(妄想)であろうと三次元(現実)であろうと、行き着く先は同じ。

個人が二次元(妄想)世界にとどまろうと希望するならば、それは自閉にとどまり続けるしかない。
コミュニケーション遮断しても、世界との接触を試みるのであれば、もう個人の脳内にとどまった世界にはいられない。

脳が生み出した妄想は、リアルワールドへと転換される。
人間がこの世界で生きている以上、リアルワールドとの接点を絶つことはできない。
妄想は現実化され、現実は新たな妄想を生み出す。

現実化されても、全ての妄想が生き残るということではない。
生み出された無数の妄想は、エコノミクスによって淘汰される。
神の見えざる手。
エコノミクスによって淘汰される。

1960年代のSFで語られた21世紀に僕たちは生きてはいない。
1960年代のSF作家、漫画家、映画監督、夢想家達が妄想した21世紀は、僕たちが暮らす21世紀とは別次元の世界である。

腕につけたテレビ電話で会話している人はいないし、巨大ロボットは戦っていないし、僕は月旅行をしたことがないし、宇宙ステーションにもスペースコロニーにも住んでいないし、世界は人工知能に支配されていないし、キーボードはQWERTYだし、クルマにはハンドルがついているし、空も飛んでいない。
サラリーマンはあいかわらずスーツを着てペコペコと頭を下げている。

一方で、電車のなかでは、老若男女が親指でパチパチと小さなコミュニケーション機器をいじっている。
テレビチャンネルは膨大に増加し、世界のニュースはいつでも見ることができる。
バーチャル世界では、あちこちで小競り合いが起きている。

僕たち自身は一万年に渡って何らバージョンアップもバグフィックスも受けていない。
だが、僕らの脳による妄想が生み出した世界は、僕らの外的環境を激変させてきた。

妄想は現実世界へとつながり、現実世界は妄想を加速する。
妄想と現実の連鎖。

妄想は、新たなる現実を生み出し、神の見えざる手によって選択される。
選択された現実は、また新たなる妄想を生む出す。
神の見えざる手=市場=エコノミクスによって選択されなかった現実は淘汰される。

僕たちが自覚できる最小限のエコシステムである自分自身からコミュニティー、国家、世界まで。
僕たちが意図的に関与可能なエコシステムのなかで、妄想は生まれ、現実へと反映され、現実は新たな妄想へと再転換される。

妄想と現実はループする。
表裏一体の関係なのだ。
二次元も三次元も結局のところ等価に収斂する。
神の見えざる手による等価への収斂速度に違いがあるだけだ。
現実か妄想か、二次元か三次元か、リアルかバーチャルか。
それらに大きな違いはない。

現実などない。
妄想などない。
リアルなどない。
何もない。
無。
空。
空即色是色即是空。
ちーん。

ジョン・レノンの歌か般若心経みたいだ。

と、今日の時点では思ったのであった。
明日はわからない。
まだ悟りには遠い。


2005年03月20日(日) 相変わらず不眠症が改善する兆しがない

相変わらず不眠症が改善する兆しがない。

僕の場合、何かが原因で不眠症に陥ったのではなく、生来的なものである。
職業的に3時間程度しか眠らない、という生活を何年も続けてきて、さすがにヤバいだろう、ってことで一年くらい前から睡眠薬を処方してもらい、医師の治療を受けている。

現在服用しているのは、マイスリーとサイレース。
マイスリーは超強力でドカンと眠くなる。
ハルシオンの強力版。
代謝時間は2時間と短い。
サイレースは効き方はマイルド。
一錠につき代謝時間は4時間。
二錠飲めば8時間眠れる。

僕は夜、寝る前にマイスリーを一錠とサイレースを2錠服用する。
マイスリーで寝付き、サイレースで途中覚醒を防ぐ。

これで何とか8時間程度の睡眠時間を得ることができる。

クスリだけでは、イマイチ弱いので、羽布団、トゥルースリーパーの敷き布団、枕に羽根布団と重装備。
目覚まし時計も音だけではなく、光で目覚める方式の目覚まし時計である。
この目覚まし時計は、設定時間の30分前から僕の顔に弱い光を照射しはじめ、設定時間になるとまぶしさが最強になる、という代物だ。
この目覚まし時計は当初は、効果を見せていたのだけれど、だんだん僕の身体が防御反応を示すようになった。
まぶしくなると、無意識のうちに布団をかぶって光りを防いでしまうのである。

僕の睡眠障害は重度の鉄板なので、二週間に一度は病院通い。
病院に行くのは、処方箋をもらう事だけが目的である。
治療もカウンセリングもない。

「どうですか」
「変わりません」
「じゃあ、いつもので」

問診10秒。
マイスリーは一回に2週間分しか処方されないので、2週間に1回は処方箋を貰いに病院にいかなくてはならない。
めんどくせー。

翌日に早起きする必要のない金曜日の夜などに、睡眠薬なしで眠れるかどうか、何度か実験をしてみた。
見事に眠くない。
朝まで起きている。
僕は睡眠薬なしだと、2−3日くらいは眠くならない。
徹夜なんて、日常的。
睡眠薬なしだと、普通に朝まで起きている。

一般的には、何らかの精神的な原因があって不眠症になりそうなものなのだけれど、僕の場合、ほとんど生来的。
不眠を自覚したのは、小学校4年生のときだ。
不眠の原因は生まれつき、としか言いようがない。
ずっと起きていても脳のテンションは下がらない。
疲れる感覚もない。

脳は疲れないのだけれど、自律神経は持たない。
眠らない生活を続けていると、まっすぐ歩けなくなったり、心臓がばくばくしたり、手に発汗が起きるようになる。
脳より先に自律神経が根をあげる。
なので、眠くなくても無理矢理に睡眠薬を使って眠らなくてはならない。
脳は平気でも身体が持たない。

疲れを感じず、ウルトラハイテンションでも、まっすぐ歩けなくなったりする。
一年前から不眠症対策の治療を続けているのだけれど、体質的には改善の兆しはない。
マイスリーとサイレースのカクテルで人並の睡眠時間は確保しているものの、これらの睡眠薬が切れたら最後、僕は2−3日、眠らない。

はやくソルジャー向けの体質から普通の人間になりたい・・・。


2005年03月19日(土) 「愛はあっても萌えがない」僕は敗残者なのか?〜電波男

「電波男」を読んだ。
重い。
ひたすらヘビーだ。

「電波男」は萌え万歳の本である。
「現実を見ろ、俺たちには二次元しかないんだ」。
自虐的な萌えオタ本である。
キモメンを自称する著者によるオタクによるオタクのための革命本。

僕は、この本の読む順序を間違えた。
僕は「まえがき」と「あとがき」を先に読んでから本編を読む習慣がある。
「あとがき」を先に読んでしまうとネタバレになってしまう場合もあるのだけれど、たいがいの本は僕のように「あとがき」を先に読む人種を想定して作られている。
僕は、「あとがき」を先に読むことにより、積極的に読書が可能なので、本編より先に「あとがき」を読む。

「電波男」は決して「あとがき」を先に読んではならない本だ。
「電波男」の「あとがき」は最後に読まなければならない。
「あとがき」には萌えの世界に閉じこもってしまいつつも、愛を求めてやまない著者のトラウマと魂の叫びが書かれている。
これを先に読んでしまうと「電波男」を読んで単純に笑い飛ばすことはできなくなる。
「電波男」の「あとがき」は、決して先に読んではならない。
「電波男」は近年稀に見る良著だと思う。

僕は、萌えオタの自虐的な笑いを求めてこの本を読んだ。
著者は書名を「電波男」としており、電波文として書いているのだけれど、決してただのお笑い本ではない。
著者の主張には筋が通っている。
論理も破綻していない。
著者が萌えに走ってしまったという現実を除けば、僕とかなり近い思想の持ち主だと推定される。
萌えの論理展開にはサブカルをベースにしている。
著者はサブカルを否定しつつ、根はサブカルだ。
引用されている論理の多くはサブカルがベースになっている。
サブカルは堕落したオタクなのらしい。
僕は、このサイトでは経済系のネタを扱う方針であり、サブカルサイトにするつもりはないのだが、僕はサブカルに分類されてしまっている。
「電波男」のなかでも「ナゴム」の話が出てくる。
僕は元ナゴムなので、固有名詞で堕落したサブカルに分類されてしまっている。

電波男のなかで、僕がひとつだけ、僕と見解が違うのはキモメンについてである。
キモメンは顔の美醜の問題ではないと思う。
モテる男は、ルックスやカネの力でモテているのではなく、モタせているのである。
ホストを見てみろ、決してイケメンホストが人気ではない。
女性だってそうだ。
本当にモテている人もいるけれど、ルックスとはあまり関係のないところでモテたければモテる。
才能もお金もいらない。
キモメンは、自らの意思でキモメンを選択したのだ、と思う。
電波男の著者も自らキモメンという生き方を自らの意思により選択したのだろう。

僕には愛はあるけど萌えがない。

僕は、二次元世界の脱落者。
三次元世界でしか生きることができない。

二次元世界が三次元世界を逆転してしまったら、僕は負け組みだ。
本末転倒な気もするけれど、僕らの生きている三次元世界よりもマトリックスの向こう側である二次元世界のほうに、本当の幸福はあるのかも知れない。
三次元の世でちやほやされる事が今後どれだけの価値をもちつづける事ができるのだろう。
二次元のなかで脳内補完された妄想の中で幸せを得ることの価値は、いずれ三次元の世界での幸福と等価になるかもしれない。
二次全の中で脳内補完されたもうひとつの世界は、三次元を凌駕する可能性を持っている。
二次元世界における幸福は三次元を凌駕することが可能なのかもしれない。

僕には三次元世界での愛はあっても、二次元世界での萌えはない。
「愛はあっても萌えがない」僕は敗残者。

■電波男


2005年03月18日(金) 搾取される萌えオタ

僕は、オタクは否定しないし、いわゆる「萌え」という感覚は理解はできるものの、自分が二次元キャラに萌えられるか、というと難しい。

僕にとっては、「三次元ブス>二次元美女」だ。
きっとそれは、予想外の展開を期待しているからなのだろう。
二次元世界の住人は、自分で設定をできる事が二次元の優位性だと、主張する。
それは、それでアリだろう。
趣味の問題だ。
僕は、予想できない、読めない三次元の世界を好む。
現実には、ほとんどの場合において、三次元ブスの思考は先読みできる。
だけど、予想できない展開もなくはない。
どうして俺様がこんな三次元ブスに約束をすっぽかされなくてはならないんだよっ。
それは、三次元ブスだからこそあり得ること。
それが三次元での楽しみであり、風流だ。

僕は二次元萌えキャラで萌えられない。
趣向の問題だろう。
萌えキャラの設定が、僕の性欲を刺激しない。
やはり「三次元ブス>二次元美女」。
僕の妄想力が足りず、萌えキャラを性的好奇心を持って見ることができない、という旧世代の人間だからかもしれない。

僕は「萌えキャラには萌えられない」と女友達に言った。
「正常だと思う」。
でも、世の中には萌えキャラに萌える人がたくさんいるのだ。
僕は、萌えキャラに萌えられない。
これは、一種の欠陥なのではないのか?
僕は、二次元、仮想世界の人格に対して萌える、という感覚は理解できなくはないものの、萌えキャラとされるアニメやエロゲーに性的好奇心が向かない。
二次元世界にパラダイスを見つけることができた人は幸福だ。
僕の性欲は、二次元世界では満たされなかった

仮想人格に萌える、という事はじゅうぶんあり得ることだと思う。
劣化することなく、かつ自分の欲望にのっとった設定を自由にできる。
それは否定しない。
でも、それがどうして「妹萌え」だったり「猫耳」だったりするのか、については、悟りに達していない僕の精神では理解できない。
「ツンデレ」はわからんでもないが(これは僕が単に「ツンデレ属性」ってことか?)。
悟りというよりも、単純に性欲の対象にならない。
設定を理解できていないだけなのかもしれない。

二次元と三次元の乖離を妄想で埋めよう、という気持ちは理解できる。
二次元世界のキャラクターはビット数が少ない。
デフォルメされたベタ塗りのキャラ。

僕がクリエイターで活動の拠点がNYだった頃、米国人は日本のアニメーション、ゲームを絶賛していた。
理由を尋ねると、キャラクターのシンプルなラインとベタ塗りの絵がいい、と言う。
何人かの米国人クリエイターは、日本から送られてきたキャラクターデザインに対し、頭が、眼が大き過ぎる、とクレームをつけた。
リアリティーの喪失だと。
でも、大半の米国人クリエイターは、そのデフォルメされた絵をデフォルメとして理解し、受け入れた。
僕の説明に全員が納得した。

ビット数の少ないキャラは、脳内補完が可能だ。
少ないビットに対して妄想で補完することができる。
妄想とフラグで自分の欲望を達成することができる。
作り手としては、敢えてデフォルメしてキャラクターの性格を明確にするとともに、受け手による脳内補完の余地を残す。

今、萌えの世界は日本が世界に誇る次世代の産業として注目を浴びている。
萌えには全く興味のない大人が、ビジネスとして参入しつつある。
萌えの世界は、自己完結した閉域経済である。
ネタが提供され、それが同人というカタチでコピー、改変され、その同人で儲けた収益がさらに萌えに再投資される。
萌えで儲けても、それをまた萌えに再投資する、という閉じた経済圏。
そこに搾取だけを目的とした大人が介入を目論んでいる。
萌えの崩壊。
萌えをバカにしつつ、ビジネスとして純粋に粛々として遂行する大人達。
一部のオタクはそれを見抜くだろう。
だけど、多くのオタクはビジネスに乗せられ、搾取される。

やっぱり僕にとっては、「三次元ブス>二次元美女」。
攻略本の存在しない、コンサルタントでいえば「○○成功の法則」的なものが存在しない世界のほうがエキサイティングだ。
「○○成功の法則」などというアホ本を出版しているコンサルタントはアホだ。

これは、ただ趣向の問題だ。
僕は、予測できず、コントロールできないものが好き。
ある人々は、予測可能で自分でコントロールできるものが好き。
ただ、それだけなのかな、と。

自己完結した経済社会を形成している萌え社会に対して、ビジネスとして大人が介入しつつあるのは事実だ。
僕は、そっと生暖かく見守るべきなのではないか、と思う。
オタクも自分達の意志だ、コンテンツのクオリティーが全てだ、と信じつつ、現実はビジネスの中に取り込まれてしまう搾取される側になりつつあることに気づいたほうがいい。
萌えオタに受ける要素はビジネス社会からは解析済みだし、ビジネスとして取り込む準備も整っている。
萌えコンテンツを提供するために自らが萌えオタになる必然性は無い。
萌えオタの好むコンテンツを理解し、それがビジネスとして成立するのであれば、提供するまでだ。

僕は、仕事として萌えにはかかわらないつもりだし、萌え系の人間でもない。
でもね。
萌えの方々は、自己完結型の経済世界から搾取されている側になりつつあることに気づいた上で行動したほうがいい。
大人は恐いよ。


2005年03月17日(木) 資本主義者のLD/LF騒動に対する違和感

僕は、自分を「資本主義者」だと称している。
資本主義者である僕は、LD/LF騒動には強い違和感を感じる。
放送メディアとインターネットの融合に関しては、全くといっていいほど議論されていないし、僕自身も「今回の件では」ネタにする価値すら感じないので、無視する。

僕が違和感を感じるのは、「株主価値に対する短絡的な議論」と「資本主義じゃなくて資産主義か?」の二点である。


・「株主価値に対する短絡的な議論」について

LD/LF騒動で、今更ながら「株主価値」および「会社は誰の物か?」についてマスメディア等で陳腐な論議が繰り返されている。
言うまでもなく株式会社は株主のものであり、株式会社は株主への貢献が最優先される。
株式会社では、経営者も株主の委任を受けて経営を行っているのであり、経営者のものではない。
それは、ルールであり、議論の余地はない。
だが、今回の騒動では、株式会社のシステムが企業支配(ガバナンスというよりも支配)の観点に偏って論じられているように思う。

本来、企業が追求すべき、株主の利益、株主への貢献とは、何か?
ひとつは、「永続的な」株価の向上であり、もうひとつは配当である。
このあたりの議論については、僕が過去に書いており、当時と考え方に変化はないので、そちらを参照していただきたい(下記リンク参照。先に読んでおいてもらえるとうれしいです)。

株式会社にとってのステークホルダーは下記のようになる。

�仝楜�
�⊆莪�先
��従業員
�ざ箙�
�ダ�府
�Τ�主

この順序は、P/Lに記載される順序である。
P/Lに沿った形で言い換えよう。

�’箴紂文楜劼悗両ι福Ε機璽咼垢猟鷆 �
��原材料コスト(取引先への支払い)
��製造販売費用(従業員への給与支払い)
�ぜ擽睚嶌僉�金利支払い(銀行への支払い)
�ダ廼癲弊�府や社会への支払い)
�ζ睇�留保(成長のための再投資用)
��配当(株主への支払い)

P/Lにのっとった上記の順序によると、富の分配では株主が一番最後となる。
企業は売り上げに対し、最後の絞りかすを株主に配当するのである。
すなわち、株主を重視する、ということは、その他のステークホルダーである顧客、取引先、従業員等を重視したあとの最終結果である、ということである。
顧客、取引先、従業員が生産活動を行うからこそ、企業は収益を上げることができる。
企業が株主に報いるためには、顧客、従業員、取引先が製品やサービス、財を生産し、収益を上げなくてはならない。
P/L上で株主より上位にステークホルダーを重視しているからこそ、株主への貢献が果たせるのである。

だが、今回のLD/LF騒動では株主利益、と主張しながら顧客、取引先、従業員は無視されている。
これは、資本主義者の僕にとっては、矛盾に見える。
企業支配だけの議論でしかないように見えてしまう。
LDがLFおよびCXを支配したところで、うまくいかない。
取締役会を牛耳っても、顧客、取引先、従業員を無視して株主利益だけを生み出すことはできない。
僕には、株主価値を毀損することになる、としか思えない。
敵対的買収が難しいのは、これらのステークホルダーを納得させられない場合が多いからである。


・「資本主義じゃなくて資産主義か?」について

LD/LF騒動では、やたらと「資産」の話が出てくる。
C/F、P/L、B/Sのうち、B/S(資産)に関連する話題ばかりをしているように思える。
僕がアニュアルレポートを読む際に重視する順序は、C/F、P/L、B/Sの順である。
LFもCXもサービス業である。
サービス業にとって、B/Sは大きな意味を持たない。
資産、PBRベースの企業価値の評価は重要ではない。
B/Sをベースにした企業価値が重視されるのは、重厚長大型産業、設備投資型産業、インフラ産業などである。
今回は資産としては持ち株が話題の中心なので、少しニュアンスが異なるけれど、サービス業にとって、資産は多くても本業にはあまり関係しない。
僕は、資産ではなく収益で、PBRではなくPERで、語ってほしいと思う。
LDは、LFおよびCXの企業価値を上げる、というのであれば、収益およびPERが上がる施策を提示すべきだ。
どうやって収益を上げていくのか、どうやって株主価値を創造していくのか、どうやってPERを上げていくのか、について提示できなければ、LFもCXも説得できないし、市場からも理解を得られない。
(「資本主義」と「資産主義」は言葉遊びとしておもしろいので使ってみたが、きちんと論じると異なるので注意)


現状はまだ国盗り合戦の段階で、僕が書いたような事は、次のステップで論じられる事なのかもしれない。
でも、現時点でもきちんとしたビジョンが提示されなければ、LDとLF/CXの溝は永久に埋まらず泥沼化するだけだ。
泥沼化した無益な争いが続けば、当事者以外の株主およびステークホルダーは無視され続け、当事者も共倒れしてしまう。

僕は、LD/LF騒動は資本主義の本質とは異なる次元であるように感じる。
僕のような違和感を感じる人ってあまりいないのかな。
やはり僕は斜めうえか?

■2002年11月20日(水) 本当に企業は株主の利益を最優先して良いのか?
http://www.enpitu.ne.jp/usr9/bin/day?id=99799&pg=20021120
■2002年11月06日(水) 永続的に株価を上げる続けることは可能か?
http://www.enpitu.ne.jp/usr9/bin/day?id=99799&pg=20021106


2005年03月16日(水) ぱすみえ(パスみえ)

僕のサイトにはGoogle経由でのアクセスも多い。
そのなかで、最も多い検索キーワードのひとつが「ぱすみえ」である。
ここ何ヶ月かだけを見ても、「ぱすみえ」というキーワードで僕のサイトに辿りついている利用者は500件を超えている。
現在のソフトウエアの正しい名前が「パスみえ 2000」なので(以前は「ぱすみえ」だったような気がする)、僕のサイトがヒットしてしまうようだ。
僕も「パスみえ」のダウンロードサイトへのナビゲートを行なったほうが良いかもしれない。

多くのパスワードを管理している僕は、ついついパスワードを忘れてしまっている事が多い。
そんな時に役立つのが、「パスみえ」である。
「パスみえ」はWindowsでパスワードが「*****」と表示されている場合、その「*****」を本来のパスワードである文字として表示させるためのソフトウエアである。

Windowsの仕様ではセキュリティー上、パスワードは「*****」で隠されているが、そうは言っても多くのパスワードを管理していると、どのIDとパスワードを組み合わせていたのかを忘れてしまっている事も多い。
そのような場合に活躍するソフトウエアが「パスみえ」。

あくまでも自分がパスワードを忘れてしまったときのお助けツールなのだけれど、極悪な事に使用するつもりになれば、いくらでも極悪な使用方法が考えられる諸刃の剣ツールでもある。
なので、僕もとぼけ続けていた。
でも、「パスみえ」での検索が500件を超えてしまっている状況なので、きちんとソフトウエアのありかを知らせざるを得ないかな、と。

こっそり他人のパスワードを盗んだりするなよ、絶対やるなよ、ダメだぞ、警告したからな。
「パスみえ」はあくまでも自分が困ったときに使うツールだからな。

「パスみえ」は物忘れの激しい僕にとっても必須のツールだし、有用なツールだ。
緊急用にUSBメモリのなかにでも入れておいたほうが良いと思う。
自分のパソコンにインストールしておくと危険なので、USBメモリなどにでも入れておいたほうが良い。

あくまでも自己責任で、自分の良心に従って行動してください。

■「パスみえ2000」ダウンロードサイト
ttp://quickware.a-quest.com


2005年03月15日(火) 新聞購読をやめることにした

僕の大学での専攻は「新聞学」である。
ジャーナリストになりたかったわけではない。
高校生の僕は、法律や経済などの専門性を持った学問を選択する決断ができなかったので、学際っぽい「新聞学」を選択した。

新聞学専攻なので、ジャーナリズムは必須科目だった。
と、いうか専門科目はジャーナリズムが中心である。
僕の友人もジャーナリスト志望者が多かったし、実際にジャーナリストになった友人も多い。
そのような環境にいたので、新聞というメディアに対する思い入れはある。
僕は子供の頃、大人になったら新聞の購読数を増やそうと思っていた。
朝、出社前にコーヒーを飲みながら新聞5紙を読む、という大人像に憧れていた。

でも、実際に新聞5紙を購読可能な今、僕は、新聞の購読そのものをやめようとしている。
「紙媒体の新聞」に価値を見いだせなくなったからだ。

僕にとってニュースソースとしての新聞は、かなり以前から価値を失っていた。
僕が新聞を読み続けていた理由は二点あった。

・ノイズの収集
・報道の重要性の確認


・ノイズの収集

僕が自律的に知りたいと思う情報は、朝刊や夕刊を読むまでもなく、配信されてくるし、自分からも収集する。時差の大きい紙媒体である新聞から自分の求めている情報を得る、という事はもう10年近くない。僕が新聞に求めていたのは「ノイズ」である。新聞に掲載されている記事、広告の大半は、僕が「求めていない情報」である。だが、大発行部数を誇る新聞に掲載されている以上、その情報はそれなりに重要なのだろう。僕は、自分が「蛸壺化」することを避けるために新聞を読み、ノイズを収集していた。

・報道の重要性の確認

自分の専門領域において、新聞から情報を得る、ということはほとんどない。僕にとって必要なのは、自分に必要である情報が新聞に掲載されていた場合、どのページに、どの程度のスペースを取り、どのような見出しで報道されているか、であった。記事の内容、論調は、ほぼ関係ない。記事の内容には興味がなく、ただどの程度のページを当該記事に割いているか、が僕の興味の対象だった。同僚から「新聞に見ました?」と言われた場合、それは、ニュースとしてではなく、「とうとう新聞にまで出てしまった。大変だ」という意味である。


僕は、ここ数年、「ノイズの収集」、「報道の重要性の確認」という二つの目的だけのために新聞購読を続けていた。
だが、この二つの目的は既に他のメディアで代替可能である。

僕は、テキスト系のニュースはウェブ、メールニュース、映像系はニュース番組をHDDに録画して毎日見ている。
加えて、モバイル放送にも加入したので、僕の脇では常に最新のニュース映像が流れている。

ジャーナリズム、マスメディアの価値がなくなったとは思わない。
これからも重要な役割を果たし続けるだろうし、果たし続けて欲しい。
「紙媒体の新聞」も「流し読み用のメディアフォーマット」としては、最も洗練されたものだと思う。
ただ、個人的には「紙媒体の新聞」を購読し続ける理由がなくなったのである。

「紙媒体の新聞」の購読をやめようと思いはじめたもうひとつの大きなきっかけは、「捨てるのが面倒だから」、である。
地下鉄サリン事件以降、首都圏では駅からゴミ箱が撤去された。
読み終わった新聞を駅で捨てられなくなった。
新聞は会社なり、自宅まで持ち帰らなくてはならなくなった。
自宅に溜まった古新聞は重い。
捨てるのが大変だ。
僕の居住するマンションでは、新聞紙は週一回の「リサイクルゴミの日」にしかゴミに出せない。
新聞本紙とチラシは分別しなくてはならない。
著しく不便。
エコロジー云々の前に、面倒過ぎる。
新聞社は、購読者の減少を防止するために、駅のゴミ箱復活(新聞専用ゴミ箱とか)、本紙と一緒に捨てられるチラシの導入を検討すべきではないか?

と、いうことで、「新聞学専攻」出身の僕は、今年度末をもちまして「紙媒体の新聞」の購読をやめる事にしました。


2005年03月14日(月) 生体認証について考える

先日、生体認証について書いてから、僕のBBS上でいくつかのやり取りがあり、僕ももう少し考えてみた。

まず、メガバンクの生体認証カードの場合、非接触ICカードであるEdy機能、クレジットカード機能、銀行キャッシュカード機能は一枚のカード上にありながら、別の「ようである」。
生体認証は、銀行キャッシュカード機能だけで使われている「ようだ」。
また、生体認証のためのデータは、サーバー上ではなく、ICカード上に存在する「らしい」。

すなわち、サーバー側から生体認証データが流出することはない。
もちろん、ローカルで保持するICカード上に生体認証データが存在することになるので、生体認証情報の記録されているICカードの自己責任による管理は必要である。
だが、自分の預かり知らぬサーバー上で代わりの効かない一生モノである生体認証データを管理されるよりは、自分で管理できるICカード上に情報があるほうがずっといい。

銀行側の責任の都合上、自社内のサーバーで重要な生体認証データを預かりたくない、という事なのだろうけれど、これは僕にとっても納得のできる仕様である。

だが、今後出てくるであろう生体認証システムでは、サーバー側で生体認証データが保持されることが多くなっていくと見られる。
生体認証データを保持したICカードは発行コストも高くなる。
コスト高のICカードを発行せず、サーバー側だけの処理で済むサーバー認証型の生体認証は、増えていくだろう。
生体認証の議論がまだそれほど深まっていない現状では、「生体認証=安全」という印象が強い。

生体認証は今後、普及していくだろう。
そして、生体認証に対するプライバシーやセキュリティーに対する議論が本格的に高まっていくことになると考えられる。
現状では、「何だかわからないけどプライバシーがどうのこうの」という扱い。
確かに僕にも生体認証に対する「漠とした不安」はある。
その不安は、生体認証の認証キーである僕の生体が唯一不変のものであり、変更がきかないからだ。

だが、一方で生体情報が流出した場合、具体的にどのようなトラブルが想定されるのか、という問いについては、ただ「漠とした不安」であり、根拠がない。
プライバシーの何が問題なのか?論点がわからない。
僕の生体情報に関しては、人間ドックの検査を受けている病院のデータベースのほうが情報満載だ。
普通に考えて、病院よりメガバンクのほうがセキュリティーレベルが高いだろう。

生体認証データが流出した場合、実際に被害が生じるのは、僕の生体認証情報が複製可能な場合である。
複製できなければ、僕の生体認証情報が流出したところで、実被害は想定しづらい。

生体認証は、生体が複製できなければトラブルは生じないのではないか、と思う。
生体認証データが流出したところで、その情報が複製できないのであれば、大きな問題は生じないのではないか、と思う。
気持ち悪さは残るけど。

だが、指紋認証は、「グミ指」で複製可能なので×。
音声認証も、テープレコーダーで再現可能なので×。
虹彩認証は、コンタクトレンズに虹彩パターンをプリントすることにより、再現可能かと思ったが、虹彩は生体のものでなければならないようなのでギリギリ○。
静脈認証は、流出したとしても、静脈を再現できるとは思えないので○。

と、いう事で生体認証は選択を誤らなければ、それほど危険でもないのかな、と思う。
でも指紋に関しては、「グミ指」が作れる時点で、生体認証云々の前に、通常の事件で冤罪が起きる可能性があるのではないか、という気もする。

■2005年03月10日(木) セキュリティー強度と利便性のバランスは難しい
http://www.enpitu.ne.jp/usr9/bin/day?id=99799&pg=20050310


2005年03月13日(日) 「俺様チェッカー」としてのGoogleアラート

Googleアラートのベータサービスが始まったので登録してみた。
Googleアラートとは、指定した検索ワードに新しい検索結果が見つかった時に、自動でメールが送信されるサービスである。

僕は、Googleアラートに自分に関係しそうなキーワードをいくつか登録した。
これでネット上での僕自身に関する情報がメールで自動配信されてくる。

「俺様チェッカー」。

ネット上でいろいろ書いていると、自分の知らないところで、自分自身について言及されている事が多くなる。
僕は、ちょっとした思いつきだったり、メモのつもりで書いていても、世の中の全ての人がそう取るとは限らない。
軽く流してもらえないこともある。
何か書かれていても基本はスルーなのだけれど、やっぱり気にはなる。
なので、「俺様チェック」は不可欠である。

もちろん、Googleだけで完全把握できるわけでもないので、他の「俺様チェック」も必要なのだけれど、「Googleアラート」はそんな「俺様チェック」のための便利ツールだと思う。

Googleアラートは、本来は、自分の興味のある分野やニュースチェッカーのためのツールらしいのだけれど、僕は「俺様チェッカー」として使ってみることにする。
ブログ等でネットで何かを書いていたり、自分の事がネットで言及される恐れのある人にとっては、「俺様チェッカー」として便利かもしれない。
Googleアラートからのメール配信頻度は、1日に1回、1週間に1回、その都度の三種類から選べるので、とりあえず1日に1回で登録してみた。
1日に1回では多すぎるようだったら、1週間に1回に変更するつもり。

ブログを書いている人にとっては、便利かも。

■Googleアラート
http://www.google.com/alerts?hl=ja
■もう1つの日本語新サービス「Googleアラート」--検索結果をメールでお知らせ
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20081193,00.htm


2005年03月12日(土) リンク、引用はご自由にどうぞ。@your own risk

僕は、このサイトの下部に「リンク、引用はご自由にどうぞ。@your own risk」と表記している。
個人サイトでは、著作権はクリエイティブ・コモンズに準ずる、としているサイトが多い。

クリエイティブ・コモンズ2.1では、下記のように記されている。


■あなたは以下の条件に従う場合に限り、自由に本作品を複製、頒布、展示、上演、演奏、口述、上映、公衆送信することができます。 二次的著作物を作成することができます。

■あなたの従うべき条件は以下の通りです。

帰属;
あなたは原著作者・実演家のクレジットを出さなければなりません。

非営利;
あなたはこの作品を営利目的で利用してはなりません。

同一条件許諾;
もしあなたがこの作品を改変、変形または加工した場合、あなたはその結果生じた作品をこの作品と同一の許諾条件の下でのみ頒布することができます。

再利用や頒布にあたっては、この作品の使用許諾条件を他の人々に明らかにしなければなりません。
この作品の権利者から許可を得ると、これらの条件は適用されません。


当サイトにおける僕の著作権に関する考え方は少し異なる。
クリエイティブ・コモンズ2.1をベースに僕の当サイトの著作権に対する考え方を示したい。


オクノ総研の著作権に関する考え方 1.0

■あなたは以下の条件に従う場合に限り、自由に本作品を複製、頒布、展示、上演、演奏、口述、上映、公衆送信することができます。 二次的著作物を作成することができます。

■あなたの従うべき条件は以下の通りです。

帰属;
あなたは原著作者・実演家のクレジットを「出さなくても構いません」。

非営利;
あなたはこの作品を営利目的で「利用しても構いません」。

同一条件許諾;
もしあなたがこの作品を改変、変形または加工した場合、あなたはその結果生じた作品をこの作品と同一の「許諾条件に従う事なく、自由に頒布することができます」。

再利用や頒布にあたっては、この作品の使用許諾条件を他の人々に「明らかにしなくても構いません」。
この作品の権利者から「許可を得る必要はありません」。

自己責任;
当ページに記載されている情報により、あなたもしくはそれに準ずる第三者が何らかの被害を被った場合、著作者は一切の責任を負いません。


このように書くと、僕は著作権を完全に放棄しているかに見える。
違う。
僕は、読者に対し、リンク、引用、複製、改変その他の権利を認めるが、権利は放棄しない。
無制限の再配布、再利用に対する権利を認めているだけであり、オリジナルの権利はあくまでも僕のものである。
僕は、オリジナルである事の権利を放棄しない。
リンク、引用、複製、改変、その他の権利を無制限に認めている時点でオリジナルである事の権利を主張して何の意味があるのか、と思われるだろう。
でも、それが僕の自分自身に対する権利保護の考え方。

これが「リンク、引用はご自由にどうぞ。@your own risk」の意味である。

■クリエイティブコモンズ 帰属 - 非営利 - 同一条件許諾 2.1
http://creativecommons.org/licenses/by-nc-sa/2.1/jp/


2005年03月11日(金) 「エゴキャスト」とそうは受け取らないネットの関係

先日書いた『「「Google」と「MSN Messenger」で武装した集団を前に素手で勝てるか?』にまつわるネット上で反応を観察していて、いろいろと勉強になった。
僕のサイトの通常のアクセス数は1,000/日程度で安定しているのだけれど、その日は4,000/日を超えた。
異常事態にはすぐに気づいたので、僕はアクセスログのチェックを随時行なっていた。
そして、何が起こっているかをある程度、把握できた。

はじまりは、ネット上での信頼度が高い方がブログ上で僕のサイトにリンクを張った事だった。
そのブログの読者の方々が、自分のブログで僕のサイトを取り上げはじめた。
ソーシャルブックマークサイトでも僕のサイトの登録が増えていった。
最初に僕のサイトを取り上げた方のサイトからのアクセスはあっという間に減少していったものの、そのサイトで僕のサイトを見つけた方々のブログからのアクセスが急増していった。
オリジナルはあっという間に消失し、模倣者が力を得ていった。

僕は、『「Google」と「MSN Messenger」で武装した集団を前に素手で勝てるか?』を気合いを入れて書いていたわけではなく、適当に思いつきで日々の感想として書いていた。
気合いを入れて書いている日は逆にアクセスが低い。
気合いを入れて書きつづけると、どんどんとアクセスが下がっていく。

僕が、『「Google」と「MSN Messenger」で武装した集団』に初めて遭遇したのは、2年半前、デジタルキャンパスで有名な某大学の授業にゲストで参加し、お話をさせてもらったたときである。
その大学は、キャンパス内のどこでもWiFiで接続可能だった。
授業に参加していた学生は、学部生、院生が入り混じった100人程度だった。

僕が話をしている間、100人の学生がPCを広げていた。
『「Google」と「MSN Messenger」で武装した集団』である。
当時、僕には免疫がなかったので、いつもどおりにお話をさせてもらった。
質疑応答が相次ぎ、時間切れで授業が終わった後も何人かの学生が僕のところにやってきて、僕は質疑応答に応じた。
僕が話した事について、授業に参加していた学生は感想をブログで書いた。
僕は、それを肯定的に捉えた。
僕は、自分の事がブログで書かれていることについて「晒されている」というネガティブな感覚は全く無く、光栄に感じた。
それから2年半が経過し、『「Google」と「MSN Messenger」で武装した集団』が特殊ではなく、日常風景になった今、改めて書いた、という次第である。

僕はプレゼンテーションや会議のありかたが変わるのではないか、既に変わってしまったのではないか、と感じる。
Googleで検索可能な程度の知識や情報の提供では、商売にならない。
もちろん、参加者の誰もが知っている情報をプレゼンテーションテクニックにより、「共感」へと導く、という手も残ってはいる。
だが、それは僕にとっては敗北である。
結果として、付加価値のある情報は、ネットに乗らないところにしか存在しなくなってしまった。
付加価値のある情報、キーワードを提供しても、あっというまに伝播、共有化、並列化される。
100人のネットで繋がった脳の集合体である聞き手に対し、それを超える付加価値を提供することが果たして可能なのか?
付加価値を提供できたところで、その情報はあっという間に並列化され、付加価値を失う。
特定クライアントに対する提言などの完全にクローズドの場であれば、ネットで情報が伝播されることはない。
だけど、オープンな場での僕の発言は、ネットで伝播され、共有化され、並列化され、淘汰されてしまう。
僕がオリジナルだと主張しても、既に共有化され、並列化された情報は付加価値を失っている。
オリジナルであり続けるためには膨大な情報と思考、時間が必要である。
エディターとクリエイターでは必要とされるエネルギー量が桁違いだ。
エコシステム全体としては、情報が付加価値を持ち続けず、共有化、並列化されることは良い事だと思う。
一方で、僕は本業では情報の付加価値で商売をしている。
必然的にオープンな場での僕は、発言の付加価値を下げざるを得なくなっていく。
付加価値のある情報はクローズドになり、特定の企業や団体の利益だけに利用される事になる。
ダブルスタンダードだ。

僕のサイトは開始して2年半になるのだけれど、あまり攻撃には遭っていない。
なかには僕の事を個人情報つきで晒し、こきおろしている非常識な輩もいる。
僕に対する批判は構わないけど、そこに非公開の個人情報や勤務先まで同時に掲載するのは、問題だ。
それはやっちゃいかんでしょ。
僕は公人ではないし、個人サイトだ。

ごくごくたまに非常識なアホはいるものの、僕は致命的な攻撃には晒された事はない。
僕はリンク、引用、改変、コピペはどうぞご勝手に(@your own risk)、という立場だ。
僕は、自分がネット上でどのように扱われているかについて、一応の把握はしている。
コメントを返していないだけで、把握していないわけではない。

ブログは、プレゼンテーションと異なり、ある程度時間をかけて書けるし(僕は一本あたり15分〜20分程度)、間違いを指摘されれば、後から修正も可能だ。

今回の僕の書いた文章に対するネットでの情報の広がり方は、自分自身の事でありながら、大変興味深い経験となった。
どうやって情報が伝播し、共有化され、並列化されていくのか、について体験することができた。
僕のサイトのアクセス増は一時的なものとなるだろう。
次は、淘汰のプロセスだ。

僕は、自分のサイトを「エゴキャスト」だと捉えている。
自分による自分のためのサイト。
僕は自分自身に対するメモとして文章を書いている。
メジャーになりたきゃ、本業で記事を寄稿したり、大規模イベントでプレゼンテーションをやったほうがずっと早い。

僕は、「エゴキャスト」として地味に活動している。
メジャー志向ではない。
「ブロードキャスト」でも「ナローキャスト」でもない「エゴキャスト」。

僕のサイトのリンク、引用、改変、コピペは自由にしてもらって構わない。
非難中傷結構上等。
それはそれで風流というもの。
だけど、僕の個人情報、なかでも本業に関する情報をネットに晒すのは勘弁して欲しい。
それは困る。
そのような場合は、当然、削除依頼をする。
応じてもらえない場合は、それなりの対応を行なう(北朝鮮的発言)。

僕は、オープンな場で情報提供を行なう一方で、クローズドネットワークに興味が傾いている。
オープンとクローズの切り分けに対する僕の答えはまだない。
まだ試行錯誤している。
今のところ、ネットに書くのは、本業とは関係しない領域に限っている。
現在は、付加価値の高い情報はクローズドになりつつあり、一方でそれに対するオープン化の動きがせめぎあっている状況だと思う。

今回の一時的なアクセスの伸びと、その伝播のしかたは大変興味深いものだった。
これが、ネットというものなのだな、と。
最初にリンクを張った方のブログからのアクセスはあっという間に減少したのに対し、そのブログ読者が運営するブログからのリンクが、あっという間に追い越していった。
僕は、何がウケるのかが、未だにわからない。
ただ、「ウケる=マス」なのであれば、僕は敢えてウケを狙う必要は無い。
だって「エゴキャスト」なんだもの。


2005年03月10日(木) セキュリティー強度と利便性のバランスは難しい

非接触ICカードは、非接触であるがためにカードそのものに直接触れなくても、カード情報にアクセスできる。
従来型の磁気ストライプ型のキャッシュカード、クレジットカードはスキミング詐欺が多発し、社会問題化している。

従来型カードスキミングの場合、磁気ストライプの情報を入手するためには、カードをリーダーに通さなくてはならないため、カード本体に一度は直接アクセスしなくてはならない。
だが、非接触ICカードの場合、カード本体に直接触れなくても、非接触でカードの情報にアクセスが可能である。

僕はSuicaとFelica携帯を使用している。
どちらも大変便利で重宝している。

でも、非接触は危険かも。

満員電車の中でぎちぎちに詰め込まれた中でなら、僕の財布の中のSuicaカードやFelica携帯の読み取り可能な距離にまで他人が近づく事は容易だ。
デジタルスリ。
まだ被害報告のニュースは聞いたことがないけれど、SuicaやFelicaのリーダーを持ったデジタルスリが満員電車の中に登場することは時間の問題だろう。
盗まれたものは情報なので、僕は被害にあってもしばらくは気づかないだろう。
SuicaもFelicaもチャージ可能金額が小さいので、被害額は少ないかもしれないが、犯罪としては容易だ。
自動販売機等でも利用可能であるため匿名性が高く、犯人も捕まりにくいかもしれない。

何らかの自己防衛策が必要になってくると思われる。
非接触ICカードそのものは利便性が高いため、使い勝手を妨げないレベルでの防衛策が必要だ。
非接触ICカードの電波を遮断するためには、どうすれば良いのだろう?
アルミ箔でも巻いておけば良いのだろうか?
「電波シールドスーツ」、「電波シールドサイフ」、「電波シールドカバン」、「電波シールド携帯ケース」などがあれば良いのか?

電波を完全にシールドしてしまっては、非接触である意味がなくなってしまう。
Felica携帯の場合、片面だけから電波が読み取れるような工夫が欲しい。
携帯電話はFelica面からしか読み取れないようにシールドでもしておいたほうがよいかも。
二つ折りの携帯の場合、電波遮断のできるアルミ蒸着の画面保護シールでもあれば便利なんだけどなあ。
現在実証実験中であるモバイルSuicaは、Felicaの実装されている裏面でしか読み取れないそうだ。
これは、欠点ではなく利点である、と僕は思う。

携帯電話を胸ポケットに入れて満員電車に乗る際には、Felicaマークのついている裏面を内側にする習慣を今のうちからつけておいたほうが良いかも。
非接触ICカードが何枚も詰まった財布も同じく、電波をシールドできる素材で財布の片面をぐるぐる巻きにし、片面からしか非接触ICカードを読めない様ににする必要がある。
そろそろ非接触ICカード対応の電波シールドグッズが発売されてもよい頃だと思うのだけれど。

非接触ICカードのセキュリティーを高めるためには、複数の認証を組み合わせる事が有効だ。
だが、Flica携帯やSuicaはチャージ額が低く、被害額も小さいと思われるので、過剰なセキュリティー対策は利便性を損ねるだけだ。
バランスが重要。

だが、銀行カードはそうはいかない。
デジタルスリに遭った場合の被害額は大きい。
東京三菱銀行は、非接触ICカード+静脈認証のカードを発行している。
僕は、申し込もうと思っていたが、申し込むのを止めた。
理由は、二点。

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�⇒�便性が損なわれること

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生体認証カードを作る場合、僕の生体情報を東京三菱銀行に預ける事になる。
東京三菱銀行は信頼できる銀行だけど、絶対に僕の生体情報が外部に流出しない、と保証できるか、が疑問だった。
僕の生体情報は、一生変わることがない。
万が一、僕の生体情報が流出してしまったら、指紋やら虹彩やら静脈を取り替えるワケにもいかないので、生体認証は一生使えなくなってしまう。
生体認証の情報を管理する第三者認証機関があっていい気がする。
もしくは、生体認証は携帯電話など個人がローカルで持ち歩いているモノで行い、その認証されたデバイスで本認証を行う、といった二段階方式か。

�⇒�便性が損なわれること

生体認証キャッシュカードを作成すると、生体認証を使わない取引はできなくなる。
キャッシュの引き出し場所、方法が限られるうえ、窓口での取引時にも生体認証が必要となる。
これは、当然の仕様なのだけれど、利便性を考えると著しく不便である。
いつでもどこでもキャッシュを引き出せなくなる。

僕は、セキュリティーと利便性を天秤にかけた結果、利便性を優先することにした。
第三者の生体認証機関が設立され、複数の銀行やコンビニが静脈認証に対応したら、再検討したいと思う。

次の素朴な疑問は、静脈認証があるのにどうしてカード本体も必要なの?ということである。
生体認証だったら、生体がIDとパスワードの両方を兼ねているような気もする。
手ぶらでもお金を引き出ししたり、買い物したりできても良さそうなものだ。

想像するに、生体認証に完全に依存することはリスクが高すぎるために、非接触ICカードと生体認証のハイブリッドになっているのだろう。
生体認証のなかでも静脈認証は信頼性が高いとされているが、他の認証方法は簡単に破れてしまうらしい。
僕の携帯電話は指紋認証つきだけど、これは採取した指紋からゼラチンで作った「グミ指」を使えばクラックできてしまうらしい。
虹彩認証もカラーコンタクトを使えばスリ抜けられるのではないのか、と思ったりする。
市販のカラーコンタクトをつけた状態で虹彩認証の登録を行い、虹彩認証を行うときは、そのコンタクトをつけるようにする(無理だそうです)。
「想定の範囲内」だろうけど。

現時点では、非接触ICカード等の物理的IDと生体認証のハイブリッド認証が、安全であるように思う。
鍵は複数である必要がある。
堅牢なひとつの鍵がひとつあれば良い、というわけにはいかない。

僕のバイクには、何重ものセキュリティーがかけられている。

・イモビライザー(複製キーではエンジンがかからない)
・振動センサー(揺らすと爆音アラーム)
・傾斜センサー(傾けると爆音アラーム)
・極太の地球ロック(固定物に極太のロックでバイクを固定)
・ディスクロック(ブレーキのディスクをロック)
・ココセコム(バイクの場所をGPSで発信)
・バイクカバー(車種をわからなくする)

それぞれのセキュリティー強度は弱い。
僕は複数のセキュリティーグッズを組み合わせる事により、バイクを盗みにくくする、という方法を選択した。
バイク屋さん曰く、「バイクの盗難対策に完璧な方法はない。いかに盗難を面倒にさせるか、時間がかかるようにするかが重要」との事である。

非接触ICカードは、非接触である時点で「カード型」である必要はない。
チップとアンテナが実装できれば、どのような物理的形状を取っていても構わないはずだ。
指輪(Java Ringなど)でも時計(G-Shock Speedpassなど)でも何でもいい。

バルセロナには、非接触型のICチップを腕に注射してもらって、それでプリペイド決済ができるバーがあるそうだ。
日本だとプライバシーだとか医療法だとか問題はあるのだろうけれど、EPC(Electronic Product Code)と同じくIDだけが乗っかったICチップを注射してもらうのもいいかも。
既に標準化されているEPCコードのアドレスを人間にも割り振ってもらえればいい。
皮膚下に注射されたICチップは、取り出しも容易らしいので、僕は何の抵抗もない。

来年頃には、デジタルスリによる事件が新聞をにぎわしているかも。
セキュリティー強度と利便性のバランスは難しい。

■おサイフケータイに潜む、知られざる“影”とは
http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0503/08/news008.html


2005年03月09日(水) 「Google」と「MSN Messenger」で武装した集団を前に素手で勝てるか?

プレゼンテーションやミーティングで話すとき、聞いている人がPCを開いている事が多くなった。

すご〜く話しづらい。

なぜなら、僕の話を聞いている相手は、「Google」と「MSN Messenger」を起動しているからである。
僕が何かを言うたびに、「Google」で僕の言っていることの信憑性、関連情報は検索されてしまう。
話を聞いている人たちは静かにしてはいるが、「MSN Messenger」で僕の話している内容について意見のやりとりを行っている。

人によっては、失礼な行為だと言うかもしれないけれど、僕は、これは良い事だと思う。
結果として、そのプレゼンテーションなり会議の参加者が得られるものが大きくなるからだ。
ボケーっと話し手の話を受身で聞いているよりもずっと良い。

だが、話す側としては、「Google」と「MSN Messenger」を使いながら質疑応答を行うわけにもいかない。
僕は素手なのに対し、相手はネット接続されている。
しかも「MSN Messenger」でつながっている集団だ。
話す側の僕に勝ち目はない。
僕が間違った事でも言おうものなら、あっという間に指摘され、会場内に広まってしまう。
間違いを音声言語で指摘してもらえれば、それで助かるのだけれど、「MSN Messenger」で「もしかしてこの人、バカ?」とかのメッセージが飛びかっていたら怖い。
いや、実際、飛びかっているに違いない。

逆に僕が話を聞く側に回った場合、僕も同様に「Google」と「MSN Messenger」を起動している。
そして、僕は疑問点や興味のある言葉が出るたびに、Googleで検索を行い、話者の話がつまらなかったり、誤認が多いと、「もしかしてこの人、バカ?」といったメッセージのやりとりを行っている。

一方通行のプレゼンテーションであれば、問題はない。
きちんと事実確認も行っているし、話のストーリーも事前に決められている。
でも、質疑応答やディスカッションの場合はそうはいかない。
インタラクティブになった途端にヤバくなるのである。
適当な返事をしてその場をしのぐ、というオヤジワザが通用しなくなった。

「Google」と「MSN Messenger」で武装した集団とのインタラクティブなやり取りは、難しい。
シーンと静まりかえっていても、情報は飛びかっている。

なので、僕は質問されたらやたらと「と、言いますと」といった逆質問をする事が多くなった。
質問した相手は、「Google」と「MSN Messenger」で武装しており、かつ集団だ。
素手の僕より速く答えにたどり着ける可能性が高い。
僕が逆質問をすると、聞き手は検索し、聞き手同士でメッセージのやり取りを行う。
結果的に、僕が答えるよりもはるかに正確に答えが出る。

これは、聞き手としては、検索すればわかる程度の事実確認の質問をしても、もはや意味がない、という事でもある。
質問するなら視点だとか、考え方について質問したほうが良い。
話す側も視点や考え方を中心にネタを提供しなくてはならない。
聞き手は話し手の言っている事がおかしい、と感じたならば、その場で発言しなくてはならない。
そうすれば、プレゼンテーションなり会議の価値は高まる。
「Google」と「MSN Messenger」で武装した聞き手と、知見はあるが素手の話し手が共同でインタラクトすることが大切なのだと思う。

僕の日常会話、世間話では、専門用語が飛び交い、会話に直接参加していない人からは「お前ら宇宙語で会話しとんのか?」と言われることも多い。
これは、Googleで検索しながら会話をしているせいである。
いくら専門用語が飛び交っていようと、自分がわからない用語が出てきたら、その場で検索しながら会話を進めているので、お互いに何の問題もない。

今や情報の較差を埋めるために必要な時間の単位は、「秒」である。
事実上、リアルタイム。
情報の質も量もあっという間に埋められてしまう。
かつてのコンサルタントは情報の質、量、時間較差で商売ができたのかもしれない。
だが、今では情報較差はキーワードを提示した時点でリアルタイムに埋められる。

そうは言いつつも、価値のある視点や考え方は、膨大な情報のうえに立脚するものである。
質、量ともに新鮮な情報を持ち、考えつづけなければ、差別化し、商売になるだけの価値のある視点や考え方にはたどり着けない。
しかも、価値のある視点や考え方を示しても、それらはあっという間に伝播し、共有化され、並列化され、付加価値を失う。
厳しいなあ。
それでも僕は、情報をできる限り出し惜しみせずにオープンにする。

でも、やっぱりPCを開いた集団の前で話すのは怖い。


2005年03月08日(火) 「ConceptSearch」と「Google Desktop Search」で妄想

予約しておいた「ConceptSearch」が届いたので、インストールしてみた。
「ConceptSearch」とは、HDDやNASに格納されたローカル情報の検索ソフトウエアである。
自然言語によるあいまい検索に対応している。
「ConceptSearch」のソフトウエアパッケージそのものは、数日前に届いていたのだけれど、モバイル放送に気を取られていたので、まだインストールしていなかったのである。

とか思っていたら、「Google Desktop Search」の正式版も発表。
僕もベータ版を半年近く愛用させてもらっている。
「Google Desktop Search」を使うことにより、僕は、自分のHDD内のローカルデータがいかに貴重であるかについて認識させられた。
Googleありがとう。
「Google Desktop Search」は、仕事用のPCにインストールすると、万が一の際にヤバい気がするので、プライベート用のPCのみにインストール。

「ConceptSearch」と「Google Desktop Search」は、両者ともにローカルデータを検索するためのツールなのだけれど、ソフトウエアとしてのコンセプトは異なる。
「ConceptSearch」は、自然言語によるあいまい検索がウリ。
「Google Desktop Search」は何でもかんでも検索できる(可能性を秘めている)事がウリ。
それぞれのソフトウエアの生い立ちも異なる。
「ConceptSearch」は、JustSystemの持つ日本語のハンドリング力が生かされたソフトウエアであり、コールセンターやナレッジマネジメントシステムで使われていた「ConceptBase」が元である。
「Google Desktop Search」は、Googleの持つ検索エンジンのノウハウが生かされたソフトウエアだ。

僕にとっての両者の使い分けは、「ConceptSearch」は「日本語」文献から僕の探したい情報を抽出する事を中心に使い、「Google Desktop Search」は言語のみならず映像や音声も含めた情報を検索するために使用するつもりだ。
両者ともに、本日インストールしたばかりなので、使い込んでいくうちに、どちらか一方を多用することになるかも知れない。
「ConceptSearch」は有料のパッケージソフト、「Google Desktop Search」はフリーウエアという大きな違いもある。

だが、現時点では、どちらが自分にとって有用かは評価できない。

なぜ、評価できないかというと、「ConceptSearch」の検索インデックス作成にとんでもなく時間がかかるからである!
ウェブの記事には、インデックス生成に15分から20分かかる、と書いてあった。
僕は、それを真に受けて、とりあえず10GB、18,000ファイルが格納されているディレクトリのインデックス生成を始めてしまった。
結果。

3時間かかりました・・・。

インデックス生成中は、PCのメモリの大半を占有してしまうので、他の用途には使えない。
僕がいつも持ち歩いているUSB2.0接続の携帯用HDDの容量は80GB。
10GBのディレクトリは僕のファイルの一部でしかないので、これだけのインデックスだとあまり面白くない。
と、いう事で現在も、横に置いてある別のPCで検索インデックス生成中。

今後、デスクトップ検索ツールが重要度を増すことは間違いない。
昨年からソフトウエア業界で最も盛り上がっているテーマのひとつだと思う。

僕は「アタマが良い」という定義はいくつもあると思うけれど、その中の重要な要素として、「記憶していることを思い出す能力」があるのではないか、と思う。
「忘れるという能力」も人間を人間たらしめている重要な要素なので、記憶力や検索力が優れていることと、人間としてアタマがいい、という事はイコールではないけど。
僕の場合、重要な事、覚えなくてはならない事はすぐ忘れるけど、どうでも良い事はいつまでも覚えている。
人間界では、アホとも言う。

僕は、PCに数十GBのデータの情報を蓄積している。
僕は天才ではないので、当然ながらそれらの情報を覚えているはずがない。
だけど、それらはツールによって、ある程度代替可能になりつつある。
Googleのおかげで、インターネット上の情報も容易に検索可能になり、僕らはヒトとしてはアホなまま、10年前なら天才、と呼ばれても良い領域にさしかかった。
WiFi接続可能なPCを持ち込み可能なクイズ番組があったら、現状のクイズ番組は全滅だ。

「Google Desktop Search」はプラグインの開発ツールも同時に公開した。
プラグインにより、音声認識技術を使って音声・動画ファイルの内容をテキスト化し、それらを「Google Desktop Search」で検索できるようにもなる、という。
もし、それが可能になったならば、ミーティングや電話を録音してインデックス化しておけば、後から検索可能になる。

ハナシによれば、人間の生活を1日16時間、70年間、ブロードバンド品質で録画しても736TBなのだそうだ。
目と耳にそれぞれ、カメラとマイクを取り付けて行動し、HDDに蓄積してインデックスを生成し続ければ、検索可能な僕の分身ができてしまう。
僕の感覚器官の全てにセンサーを取り付けてしまえば完璧だ。
なんだか面白いことになってきたぞ。
そのうえにそれらが、センサーネットワークや外部ネットワークと連動して云々、ネットワークロボットとつながれば云々、地球と僕が融合して云々、と妄想を続けていけば、キリがない。

僕は、インターネットという外部とつながる事によるヒトの拡張も面白いけれど、「ConceptSearch」や「Google Desktop Search」によるローカルな自分を検索する事もおもしろいな、と思う。
僕は、自分自身の事が一番わからなかったりする。
検索エンジンによる「自分探し」。

ちょっと飛躍し過ぎか。

■Google、デスクトップ検索ツールの正規版をリリース
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0503/07/news029.html
■自分のPCは宝の山だった――デスクトップ情報検索ソフ「ConceptSearch」が教えてくれたこと
http://www.itmedia.co.jp/pcupdate/articles/0503/07/news004.html
■ConceptSearch for Windows
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0007N4BEQ/wwwjunokunoco-22


2005年03月07日(月) ニートな僕でも確定申告で追加納税

先日、給与明細を見ると、130万円!が控除されていた。
僕は、基本的に給与明細を見ない。
僕は、年俸制(裁量労働制)であり、年俸は12分割になっており、ボーナスもない(正しくは業績連動で雑収入がある)ので、振り込み金額が毎月金額が同じで給与明細を確認する意味がないからである。
携帯電話でたまたま銀行の残高照会をしていたら、残高が変だったので、残高明細を確認してみた。
給与が異常に低い。
給与明細を確認してみたら、130万円!の控除をされていたのである。

僕は、つい最近まで仕事をせず、会社を休んでブラブラと遊んで暮らしていた。
その間は当然「無給」である。
「無給」なので、所得税は発生しないものの、社会保険料などは発生する。
それらを僕が無給の間、会社が立て替えており、まとめて引き落とされていたのであった。

くっそー。

何とか確定申告で取り戻してやる。

昨年度は、素直に確定申告をすると、40万円の追加納税が必要になる計算になった。
それでは納得がいかないので、レーシックの手術代である50万円を医療費控除に加えたりして、何とか追加納税額を20万円ほどに抑えた。

今年度は、昨夏頃に予定納税で、15万円ほどを支払った。
今年度の年収は昨年度の半分くらいしかないはずなので、たくさん税金が還ってくるはずだ。

確定申告で面倒なのは、給与以外の収入である。
僕は、日本株の処理は特定口座に入れているので単純だが、海外口座で外国株を保有している。
海外口座+外国株であっても普通株だけなら為替の問題だけだ。
だが、僕は制限つきの株式やらストックオプションやら自分でもよくわからない難しいオプション取引やらがある。
自分でもよく分かっていないので、基本的に放ったらかしなのだけれど、制限つきの株式の制限が毎年ちびちびとリリースされ、普通株に転換されてしまう。
と、するとそれは収入とみなされ、確定申告対象になってしまうのである。

・自分でもよくわからない難しいオプション取引の例(ほぼ実話)
A君は毎月10万円をある投資のために積み立てています。A君は、数年前から毎月積み立てている10万円が自動的にこの取引に投資されるように設定しています。投資金額を日本円で設定しているのは、為替や株価の変動リスクを低下させるためです。A君は米国の銀行の日本支店にドル口座を持っています。A君は米国の証券会社の米国内の支店に口座を持っています。A君は米国の証券会社を使ってオプション取引を行なっています。そのオプション取引では、特定銘柄の特定期間の初日と最終日の市場株価の安いほうの価格の85%の価格で株を購入することができます。例えば、3月1日の株価が20ドル、8月31日の株価が25ドルであった場合、A君は一株あたり20ドルの85%である17ドルで購入することができます。実際に株を購入したのは9月30日で、その日の終値は26ドルでした。A君は26ドルの株を17ドルで手に入れることができます。積み立て期間は6ヶ月間なので、投資資金は60万円です。1ドルを100円とすると、6,000ドルなので、約353株を購入することができます。A君の投資銘柄は日本では上場していないのでドルによる取引です。購入した株の配当金も自動的に再投資されるようになっています。A君は、このドル建ての株を円にすることは考えていません。ドルのまま保有しつづけるつもりです。でも、いつか気が変わって、一部を円にするかもしれません。

さて、A君はいつどのように税金を払えば良いのでしょうか?

論点は、市場価格の安いほうで購入できること、安いほうの価格の85%で購入できること、ドル建て株の購入や売却の為替換算のタイミング、株と為替、オプションによる利益や損失等々です。

ややこしいでしょ。
しかも、これは僕のいくつかやっている投資の一形態。
このようなややこしい取引が複合しているのである。
計算式がわかっていても、過去の取引状況や為替を調べて計算しなおすだけでも一苦労。
税務署で質問されたらEXCELのシートでも使って説明するしかない。

それでも確定申告は、やらざるを得ない。
それに今年は、無給無職生活により、給与収入が半分に減っているうえに、予定納税も済ませてあるので、還付されまくりだぜ!と、意気込んで国税庁の確定申告書作成コーナーにアクセス。

確定申告書の作成そのものは簡単。
今年は株は買いのみで、一切、売却を行なっていない。
売却益はゼロなので、計算の必要なし。
制限つき株式のリリース分のみが確定申告対象。
ちなみに上記の例では、株を売却しなくても購入時点で課税される。
支払うべき税金は、その際に都度納税をしているので、確定申告対象外。
なので、5分もかからずに確定申告書作成完了。

税額を確認。

・還付される税金 0円。
・納める税金 31300円。

そんな〜っ。
昨年度からみれば、追加納税額は大きく下がったものの、予定納税をしたうえに、更に追加納税が必要なのかよ。

ショック。


2005年03月06日(日) アクセスカウンタが200,000を超えてしまった

アクセスカウンタが200,000を超えてしまった。

僕のデムパ入りの駄文を我慢して読んでくださった方々、どうもありがとうございます。

素直に喜んでいいものなのか・・・。
近頃は、アクセス数が増え過ぎるのもどうか、と思うことが多い。
僕は、思いついた事を適当に書いているだけなので、「文責」は負いたくない。
僕は、自分が思いついたことを「自分向けのメモ」として書いている。
ある方に「想定読者は誰ですか?」と、尋ねられたことがある。
僕は即座に「僕自身です」と答えた。
つまりは備忘録。

僕のサイトのアクセスのうち、半分ほどは検索エンジン経由である。
Googleで検索して、当サイトにたどり着いてしまった方々。
まかり間違って僕のサイトにやって来てしまった方々が10万人ほどいる計算になる。
ごめんなさいアホなサイトで。
たぶん、お探しの情報は得られなかったかと。

Googleの検索結果でBlogサイトが上位に表示されることが多くなった。
Googleのエンジンが、更新頻度の高いサイトを上位に表示する仕様になっているせいだと思われる。

アクセスログを見てみると、僕の所属するコンサルティングファームからのアクセスも0.5%にも満たないのだけれど、一応ある。
ログを確認してみると、Google経由のアクセス。
調べ物をしていて、僕のサイトにたどりついてしまっているようである。
僕と同じファームに所属し、僕のサイトにたどり着いてしまった同僚であろう人は、このサイトが同じファームに所属している人間が運用しているサイトだと気づいていないだろう。
リサーチをしていて、たまたま僕のサイトにたどり着いている。
「オクノ総研」というサイト名から、日系の中小ファームかなんかだと思ってクリックしたのだろう。
サイトの内容をみてムカついた事だろう。
すいません。

僕自身もGoogleのヘビーユーザーだ。
最近のGoogleは少し使いにくくなった。
素でキーワードを入力すると、Googleの上位に表示されるのは、個人ブログとショッピングサイト。
素のキーワードだけでは、僕が本来求めている情報にはたどり着けない。
自分自身でも個人サイトを運営しておきながら、Googleで上位に表示される個人サイトがウザい。
素でキーワード指定をすると、個人ブログとショッピングサイトばかりがヒットするので、まじめに何かを調べているときには「検索オプション」が必須になっている。

そうは言いつつも、アクセスしてくださっている方々の半分は、直接やってきてくださった方々だ。
ネタが続く限り、書き続けます。
期待はしないで生暖かく見守ってください。
THX。


2005年03月05日(土) モバイル放送(モバHO!)を使ってみた

モバイル放送(モバHO!)のPCカードチューナーがようやく届いた。
予約したのは、昨年秋。
当初の発売予定は、昨年末だったので、2ヶ月半の遅れ。
マニュアルは、カラーコピー。
印刷が間に合わなかったと思われる。

モバイル放送(モバHO!)とは、衛星とギャップフィラーを利用した、映像、音声、データの複合放送である。
たぶん、ほとんど世の中に知られていない・・・。
専用の受信機も存在するが、本命は僕が入手したPCカード版だろう。
専用受信機は数万円と高額で、バッテリーは2時間しかもたないので、ほとんど普及していないと思われる。

放送のしくみは、衛星とギャップフィラーである。
まずは、衛星からの直接受信。
衛星からの直接受信だと、アンテナは固定となってしまいモバイルはできないので、ギャップフィラーで衛星を補完している。
ギャップフィラーは、衛星からの放送を受信し、携帯電話の基地局的に衛星を補完する役割を担う。
ギャップフィラーの存在により、室内や電車の中等でも受信が可能になっている。

PCカードチューナーが届いたので、とりあえずCD-ROMドライブのついたノート型パソコンにセットアップ。
セットアップそのものは、CD-ROMのセットアップメニューに従うだけなので、あっという間に終了。
PCカードを繋いで受信。
何と!自宅でも受信できるではないかっ。
FOMAの電波が届かない部屋でも受信できる。
問題なし。
次に、CD-ROMドライブのついていないノートパソコンにもインストール。
CD-ROMドライブがついているパソコンに無線LAN経由でアクセスして、そこからインストール。
こちらも問題なし。

電波の受信を確認できたが、番組はプロモーションチャンネル以外は、試聴できない。
スカパー!と同じくスクランブルを解除してもらわなくてはならない。
カスタマーセンターに電話をする。
受信状態で10分から15分待てば全てのチャンネルが見れるようになる、とのこと。
チャンネルをかちかち切り替えてチェックしていると、3分くらいで全チャンネルのスクランブルが解除された。
とりあえずは2週間の全チャンネル無料視聴。
スカパー!と同じ。
2週間以内に本契約をせよ、という事である。
モバイル放送の場合、スカパー!のように複雑な契約形態があるわけではないので、必然的に映像、音声、データチャンネルの契約になる。

僕が入手したのは、PCカード版のチューナーなので、パソコンのHDDに録画、録音できる。
プロテクトの方法は、モバイル放送のPCカードが挿さっているPCでしか再生できない、というもの。
正しいプロテクトだと思う。

たぶん、モバイル放送は普及しない。
何年持つかわからない。
epと同じ運命を辿る可能性が高い。
でも、僕は支持する。

ギャップフィラーの設置コストで経営も圧迫している、と思われる。
航空機やバス、電車等の法人需要で何とかしのごうとしている。
それは正しいと思う。
事業としてはかなり難しいと思うけれど。
ワンセグ放送も控えているし。
だけど僕はモバイル放送を応援したい、と思う。

類似した放送としてはepがある。
epはコンテンツ、ビジネスモデルがあまりにもお粗末だったけれど、放送形態としては最も理にかなったものに進化する「可能性」を持っていた。
epは、コンテンツ、ビジネスモデルの失敗であって、放送形態としては理にかなっていた。
アホな某コンサルティングファームがボケたビジネスモデルを作ってしまったことにより、失敗した。
僕に仕事をくれてりゃ、あんなビジネスモデルは作らなかったのに・・・。
本来のepの姿である「衛星放送+HDD+ブロードバンド」に到達する前に崩壊してしまった。
一年早すぎた。
たった一年。

モバイル放送も、たぶん失敗するだろう。
衛星放送、ギャップフィラー、PCを組み合わせた放送形態はチャレンジングだ。
だが、現状のモバイル放送に上りのブロードバンドを組み合わせれば、ほぼ完璧な放送モデルができあがる。
モバイル放送には、上りのブロードバンドもビジネスに追加して欲しい。
そうすれば、次世代放送の壮大な実験場になる。

僕は、「お布施」としてモバイル放送の受信契約を行なう。
僕は、「自腹」でモノを買い、サービスを使ってみて、学習する。
仕事として、モバイル放送に関わっているわけではないけれど、モバイル放送は、チャレンジャーとして、epの犠牲を無駄にすることなく、放送をできる限り長く続けて欲しい、と思う。
何度も言うが、モバイル放送は成功しないだろう。
だけど、僕は敢えて契約した。
「衛星放送(+ギャップフィラー)+HDD+ブロードバンド」が次世代放送のあるべき姿なのだ。

陰ながら、応援させていただきます。

■モバイル放送
http://www.mbco.co.jp/
■モバHO!
http://www.mobaho.com/


2005年03月04日(金) これからの10年、その次の10年

「これからの10年、その次の10年」について書いてみたい。

これからの10年に起きること。

・バーチャルとリアルの融合
・ネットワーク、コンピューティング構造の変化
・ヒトのコミュニケーションありかたの進化


その次の10年に起きること。

・ヒトとモノ、バーチャル世界の融合


これからの10年。

・バーチャルとリアルの融合

これまでの10年間に僕らに起こった事は、バーチャル世界の拡張である。
ネットの普及、ブロードバンド化、ワイヤレス化により、僕らは現実世界と同様、バーチャル世界で生きることができるようになった。
バーチャル世界の拡張はまだまだ始まったばかりであり、これからも加速しながら進化を続ける。
そして、これからの10年に起きようとしていることは、バーチャル世界とリアル世界の融合である。
これまで、バーチャル世界は、情報だけで構成された「ビット」の世界だった。
そこへ「アトム」が連携する。
バーチャルとリアルが融合する。
RFID、センサー、ロボット、アクチュエイター等々。
これらのテクノロジーがバーチャル世界とリアル世界を媒介し、融合する。
RFIDのEPC、IPv6はバーチャル世界がリアル世界を認識するための識別子である。

・ネットワーク、コンピューティング構造の変化

ネットワーク、コンピューティング環境を大きく変貌させるテクノロジーは、「グリッド・コンピューティング」、「メッシュ・ネットワーク」、「オートノミック・コンピューティング」である。
n対nのコンピューティングノードがメッシュを構成し、自律する。
自律メッシュネットワークは、グリッドとなり、コンピュータは箱ではなく、環境となる。
コンピュータ産業は、電力、ガス、水道といったリソース産業と同様になる。
コンピューティングリソースだけではなく、アプリケーションもネットワークで提供される環境が整備される。

・ヒトのコミュニケーションありかたの進化

P対Pのコミュニケーションの先にn対nのコミュニケーションが存在する。
統合体としてのヒトの意識は、複合要素からなる部分集合だ。
その部分がモザイクとして、n対nのネットワークで対話を始め部分集合を形成する。
それらの部分集合は部分集合でありつつ、部分集合と部分集合は重なり合い、全体としての要素を持ち始める。


その次の10年。

・ヒトとモノ、バーチャル世界の融合

「次の10年」で形成された、「バーチャルとリアルの融合」、「ネットワーク、コンピューティング構造の変化」、「ヒトのコミュニケーションありかたの進化」が融合を開始する。
ヒト、モノ、バーチャル世界が融合することにより、ヒトとコンピューティング環境との境界線は限りなく小さくなっていく。
ヒトの身体は、免疫で物理的に保護された独立体としての形状を保ちつつも、他者や環境との境界線が曖昧になっていく。
センサーネットワーク、ロボットテクノロジーとヒトが連携することにより、ヒトの身体、脳は拡張され、環境と融合していく。
ヒトは、環境の一部であり、全体でもある。
ヒトは、統合体としての個別の独立体としての自分自身と、環境の一部であり全体でもある、という意識の乖離に対する葛藤にさらされることになる。
そして、ヒトは新たなる境地に達するのかもしれない。

僕たち人間は、生物としては一万年くらい何らの進化をしていない。
だけど、僕たち人間の持つ意味合いは、これからのほんの何年かの間に大きく変わる。
テクノロジーは絶えず進化を続け、加速度を増し続けている。
僕たちは生物としてはなんらの進化もないまま、テクノロジーによって進化を続け、環境に適応してきた。
これからも僕たちヒトは、生物としては何ら変わらないまま、外部環境であるテクノロジーの進化に、ヒト科の種として、適応し、実質的な進化を遂げていくだろう。
「変異」、「遺伝(伝達)」、「選択(淘汰)」の複合的なプロセスを高速に展開し、進化のプロセスは幾何級数的に加速度を増していく。

これらは、「これからの10年、その次の10年」ではなく、「これからの15年、その次の15年」に起きることなのかもしれない。
だけど、僕ら人類が、世界が、全ての定義が大きく変わろうとしている端境期にあることは間違いない。

僕らは今、「幼年期の終わり」にいる。
ヒトの定義が変わろうとしているのかもしれない。
僕は、どこにでもいるし、どこにもいない。
世界はどこにでもあるし、どこにもない。
中心はない、周縁もない。
僕と他人を分かつ境界線もない。
僕らの向かう先にあるものは、ある種の「彼岸」なのかも知れない。


2005年03月03日(木) クラックされないデジタル家電はダメ家電

僕が新規にデジタル家電を購入する際、重要な選択ポイントは、PCとどの程度連携可能か、である。
デジタル家電は基本的にPCとの連携をやりにくく作ってある。
PCと連携させたら最後、クラックされて何をされるかわかったもんじゃないからである。

だが、一方でPCとの連携、ハードウエアのクラックを容認、黙認している製品もある。
TiVoはユーザーが行なうクラックを容認している。
日本の製品で言えば、東芝のRDシリーズ。
僕はクラック済みのハードウエアを選択する。
東芝はRDシリーズのクラックを容認しているのかどうかわからないけれど、少なくとも今のところ問題にはされていない。

ある企業は、ユーザーが勝手に家電をPC経由でコントロール可能にしてしまう事を犯罪だ、と言う。
一方で、ある企業は、ユーザー主導で自社のハードウエアのクラック、この場合はハックされることを良しとする。

僕は、デジタル家電に対し、オープンな姿勢を取るメーカーの製品を支持する。
ユーザーが自社ハードのユーティリティーを自主的に開発し、自社製品の付加価値が高まっていくのだ。
これからデジタル家電製品を購入する際、プラットフォームがオープンかどうかを基準にして選択するユーザーが出てくるだろう。

企業によって、考え方はそれぞれだ。
製品を完全にブラックボックス化するも良し。
オープン化するも良し。
一部だけをオープンにするも良し。

今後はたとえ家電製品であろうとも、オープンかクローズドかについての議論は盛んになっていくものと思われる。
少なくとも僕にとっては、現時点でも家電製品がオープンであるかどうかは重要な要素だ。
デジタル家電メーカーは、たとえクローズド環境を目指すとしても、ある程度、ユーザーがクラックできる余地は残しておくべきではないか、と思う。

クラックされないハードウエアは、クラックする価値のないハードウエアだからクラックされていないだけ、という時代はすぐそこだ。
クラックの余地がないガチガチに固められたハードウエアは、僕にとって魅力がない。
特定メーカーに囲い込まれたくない。

MDのコーデックであるATRAC3はクラックされていない。
僕は、以前はNetMDを使い、ATRAC3で音楽ファイルを大量に保有していたのだけれど、iPodを買った際に、全てファイルを消去した。
大量のMDも捨てた。
MDは燃えるゴミなのか、燃えないゴミなのかどっちかよくわからなかったので、適当に小分けして捨てた。
そして、時間をかけてCDからMP3への変換作業をやり直した。

その際のムカつき加減が強かったので、クラックされていない製品、サービスは購入しない事を「個人的に」心に固く誓ったのである。
特定メーカーが採用しているコーデックは、絶対に使わんぞ。
特定メーカーに依存するユーザーは、そのメーカーの戦略如何によって、見捨てられる。
ATRAC3を推進してきたメーカーは、ATRAC3からMP3への公認変換ツールを無償提供すべきではないか?
DRMフリーのMP3への変換ツールが無理でも、せめてAAC、WMAへの変換ツールは提供して欲しい。
僕はもういらないけど。

僕の自宅には、古いHDDレコーダーがある。
そのHDDレコーダーのウリは、メーカーの提供するプラットフォームを利用し、ネット経由で録画予約ができる事だった。
だが、そのサービス(有料)は早々に打ち切られてしまった。
サービス打ち切りとともに、僕のHDDレコーダーはただのスタンドアローン家電に成り下がってしまった。
メーカーの提供するサービスプラットフォームに依存していてるユーザーは、メーカーの都合如何で容赦なく切り捨てられる。

ユーザーよ自立せよ!
メーカーの用意するクローズドプラットフォームに依存してはならない。

メーカーは、ユーザーにサービスを提供し続けられないのであれば、プラットフォームをある程度オープンにすべきである。
サービスプラットフォームによる収益を目指すのであれば、長期に渡ってユーザーにサポートを提供し続ける覚悟が必要だ。

いずれクローズドなデジタル家電は、市場に受け入れられなくなるだろう。
完全なオープン性は家電、という製品の性質上難しいかもしれない。
だけど、ある程度のクラックの余地は残しておくべきである。
そして、クラックされることを良しとする姿勢が必要だ。
ユーザーが自主的に自社製品の使い勝手を良くしてくれているのだ。
むしろクラックを歓迎すべきだ。

クラックされないデジタル家電はダメ家電、と言われる時代がすぐにやってくるだろう。
クラックされることによって、デジタル家電の付加価値は高まっていく。
囲い込みだけが戦略じゃない。
オープン性とクローズド性のさじ加減が重要だと思う。


2005年03月02日(水) デジタル家電の価格破壊にはサプライチェーンの効率化でしか乗り切れない

デジタル家電の価格下落が激しい。
商品ライフサイクルもどんどんと短くなっている。

それに対し、現状の家電業界がめざしているのは「垂直統合」もしくは「水平統合」である。

家電業界は、「垂直統合」モデルとして、コア部品からサービス、製品までをカバーし、ユーザーを自社に囲い込もうとしている。
特定のDRMでプロテクトされ、特定のメーカーの製品でしか再生できない音声コーデックとか、特定メーカー製品だけで統一すれば、きちんと統合管理できるネット家電とか。
そして、PC陣営の排除。
PCに繋がった時点で、僕らはプロテクトなんぞ知ったことではないので、家電メーカーはいかにしてネット家電をPCに繋げないようにするか、という無駄な努力を続けている。
イーサネットのポートをつけてしまった時点で、僕らPCユーザーの勝ちだ。
垂直統合はPC陣営がぶちこわす。

「水平統合」はコア部品をブラックボックス化して、そこで覇権を握り、デファクトスタンダードの地位を気づいたうえで、収益を確保する、という戦略。
だが、家電メーカーは、コア部品を自社製品の差別化にも使いたいとも考えるので、結果的には、デファクトには至らない。
ソニー製品だけの家、とか松下製品だけの家、みたいな世界は永久に来ない。
最終製品の差別化をあきらめ、コア部品の外販に出た場合、今度は標準化の方向に向かうが、そのコア部品によほどの付加価値がない限り、結果的にはコモディティー部品となってしまう。

僕は、垂直統合も水平統合も成立しないと思う。

いわゆるアナーキズムの世界。
カオス。

特定企業が覇権を握り、垂直、水平ともに一人勝ちになるような状況は想像しがたい。
数年後のデジタル家電業界は、リーダー不在の混沌としたマーケットが出現するのではないか、と思う。
日本製品だけではなく、台湾や韓国、中国企業、そして、ホワイトボックス家電も登場するだろう。

「デジタルコンサバージェンス時代の勝者は、ユーザーであり、大企業ではない。」

その世界では、メーカーは単なる組み立て屋でしかない。

組み立て屋に成り下がる時代は、もうすぐである。
と、いうよりも、既に現時点でも何の付加価値もない「組み立て屋」である。

そこでの勝負は、サプライチェーンの徹底的な改革ではないか、と思う。
大メーカーは「水平統合」にも「垂直統合」にも失敗するだろう。
それならば、組み立て屋としての力を強くすることに注力すべきである。

商品ライフサイクルはどんどんと短くなっている。
今やデジタル家電の商品寿命など、3ヶ月に過ぎない。
3ヶ月もたつと、新製品は旧製品となり、在庫処分の対象となる。
新商品の投入時には、豊富な在庫を用意し、垂直立ち上げが重要となる。
そして、投入した新商品は、発売と同時に一気に売り切ってしまわないと、あっという間に在庫処分の対象となってしまう。
在庫は積み上がるし、在庫処分品として販売価格が急激な下落を見せれば、ブランドに対するダメージも大きい。

ソニーを例に取ってみる。

PSXとPSP。

ソニーのDVD/HDDレコーダーであるPSXの旧モデルの在庫処分価格は、3万円台にまで下落した。
PSXの在庫調整に失敗したわけである。
PSXは予想外に売れず、在庫が積み上がった。
DVD/HDDレコーダーは、激戦市場である。
ハイテンポで新製品を投入し続けなくては、他社との競争に負けてしまう。
新モデルを投入するためには、在庫処分を行わなくてはならない。
だが、在庫を処分するためには、極端な値下げが必要となってしまった。
結果として、PSXはモデル末期になれば、安く買える、というイメージを消費者に植え付けることとなり、同時にDVD/HDDレコーダー市場の価格破壊を決定的なものとしてしまった。

つぎに携帯ゲーム機のPSP。
PSPではPSXとは逆の現象が起きた。
最も需要が大きいと考えられるクリスマス商戦に、じゅうぶんな量のPSPを投入できなかった。
本来ならば、年末までに最低でも100万台、できれば150万台程度の在庫は必要だったと思われる。
この理由のひとつは、初期需要を読み違えた、という事になる。
本当の理由は、開発が間に合わず、その後に続く製造は更に遅れてしまった、ということだと思うけれど、需要そのものも読み違えていたし、その後の対処も遅かった。
初カテゴリーへの新製品投入であり、在庫リスクを避けたかったのだろうと思われるが、ミスはミスだ。
一体どれだけのお年玉がNintendo DSに流れた事だろう。

日本企業は、原点に立ち戻るべきだと思う。
サプライチェーン改革を古典芸能と侮ることなかれ。
メーカーは今やただの「組み立て屋」である、事をきちんと認識し、サプライチェーンを徹底的に見直すことが、まずは大切なのではないか、と思う。


2005年03月01日(火) グリッド世界のコンピュータリソースの先物市場

以前から疑問なのだけれど、どうして半導体の先物市場って存在しないんだろう?
日本経済新聞の「商品」の項には、様々な先物商品の取引価格が出ている。
そして、同じ「商品」項に半導体の市況についても掲載されている。
半導体も先物扱いにすれば、いいのに。

半導体は、「シリコンサイクル」と呼ばれるとおり、需要と供給によって、価格が決まる。
大局的には、半導体の容量あたりの価格は下落するのだけれど、短期的には、需要と供給のバランスによって、上下動を繰り返す。
上下動を繰り返しながら、下落していく。
う〜む。
上下動はありつつも、向かう先は下落しかないから、空売りしか出ないので無理なのかな。
それよりもメモリとしての半導体は、物理的には全て同じ、というわけではないので、現物の商品市場には出せないのだろうか。

将来のグリッドコンピューティングな世界について妄想してみる。
世界中のコンピュータがそれぞれつながり、巨大なコンピューティング環境となっている世界である。

一般的にグリッドコンピューティングでは、CPUの共有について議論されていることが多いが、これはメモリについても言えるのではないか、と思う。
メモリの用途は、ざっくり分けると「溜める」、「ワークエリア」の二種類である。

「溜める」については、データそのものがどこに存在するか、による。
セキュリティーや使い勝手によって、ローカルにあるべきもの、ネット上に存在しても良いものがある。
「溜める」については、グリッドコンピューティング環境とは直接関係しない。

「ワークエリア」に関しては、グリッドで共有可能なのではないか、と思う。
限りなくブロードバンド化が進んで、通信の遅延がほとんどない、という時代がやってきたとする。
そうすると、「ワークエリア」としてのメモリ空間もローカルに存在する必然性はない。
グリッドとしてバーチャルにメモリ空間が存在すれば、ローカルのメモリが非力でも大きな処理能力を得られるはずだ。
グリッドでメモリを共有化して必要に応じて、必要なリソースを割り振ることができるのではないか、と。

と、するとそこには、やっぱりグリッド上のメモリ空間を売り買いする人たちが出てくるのだろうか?
企業によって、メモリ利用の繁閑期が異なっていたら、空いているメモリ空間を外販する。
グローバルに考えてみる。
早朝はパソコンの利用率は低い。
時差を利用することにより海外とのメモリリソースの融通できるかもしれない。
これって「エンロンモデル」?。

メモリの「溜める」ほうの役割も、セキュリティーや使い勝手を考えなければ、ローカルに溜めておく必然性はない。
有線系のブロードバンドの帯域幅は無限に高速化していく。
ファイバーを埋めていけば、いくらでも帯域を増やせる。
ボトルネックはルーティング技術。
無線は、有限の資源なので、何らかのブレークスルーがないと、高速化には限界があるが、有線通信に限って言えば、ほぼ無限に高速化されていく。
そうすると、データそのものもどこに存在しようと関係がなくなる。
無限に高速化されたブロードバンド環境においては、ローカルストレージの存在意義が変わってくる。

同時にメモリもフラッシュ、HDD、光のそれぞれが、どれも無限に近く低価格化を続ける。
CPUのムーアの法則は、いつまで続くのかわからないけれど、メモリについては、ムーアの法則をも超えた速度で大容量化、低価格化が続いている。

無限に高速化するブロードバンド環境、無限に大容量化、低価格化するメモリ。
データもワークエリアもCPUパワーもどこに存在していても変わらない。
グリッドの世界では、箱としてのコンピュータではなく、コンピューティング環境だ。

と、するとグリッドのなかで「帯域」、「メモリ」、「CPU」のリソースを市況商品として扱う時代がやってくる可能性がある。
モノとしてではなく、リソースとしての市況商品。
年度末の繁忙期には、コンピューティングリソースの市況価格は高くなる、みたいな世界。
某国の会計基準が変更されるから、コンピューティングリソースが高くなるぞ、とか。
コンピューティングリソースが高くなるから、先物でCPUとワークエリアを買いの予約をしておけ、とか。
グリッド環境における「オンデマンド」サービスの提供価格は、先物市場やオークションで価格が決定される可能性もあるのではないだろうか。

こういう議論がはじまるのは、何年後なのかなあ。




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