斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」
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僕は、体制側に属する人間だ。 そして、体制を維持するために存在している。 だが、僕個人は、反体制的な性格である。 僕は、体制のなかにいる破壊者だ。 「創造的破壊」、「イノベーション」、「改革」と言った美しいものではない。 では、反体制的な破壊者である僕がなぜ、体制の中にいて、体制を維持する側にいるのか? それは、体制を維持するためには、体制を内部から絶えず破壊し、変化させ続けなくてはならない、と思うからである。 僕は、体制維持には反体制的な異分子が必要だと思う。 体制を維持するために、体制を破壊する。 破壊的保守。 保守のための反動。 保守反動とは似て非なるもの。 保守であるが故に破壊を実行する。 僕にとっての保守とは、絶えず変化をもたらす事だ。 体制を同じ状態で維持することではない。 破壊し、再構築を続ける。 企業であろうと、国家であろうと、体制は変化なくして存続することはできない。 変化し続けることこそが、体制の維持である。 ガラは変わっていなくても、内部は全くの別物に変化させ続ける。 それが、僕にとっての保守だ。 体制のなかの異分子が、結果としては淘汰されることになるとしても、異分子が生まれる土壌は必要だ。 均質なシステムは存続することができない。 荘厳にくみ上げられた体制は、変化を嫌う。 だが、非連続な変化なくしては、体制は存続することはできない。 変化のための異分子を生み出す事ができなくては、体制に未来はない。 僕は、体制の外からみれば、体制擁護者にみえるだろうし、体制の側からみれば、反体制者だ。 だけど、僕の中では、体制を維持するために、あえて体制を破壊し続けている、と認識している。 そして、僕は外部からではなく、内部から破壊を実行しようとする。 僕には「何か」を変えたい、という衝動が強い。 僕は「何か」を変えるためには、新たなる勢力をゼロから作り上げるより、現状の体制を内部から破壊していったほうが効率的だと考える。 旧体制、大企業は、資金も人材も豊富だ。 旧体制は、システムとしては機能不全を起こしているかもしれないけれど、そこには再利用可能な大きな資産がある。 ゼロから新しい対抗勢力を作り上げるよりも、既に存在する資産を再利用するほうが効率的だ。 僕は体制のガワだけ残して、内部の資産を活用し、内側から破壊し、変革を行う。 構造化された体制を内側から破壊し、再構築しようとする。 これは、僕がサラリーマンになる前、学生時代に、大企業を就職先に決めたときから変わっていない。
僕は、「ほとんどサイボーグですね」と言われる事が多い。 僕は、眠らず、疲れを見せないので、サイボーグ扱いされる。 僕は、眠らないし、疲れない。 正しくは、眠気や疲れを感じる神経がぶっ壊れている。 眠気も疲れも感じる事ができないのだけれど、実際の身体は、疲弊している。 ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンが出る弁が壊れているのか? 今から1年前、僕は精神的には何らの異常も感じていなかったのだけれど、自律神経の異常により、マトモな歩行すら困難になり、あげくの果てに通常の歩行時に転倒し骨折する、という状態にいた。 僕の精神は、慢性的なナチュラルハイの状態にあり、睡眠時間は3時間だった。 複数の重要な案件を同時並行させ、週末も休まずに働いていた。 座っている限りにおいて、僕には異常は認められなかった。 重要な会議の発言においても、チームへの指示のしかたにおいても、異常はない。 だけど、立てない、歩けない。 脳は異常を認知できないのだけれど、身体が思うように動かなかった。 時間とともに、手も自由に動かせなくなり、パソコンですらマトモに操作できなくなっていった。 首から下が自分の意志通りに動かない。 戦闘状態のジャングルのような、極限状況に長期的に置かれている兵士に起き易い症状らしい。 脳は、極度の危機的状況に置かれると、防御反応としてドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンを分泌し、闘争か逃避かの態勢に入る。 本来押さえ込まれていた自分の潜在能力のリミッタ−をカットし、力を開放する。 火事場の馬鹿力、というやつだ。 だが、火事場の馬鹿力が日常的になってしまったならば、身体は自壊する。 人間が日常的には、本来の力を出し切っていないのは、自壊しないための防御機能だ。 僕は、その防御機能が壊れていた。 リミッタ−がカットされている。 リミッタ−をカットした状態で、生活を続ければ、当然ながら身体は壊れる。 クルマのエンジンのオーバーブローと同じ。 僕は、脳は正常に機能しつづけていたが、リミッタ−をカットされた脳と、ノーマル仕様の身体のバランスは取れていなかった。 身体の限界を脳が上回り、過負荷に陥った身体は、脳の指令を処理できなくなっていた。 多くの人はストレスがかかりつづけると、うつになる。 防御反応として自閉の方向に向かう。 僕の場合は、全く逆にストレスに対し、脳が開放に向かった。 ストレスに対する逆ギレである。 ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンの過剰分泌、日常的な過剰分泌の連続により、脳が開放された。 そして、それが常態化し、身体が脳についてこれなくなった。 本来備わっている防御機能がはずれているのだから、身体は壊れる。 当初、医師は、極端な睡眠不足と過労による自律神経失調であると診断した。 だが、治療を続けていくうちに、睡眠不足や過労が原因ではないことが明らかになっていった。 僕の脳は異常活性しており、身体能力の限界値を脳が超えていた。 今、僕は、薬物投与により、人間としての正常な生活を送っている。 薬物により、脳にリミッタ−をかけ、身体に過負荷がかからないようにしている。 薬物を使わなくてはまともな生活を送れない僕は、事実上のサイボーグだろう。 人間の大脳は、必要以上に強力だ。 CPUである大脳は、人間の身体のその他のシステムに対して、生きることに対して、必要以上の処理能力を持っている。 僕は、大脳の処理能力に対しては不満はない。 ボトルネックになるのは、身体であり、自律神経である。 ヒトの大脳の処理機能は、身体機能に対してオーバースペックである。 ただでさえオーバースペックである大脳は、ネットによる他者との意識の共有化、外部記憶の並列化により、かつての人類を未体験ゾーンへと誘う。 でも、僕の身体は一万年前から進化していない。 強すぎる大脳と身体の乖離は広がる一方だ。 僕は、眠けも疲れも感じない。 それは、病気であり、医療機関による治療も受けている。 でもそれは、僕だけに起こった現象ではない、と思う。 僕がたまたま、これから人類に起きるであろう脳と身体の乖離を、少し先行して体験したに過ぎない。 加速しつづけるテクノロジー、情報化、脳とネットワークの緊結合化。 脳が処理すべき情報量は、幾何級数的に累増している。 僕の大脳の処理機能は、必要な情報を処理しきった。 だが、身体は、それにはついてこれなかった。 真っ先に、自律神経が破綻した。 大脳の処理機能は、脳の外部化に対しても、対応できるのだけれど、身体は対応できない。 身体のなかでもコンピュータに例えるとバスである自律神経は、大脳と較べると帯域幅が狭い。 無限に拡張された大脳、かつて人類が使っていなかった身体のなかの大脳の処理能力をフル活用しようとすると自律神経がボトルネックとなる。 僕は、脳にも精神にも異常が認められなかったが、自律神経がオーバーロードとなり、身体がブローした。 僕は身体、自律神経は、肉体として処理能力に限界があるので、対処方法としては、大脳の処理能力を抑えるしかない。 大脳に薬物で強制的にリミットをかけることにより、自律神経、身体にかかる負荷を低減させる。 僕は、事実上のサイボーグではないのか、という妄想から逃れる事ができない。 自分の大脳、身体をケミカルを使用することでしか制御できない。 大脳と身体の乖離を避けるためには、ボトルネックでもある身体、自律神経に対し、大脳の処理機能を抑えることでしかバランスが取れない。 僕の大脳の処理を無制限に開放してしまったとしたら、身体、自律神経が先に破綻する。 「神」は、人のアーキテクチャーを設計する際に間違いを起こしたのではないか、と思う。 強力な大脳と下等動物と何ら変わらない身体、自律神経。 現代は、大脳の異常進化の時代だ。 かつては脳と身体は不可分であり、自然のなかで脳と身体はバランスを保ってきた。 だが、現代は脳と身体のバランスが崩れている。 情報処理を行なう脳ばかりが必要とされ、入出力を担う身体の相対的価値は下がっている。 僕は、脳ばかりを使用し、脳と身体の連携させるための訓練を怠ってきた。 自然のなかで過ごす事、人間や自然を相手にして戦うスポーツ。 医学的には僕は病気であり、治療中だ。 でも、それは大脳を最大限活用することではなく、大脳の処理能力をボトルネックである身体、自律神経にあわせてセーブしましょう、という治療である。 せっかく獲得した脳の拡張に対し、それを古い身体に合わせるしかない。 脳と乖離している身体は、筋力ではなく、自律神経なので、身体を鍛えても改善しない。 既に顕在化している僕の大脳の処理能力の飛躍的向上に、身体や自律神経を合わせることができない。 ネットにより外部記憶、他者の脳を共有化できる力を得た僕の大脳は、薬物によって抑制せざるを得ない。 人類の進化の最前線にいるかもしれないのに。 いや、僕の脳や身体に起こったできごとは、神の意志に反しているのかもしれない。 身体を置き去りにし、脳だけを進化させてきた僕は、もはやマトモな人間ではないのかもしれない。 自然を無視し、デジタル情報ばかりを過剰摂取し続けて来た報いかもしれない。 ネットによる大脳の異常拡張に対して、一万年前に神が創りたもうた旧バージョンの身体に、脳の出力を抑制することによりレベルを合わせる。 僕のバスである自律神経は、一般の人と同じなので、僕の大脳の拡張に身体は耐えられない。 僕の脳と身体の乖離は、脳にリミッターをかけることにより対処されている。 僕の脳の処理能力にはまだまだ余裕がある。 でも、身体はついてこられない。 脳の異常進化と置き去りにされた身体の乖離は大きい。 いっそ脳だけ残してサイボーグになってしまったほうが良いのではないのか、という妄想が僕のアタマをよぎる。 だが、それには、身体の拡張ではなく、バスである自律神経の帯域幅を増やさなくてはならない。 アーキテクトである「神」の人類に対する設計は、大脳はオーバースペックであり、身体は大脳に対して脆弱だ。 なかでもバスである自律神経の帯域幅は狭い。 シナプスの反応は、大脳の指令に対して、あまりにも遅い。 僕は、機械ではないけれど、薬物を使用しなくては、マトモな社会生活を送れない。 僕自身は既にスタンドアローンでは存在し得ない。 僕は、ネット接続された外部記憶、他者との繋がりによって、なんとか成立している。 僕は、医師から処方された薬物が切れたら、人間としてマトモに生きていく事ができない。 僕は、脳をネットに強結合させることにより、ネットワーク化された身体として存在しており、脳本体は薬物により脳内物質の分泌量をコントロールして生きている。 僕はハードウエアとしては機械ではないけれど、ネットワークや薬物の支援により、存在している。 ネットやシステムによる過剰なまでの支援を前提として存在しつづける僕は、社会学的や心理学的な問題より先に、医学的に異常をきたした。 僕は、既にサイボーグなのだろうか?
ゴールデンウィーク明けに会社がビルを引っ越す。 今のオフィスは、大地震が起こったら倒壊の恐れがある、と香ばしい理由。 移転先のオフィスは、高層タワー。 オフィスエリアの最高層階。 テロリストが飛行機で特攻するには、最高のロケーションにある。 ゴールデンウィーク明けからは、新しいオフィス。 新しいオフィスの自分の座席は最も眺望が良いであろう、と思われる最高の場所を確保。 自分のプロジェクトチーム用にプロクジェクトルームも確保。 コンサルティングファームには固定席はない。 座席は予約制である。 僕は長期的に座席を予約しているので、事実上は固定席ではあるけれど、システム上は、専用の場所はない。 引越し前の最後の夜のオフィスには、社員はもう誰もいない。 ゴールデンウィーク前の夜に、残業しているバカは僕一人。 引越し業者さんは既にオフィスの解体作業に入っている。 僕のブースを残して、どんどんと解体されていく。 工事現場だ。 「あと10分でLANに接続できなくなります」 「構いません。AirH"で繋ぎます」 僕の仕事道具一式は既に運送業者さんに渡ってしまっているので、カバンに入っている機材が僕に残された仕事道具。 2台のPCと200GBのHDD。 2台のPCと200GBのHDDを持ち歩いている時点でバカだ。 加えて僕は、有線、無線LAN、AirH"、FOMA、PDC、衛星チューナーといった通信手段も持ち歩いている。 オフィスが工事現場と化していようと、公園だろうと仕事にほとんど影響はない。 ゴールデンウィークは、しっかりと休みたいので、休暇前にできる仕事は全て完了させておくための残業。 と、いいつつ僕は完全モバイラーなので、どこにいても仕事は通常どおり。 ネットに接続できる場所にいる限り、僕の身体は地球上のどこにいても影響は少ない。 ネット接続環境よりも電源確保のほうが問題だ。 徹底的に機材を軽量化しているにもかかわらず、僕はバッテリーの予備をいくつも持ち歩いている。 燃料電池が欲しい。 オフィスは既に工事現場と化しているので、iPodで耳を塞ぐ。 ドリルの音に負けないようにボリュームを上げる。 冷静に考えると、LANに接続できないオフィスでAirH"でつないで仕事をするよりも、ブロードバンド接続が可能な自宅のほうが効率が良いことに気づいた。 ネット環境や機材に関しては、オフィスよりも自宅のほうが充実している。 ペーパーレスな僕にとっては、オフィスには紙の資料はほとんどない。 本も自宅のほうが多い。 僕はネットを使って、やりとりをしているスタッフに「メシでも食わね?」とメッセージを送った。 「すいません、今、バルセロナにいます・・・」 何だ、日本国内にいなかったのか。 携帯が留守電だったのは、そのせいか。 仕事はできても、物理的身体がなければ一緒にメシは食えない。 物理的身体がどこにあってもコラボレーションして仕事ができてしまう。 とんでもない仕事スタイルだ。 オフィスの引越し作業の工事を見ながら、オフィスって何なのだろう、とフト思った。 名刺に書かれた都内の一等地の住所表示、高層タワーの最上階という記号性。 ささやかな会社に対する帰属意識の象徴。 物理的身体を使ったコミュニケーションの場。 物置。 ネット化された仕事スタイルの僕にとって、オフィスの持つ意味あいは、大きく変わりつつある。 でも、本音ではオフィスは、ダサい場所にあろうと狭かろうとボロかろうと、何だっていい。 いるべき場所にいつもいるべき人がいる。 自分にもナワバリとしての居場所がある。 そういう人の本能に近いことが大切だ。 僕はゴールデンウィーク明けに、超効率化された最先端オフィスてはあるものの、人の動物的本能を省みないオフィスに引っ越す。 新オフィスでは、コンサルタントの固定席は完全に排除される。 ナワバリは消える。 僕は例外だけど。 プロジェクト単位でメンバーが構成され、数ヶ月単位で召集、解散を繰り返す僕たちは、帰属意識を消失しがちだ。 仕事場所に加えて、人間関係においても上司や部下の関係はプロジェクト単位だ。 プロジェクトの終了とともに上司、部下の関係も消滅する。 動物である人間はナワバリや居場所、ある程度固定化された主従関係がないと、精神的に安定しないんじゃないのか?と思う。 僕は、所属するファームに対する帰属意識や忠誠心が薄い。 クライアントやプロジェクトに対しては絶対的な忠誠心を示すが、自分が所属するファームに対する忠誠心は小さい。 それは、人間の、動物の本能に根ざしている問題だと思う。 僕は、動物としての人間だ。 だけど僕は「値札のついた商品」だ。 でも、僕は、商品であったとしても、動物的本能を持った人間だ。 ささやかではあるものの動物としての本能を残しているで僕たちにとって、ナワバリや居場所、ある程度固定化された主従関係は必要だと思う。 僕たちは会社のP/L上も人件費ではなく、原価である。 クライアントとの契約書上も時間単位での切り売り。 脳の時間単位の切り売り。 僕たちは、お前たちに要求されているものは脳だけだ、身体など無駄でしかない、と宣言されている事と同義だ。 僕は、自分にとってはほとんど思い入れのない引越し作業中のオフィスから、最終退出者として外に出た。
2005年04月27日(水)
ゲーム脳コンサルタント
こんな事を書くとマジメなコンサルタントの人からは叱られるのだけれど、戦略コンサルティングは「ゲーム」である。 ゲーム理論の話ではない。 いわゆる普通のプレステなどのゲーム。 ゲームの世界では、世界はデフォルメされ、その世界のなかでだけ通用するルールのなかで行なわれる。 閉じた世界だ。 僕は、戦略コンサルティングの世界はゲームの世界と非常に近いのではないか、と思う。 戦略コンサルティングは、主に経営戦略を扱う。 フィーがクソ高いせいで、基本的にクライアントは大企業しかいない。 扱う案件も経営戦略であり、業務系の改革ではない。 業務改革やらCRMやらSCMといった現場に近い案件やシステム寄りの案件もコンサルティングファームには持ち込まれるのだけれど、僕は一度も経験した事がない。 戦略コンサルティング一般、そのなかでも僕個人に限って言えば、現場からは恐ろしく遠い仕事が多い。 事件は現場どころか脳内で起きているのである。 「僕の戦略策定」は脳内設定で、かつ妄想補完により行なわれる。 「ソースは?」 「脳内です」 僕自身は中途採用コンサルタントなのでハズすことはほとんどないのだけれど、新卒でずっと現場感のない戦略コンサルティングを続けていれば、救いようのないとんでもないコンサルタントになってしまっていただろう。 大企業の戦略策定、となると扱う対象が巨大なので、リアル感は薄い。 リアルの企業、現場を完全に掌握できれば良いのだけれど、そんなことは不可能である。 市場や競合企業の捉え方もリアルに捉えすぎては収拾がつかなくなる。 どうしても、現実世界をデフォルメし、世界を閉じたものとして戦略策定を行なわざるを得ない。 複雑なものを複雑なまま捉える複雑系のようなアプローチもないわけではないけれど、戦略策定においては一般的ではないし、戦略の実行も困難である。 「複雑系風味デフォルメ味」あたりが実効限界。 現実のコンサルティング業務においては、現場感とデフォルメされた企業、市場、競合の間を行き来する。 高い目線と低い目線を行ったり来たり。 鳥の目になったり、虫の目になったり。 だが、最終的な戦略は、高い目線でまとめ上げられる事になる。 高い目線で戦略を策定するためには、ノイズを排除し、現実世界をデフォルメすることになる。 「結局、つまりは、一言で言っちゃえばこういう事です」 数千万円かけて作られた戦略であっても、結果は30秒以内に説明可能である。 戦略は、エレベータートークで説明可能でなくてはならない。 そういう仕事を長く続けていると、日常の思考もデフォルメされたものに偏っていく。 複雑怪奇な世の中を閉じたゲームのようにデフォルメして捉えるような思考回路が定着してしまう。 「えっ?なんで?ロジックが破綻してるじゃん。そんなのデートを断る理由になってないじゃん。きちんと説明してよ」 「本日の合コンの目的は3つ。まずは・・・」 「あのさあ、何で10分も待ち合わせに遅刻してくる訳?僕の10分のフィーを知ってる?」 現実世界ではやっていけない。 そうやって、皆さん破局していく。 完全なゲーム脳である。 一方で戦略コンサルティングはゲームである、と開き直ってしまえば、仕事はお気楽である。 新しい案件は、新しいゲームをもらうようなもの。 お金までもらえる。 本屋に行けば、攻略本もたくさんある。 ネットにも攻略法はたくさん落ちている。 攻略法が見つからなければ、攻略法を知っている人を探せばいいだけ。 で、ちょっとだけ自分でも考える。 プロポーザルを書きつつ、今回はイージーモードだとつまらないので、ちょっとハードモードで行ってみようかな、とか。 テーマに飽きてきたので、やりこみ要素を加えてみようかな、とか。 僕の道楽につきあわされるスタッフは、ベリーハードモードだったりもするのだけれど。 戦略コンサルティングの仕事は、ゲームと非常に似通っている。 必然的に戦略コンサルタントの適性とゲーマーの資質は似てしまう。 正しくはゲーマー兼ゲーム制作者だけど。 閉じたゲームの世界では、ゲームの世界観の設定者は神だ。 よって僕らは神だ・・・と思い込むことにする。 プロポーザル書きはゲームの制作や世界観の設定であり、戦略策定プロジェクトはゲームの実行だ。 策定された戦略は複雑怪奇なビジネス世界をデフォルメしたものでしかないので、戦略の実行段階で成功しようが、失敗しようが戦略コンサルタントは責任を負えない。 もちろん戦略は実行可能なものを策定するのだけれど、現実の実行までを請け負うことは稀である。 ほぼ全ての戦略コンサルタントは自分の策定した戦略の実行まで手がけたい、と願うのだけれど、クソ高いフィーのおかげで、戦略の実行段階までお付き合いできる機会もクライアントもほとんどない。 戦略系以外のコンサルタントやクライアントの現場に引き継がれていく。 僕も現場の記憶がどんどんと薄れていく。 戦略策定を行いつつ、「ああ、これはほとんどゲームやってるのと変わらないな」と感じることが多い。 まあ、そのせいで仕事のせいで徹夜が連続していても、徹夜でゲームをやりこむのと脳の働きも精神状態もほとんど変わらないので、何とかやっていけている。 逆に、とりあえず発売日に買うだけ買っておいてパッケージすら開いていない積み残しゲームのほうが苦痛である。 何とかゴールデンウィークにキャッチアップしなくては。
2005年04月26日(火)
かく言う私もヲタクでね
僕のサイトはヲタクサイトからのリンクが多い。 多くのヲタクサイトからは、敵視されているのだけれど。 と、言いつつ僕自身はずっとヲタクと呼ばれ続けてきた。 ヲタクと言ってもいろいろある。 僕はいわゆるアキバ系ではないのだけれど「いろいろマニア」である。 僕は、アニメも見ないし、マンガも読まないし、エロゲーもやった事がないし、萌えにも関係ないのだけれど、ヲタクと呼ばれている。 コンピュータ、ゲーム、クルマ、バイク、音楽、読書等々。 「いろいろマニア」なので、音楽だけを取ってもヲタク扱い。 自宅にギターが1ダース。 生ピアノもあるし、キーボードやDTMの機材も一通り揃っている。 マーシャルのJCM2000まである。 iPodには12,000曲ほど詰まっている。 洋楽専門で、かつ聴くほうよりも演奏する側なので、本来はヲタクじゃないはずなのだけれど、それでもヲタク扱い。 「ZTTレコード好きなんです。発売されたCDは全て持っています」 「ヲタクー!」 「Ducatiのスーパーバイクに乗っています。国内に10台くらいしかない限定モデルです」 「ヲタクー!」 「Audi TTクワトロのマニュアルに乗っています。スポイラーなしの初期型モデルです」 「ヲタクー!」 「ドラクエ8は発売3日めで終わらせました」 「ヲタクー!」 「自宅にサーバー立ててどこからでもアクセスできるようにしました。自宅のNASの映像や自宅内のカメラや自宅内のシステムも一通り外部から操作できます」 「ヲタクー!」 「いつも合計160GBのHDDとPCを持ち歩いています」 「ヲタクー!」 「新製品の情報家電は、発売日ゲットが基本です」 「ヲタクー!」 等々・・・。 いわゆるヲタクとは違うとは思うのだけれど、人は僕をヲタクと呼ぶ。 職業が戦略コンサルタントなので、クライアントの業界だとか業務だとか商品だとかサービスにも異常に詳しくなったりするのだけれど、その時点でもヲタクと呼ばれる。 仕事なんだよっ。 異常に詳しくならなきゃ仕事にならんのだ。 音楽だって、元インディーズだったり、スタジオでエンジニアとして働いていたせいで詳しいのである。 基本は、作る側、提供する側にいる事が多いせいで、僕はヲタクと化したのである・・・はずだ。 「業務上過失ヲタク」であるにもかかわらず、人は僕をヲタクと呼ぶ。 僕が様々な事に異常に詳しかったりする理由の多くは、業務上しかたなく詳しくなったのである。 僕は、プロジェクトが終わった後もウォッチし続けていたりもするので、僕のヲタク領域は広がる一方である。 性格的にマニアックにいろいろ調べてしまう、提供側に回ってしまう、という事も災いしているのかも知れない。 そのうえ僕は戦略コンサルタントのなかでは、机上のお勉強、偏差値レベルにおいては最底辺である。 いきおい身体を張るしかない。 プロジェクトとして、仕事として距離を置いてやってりゃいいものに、のめりこんでしまう。 第三者ではなく、当事者になってしまう。 ミイラ取りがミイラになる、とも言う。 僕は、コンサルティングのプロジェクトが終了しても、当該領域をそのままウォッチを続ける。 気になるので、プロジェクト終了後もウォッチが止められないのである。 お蔭様で、僕のヲタク領域は際限なく広がる一方であり、収拾がつかない。 僕のヲタク領域は全て業務上の必要性から始まっている。 きっかけは全て仕事。 一応、僕の全てのヲタク領域でお金を稼いでいる。 逆に言えば、お金にならない領域でヲタクになった経験はない。 かくして僕はヲタクと呼ばれる。 でも僕がヲタク体質であることは否定できない。 ヲタクと言ってもいろいろあるのになあ、と思う。 一億総ヲタク。 ヲタクか一般人かの違いは「マイナーか、メジャーか」、「浅いか、深いか」、「提供者か、受け手か」でしかない。 僕の場合は、仕事に身体を張ってるだけなんだけど。 おいっ、アニメを見ないと書いておきながら、「かく言う私もヲタクでね」という言い回しが、既に某アニメの台詞のパクリだろっ。>>僕
2005年04月22日(金)
個人ブログの快適ゾーン
梅田望夫さんのブログで、「ブログにとっての快適なアクセス数は、500-3,000PV/日じゃないか」、というコメントが書かれていた。 「500-3,000PV/日あたりが、Blogを書いていて、けっこう楽しいいいゾーンなんじゃないかな、と思ったりする。そのくらいだと、読みたいと意図して訪ねてくれる人がほとんどで、それ以上になると、背景を知らずに何かの拍子に飛び込んでくる感じの人が増えてくる」〜ブログのPage Viewについて(梅田望夫さんのブログ) 激しく同意。 僕も「500-3,000PV/日」という数字は納得感がある。 もう少し絞ると「1,000-2,000PV/日」くらいが、「現在の僕」にとっての快適ゾーンだ。 アクセスが3,000PV/日を超えると、ノイズが目立ちはじめる。 5,000PV/日を超えると、変なメールが届いたり、2ちゃんねるに晒されはじめる。 7,000PV/日を超えると、あからさまな攻撃を受けることになる。 10,000PV/日に近づくと、もはや制御不能。 ログの解析すら面倒くさくなってくる。 逆にアクセス数が1,000PV/日を切ると、不安になる。 ブログ運営者にとっての快適ゾーンはそれぞれ異なるだろう。 ブログの内容や特性、ブログ運営者の考え方や感じ方はバラバラだろう。 このサイトの先月(3月)の平均アクセス数は2,150PV/日。 3月10日から3月24日の2週間の平均を調べると、3,297PV/日。 最大瞬間風速は3月21日の9,054PV/日。 「1,000-2,000PV/日」という僕の快適ゾーンを超えていたことになる。 複数のネタに対する複合したコメントが飛び交い、一時的にアクセスが集中していた。 あるネタは徹底的にコキおろされ、あるネタは同意あるいは賞賛された。 コキおろしと同意、賞賛を同時に受ける、という面白い状況に僕はいた。 時間とともにコキおろされたネタに対する同意、賞賛や、同意、賞賛されたネタに対するコキおろしも始まり、ワケのわからない状況に陥っていった。 同じ文章でも人によって受け取り方は様々だ。 僕はそれほど過激な内容は書いていないつもりだ。 僕には確固とした思想信条があるわけではないので、特定の思想信条を持った人から攻撃を受けにくい、と思っていた。 ほとんどはビジネスマン向けの内容だ。 ニッチな事しか書かない。 一般ウケしそうな事や時事ネタはほとんど書かない。 一般メディアや他のブログ、掲示板等で、既に伝播しているようなネタは書かない。 書いている場合は、個人の視点で書いている。 僕のサイトは閉鎖系コミュニティーであるイントラネットから始まっている。 閉鎖系コミュニティーの限界を感じて開放系のインターネットに移行した。 メジャー志向ではなく、特定の層を対象とするつもりだった。 サイト開設時の読者の大半は、リアルの僕を知っている人たちだった。 僕は、リアルの僕を知っている人だけのコミュニティーの限界を「少しだけ」広めよう、と考えていた。 でも、開放系のインターネットによる情報配信は、僕が想定する特定層だけにきちんとリーチできるわけではない。 僕のサイトはリーチしたい人にきちんと届くほどメジャーではないし、それ以前にアクセス数が増えていくと、想定外の読者が増えていく。 そもそもの想定読者がニッチ層なので、アクセス数が増えると想定外の読者比率のほうが高くなっていく。 閉鎖系コミュニティーでは、もともとのパイが小さ過ぎるし、開放系のインターネットでは、パイが大き過ぎる。 雑誌のように読者層が限定されるような形態をとることができると良いのだけれど、ネットはカオスだ。 だったら、mixiなりGreeで書けよ、という話にもなるのだけれど、SNSの雰囲気は好きではない。 僕にとってのSNSはリアルの人間関係の延長線上、あるいはリアルの人間関係すら正確に反映していないいびつな存在だ。 SNS上の僕の登録キーワードは「洗濯機が回ってるのをながめる」、「親指が90度以上まがる」 だ。 「洗濯機が回ってるのをながめる」のが好きで、「親指が90度以上まがる」人は僕の仲間ですう、お友達になってくださいっ、ってか? 僕の周りにいるコンサルタントたちは、目立たないように気をつけながらネットで発言している。 僕が「リンクをはってやろうか?」というと、100%の確率で「勘弁してください」と返される。 僕のサイトはコンサルタントにとっては、危険ゾーンらしい。 僕は、サイトのタイトルに「斜めうえ」と表記している通り、「いかにして視点をズラすか」、に力点をおいている。 あえて少数意見の立場をとって、文章を書いているつもりだ。 ストレートな視点にたった意見は他のメディアなりサイトで見てください、というのが基本的なスタンスだ。 「意図的」に視点をズラしているつもりなのだけれど、アクセスが増えてくるとそれを理解しない読者が増えてくる。 なかには「本音は違うんじゃないか」といった深読みの批判まである。 文章外の本音の部分にまで踏み込まれて批判されても、僕としてはどうしようもない。 アクセスが増えてくると、僕自身は少数意見を自認し、視点をズラして書いているつもりであっても、そうは理解されなくなっていく。 ストレートな視点をすっ飛ばした少数意見であり、そもそもの視点がズレているのだから、攻撃に遭うのかもしれない。 過激な意見は書いていないつもりなのだけれど。 僕にとっては「1,000-2,000PV/日」あたりが、読みたいと思ってきてわざわざアクセスしてくださっている読者比率が最も高いと思われるので快適だ。 バカ、アホ、死ね系の批判はスルーするとして、建設的な批判、意見や僕の誤認を指摘してくださるありがたい読者のほうが圧倒的に多いのも事実。 ブログの可能性と限界ってどのあたりなのだろう? メディアとしてのブログはまだ成熟していない。 これからも様々なサービスにより変化していくのだろう。 ネットコミュニティーやネットメディアの進化状況をリアルタイムで体感できる環境にいられる事は面白い。 ■ブログのPage Viewについて(梅田望夫さんのブログ)http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050413/p1
2005年04月20日(水)
放送と通信の融合を斜めうえに考える
放送と通信の融合を斜めうえに考えてみたい。 「インターネットと放送の融合論」には、いくつかのパターンが存在する。 ■テレビ側からのアプローチ −テレビにブラウザを搭載し、番組と連携 −テレビ動画をインタラクティブにする(BML[Broadcast Markup Language]など) ■インターネット(PC)側からのアプローチ −インターネットで動画配信(ストリーミング、ダウンロードなど) −インターネットから放送への誘導(EPGなど) どれにしてもあまりしっくり来ない。 テレビ側からのアプローチは、せいぜい番組に関する詳細情報を得る事、とかコマースに結びつけるとか、アンケートによる番組参加程度。 テレビの前でパソコンを開いてGoogleで検索しながら見るほうが効率的だ。 テレビのリモコンでおたおたと操作するよりもPCのほうがずっと楽に操作できるし、テレビの画面がマルチウインドウになると画面が見づらくなる。 テレビにブラウザを搭載させるよりも、テレビとは別にブラウザがあったほうが現実的には使いやすい。 よって、この領域は死屍累々であり、成功事例はない。 インターネット側からのアプローチは、ニーズとして存在するだろう。 テレビはコンテンツの宝庫である。 テレビの放送コンテンツがアーカイブされ、過去のコンテンツも含めて視聴できるようになれば、便利だと思う。 だが、現実にはうまく行っていない。 理由としては、著作権の問題が大きいとされる。 放送コンテンツには通常の著作権に加えて、著作隣接権が存在する。 CXがLDにネットで自社コンテンツを流す事を拒絶する際の最大の言い訳でもある。 でも、これは処理が面倒くさい、というだけの話であり、ちまちまと人海戦術で権利処理を行うこと、番組制作時に関係者と隣接著作権に関するきちんとした契約を交わしておけば、いずれは何とかなる問題だ。 なので、今回は斜めうえの視点。 民放のテレビ放送は、広告収入で成立しているので、本来はネットで流せるものであれば、いくらでも流したいはずだ。 広告主にとっても、ネット配信時に視聴者のドメイン等から判断して、最適な広告を挿入して流せるはずだ。 プロバイダのアクセスポイントから視聴者の居住地域も特定できる。 ある程度の属性データも組み合わせることができるはずだ。 ところが、現実には放送コンテンツはネットには流れない。 著作権処理に加えてもうひとつの理由は、インターネットによる映像コンテンツの配信はインターネットの構造上、そもそも「ブロードキャスト」には向かないからである。 インターネットのしくみ上、トラフィックはあちこちのサーバーをルーティングするので、リッチコンテンツがそのまま流れてしまうと、インターネットの全体的なパフォーマンス低下を招く。 コンテンツそのものも帯域が確保されないと、きちんと再生できない。 traceroute(tracert)を使ってコンテンツのトラフィック経路を調べてみれば、多くのサーバーを経由していることがわかる。 マトモに動画コンテンツを配信しようとしても、インターネット網は現時点ではリッチコンテンツの配信に耐えられるだけの帯域、容量を持っていない。 よって、動画配信を行うためには、インターネット網を使わず、ウォールドガーデンと呼ばれる専用網を使う事が現実的だ。 NTTが提供するフレッツ網などもその一種だ。 フレッツユーザーは、インターネット網ではなく、フレッツ網を使ってNTTが提供する動画コンテンツを視聴するようになっている。 IP電話も同じだ。 IP電話も動画配信と同じく、インターネット網を使わずに専用線網を使うことにより、帯域を保証している。 ちなみに、SkypeはP2Pなので、意味合いが異なる。 ウォールドガーデンではなく、通常のインターネット網を使って動画を配信しようとするならば、CDN(Contents Delivery Network)を使う。 CDNとは、乱暴に言ってしまえば、コンテンツを配信サーバーから直接配信するのではなく、キャッシュサーバーとして分散配置されたサーバーから配信するしくみである。 コンテンツを一カ所のセンターから流すのではなく、分散配置されたキャッシュサーバーから配信する。 センターからキャッシュサーバーへの配信は衛星等を使う。 コンテンツをエッジ、ユーザーに近いところに寄せることにより、無駄なトラフィックを軽減させる。 コンテンツ配信は、エッジに近づけば近づくほど、キャッシュサーバーの数は増えれば増えるほど効率が良くなる。 では、究極のエッジサーバーは何か?と考えてみる。 それは、ユーザーのHDDである。 究極的には、コンテンツはユーザーのHDDに蓄積されているのが最も効率的だ。 HDDのコストは恐るべき勢いで下落し、大容量化を続けている。 ローカルのHDDにコンテンツをキャッシュしていけば、インターネットのトラフィックを無駄に混雑させることはない。 混雑どころかトラフィックは発生しない。 逆説的に言えば、放送のローカルのキャッシュサーバーはHDDレコーダーである。 HDDレコーダーはあっという間に普及してしまった。 放送と通信がどうやって融合しようか、とゴチャゴチャ議論している間に、究極のエッジサーバーであるHDDレコーダーのほうが先に普及してしまった。 コンテンツ配信にインターネットを使わないただのHDDレコーダー。 僕はHDDレコーダーを使用し始めてからそろそろ3年になる。 ネット配信を待つまでもなく、自宅のHDDにはコンテンツが満載だ。 テレビの放送時間を一切気にすることなく、いつでもテレビを見ることができている。 タイムシフト視聴は日常だ。 テレビ局とネット企業がごちゃごちゃと揉めている間に、HDDレコーダーが先に普及してしまった。 既にオンデマンドなんだから今更放送コンテンツのネット配信はいらない。 音楽配信だってそうだ。 日本の音楽レーベルがごちゃごちゃと言っている間に、僕は、さっさとMP3ファイルを一万曲以上溜め込んでいる。 ネットによる音楽配信サービスが始まっても、時既に遅し、である。 コンテンツプロバイダにとっての「当面の敵」はネットではなく、HDDだ。 そして、それは既に普及してしまっている。 HDDレコーダーによりオンデマンドは実現されている。 放送のビジネスモデルは、ネットよりも先にHDDにより殺される。 HDDレコーダーによるタイムシフト視聴は、もはや避けることができない。 タイムシフト視聴が避けられないのであれば、放送局は、タイムシフト視聴をポジティブに受け止め、タイムシフト視聴を前提とした放送形態に移行せざるを得ない。 これは既に起こってしまった事であり、流れには逆らえない。 最悪の事態は、放送局が、音楽配信と同じく流れに逆らったプロテクトなり圧力をかけて自滅に向かう事だ。 流れに逆らう事は長期的には自滅行為でしかない。 タイムシフト視聴は、CM飛ばしと、テレビ放送の編成に大きな影響を及ぼす。 広告収入で成立している民放のビジネスモデルを破壊し、時間帯によるCM枠の料金体系も崩してしまう。 だが、放送局はタイムシフト視聴をポジティブに受け取らなくてはならない。 もはや避けられないのであれば、タイムシフトを前提とした事業形態に移行しなくてはならない。 放送局はゴールデンタイムの価値の相対的な価値低下は受け入れざるを得ないけれど、かつては無価値であった深夜早朝、といった時間帯を価値のある放送時間として得ることができた。 ゴールデンタイムなど一日24時間のうちのほんの数時間に過ぎない。 タイムシフト視聴により、24時間がゴールデンタイムになる可能性だってある。 午前4時、午前5時といったほとんど無価値であった時間帯をビジネスに変えることができる。 ポジティブに考えれば、放送帯域、チャンネルが数倍に増えたことと同義である。 タイムシフト視聴の普及のせいか、深夜帯にアニメ番組が増えた。 リアルタイムで深夜にアニメ番組を見ている視聴者は少数だろう。 多くの視聴者は、録画して後から見る視聴者だと推察する。 放送局もタイムシフトを前提とした放送形態を模索しているのだろう。 テレビ番組、なかでもCMの制作方法に対する考え方は、大きく変わらざるを得ない。 HDDレコーダーによるタイムシフト視聴者は、CMを早送りもしくは、スキップする。 早送りが前提なのであれば、早送りで見ても広告効果があるCMが必要となるだろう。 スキップされるのであれば、スキップされないCM作り、番組内へのCM入れ込みが必要だ。 番組内容と強く連動したCM作りも欠かせない。 スポンサーも高視聴率番組だからというだけで広告出稿してももはや意味がない。 プロダクトプレースメント広告も増えていかざるを得ない。 広告効果を視聴率で計る時代は終わった。 インターネット企業と放送局が、ごちゃごちゃと揉めている間にもHDDレコーダーは普及し、HDDの価格は低価格化、大容量化を続ける。 HDDレコーダーの普及は、逆説的に放送コンテンツのネット配信の促進要因となるだろう。 ユーザーの自宅のHDDが大容量化し、コンテンツが蓄積され続けていけば、放送局によるネット配信の意味あいは薄れてしまう。 だったら、ユーザーの自宅HDDに保存されていないであろう過去のアーカイブをネットに解放したほうがいい。 有料でアーカイブを提供すればいい。 逃げ道はない。 放送局は、ウォールドガーデンを提供するプロバイダにコンテンツを開放すべきだし、CDNを活用してコンテンツを配信すべきだ。 僕にとっては、インターネットと放送の競合、あるいは融合は、重要な論点を踏み外しているように見える。
2005年04月19日(火)
アドビとマクロメディアの製品の統廃合を勝手に決めてみた
アドビがマクロメディアを買収することになった。 アドビとマクロメディアの合併により、デファクトスタンダードであるFLASHとAcrobatを一社が持つことのインパクトは大きい。 とか。 アドビとマクロメディアがライバル関係にあったからこそ、両社は素晴らしい製品をリリースしつづけてこれた。ユーザーに選択肢がなくなる事は今後の製品の進化の速度を遅らせることになるのではないか? とか。 この合併は、クリエイティブソフトウエアの業界環境をMS Officeと同じ寡占化に向かわせる事に繋がるのではないか?高価格化するのではないか? みたいな事を書けばよいのだけれど、僕は「斜めうえ」なので、別の観点で書く。 この合併は、クリエイターにとっては、ゲーマーにとってのスクエアとエニックスが合併した時くらいのインパクトがある。 クリエイターにとって、アドビとマクロメディアの製品は生命線だ。 両社ともに自社のクリエイティブ系の製品をセットにしたスイート(先週のガセビアでやっていた正しいほうの「スイート」のほう)的パッケージを販売しているが、どちらかのスイート製品だけで環境が完結しているクリエイターはほとんどいないだろう。 アドビ製品だけでは仕事にならないし、マクロメディア製品だけでも仕事にならない。 両社のスイート製品は単純に機能比較をすれば、似たようなものなのだけれど、実際の使い勝手は大きく異なる。 アドビとマクロメディアは補完関係にあると同時に競合関係にもある。 補完関係にあるソフトウエアに関しては、喜ばしいのだけれど、不安になるのは、競合関係にある製品の行く末である。 合併後に製品の統廃合が行われるのは必然だ。 アドビやマクロメディアの製品はクリエイターにとっては「商売道具」である。 クリエイターにとって、アドビやマクロメディアのソフトウエアは肉体の一部ですらある。 製品ラインの統廃合により、使い慣れたソフトウエアを変更せざるを得なくなってしまったならば、その影響は非常に大きい。 ソフトウエアの優劣だけではなく、慣れているかどうか、身体に馴染んでいるかどうかも重要だ。 クリエイティブ作業をする際、クリエイターはいちいちアタマでソフトウエアの使い方を考えてはいない。 ソフトウエアのインターフェイスは肉体の一部と化している。 アタマを使わずとも、そのソフトウエアを肉体の一部として使いこなしている。 肉体の一部として取り込まれるレベルにまで習熟し、メシの種でもあるソフトウエアの行く末は、気になるところである。 使い慣れてしまった道具が変わってしまうと、作業効率は格段に落ちる。 バージョンアップにより、ショートカットが変わってしまうだけでも、効率が下がるくらいなのだ。 クリエイターにとってアドビとマクロメディアの製品の統廃合は重要問題である。 僕のアドビとマクロメディアの競合するソフトウエアの個人的評価は決まっている。 製品ラインの統廃合を勝手に決めてしまうことにする。 まずは、アドビとマクロメディアの競合ソフトウエア(乱暴な分類)。 ■アドビとマクロメディアの競合ソフトウエア ビットマップ系お絵かき:PhotShop(A) VS Fireworks(M) ベクトル系お絵かき :Illustrator(A) VS Freehand(M) HTMLエディター :GoLive(A) VS Dreamweaver(M) Flash作成ツール :LiveMotion(A) VS Flash(M) 主要製品は見事にかぶりまくり。 で、統廃合プラン(オクノ総研案)。 ■残すべき製品 ビットマップ系お絵かき:PhotShop(A) ベクトル系お絵かき :Illustrator(A) HTMLエディター :Dreamweaver(M) Flash作成ツール :Flash(M) ■廃止すべき製品 ビットマップ系お絵かき:Fireworks(M) ベクトル系お絵かき :Freehand(M) HTMLエディター :GoLive(A) Flash作成ツール :LiveMotion(A) 僕としては、PhotShop(A)、Illustrator(A)、Dreamweaver(M)、Flash(M)が最強の組み合わせである。 Fireworks(M)、Freehand(M)、GoLive(A)、LiveMotion(A)は消えてもらって構わない。 と、いうかLiveMotionは既に消えてるけど。 僕としては、PhotShop(A)、Illustrator(A)、Dreamweaver(M)、Flash(M)のスイート製品が出れば、速攻でバージョンアップする。 心配は、アドビによるマクロメディアの合併である点。 アドビ製品が一方的に生き残ってもらっては困る。 マクロメディア製品であるDreamweaverとFlashは残して欲しい。 勝手に製品の統廃合を書いてしまったが、クリエイターの多くは、僕と同じ組み合わせで使っているように思う。 アドビとマクロメディアの両方のスイート製品を購入し、結局は使わないソフトウエアが出てきてしまっているクリエイターにとっては、この合併は朗報だろう。 ただし、PhotShop(A)、Illustrator(A)、Dreamweaver(M)、Flash(M)の組み合わせじゃなきゃだめよ。 ついでに2つお願いがある。 ��IllustratorはPhotoshopと統合してひとつのソフトウエアにすべき ��Flashの廉価版を出すべき Illustratorを単独で使う機会はあまりない。 ほとんどPhotoshopとの連携である。 IllustratorはPhotoshopと連携して使うことがほとんどなのだから、両ソフトウエアは統合してしまったほうが便利だと思う(Fireworks使えよ、というツッコミはなし)。 Flashに関しては、単純に高すぎ。 高機能版として現在のFlashが存在していても良いけれど、廉価版も出すべき。 今の価格では割れユーザーが増えるだけ。 機会損失をしているぞ。 てか、既にクリエイターではない僕には大きな影響はないけど。 クリエイターを廃業しているのにもかかわらず、マメにバージョンアップだけは続けている無意味な僕なのであった。
2005年04月13日(水)
マズローの第6の欲求階層
僕はあちこちで見かけるマズローの欲求段階説を引用した文献を見かける度に、何だか「違和感」があるなあ、と感じていた。 マズローの欲求段階説は、人事施策やマーケティングにも活用されていることがある。 「違和感」などと書くのは、欲求段階説は間違ってはいないのだろうけれど、僕自身には当てはまらないな、と思うからである。 マズローは欲求階層を5段階で表現しているけれど、僕にはその上、すなわち第六の欲求階層があるような気がする。 マズローの欲求階層論では、� 銑い侶臻獲澣瓩�あり、そのうえに成長欲求である�イ�存在するとされる。 �\戸�的欲求(人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求) ��安全の欲求(人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求) ��所属と愛の欲求(他人と関りたい,他者と同じようにしたいなどの集団帰属の欲求) �ぞ鞠Г陵澣瓠兵�分が集団から価値ある存在と認められ,尊敬されることを求める認知欲求) �ゼ�己実現への欲求(自分の能力,可能性を発揮し,創造的活動や自己の成長を図りたいという欲求) 僕が違和感をおぼえるのは、僕自身は� 銑イ陵澣瓩呂曚榾�たされている、と感じるからだ。 ただ、僕の欲求が満たされてしまっているのは、僕の欲求レベルが低いからである。 各階層の欲求レベルは人によって大きく異なるだろう。 同じ欲求であっても人によって、求めるレベルが異なる。 僕はその欲求レベルが低い。 僕の欲求レベルの低さは、特殊例だと思うのだけれど、マズローの5段階の欲求階層の上位欲求があるように思えるのである。 僕自身は、マズローの欲求階層はある程度満たされている。 マズローは、「満足された欲求は、もはや行動を動機づける力をもたない」とも言っているが、僕は欲求が満足されていながらも、行動を止めない。 なんだか僕の欲求は他のところにあるような気がする。 質というか、別の次元というか、階層というか。 マズローは自己実現的な人間の例をあげている。 � 峺充造鬚茲衢�効に知覚し、それとより快適な関係を保つ」こと。 �◆崋�己、他者、自然に対して受容的態度」をとること。 ��「自発性、単純さ、自然さ」を持つ。 �ぜ�己中心的ではなく「課題中心的」である。 �ァ峺鋲函▲廛薀ぅ丱掘爾鮃イ漾�欠乏や不運に対して超然」としている。 �Α嵎顕修箚超�からの独立」し、意志をもった、能動的人間である。 �А崘Ъ韻�絶えず新鮮である」こと。 �─嵜脆訶�経験−至高体験」を持つこと。 ��「共同社会感情」を持つこと。 ��「心の広い、深い対人関係」を持つこと。 ��「民主的性格構造」を持つこと。 ��「手段と目的の区別、善悪の区別」が判断できること。 ��「哲学的で悪意のないユーモアのセンス」を持つこと。 ��「創造性」を持つこと。 ��「文化に組み込まれることに抵抗し、文化を超越」すること。 自分自身を振り返ってみると、全てとはとても言えないけれど、あてはまる項目は多いように思う。 でも、僕が自己実現を果たした人間か?と自問すると、それは違う。 僕の欲求が他のところにあるような気がするのだ。 僕は満足していない。 僕の欲求の特殊性は何なのだろう? 自分自身を考えてみる。 � 崋�己」に閉じた欲求の実現ではなく、エコシステムそのものの階層を上げたいと考えている。 �◆峭ゴ饋粥廚�ドライバーになっている。 マズローも晩年には「自己超越への欲求」をも想定しはじめていた、とされる。 ネットをうろうろしていると、マズロー欲求階層論の最上層である5段階のピラミッドの上に6段階めが存在したのではないか、という記述を見つけた。 そこには、「コミュニティ(共同体)発展欲求」と書かれていた。 地域社会や国家そして地球全体など、自分が所属するコミュニティ全体の発展を望む欲求である。 僕の�,陵澣瓩箸曚椣戝廚垢襦� マズローが欲求階層を5段階で止めてしまい、6段階めである「コミュニティ(共同体)発展欲求」を書かなかったのは、マズローの晩年であった冷戦時代に共産主義者というレッテルを貼られることを恐れたのではないか、という。 ある程度、自己実現がなされてしまうと、次に向かうのは「自己超越への欲求」であり、「コミュニティ(共同体)発展欲求」だ。 でも、それは神秘主義、共産主義的な見方をされやすい。 僕がどうして「自己超越への欲求」や「コミュニティ(共同体)発展欲求」を希求するのか、というと、自分の脳がネットに接続された外部記憶や他者と連携する比重が高まっているからだ。 僕の脳は、ネットにより、自己を超越し、外部記憶や他者とつながっている。 自分の脳が外部や他者に依存している以上、自己を上位階層へとレベルアップさせるためには、閉じた自己だけではなく、外部であるコミュニティーごと上位階層へと移行させることが必要となる。 僕自身は、既にスタンドアローンでは存在し得ず、外部とのインタラクションによっって成立している。 外部のレベルが上がらなくては、ネットに依存する僕のレベルは上がらない。 閉じた存在である僕が単独でいくら努力しようと僕は進化しない。 僕はネット接続された外部環境と不可分なのだ。 結果的に、「自己超越への欲求」は「コミュニティ(共同体)発展欲求」へとつながっていく。 僕を欲求階層の上位層へと駆り立てるエネルギーは「好奇心」だ。 僕にとっての唯一といっても過言でもないエネルギーの源。 僕は、ただひたすらに「好奇心」を満たしたい。 知りたい、経験値を上げたい。 それらは全て情報だ。 だが、僕は知識や経験を得ることによって自己実現を図ろうとしているわけではない。 マズローの5段階の欲求階層は既にある程度満たされているので、下位層の欲求にフィードバックしようとは思わない。 「好奇心」が満たされればそれでいい。 「好奇心」を希求する、というのはピュアな欲求だと思う。 ほとんどAIだ。 歴史が進むにつれて物質的、社会的に安定を迎えたホモサピエンスは、5段階の欲求階層が満たされ、次の階層へと向かうだろう。 ホモサピエンスの進化形態の最後に残る欲求は、「好奇心」だけのような気もする。 その時代は、もうすぐそこにあるようにも思う。
「ポスト知識社会」について調べてみようと思った。 Googleに「ポスト知識社会」と、入力。 検索結果で表示される結果は僕のサイトのみ・・・。 あーっ、まただ。 以前書いた「リバーススマイルカーブ」も自分のサイトしか表示されなかったのだけれど、「ポスト知識社会」も僕の造語であるようだ。 「ポスト知識社会」は、超のつく一般用語に見えるので、僕は、日常的に使っていた。 調べものをしている時に自分のサイトしか表示されなかったり、自分のサイトがGoogleで一番うえに表示される事は多い。 だけど、ここまで一般用語っぽい言葉が自分のオリジナルであったことに少々驚いた。 と、いうことで「ポスト知識社会」という言葉は、僕のオリジナルであるようなので、またもや勝手に定義しておく。 ■ポスト知識社会 オクノ総研総裁が勝手に使い始めた造語。検索エンジンやメッセンジャー、ブログなどのネットの普及により、「知識」がクソの役にもたたなくなってしまう社会を指す。現代においては、脳に多くの「知識」を詰め込んでも、「知識」を外部化した段階で、瞬時に検索され、伝搬され、並列化され、付加価値を失う。地理、時間、記憶力などによる知識の差異が限りなくゼロに近づく。20世紀は「知識社会」であったが、21世紀は「ポスト知識社会」とされる。「ポスト知識社会」においては、知識の差は秒の単位で埋められるため、「知識」を超える付加価値の提供が重要となる。 「知識社会」というキーワードは、ピーター・ドラッカーの「知識社会」やレスター・サローの「知識資本主義」で語られた。 僕の言う「ポスト知識社会」というキーワードの持つ意味は、それほど新しいものだとは思わない。 多くの戦略は、既に「ポスト知識社会」を前提として作られている。 言葉がなかっただけだ。 僕にとって、「ポスト知識社会」というキーワードは所与のものであったからこそ、Googleの検索結果に自分のサイトしか出てこなかったことに驚きをおぼえたのだ。 僕は、「知識」は力を失いつつあるのではないか、と思う。 世の中の小難しい知識も理論も、ネットで検索すれば、簡単に解説されているサイトを瞬時に見つけることができる。 時間をかけてお勉強する必要はない。 僕の代わりにお勉強をしてくれているサイトを見つければ良い。 僕は、思いついたことを節操なく、社内外を問わずに外部化するように努めている。 暗黙知は、形式知化させる。 見えない知識は、可視化させる。 外部記憶化可能な情報は、検索可能にさせる。 僕にとって、知識のあるなしは、「既に知っていた」か「数秒後に知る」かに過ぎない。 検索サイトで知識を得られなかったとしても、知識を既に得ている「人」にメッセンジャーで接続していまえばいい。 僕は、瞬時に並列化されてしまうようなレベルの「知識」は、自分から外部に発信し、外部記憶化してしまえ、と思う。 ソースごとオープンにしてしまえ。 知識も情報も自分のなかに溜め込み、記憶のなかに押しとどめていても何の価値も生み出さない。 知識なんてコモディティーだ。 僕は、「ポスト知識社会」においては、知識は既に価値を失っている、もしくは簡単に価値を失う存在である、と考えているので、知識の独占といった無駄なあがきをせず、外部記憶化させる。 「知識」という言葉だと幅が広すぎるので、もう少し限定してみる。 とりあえず、特許、著作権の対象とされる知識とする。 「知識社会」で生き残るためには「知識」を特許や著作権で保護する必要がある。 現在は、「クローズドな知識(知識社会)」と「オープンな知識(ポスト知識社会)」が対立構造を取っているようにも見える。 ・ソフトウエア:オープンソース VS プロプライエタリ ・ハードウエア:ホワイトボックス VS ブラックボックス ・メディア :インターネット VS 既存メディア 「知識社会」と「ポスト知識社会」は対立概念的ではあるが、実際に「知識社会」が「ポスト知識社会」に完全に移行してしまうと、社会経済は立ち行かなくなる。 「知識社会」と「ポスト知識社会」は共存の道を探らなくてはならない。 「完全なるポスト知識社会」は、付加価値を生み出してもそれを財へと昇華させていく術がない。 「ポスト知識社会」では、分散された知識をアグリゲートすることによって付加価値を生むか、集約された知識を元に新たなる知識を生み出すか。 だが、それも難しい。 付加価値を持った知識も、瞬時に伝搬され、並列化される。 知識が付加価値を失うことに対する恐怖は、知識が特許や著作権を使って、「過度」に保護されてしまう可能性を持つ。 過度な保護は、エコシステム全体にとっては、発展の妨げとなる。 一方で、全く知識が保護されないと、知識は財を生み出さすことができなくなり、知識の発展に対する資本の注入がなくなってしまう。 「知識社会」と「ポスト知識社会」のバランス、着地点を探り続けることが必要なのだ。 外部記憶が高度に進化し、極大化に向かうなかで、僕たちの脳には何が残るのだろう? 僕に残ったのは「好奇心」だけだった。
2005年04月11日(月)
未だにエロを超えられないメジャーコンテンツ
2005年中にメジャーコンテンツのネット配信がアダルトコンテンツの市場を上回るらしい。 へ? あれれ? 2005年4月の段階では、未だにネット上ではアダルトコンテンツのほうが市場規模が大きいって・・・。 僕は、とっくの昔にメジャーコンテンツがアダルトコンテンツを超えているものだとばかり思っていた。 何年か前、ネット配信におけるアダルト比率は69%、と聞いたことがある。 数字がいかにもアダルトっぽいので、数字だけを覚えている。 VHSが普及したときの事を例にとって、新しいメディアはアダルト(エロ)によって切り開かれる、と言及されることが多い。 メジャーコンテンツがアダルトコンテンツを超えられない理由を「やっぱりエロ強いなあ」の一言で済ませてしまう事が多い。 違う。 僕は、著作権処理の構造に帰因する問題だ、と思う。 ネット配信の場合、エロ市場は性欲によって喚起されたのではない。 著作権処理の構造の問題だ。 アダルトビデオレーベルの方とお話をしたことがあるのだけれど、ネット配信におけるアダルトコンテンツの優位性は著作権だ、と聞いた。 テレビドラマをネットで配信しようとすると、通常の著作権に加えて、俳優さん等の著作隣接権、音楽著作権などが複雑にからむ。 著作権処理がかなり面倒である。 加えて、ネットでコンテンツを配信した時点で、特にストリーミングではなく、ダウンロード配信した場合、そのコンテンツはどのように扱われるかわかったものじゃない。 暗号化してもいずれは破られる。 権利保護のためには、いかにクラッキングをややこしくするか、しかないので、結果的にクラッカーではない一般ユーザーにとっても、ネット配信コンテンツの使い勝手は悪くなっている。 使い勝手が悪いので、ユーザーは逃げる。 ユーザーが逃げるので、ネット配信は儲からない。 コンテンツホルダーは、ネット配信は儲からないうえに、権利が保護されなくなる懸念から、腰が引ける。 ただでさえ著作権処理が難しいうえに、儲からないので、コンテンツは増えない。 コンテンツが増えないので、ユーザーも増えない。 で、そうやって、メジャーコンテンツがネット配信に及び腰になっている間にアダルトコンテンツは、せっせとネット配信マーケットを開拓してきた。 では、なぜアダルトコンテンツはネット配信が可能なのか? それが、著作権である。 メジャーコンテンツの著作権は複雑に絡み合い、権利処理が大変であるのに対し、アダルトコンテンツは、権利処理が容易なのである。 アダルトビデオ会社は、コンテンツの全ての著作権を保有している。 AV女優に対する著作隣接権は認められていない。 AV女優は出演料としてのギャラをもらって、アダルトビデオに出演したら、そこまで。 AV女優には、アダルトビデオの売り上げや配信等によって生じる二次的な収益を受け取る権利は、生じない。 著作隣接権を含めてアダルトビデオ会社が一括で保有している。 アダルトビデオに関しては、アダルトビデオ会社が一切の権利を保有するのである。 アダルトコンテンツをネットで配信する際、権利関係の処理がほとんどない。 アダルトビデオのレーベルが一切の権利を保有しているので、権利関係の利害調整が必要ない。 アダルトビデオ会社にとってのネット配信は、既存のパッケージに対する追加チャネルなので、どんどんとアダルトコンテンツは、ネットで配信される。 一方で、アダルトコンテンツは、違法コピーも蔓延している。 違法コピーのパッケージは堂々と販売されているし、違法配信サイトも多い。 もちろんアダルトビデオ会社にとってはアタマの痛い問題だ。 でも、違法コピーによる損害を被るのは、アダルトビデオ会社だけである。 出演者等の著作隣接権の保有者には被害が及ばない。 権利侵害の範囲が収拾不可能なまでに広がらない。 アダルトビデオ会社だけの被害にとどまる。 違法コピーの責任はコンテンツホルダーである自分たち自身でとどまる。 だが、その違法コピーの蔓延する状況を見て、またまたメジャーコンテンツのコンテンツホルダーは、ネットでのコンテンツ配信を躊躇する。 ネガティブループは拡大する一方。 メジャーコンテンツのネット配信への道は遠い。 ■IPネットワークによるビデオ配信サービスhttp://pc.watch.impress.co.jp/docs/2005/0408/idf03_12.jpg
中国や韓国の日本に対するデモを見ていて思う。 「祭り」は楽しいだろうな。 僕にとって「デモ=祭り」である。 僕は学生時代、「祭り」に参加したことがある。 学費値上げだとか何だかで、大学がロックアウトされた。 学費値上げは、僕の学年には適用されず、僕より後から入学してくる学生に適用されるものだったので、僕自身には関係がなかった。 僕自身にとっても学費値上げは妥当だと思えたし、反対する根拠もなかった。 でも、僕はデモに参加した。 デモに参加して、徒党を組み、大学の事務局に突撃した。 「祭り」として面白かったからである。 僕は一眼レフカメラを持ち込み、ヘルメットやゲバ棒を持ち、タオルで覆面をしたどこの大学からやってきたのだかわからない連中と記念写真を撮って回った。 僕にとってのデモは「祭り」だった。 おもしろそうだから参加してみただけのこと。 学生時代の僕は別の革命を起こそうとしていた。 学生寮の占拠である。 僕が通っていた大学の学生寮は、左翼活動家の拠点となっていた。 学生寮=左翼の拠点。 学生寮は数百人規模のものから、数人しか入居できない小規模なものまであった。 僕が狙ったのは、小規模の学生寮である。 占拠のターゲットを物色すると、占拠可能な学生寮は女子寮しかなかった。 僕は、女子寮を占拠することにした。 占拠にあたって僕が掲げたスローガンは、「終電に抵抗せよ」である。 僕が通っていた学校は、京都にあった。 女の子たちと飲んでいると、大阪、神戸に住んでいる子たちは、終電を気にして11時くらいには、帰らなくてはならなくなる。 これは、いかん。 終電に徹底抗戦し、好きなだけ遊んでいられるようにしなくてはならない。 と、いう事で僕は大学の女子寮を占拠し、終電を気にせずに遊びたいだけ遊んでいられる世界を作る、という革命を起こすことにした。 個人的な問題もあった。 僕のワンルームには最高で13名の男女がなだれ込んでいた。 僕は大学時代、自宅ワンルームで一人で眠る事がほとんどできなかった。 いつも終電を逃した男女で溢れかえっていた。 勝手に僕の冷蔵庫を空けるんじゃねえ。 ビールが一本も残ってないじゃないか。 知らない女の子が僕のベッドを占拠している。 僕は遊び好きの女子学生をオルグし、定員数名の女子寮を占拠した。 かつて住んでいた活動家の女子学生には退寮してもらい、遊び好きの女子学生をそこに集結させた。 男子禁制の女子寮に、僕は出入り自由になった。 お金がなくなったら、女子寮に行けばいい。 誰か遊んでくれる。 その女子寮は元活動家の拠点なので、「三里塚空港を殲滅せよ」といった手書きのポスターが貼られていた。 僕は、これはある意味で貴重だ、と思ったのでそれはそのままにしておいた。 その女子寮、革命の拠点は遊び人の砦となった。 僕にとっての革命は、体制に対する反抗ではなかった。 左翼活動家に対して、「バ〜カ」と言ってやることだった。 革命は、体制に石を投げる事じゃないんだよ、「朝まで踊り続ける権利を獲得すること」なんだよ。 革命を起こす人間が、貧乏で、虐げられていて、搾取されていなくてはならない、という必然性はない。 「朝まで踊り続ける権利を獲得すること」のために戦って何が悪い? 学生時代の僕にとっては、学費が値上げされることよりも、盛り上がっている最中に終電のせいで、女の子たちが帰ってしまうことのほうがずっと重要な問題だった。 韓国や中国のデモに対するニュースを見ていて、こいつらは本気で日本が憎いのだろうか?と思う。 いくら徹底した反日教育を受けているからといって、本気で日本を敵国だと信じているのだろうか? 僕は、面白そうだったから石を投げてみました、「祭り」に参加してみました、という事なのではないのか?という疑念を持つ。 僕は、思想信条に関係なく面白そうなデモが起これば、参加するだろう。 「祭り」だから。 いつだって「祭り」は楽しい。 天安門事件の際、僕はテレビ観戦だけだとつまらないので、中国人に化けて天安門広場に行こうと思った。 銃で撃たれても、ネタとして面白いので、行ってやろう、と思っていた。 現実には、仕事のスケジュール上、行けなかったのだけれど。 中国や韓国の日本に対するデモはどこまで本気なのかなあ、と思う。 日本とは体制の異なる国での出来事なので、本気なのかもしれない。 僕だったら、「祭り」として面白がって、日本大使館に向けて石を投げているに違いない。 いいなあ、攻撃対象の敵がいて。 思想信条に関係なく「祭り」は楽しいだろう。 中国も韓国も本気で日本が嫌いなのかな? 僕にとって日本は、敵国扱いしようにも、何の思想統制も取れていないただの「土地」なんですけど。 中国人や韓国人が本気で日本に対して攻撃をしているつもりなのであれば、「暖簾に腕押し」ですよ、と教えてあげたほうがいい。 「遺憾です」「遺憾に思う」「遺憾の意を表明します」。 僕が今、中国に住んでいたとしたら、中国人に混じって、日本大使館に向けて石を投げていただろう、と思う。 日本大使館に投石する中国人たちは笑顔に満ちている。 憎しみや怒りの表情は見てとれない。 とても楽しそうだ。 だって、それは「祭り」だから。
2005年04月09日(土)
信念を持たないという信念
僕には、信念というものがない。 僕にとって絶対的な真理というものものない。 もしあるとすれば、「信念を持たないという信念」である。 僕は、何も信じていないというわけではない。 様々なものを信じている。 だけど、それが永遠のものだとは信じていない。 未来永劫続くとは考えていない。 僕は、全ては流転する、と思っている。 変化しつづける。 到達点などない。 輪廻の螺旋のなかで少しずつ進化は続くのだろうけれど、絶対的な真理に到達することはない。 特定のシステムが永遠に続く事はあり得ない。 ある時に最適であったシステムが、時間とともに最悪のシステムになることはごくごくあたりまえの現象だ。 数学や物理などの理系の世界では、真理はあるのかもしれない。 最適解は、存在するのだろう。 理系の世界で、真理が変化する、とする場合は、それがそもそも真理ではなかった、間違いだった、ということである。 それに対し、文系の世界であるビジネスや政治、思想、哲学、宗教の世界には、真理は存在しない。 その時代に、おかれた環境に適合した、最適解は存在するかもしれない。 だけど、それが未来永劫永続するシステムであることは、まずあり得ない、と思う。 そのシステムの寿命が長いが短いか、である。 いずれそのシステムは寿命を迎える。 僕は、すべては変化する、到達点などない、と信じている。 だから、僕は、変化を大前提として生きている。 環境は変化し続ける。 その環境の変化に対応し続ける、という事が僕の唯一の信念だろう。 固定化した信念を持たず、自分自身をも変化させ、環境に適応させる。 僕を知る人からは、僕は特定分野のプロフェッショナル、という印象をもたれている。 だが、それぞれの人が考えている「特定分野」はそれぞれバラバラだ。 僕は、他者からは、特定のイメージを持って認識される。 だが、そのイメージはバラバラだ。 僕自身が変化し続ける存在なので、僕と接した時期によって、他者が僕に持つ印象がバラバラになってしまうのだろう。 僕は、変化に適応することだけを信念として生きてきた。 そして、変化に適応するだけではなく、システムから逸脱することにも力を注いできた。 僕にとってのシステムからの逸脱は、僕が所属するシステムが、大きな変化に晒されたときに対する防衛行為でもある。 僕のようなノイズとも突然変異種とも言える存在が、システムの長期的な維持には不可欠なのだ。 僕は、ノイズであり、突然変異種でもあるので、淘汰の危機に晒されることは多い。 でも、僕はシステム内に存在する安全弁でもある。 システムが変化に晒されたとき、僕のような突然変異種の存在がキーになることがある。 僕自身は当初は突然変異種であったはずなのに、それが一般化される。 でも、僕は、そこから逃亡し、新たな変異を起こそうとする。 金や権力は、フォロワーにくれてやる。 当初、僕を批判し、淘汰しようとし続けてきた他者が、三周遅れでフォロワーとなり、金や権力を掴む。 それはそれで構わない。 僕は現状を超える金や権力に興味がない。 それよりも僕にとっては、新たな変異を起こし続けることのほうが楽しい。 金と権力を得たフォロワーは、僕にビールを奢るくらいの配慮は見せてくれてもいいいのではないか、とは思うけど(せめて僕の作ったパワーポイントを自分の作った資料だ!と言い張るのであれば、プロパティーくらいはいじっとけよ。オリジナルが誰だかすぐにわかるぞ)。 僕が変化を先取りしている、とは限らない。 ただの異物でしかないことがほとんどだ。 それでも僕は、ノイズ、突然変異種、異物であり続けようとする。 それは、システムを守るためでもあるし、自分自身を守るためでもある。 余裕のないシステムは僕を排除しようとする。 でもそれは、システムにとって、変化し続ける環境のなかにおける緩やかな自殺だ。 過剰なる特殊化、専門化、並列化は、変化に適応できない。 僕は、「信念を持たないという信念」を持っている。 僕は、全ては流動的であり、変化の途上でしかない、という認識のもと生きている。 だから特定のシステムや思想、教義に帰依しない。 僕がある方向に全力で突っ走っていたとしても、ある日突然、方向を変えることがある。 フォロワーの大きな流れは、そのまま僕が走っていた方向に向かい続ける。 だけど、僕は、方向を変える。 先頭を走っていた人間が、突如としてバトンをフォロワーに渡して、コースを外れる。 僕は一貫性などというものとは無縁だ。 矛盾だらけの存在だ。 熱しやすく冷めやすい、という射手座の性格のせいかもしれない。
2005年04月06日(水)
企業はバカ正直であれ
先日、「個人情報を守れない個人情報保護法 」という文章で、僕は、個人情報保護法をのガイドラインを拡大解釈したネット会社について、その会社からきた約款変更に「同意できません」旨のメールを送った、と書いた。 そのネット会社とは何度かやりとりがあったのだけれど、最終結論は以下のメール。 >弊社の利用目的にご同意頂けない場合につきましては、大変残念ではござ >いますが、お客様ドメインの管理を他社レジストラ(又は指定事業者)へ >移管頂く(トランスファー)、又はドメイン廃止のお手続きを行っ >て頂くかたちとなります。恐れ入りますが、何卒ご理解頂けます様宜しく >お願い申し上げます。 気に入らないなら出て行け、という事である。 この某社は、メールの文面から見て分かるとおり、レジストラである。 このレジストラは、僕の個人情報を関連会社、提携会社、その他と「僕の同意を得ることなく利用する」、と宣言してきた。 それが気に入らなければ、サービスは提供しない、と。 最も個人情報保護を重視しなくてはならないはずのレジストラがこの有様。 このレジストラの論理によると、個人情報保護法では、利用目的を明確にすれば、その範囲で個人情報は利用できる、と言う。 このレジストラは、個人情報の利用目的と範囲を「考え得る全て」に適用している。 個人情報利用の範囲と目的において、企業内を超え、提携企業、もしくはその他特定の者と共同利用する、利用者を無制限にしており、利用目的は、「想定の範囲を超えて利用することがある」、とも宣言している。 「想定の範囲を超えることがある個人情報の利用」に対して同意しろ、と言っている。 個人情報の取り扱いは「想定の範囲を超えることがある」と宣言し、それに対して同意したのだから、何をやっても合法。 同意するワケないだろ。 個人情報の無制限な利用を個人に強制する事は、個人情報保護法の趣旨に反するのではないか、と正したところ、それが気に入らなければ退会せよ、との返事。 同意できないのであれば、退会しろ、ときた。 もちろん退会したい。 この某社は「当社に対し支払われた利用料金は,いかなる理由があっても返還を行いません」と約款に書いている。 僕はこのレジストリに対し、数年間分の利用料金を先払いしている。 約款変更が気に入らなければ、金だけ置いて、出て行け、との事。 このレジストラに登録している僕のドメイン名は特殊ドメインなので、日本国内では、このレジストラしか扱っていない。 レジストラを変更したとしても、レジストラを海外に移さなくてはならないので、僕の個人情報は国内法では保護されない。 僕の個人情報保護のためには、ドメイン廃止しか手がない。 僕は、企業にとって、法律は最低限守るべきものであり、企業のモラルは法律よりもずっと高くてはならない、と思っている。 法律は最大限ではない。 きちんとした企業は、法律よりもずっと高いモラルを持って行動している。 法律違反、グレーゾーンにあたる行為は、ご法度だ。 司法に判断を委ねなくてはならないような行為には、そもそも近寄らない。 コンプライアンス、法令遵守と言った文脈で語られる場合、それは企業が法律に違反してはならない、という事を言っているのではなく、企業は法律を超える高いモラルを持って行動しなくてはならない、と言っている。 長期的な企業の利益を考えると、企業が最も利益を上げられる戦略は、「バカ正直」であることだ。 ゲーム理論を使って、定量的、定性的にシミュレーションしてみるといい。 ナッシュ均衡にたどりつく答えは、常に「バカ正直」である。 企業は、短期的な視野でもって、顧客を騙す、裏切る行為を取る事は、結局、その企業の価値を毀損する。 個人情報保護法が施行されたからといって、大慌てで約款を顧客に対して不利益になるような変更を行い、短期的な訴訟リスクを低減させるような行為は、企業にとって最悪の戦略である。 企業は「バカ正直」に顧客に接しなくてはならない。 株主利益、といっても顧客からお金が入ってこなくては、株主利益の前に収益さえ得られない。 「浮利」を追っているとしか思えない。 この某社の長期的成長はあり得ないだろう。 個人顧客だから、と言ってバカにした態度を取りつづける事が自殺行為だということに気づかないのか? 愚かだ。
2005年04月05日(火)
モバイル放送を使い始めて約1ヶ月
モバイル放送を使い始めて約1ヶ月。 VAIO 505 ExtremeにPCカード版のチューナーカードを挿して持ち歩いて利用している。 最も利用時間が長いのは、オフィス。 仕事用のPCの横に、モバイル放送受信専用にVAIOを並べている。 オフィスなので、音は出さない。 耳はiPodでふさがっているので、映像だけを流している事が多い。 よく利用するチャンネルはCNN、MTV。 CNBCは、昼間は日経の株価情報ばかりなので、見ない。 モバイル放送のせいじゃないけど、垂れ流しの株価情報をリニアな映像で見る事を必要としている人って誰なんだろう? 地上波のTXでもやってるけど。 市況は、PCや携帯電話でチェックするのが普通だと思うんだけど。 使ってみた感想を述べる。 ・良いところ −ノイズなしで映像をどこでも試聴可能 ・悪いところ −チャンネル切り替えが異常に遅い −チャンネル数が少ない、モバイル向けのチャンネル構成になっていない −アプリケーションの完成度が低い −データ放送は全く使い物にならない −ノイズなしで映像をどこでも試聴可能 これは正直言って驚いた。 ここまできちんと受信できるとは思わなかった。 自宅、オフィス、電車の中。 どこでもノイズなしで映像が受信可能である。 期待していなかっただけに、これはすごいことだと思う。 ギャップフィラーは、ここまで強力なのか。 FOMAの受信が不可能な場所でもモバイル放送の受信は可能だ。 オフィスの奥まったところまで入っていくと電波が途切れ途切れにはなる。 だが、その場所はFOMAは完全に圏外のエリアである。 FOMAよりもモバイル放送の受信感度のほうが高い。 サービス開始直後でここまでインフラを整備できていることは素直に賞賛したい。 で、次は悪い点。 −チャンネル切り替えが異常に遅い 使ってみて最も気持ち悪かったのが、チャンネル切り替えが異常に遅い事。 チャンネル切り替えに10秒以上かかる。 起動時も同じで、電波を受信してから映像が出るまでの時間が異様に遅い。 慣れないうちは、エラーだと思っていたくらいだ。 EPGのデータ取得も同様で、とんでもなく時間がかかる。 ザッピング的な利用はほぼ不可能、と考えていい。 −チャンネル数が少ない、モバイル向けのチャンネル構成になっていない ユーザーによって必要とする情報は異なるとは思うのだけれど、韓国ドラマをモバイル環境で試聴したいとは思わない。 モバイル放送であれば、視聴時間は短時間だろうし、ながら試聴であるはずだ。 集中して長時間に渡ってモバイル放送を試聴することは、利用シーンから言って考えにくい。 ニュースチャンネルを充実させるべきである。 個人的な希望としては、ブルームバーグが見たい。 −アプリケーションの完成度が低い モバイル放送のPCカード版はHDDへの録画も可能である。 そしてEPGも使える(死ぬほど遅い。ネット経由でもEPGデータは落とせるように作ればいいのにね)。 それにもかかわらず、なぜだか予約録画ができない。 その程度のソフトウエアは簡単に作れるはずだ。 コンテンツプロバイダとの契約上、タイムシフト試聴ができないのだろうか? モバイル放送のユーザーインターフェイスは、PCではなく専用機がベースになっている。 そのせいか、一般的なPCのユーザーインターフェイスの感覚で利用しようとすると、使いづらい。 ハードウエアボタンを実装した専用機のユーザーインターフェイスをそのままPCにポーティングしているため、PCでのユーザーインターフェイスとしてはかなり違和感がある。 また、僕の場合、CNNは音声は英語(副音声)で聴きたいのだけれど、番組が変わるごとに日本語(本音声)に強制的に戻されてしまう。 いちいち切り替えが面倒。 −データ放送は全く使い物にならない データ放送は、まあ、オマケ、という位置付けだろう。 見えるラジオのデジタル版。 PCでデータ放送を試聴すると、どうしてもインターネットと比較してしまう。 携帯電話のコンテンツよりも見劣りがする。 災害対策用かな。 ま、月額300円だし。 映像や音声の画質や音質に関しては、決して優れたものではないが、周波数帯域の割り当てに起因する問題なので、文句を言うつもりはない。 画質や音質は割り切らざるを得ないと思うので、問題にしない。 モバイル放送のビジネスの企画の発端は、米国の車載向け衛星ラジオなのだろうな、と思う。 僕のように映像を主体として利用する人間は、当初のユーザー層として想定されていなかったのだろう。 音声系の衛星ラジオとしてビジネスの企画が立ち上がったのだが、技術的には映像も流せる、ということになり、映像チャンネルを加えた、のではないかと推察する。 映像放送に期待するほうが間違っているのかもしれない。 一方で、ラジオとして捉えると、USENのコンテンツをほとんどそのまま垂れ流し、である。 僕は、12,000曲が蓄積されたiPodを持ち歩いている。 USENを敢えて衛星経由で聴く必然性はない。 僕から見ると音楽放送の競合は、iPod。 米国であれば、衛星ラジオとしてビジネスが成立したのかもしれない。 でも、日本では有料の衛星ラジオが音声放送単独で、ビジネスとして成立する姿を想像することは難しい。 首都圏では、FM局がいくつもある。 iPodだってある。 データ放送は、この情報量、使い勝手では、災害時くらいしか使わないだろう。 そのせいで、僕はどうしても映像チャンネルに期待してしまう。 モバイル放送は、車載、PC、専用機と複数の異なる利用シーンを想定していると思われる。 それぞれの利用シーンにおける視聴スタイル、求められるコンテンツは異なる。 利用シーンが異なり、端末の形態も異なるにもかかわらず、同じコンテンツ、ユーザーインターフェイスで対応しようとしたところに無理がある。 放送インフラとしては、いい線を行っていると思うんだけどなあ。 モバイル、という環境におけるコンテンツのありかた、ソフトウエアの実装について再検討して欲しい。 モバイルPCで視聴している利用者としての僕からのモバイル放送に対する希望は以下のとおりである。 �.船礇鵐優訐擇蠡悗┐梁�度を少しでもいいから速くして欲しい ��EPGに予約録画機能をつけて欲しい ��ブルームバークのような情報主体の放送を充実して欲しい �ぅ罅璽供璽ぅ鵐拭璽侫Дぅ垢呂い�らなんでもPC向けに作り直すべき �ッ肋綰箸離汽ぅ泪詈�送、もしくはそれに近い放送を流して欲しい 落としどころとしては、視聴スタイルを専用機、車載機、PCのどこかに絞るか、全てに対応するユーザーインターフェイス、コンテンツを用意すべきか、である。 もともとのビジネスアイディアは車載向けの衛星ラジオだったのだろう、と思う。 だけど、日本では車載向けのデジタル放送は投資と需要が見合わない。 専用機、車載機の加入者はほとんどいないと推察される。 だったら、PC向けに割り切るべきだと思う。 モバイル放送は、三兎を追って、マスをターゲットにしてもビジネスとしては成立し得ないと思う。 三兎を追ってもしかたがない。 普通に考えれば携帯電話向けに放送すべきなのだろうけれど、現時点では携帯電話向けはCPUパワー、電源等の問題でまだ実現は難しいのだろう。 コンテンツに関しては、モバイルの利用シーンに特化した専用コンテンツをはじめから無理をして揃える必要はないのではないか、と思う。 そんなものをワザワザ作っても、現状ではビジネスとして成立しない。 コンテンツに関しては、既に存在する放送コンテンツの使いまわしで構わない。 愚直なユーザーの本音としては、地上波のサイマル放送してもらえれば、それがいちばんいいんだけど・・・。 携帯電話向けの地上波ワンセグ放送も、ワケのわからない携帯電話向けコンテンツではなく、アナログ地上波をそのままサイマルで流してくれりゃいいのに、と思う。 モバイル向けのコンテンツとは何か?などと難しい事を考える必要はない。 地上波をそのまま流してくれれば、いいのだ。 まずは地上波コンテンツをそのままサイマルで流し、ユーザーの動向や普及状況を見ながら、モバイル向けにコンテンツを充実させていけばよいのだ。 もちろん、モバイル環境でのコンテンツ視聴は、隙間時間で行なわれるし、ながら視聴なので、地上波のコンテンツとは異なった作り込みが必要である。 だが、それらへの対応は、HDDを使用したタイムシフト視聴により、ほぼ充足される。 モバイル向けコンテンツに無駄に投資する余裕があるのであれば、そのエネルギーをサイマル放送、タイムシフト視聴への対応に注ぐべきである。 モバイル放送は有料放送なのだから、タイムシフトによるCMすっ飛ばしも関係ないはずだ。 インタラクティブ性に関しては、僕はユーザーとしてはEC連動や詳細情報など期待していない。 それよりもHDDを利用したタイムシフトを前提とした放送のほうが価値がある。 モバイル放送に加入するような人間は超アーリーアダプターであり、好奇心のためには無駄金を惜しまない酔狂でアホなPCユーザーしかいないのだ。 いっそのこと割り切ってPCユーザー向けにビジネスを再検討すべきだと思う。 いまのままでは、ニッチ層ですら取り逃がす。 インフラはいいんですよ。 一番コストがかかっていると思われるインフラは。 ダメなのは、アプリケーションの仕様とコンテンツなのですよ。 そして、それらは、専用機、車載機、PCに同時に対応しようとしていることから起因している、と思われるのですよ。 PCに関しては、アプリケーションのバージョンアップで対応できる問題なので、ぜひ対応してほしい、と思う。 アプリケーションのバージョンアップなど、インフラへの膨大な投資からみれば、ゴミのような投資だと思うのだけど。 もちろん、コンテンツホルダーがタイムシフトを嫌がったのだろうな、とかユーザーがほとんどいない初期立ち上げでコンテンツホルダーが揃わなかったのだろうなとか、モバイル放送側はコンテンツホルダーに対して立場が弱いのだろうな、という大人の事情は推察できる。 でも、せっかくここまで素晴らしいインフラを用意しておいて、アプリケーションやコンテンツレベルで消えていくには惜しい存在だ。 惜しい放送を亡くしました・・・。 あ、まだ放送を開始したばっかりだった。
ローマ法王が死去した。 世界は悲しみに包まれている、という。 キリスト教徒でもなく(学校はクリスチャンだったけど。神学のテストでは「俺様自身が神なのであって、イエス・キリストは神から派遣されたガキの使いに過ぎない」、と書いたら「優」をもらった」)、特定宗教を信仰していない僕にとっては、ローマ法王の死を純粋に信仰対象として悼むことのできる人々をうらやましく思う。 僕にとっては、キャッチャー・イン・ザ・ライをポケットに入れたマーク・チャップマンがジョン・レノンを射殺した時のショックのほうがずっと大きい。 僕は、「ダライ・ラマ」を「デカイ・マラ」と素で呼び違えてしまうレベルの愚かな人間だ。 偶像であろうと、ご神体が石ころであろうと、何であろうと、信仰の対象を持つことのできる人は幸せだと思う。 僕には信仰の対象、すがる対象がない。 祈りを捧げようにも、誰に祈ればいいのか? 僕が祈りを捧げても、祈りはTCP/IP上のパケットとして「神」に届く。 それは「神」ではなく「ネ申」か。 僕にとっての「神」は、中心の存在しないネット上に存在する。 「個人の部分集合体」であるネットが僕にとっての「神」である。 僕にとっての「神」は、アイコンとしての形を持たないし、教義もない。 「個人の部分集合体」こそが、僕の信じる「神」である。 僕の信じる「神」は、存在を意識できるけれど、具体的な形を持たない。 ネットの神、といっても特定のURLを持つわけでもない。 あくまでも「個人の部分集合体」であり、ネットのリンクでしかない。 神々は、個別に存在するのではなく、「リンク」なのだ。 リンクをまとめあげているGoogleは、僕にとっての「神」のアグリゲーターだ。 Googleは信仰対象ではなく、神の媒介者だ。 僕にとっての神は超越した存在ではなく、「個人の有意識の部分集合体」である。 僕の信仰対象は、超越者ではなく、市井の個人だ。 「個人の有意識の部分集合体」だ。 僕にとっての神は情報の「関係性」である。 僕にとっての「神」は、「個人の有意識の部分集合体」であり、教義は常に流動的だ。 僕にとっての神は、唯一絶対の神ではない。 常に迷い、悩む。 僕自身も神の一部だ。 インナーユニバース、アウターユニバース。 インターナショナル、アウターナショナル。 僕は、「神は死んだ」とは思わない。 僕にとっての神は、個人や教義、アイコンなどで定義された存在ではない。 聖書を読んで、全面的に納得できる人は幸せだ。 僕は「右頬を打たれたら」左頬ではなく、ケツを差し出す。 もっと鞭打ってくれ、罵ってくれ、あはーん。 「部分的な定義と部分的な定義の関係性」が僕にとっての神なのだ。 僕は、神はネットに降臨した、と考える。 その神は、特定のURLでもウェブサイトではない。 ネット上で展開している宗教団体などでは決してない。 僕にとっての信仰対象は、無数のリンク情報であったり、サーチエンジンによって関係づけられ、変化し続ける流動性を持った存在なのだ。 常に変化し続け、信仰の対象となる中心の存在しない神。 僕は異端者だ。 僕にとっての神は「超越した存在」ではなく、人間によって創造されたものだ。 人間の集合体だ。 僕は、ローマ法王の死去に関して、影響力を持ち、世界平和に貢献した人間として悼みを感じる事はできる。 でも、信仰対象としての、アイコンとしてのローマ法王に対する追悼はしない。 神は外部に存在するのではなく、僕たち自身のなかにいる、というのが僕の基本的な考え方だ。 そして、その「僕たち自身のなかに存在している神」がネットで連携し、大きな存在になるのではないか、と思う。 僕は祈りの言葉をGoogleに入力する。 「八百万の神」なのかもしれない。 でも神は八百万どころじゃない。 ずっとずっと多い。 IPv4の世界では神は32ビットだったので、「42億9496万7296」だった。 IPv6で神は人が認知できる限界を超える。 僕にとっての神は、「2の128乗(約340×10億×10億×10億×10億)」に拡張される。 神は128ビットのアドレス空間に存在する。 ローマ法王の死去に「合掌」。 波阿弥陀仏。 ああ、また脅迫メールが届く・・・。
2005年04月03日(日)
紅茶、コーヒー、ウーロン茶、グリーンティー
僕の僕が日本人としてのアイデンティティーがない、という文章に対して、外部、外国人からは、日本人として見られるのではないか、という意見があった。 僕の場合、日本人という国籍よりも、僕個人としてとして見られている、という場合が多いように思う。 理由のひとつとして、僕が今までいわゆるグローバル企業にしか勤務したことがない、ということがあげられる。 僕が現在勤務している会社は、法制度上は、グローバル企業の日本法人、という形式を取っている。 登記上の本社所在地は、オフショアの島である。 機能としての本社は、どこにも存在しない。 経営陣は世界のあちこちにバラバラに居住しており、経営会議等は、その時々に応じて世界中のあちこちで行なわれている。 僕は、東京オフィス所属、ということになっている。 なぜ東京オフィス所属なのか、というと、僕が日本在住で、自宅から東京オフィスが一番近いからである。 東京オフィスがたまたま自宅から近いので、東京オフィスで仕事をしているに過ぎない。 コンサルタントという仕事の性格上、どこで仕事をしても構わない。 東京オフィスに所属してはいるものの、実際の仕事場所は、世界中のどこのオフィスでも構わない。 僕が所属する会社では、固定席という概念がない。 自分の仕事をする座席はホテリングシステムと呼ばれ、予約制である。 座席予約は世界中どこのオフィスでも同じシステムで予約できる。 僕が海外のオフィスで仕事をしたほうが便利だ、と感じたならば海外のオフィスに自分の席を予約すればよいだけのこと。 ちなみに、僕は来週の座席の予約を失敗したので、来週は別のフロアで仕事をしなくてはならない・・・orz。 プロジェクトを遂行する場合も、プロジェクトメンバーは、東京オフィスに所属する日本人で構成しなくてはならないわけではない。 必要に応じて各国からメンバーを掻き集める。 僕が外国人のメンバーを東京に呼び寄せる場合もあるし、僕が海外のチームから呼ばれて海外オフィスで仕事をする場合もある。 東京で日本人中心のメンバーでプロジェクトを遂行する事が多いのは、飛行機代やホテル代といったコストをケチっているからである。 世界中から集まった外国人との混成チームでプロジェクトを遂行することは珍しくない。 その世界中から集められた国籍がバラバラなメンバーで構成されたプロジェクトチームで仕事をする際、仕事においては、メンバーの国籍を意識することはほとんどない。 食事の際の話題として、「あんたの国、最近どうよ」的な世間話で上るだけである。 僕が外国人のなかにいる際、日本人である事を意識することは、ほとんどない。 ただ、宗教上の戒律は存在するので、インド人とは牛丼を食べに行かない。 豚丼は問題ないけど。 それは、国籍に起因する問題ではなく、宗教に起因する問題だ。 ニューヨークのオフィスで僕が日本食を食べたい、と頼んでカツ丼をデリバリーしてもらったら、生姜味でクソまずかった事はある。 外国人メンバーも僕を日本人としてよりも、僕個人として意識しているように思う。 文化的な面においても、世界中の人々は、同じアーティストの音楽を聴き、同じ映画を見て、同じ小説を読み、同じゲーム、アニメを見て育っている。 外国人とカラオケに行っても、選曲する歌は、お互いに知っている。 僕は邦楽は全くと言っていいほど聴かないので、日本人とのカラオケのほうが知らない曲が多い。 国籍による違いよりも、趣味的な部分での個人としての違いのほうが大きい。 異なる趣味を持つ日本人よりも、同じ趣味を持つ外国人とのほうが、僕は話が合う。 そこで話題になるのは、日本で先行リリースされたコンテンツや、DVDのリージョンプロテクトにより、日本国内発売のハードウエアでしか再生不可能な映像についてくらいのものだ。 僕がゴースト・イン・ザ・シェルというアニメーションの存在を教えられたのは、外国人からである。 僕が接する外国人は日本の伝統文化には興味を示さない。 日本の電気製品やクルマ、アニメに対して興味を示す。 でも、僕がAudiやDucatiに乗っていて、毎週、The Simpsonsを観ている、というと驚く。 僕の小学生の従兄弟は、親の転勤に伴い、米国に引っ越した。 英語が話せないので、引越し前は心配していたのだけれど、いざ米国の小学校に入学すると、ポケモンについて異常に詳しい、という事で一躍、米国の小学校の人気者になってしまった。 僕は、外国人と接していても自分が日本人である事を強く意識させられたことがない。 逆に、僕が日本人であることよりも、僕が僕自身という個人であることを意識させられる。 仕事においてはスキルをベースに評価されるし、趣味に対しても好みが近いかどうか、のほうが重要だった。 世界中の経済、文化等々の並列化が進行した結果、日本人、日本国籍であることは、僕にとってはあまり意味がない。 関西出身の僕にとっては、「関西人は阪神ファン」、「関西人はお笑い」、「関西人はたこ焼き」というレッテルのほうが強いくらいだ。 僕は関西出身ではあるものの、もう十数年を首都圏で過ごしているので、関西に戻った際の違和感のほうが強い。 スティングの「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」的に言えば、「カンサイジン・イン・トーキョー」。 ニューヨークのオフィスで仕事をしていた頃、サンフランシスコ出身の女の子がいた。 その子は、同僚からいつもサンフランシスコ訛りをネタにされ、その女の子はサンフランシスコ訛りを誇りに思う、と言い返していた。 関西弁みたいなものか。 もちろん僕にはニューヨークとサンフランシスコの発音の違いはわからない。 僕の昔の上司は、日本人、中国人、インド人、イタリア人、フランス人、ドイツ人、イギリス人が英語で議論しているモノマネを持ちネタとして持っており、アメリカ人には大ウケしていた。 発音の違いと、文化の違いによる意見の食い違いをネタにしていた。 アメリカ人には大ウケだったが、日本人にはイマイチ理解されていなかった。 今や僕にとって、国民性は微妙なギャクのネタのレベルになるほど、差異がない。 スティングだって、英国と米国の違いについて、紅茶とコーヒーの違いだと歌っている。 紅茶か、コーヒーか、ウーロン茶か、グリーンティーか? 僕は全部飲む。 ■ENGLISHMAN IN NEW YORK LYRICS(イングリッシュマン・イン・ニューヨークの歌詞)http://www.lyricsfreak.com/s/sting/132036.html ■Lyricsfreak(洋楽の歌詞満載の歌詞サイト)http://www.lyricsfreak.com/
2005年04月02日(土)
団結せずに蜂起する力を得た個人
僕は、ネットで文章を書き、自分の文章がコピペされたり、リンクを貼られたり、コメントをつけられたりしている様を観察していて少し思った。 ネットでは、現実社会での繋がりも主体としての個人としてでもない、「個人の持つある一部の特定の思考だけに共鳴する人々の思考の集合体」が力を持ち得るのではないか、と。 僕の思考に対して、全面的に肯定する人は、まず存在しないだろう。 だけど、僕の思考の一部に対しては、共鳴する人は多く存在する。 僕の書いた一本の文章に対しても、完全には肯定できないが、一部は共鳴できる、という人が大半だろう。 そして、僕のある特定の思考、言葉に対しては、異常なまでにネットは反応する。 僕のある特定日の文章には、累積で数万のアクセスがあった。 僕のサイト全体ではなく、特定日の文章に対するアクセスである。 僕の文章に対して、ネット上のあちこちで波紋が起きていた。 その波紋は、ネット上のあちこちでバラバラに起きており、それぞれは連携していなかった。 最初の波紋は、同時多発的ではあったものの、当初は連携していなかった。 だが、時間とともに同時多発的にバラバラに起こった波紋とその反応は、少しずつ連携を見せていった。 バラバラに起こった反応が、それぞれのグループの両方にアクセスしている人々によって、つながりを見せ始めた。 波紋の発端は僕だったのだけれど、時間とともにオリジナルである僕の色は消えていった。 僕は、小さな火種を放り込んだ。 その小さな火種は、あちこちに飛び火した。 当初は、飛び火したそれぞれの炎は小さかったのだけれど、その炎は、他の炎と交わり、大きな炎になっていった。 僕は、このような状況は何度か経験している。 このサイトでも経験したし、メーリングリストでも経験した。 オープンな場でも、クローズドな場でも。 火種としてのオリジナルは、小さいのだけれど、飛び火すると大きな炎となり爆発的な力を得ることがある。 そして、ネットではそのような事態が起こりやすい。 僕は、ある時は意図的に、あるときは意図せずに、そのような波紋を起こしてきた。 ネットワークコミュニケーションの観点からは、非常に興味深い現象なので、意図的に、いわゆる「釣り餌」を投下してみたりもした。 簡単に釣られる人(サイト)も結構多かった。 だが、現実には僕が意図していない時のほうが、炎が巨大化する事が多い。 僕は「釣り師」としてはまだ二流でしかないようだ。 これはいわゆるネットワーク効果で簡単に説明されてしまう現象なのかもしれないし、ライアル・ワトソンが言うところの「100匹目のサル」なのかも知れない。 僕は火種でも何でもなく、ネットで同時多発的に起こった現象のひとつなのかもしれない。 僕は1匹のサルなのかもしれない。 ただ、「100匹目のサル」的現象が、ネットによる脳や思考、意識の共有化により、101匹目からそれが数万、数十万、数百万、数千万に波及していく速度が制御不可能なまでに加速し続けている、と思う。 ネットの辺境に存在する僕が、僕以外の個人がちょっとした火種をネットに放り込むだけで、それが力を得てしまう現象が散見されるようになった。 個人は団結せずとも蜂起できる。 団結していない個人集団、団体として特定できず、組織化されてもいない個人の意識の集団が力を得てしまう。 その意識の集合体を率いている存在はいない。 中心となる個人も組織も存在しない。 集合的「有」意識なのだ。 その集合的「有」意識に参画しているそれぞれの個人は、立場も異なれば、統合体としての個人の意識や思想は異なるだろう。 個人は個人として独立した存在でありつつ、意識の一部分が共有化され、その意識が集合化する。 組織でも団体でもない集合的「有」意識が生まれ、成長する。 そして、そのバラバラな個人の集合体が、世界を変えてしまう力を持ち始めている。 僕のような悪徳コンサルタントとしては、その集合的「有」意識を何とかしてプロデュースし、自分の望む方向に向かわせたい、と考える。 僕は学者でも思想家でもない。 そこでどれだけ商売ができるか、が問題である。 僕が思考するのは、金儲けの「手段」をひたすら考えているからである。 僕は企業の経営者や戦略コンサルタントの同僚達や「偉い人」と議論をしていると、強い違和感を感じる事が多くなってきた。 最終消費者である個人顧客の力を軽視し過ぎているのだ。 ネットの力を過少評価している。 もしくは、簡単にコントロールできる、と過信している。 旧来の価値観による判断はもはや通用しない。 企業や政治の世界の上層部にいる人たち、エリートと呼ばれる人たちの持つ価値観は現在進行形の時代の変革とはズレが大きい。 僕からみれば、エリートちゃん達は、時代から取り残されている。 集合的「有」意識は、ある程度までは、プロデュース可能だ、と思う。 だけど、それがどこかの段階で制御不可能になる。 僕は本業として、個人として、その制御不可能な状況を何度も作り出すことに加担してしまった。 現在もリアルタイムで進行してしまっている事も多いので、具体的な内容を書くわけにはいかないのが歯がゆい。 ネットにより、個人は団結せずとも蜂起する力を既に得ている。 個人は既に力を得ているのだ。 これは、間違いのない事実だ。 個人よ、団結せずに蜂起せよ。
2005年04月01日(金)
昼間の数人のプロとの濃い議論と、夜の数千人とリンクした思考
「脳のオープンソース運動家」として活動していると様々な発見がある。 僕のサイトは、トラックバックもコメントもできない仕様になっているので、僕以外の人は、ネット上での僕を取り巻く状況、僕の文章が引き起こしている波紋はほとんど見えないだろう。 僕は、ログを取得しており、かつGoogleで自分検索を行なっているので、おおまかな状況は掴めている。 僕のサイトは「放送型」であり、インタラクティブ性はほとんどない。 通常の「放送」と僕のサイトの最大の違いは、放送における視聴率調査とは比較にならない正確性を持ったアクセスログが存在する事である。 アクセスログを辿っていけば、僕のサイトに対するコメントや評価をかなりの精度でつかむ事ができる。 僕のサイトは、あちこちのブログで取り上げられる事が多い。 ブログのソースとして僕の文章の一部が掲載され、リンクが貼られていることが多い。 ブログでの取り上げられかたは様々だ。 批判もあれば、共感もある。 単なる誤解(僕の表現の拙さのせいもある)もあれば、有益な指摘もある。 でも、どれも僕にとっては有益な情報である。 僕は、僕の思考に対する他者のコメントを読み、学習する。 ブログの価値は、ブロガーがオープンソース的に、思考のコアとはなるもののバグだらけのソースとも言える文章を書き、それに対するコメントやトラックバックにより、そのソースコード的な思考が完成度を高める事ではないか、と僕は思っている。 僕は、ソースは提供してはいるものの、コメントやトラックバックを用意していない事により、完成度を高めた情報を独占している。 これは良くないな、申し訳ないな、とは思う。 でも、コメントやトラックバックを許可すると収拾がつかなくなる可能性があるし、対応する余裕もない。 そして、僕が一番恐れているのは、僕が意図的にボカして表現している情報が、コメントにより特定されてしまうことである。 いくら僕が「妄想」と言っても、実際には何らかのファクトが存在する事も多い。 そのファクトが特定されると、客商売をやっている人間としてはヤバかったりする可能性もなくはない。 だから僕は、今後も「放送型」でバグだらけのソース文章を提供し続ける。 昼間はコンサルタントとして、数名の人間と濃い議論を行い、クローズドな環境で思考し、限りなく完成度の高い思考の結果を追求し続けるのが僕の仕事だ。 そして、夜はバグだらけのソースをオープンなネットにアップし、数千人の目に晒して、バグフィックスをしてもらう。 僕にとっては、かなり面白い環境である。 この両面が、僕の強みだ。 コンサルタントとして得た思考の結果は、職業上、ネットには出せないのだけれど、その逆は可能だ。 ネットで数千人の目に晒してバグフィックスされた僕の思考は、コンサルティング業務へはフィードバックされる。 僕の思考の完成度を高めているのは、僕自身ではなく、僕のサイトに対してコメントを書いてくださっているブロガーの方々だ。 僕は、ネットで提供可能なネタは、ネットにもお返ししなくてはならない、とは思っている。 だけど、基本的な僕のスタンスは、バグだらけのソースとなるネタの提供であり、完成品はなかなかネットには出しづらいのが現実だ。 僕は、僕のサイトの読者の方からは、一方的に無償で情報提供をしている親切な人であるように見えるかもしれないのだろうけれど、実際にはフィードバックされた情報を活用させてもらっている。 ブログは、「バグだらけだけど可能性を秘めた種」と「その種に対する質の高いコメント」で成立するものなのだろうな、と思う。 オープンソースソフトウエアのあり方と何ら違いはない。 問題は、僕がなかなか「可能性を秘めた種」の提供をできないでいることだ。 僕は、数で勝負するしかない。 もう少し頑張れば、僕の文章は1,000本くらいになるはずだ。 1,000本ノック。 1,000本のネタを書けば、何か見えてくるかな、と思ったのだけれど、なかなかそうもいかない。 思考は新たなる思考を呼び、混乱していく。 知れば知るほど、自分が知らない事がたくさんあることに気づくし、考えれば考えるほど自分の思考の甘さに気づく。 ただ、僕は一人じゃない。 僕の思考は、個人で作り上げられたものではない。 ほぼリアルタイムにネットとリンクし、進化している。 昼間の数人のプロとの濃い議論と、夜の数千人とリンクした思考。 僕は幸せな立場にいる。 このような立ち位置にいられる人間はほとんどいない。 たぶん、これは妄想じゃない。
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