新聞の日曜版は読書特集が組んである紙が多いです。 「海辺のカフカ」のレヴューもいくつかでていました。 わりと好意的なものが多いです。
ぼくの意見としては、あの本は戦うことを宣言した本でもあると思うのです。 悪の代名詞たるジョニー・ウォーカーとのはっきりとした訣別、あるいは戦うことの宣言です。ナカタさんもホシノさんもジョニー・ウォーカーを「殺し」ます。 その意味が深い。この作家がそれを書いたことを覚えておくべきだと思います。 やはり戦うのです。不条理なまでの怒りを自らに許すのです。 それをどうとるか。
昨日、ある方の日記で、捨てられ殺される犬の写真を見てしまいました。 「海辺のカフカ」にでてくる猫ごろしのコレクターにしてカフカ君の父、ジョニー・ウォーカーがすぐに頭に思い浮かびました。 また、あるテレビのバラエティで「こいつは絶対駄目だと思った時」という質問に答えてこういうのがありました。 彼女から旅行をせがまれて、犬がいるからなァ、と言ったところ「いいじゃない、保健所に持ってきゃ。かわりはいくらでもいるでしょ」という答えが返ってきた、と。 さりげなくそういう意見は多いのでしょうね。
自らに不条理なまでの怒りを許すほどの「悪」。 だけど、本当の「悪」は人を怒りに導くものではないと思います。 人の「やる気」を奪い去るものが本当の悪です。 It‘s my opinion.
「海辺のカフカ」を読んでからジャズはコルトレーンばかり聴いていましたが、それも一段落。自分の詩を書こうとノートをひろげました。 聴いてる音楽を切ったら、ずらずらずらと言葉が出てきて、それを組み立て中です。 ぼくの場合は推敲というとほとんど書き直しですから、言葉を紙の上に落とすまでが「なかなか」なんです。
ノートを見ながらいつものように、あーでもないこーでもないとやっている時は音楽を流しています。書きながらのときはたいてい小さい音でのソロピアノがほとんどです。だからクラシックはじめいろいろとあります。クラシック以外だとウォン・ウィンツァンさん、キース・ジャレット、ハービー・ハンコック、などなど。
今回よく聴いているのはフェビアン・レザ・パネさんのピアノ。彼のソロピアノ3枚組「スウィート・ラディアンス」は愛聴盤です。 自分のwebサイトのmusic reviewでもとりあげました。
書いてる詩のかたちが一応できてきたので、スイッチを耳に変えてパネさんのピアノで休憩にしようとしたのです。 そうするとさーっと彼のピアノがこころにしみてきたんですね。 で、「パネさんのピアノ」という詩ができてしまいました。 あれま。
フェビアン・レザ・パネさん。東京生まれの東京育ち。音がキンキンしてなくて、ゆったりとした優しい音です。聴いてもらえれば一番わかるんですが、この3枚組のなかの3枚目が特によく聴きます。
彼のwebサイトを紹介しておきます。 http:www.ne.jp/asahi/hp/febrepa/index.html 「パネさんのピアノ」という詩は今日中にサイトのほうにアップしようと思ってます。
今ぐらいの季節に、薔薇が咲いているのを見かけないでしょうか。薔薇はふつう5月に咲くものですが、四季咲きのものは秋の花をつけます。 気温が低いので花もちもよく、よく締まっていて春についで美しい季節です。
我が家もミニバラやハイブリッドティーがそれぞれ咲いています。 (エンピツに書き出してからこの日記をごらんになっているかたのために一言かいておくと、ぼくはかなり薔薇の栽培にはまっています。) これからはゆっくりと枯らしていって来年の春に向けての準備です。 鉢替えは12月ごろ。新苗は1月から2月ごろです。 去年は一季咲きのオールドローズを購入したんですが、やっぱり四季咲きの方が年中花が見れるからいいですね。ハイブリッドティーを作った人の「欲」、よくわかります。
ロザりアン(薔薇を育てる人)たちはある意味、この時期がとても楽しい季節なんです。本やカタログを見て来年は何を植えようか、自由に思いをめぐらすんですね。結果、何も植えなくても良いんです。あーでもないこーでもないが楽しいんです。
ぼくは来年はイングリッシュローズを狙っています。形も大事だけれど強めの芳香が欲しいな、と。品種名でいうとタモラとかダークレディなど。 実際は園芸店に今年の苗が並ばないとなんとも言えないんですけれど。 去年は真っ白のプリンセス・ダイアナが大量に出回っていました。 今年はどうでしょうね。オールドローズが人気があるので、イングリッシュ系もたくさん出てくると思うんですが。 書いてるだけで楽しくなってしまいます。
ところで、昨晩から、桑田圭介の「東京」を何度も聞いてます。いやー、いいですねぇ。ロックンロールヒーローの歌詞もとてもいい。今の日本についての「気分」これだけ歌った人はいなかった。うん、かっこいいよ。
桑田圭祐バンドのスキンへッズのギターの人、雰囲気あっておもしろい。 ちなみにサザンで一番好きなのは「Kamakura」と「綺麗」です。 は?えー、桑田ファンですが。
雨が降っています。昨日の夕方から降ったりやんだりです。
ジャンの脚、回復してきました。たいしたことではなくてよかったです。 一安心。
思っていたよりも秋の進行が早くて、とうとう夏の布団から普通の布団に変えました。なんだか重さが心地いいです。
京都で詩人と映像作家のジョイントイベントが3日間連続で行なわれます。 藤井(貞)さんも出るのでおもしろそう。音楽ではなくて、映像+詩。詩人は朗読という形で参加します。
昨日はネットの中の詩で素敵な言葉に出会いました。うれしかった。 蜃気楼のように消えてしまわないように、他の言葉すべてをシャットアウトしたい衝動に駆られました。
歩く人も少なく、夜が深いです。 ひさしぶりに雨音と夜に浸っていました。
だいたいこの日記を書くために大まかにノートにまとめておくことがあります。で、朝の時間にそれを一気にパソコンに打ち込むわけです。 だけど、どうしてもそのノートを見て、やめとこうかという気分になる内容もあって、今日がそれなんです。
だけど、手短に書いておきましょう。 日本が世界一の長寿国であることはご存知だと思います。平均寿命が世界で一番長いのです。ところで自殺率も世界一だということをご存知でしょうか。 自殺率とは人口10万人に対しての自殺者の数で表されます。世界の最貧国でも戦火渦巻く国でもなく、日本が世界一なのです。 噂でもなんでもなく、先日終了した精神医学の学会で報告されたものです。
特にここのところの失業率の悪化と完全にリンクしていて、年間3万人を超える人達が亡くなっています。日本の死因のトップです。 で、急激に増加した部分と言うのが40から50歳代の男性なんですね。
そして、つい最近大手の保険会社は自殺に対する支払いについて、一定の猶予期間を設ける申し合わせをしました。それほど多いのです。
これがなにを意味しているのか。 慎重に言葉を使いたいのですが、家族の将来、残された負債、それを自らの命で補おうとする気持ちのあらわれだとぼくには思えるのです。 その心を思うとせつないです。
世界一の長寿と世界一の自殺が同居する国。日本の社会はそういう事態になっていたのです。慄然としました。
さて、話題を変えて 今日の夕方、「宵の明星」金星が最大光度となります。1年で一番きらきらと輝くのです。日没から30分ぐらい太陽の南、つまり南西の空に輝く一番星です。 夕焼けの中に輝く星が見えるはずなんですが。 京都はあまり天気がよくありません。 せめて輝く星でも見たい気分なんですが。
2002年09月25日(水) |
ジャンの脚 ブラッキーの脚 修正版 |
ピレネー犬のジャン。9歳です。昨日の散歩のあとから右の前足を引きずるようにして痛がっています。立ちあがるときにひねったのか、玄関に飛び降りた時に痛めたのか原因がわかりません。もともと関節痛なので薬はずっと飲んでいるんですが、効いてる様子がありません・・・。
今朝は、それでも排泄がしたくなって片足を引きずるように外に出ました。 じっと足を観察していると、よく歩く犬だと自然と削れてくる爪があまりに歩かないので伸びてしまって、それが斜めに曲がっているのを発見。簡単に言うと、足の指が地面を踏むたびにぐにゃっと外へ曲がるんです。
直観でこれだ!と思い、その場で「散歩グッズバッグ」のなかから爪切りを出し、一気にぱちん!犬の爪切りは素早くやらないと、ぶーぶー言ってやらせてくれません。小さい犬ならいいけど、68キロもあるジャンの場合、暴れ出したら手におえないのです。 次に起きて歩いた時にチェックしてみます。
知り合いの英語の教師M氏のところに黒ラブのブラッキーがいます。彼の後ろの右足がまったく動かなくなったそうなのです。 犬は実は「前輪駆動」の構造なので、前足が動いている間は動けます。三本脚でも歩けます。ただ彼の家が一階が駐車スペースでそこから階段で玄関に上がらねばならず、それが大変な苦痛だそうなのです。さらに下りがもっと大変。あまりに痛いので下るのを怖がってしまっているそうです。
彼の家では外で排泄をする躾をしているので、そのつどM氏が抱きかかえて外へ連れ出しています。ラブラドールレトリーバーの5歳。元気な盛りの歳に、可哀相です。先天的な股関節の異常だそうで、ゴールデンも含めレトリーバー系の犬には多い疾病だと聞いたことがあります。
M氏のところはまだ小さい子がふたり。それに奥さんも働いていて、あと猫が数匹。ブラッキーは弱っていた拾われ猫君の世話までした、心優しいワン君なのです。足が痛いし、家族に迷惑をかけたくないので、排泄を我慢するんですね。 ほんと、なんとかしてやりたいです。
M氏は、手術で治るものなら、と現在手配中だとか。元気に走るブラッキーに戻ってほしいものです。
おっと、ジャンがいびきをかいております。こいつの場合は、人間で言えば70歳ぐらい。(超大型犬は老化が早いのです)やすらかな老後をいかに過ごすか、これからの課題です。
(あまりに調子が悪くて、誤字が多かったので修正しました。とほほほ)
2002年09月24日(火) |
a.m.3:00 keep your head up |
あれだけの猛暑が嘘のように、一気に涼しくなった今朝。クーラーではない16℃を体感しています。昨日の夕方は犬たちがおおはしゃぎで散歩に繰り出し、おかげで秋の街の様子がよくわかりました。
散っては咲き散っては咲きをしていたサルスベリが、その名の通り百日の紅を終えて、だんだん鮮やかな桃色がその木から消えていきます。 4軒の家の真中に共同の花壇に向かうと、彼岸花ももう散り際。ススキは大きく伸びて、小さな薔薇の鉢はベルベットのような深紅の花で飾られていました。
野良猫たちはそろそろ寒さ対策を考え始めていて、寝場所の確保に余念がありません。うちも明日、6匹のためのダンボールハウスを作ろうと思います。 残りの2匹は大学の使われていないプレハブがねぐらのようです。
影が長くなり、夕日から痛さが消えて、見つめていられるようになりました。朝が遅くなり空気がしっとりとしています。 なんにしても今年の夏は暑かったですね。そうむごいぐらい。
ヘッドフォーンでJOのBetter Daysを聞きながら、朝の来るのを待ってます。あの東の山のすぐ裏に、もう朝がきています。 ヘッドフォーンで今まで気がつかなかったコーラスの小さな掛け声のフレーズに気がつきました。
keep your head up といってます。
静かです。 日記を書くことから今日も1日が始まりました。
2002年09月23日(月) |
いまだに書けないジャンの事。 |
詩を書いたり、あるいは日記を書く時にアタマに焼きついている風景を思い起こすことがよくあります。 毎日の暮らしの中で、ぼくは「打たれる」というんですが、とても面白かったり何かを強く感じるような言葉や風景や本や絵や音楽に出会うことがあります。それがすべてのような気もします。 そんな時は出会えたことに感謝の気持ちが湧いてきます。ほんとに。
今まで書いた詩も、ハナとか猫たち、薔薇などの植物、さまざまな表情の空、鹿王院や法然院などの場所など、そこから得たものがとても多いです。 このことにもっと意識的になろうとも思っています。世界はいつでも全開なのですから。もっといろいろ教えてもらおうという感じです。
で、ふと「人」の場合はどうだろうと思ったんですね。すると、モデルにしている実在の人物がまったくいなくなりつつあることに気がつきました。昔はありました。実際に「その人」を念頭において、物語を転がす事もありました。 ぼくが読んだ本だとミラン・クンデラの本なんかだと、実際の街角で見つけたご婦人のスケッチから、物語を組みたてだしていつのまにか「小説」の世界に入って行くのがありました。それも面白そうです。 もっと「人」を見る、ということが必要なのかもしれません。
もうひとつは犬のジャンの事を書いていないことにも気がつきました。なぜだろう?近すぎて見えていないのか、それとも。 それとも、ジャンには言葉が入り込むすきがないのか。うーーーん。 ほんとはなんとなく分かっているんですけどね。 たぶんジャンのことはかなりの時間が必要なんだろうな、と。
どうしても避けられない「あること」を通過しないと無理なぐらいくっつきすぎてるから。たぶん書く事を無意識に避けているような気がします。 ・・・・対象化できないのです。
と、足もとで寝ているジャンをしばし眺めています。
2002年09月22日(日) |
am4:00のJAZZ。 |
Ballads JOHN COLTRANEを聴いてます。
村上春樹さんの「海辺のカフカ」サイトのロングインタヴュー、小説家の社会へのコミツトに関する部分、とても示唆深かったです。
やはり、現状の社会を批判するのはいいけれども「麻原的」なものには徹底的に注意していくということの確認です。現代の状況批判が陥りがちな罠のような気もします。 そうなりがちだから。そうではない「物語」を書くべきなのでしょう。
昨日、岩波新書から高橋源一郎さんの「一億三千万人の小説教室」という新書が出ているのを知りました。700円だから、てなわけでは全然ないけど面白いです。 インターネットの発達で誰もが書き誰もが発信できるようになった時代だからこそ、小説を読む時間を作ろう、とも。
だけどこの本は高橋さんの小説へのラブレターなんだなァ、と感心しているしだいです。ほんとに小説を愛しているんだというのがよーくわかります。 この本にも春樹さんは素材として登場します。なんだか面白かったな。
ただ、この本に出てくる 「ここではないどこかに行きたい」「目の前にあるその壁の向こうに行きたい」という本能が、小説を(文学)産んだ。
という部分。この部分は「麻原的」なものと通底する部分がありはしないかな、などど生意気にも思ってしまったんです。 無論そういうものも含みつつ、それを乗り越えて行くのが文学なのでしょうけれど。
でも、高橋さんがこんな本を書くとは思わなかったな。とてもポジティブですがすがしいぐらい衒いがない。 なんだか昨日から小説家志望のための本の紹介ばかりしてるみたいですね。
いかん。自分で書こう。・・・っと。 ではでは。
ぼくが勝手に詩の師匠と決めている人が二人います。 ひとりは17歳の時に出会い、詩を書くきっかけとなった松本隆さん。もう一方は婦人公論で詩の選評をしておられる井坂洋子さん。井坂さんはその詩も好きで、詩集はよく読みます。(読みこみが甘いか!!)
現実的には毎月一度は選があるわけですが、自分が応募していない号の評も必ず何度も読むようにしています。かならず何らかの示唆があって、投稿者にとても寄り添った評があるからです。 それは井坂さんのエッセイなどを読めばわかるように、彼女も熱心な一投稿者から詩人のキャリアがスタートしていて、そのことをとても大事にしておられるからだと思います。
無論、賛辞ばかりではないのですが、「厳しい」とは感じたことはないです。ま、人によりますけれど。 今回の号が昨日、本屋さんから届きました。その評でとうとう河野多恵子さんの「小説の秘密をめぐる12章」を読むように、という「指令」が出されました。 この本は小説家を目指す人の間では評判の本で、いろいろと「波紋」もよんでいる本です。
この本の「小説」と言うところを「詩」に置き換えて読めば、たいていその通りであるから読みなさい、と。 この本を読んだあるカメラマンは「小説」を「写真」と置きかえれば、カメラマンを目指す人のための本になる、といってます。
「波紋」というのはこれを読んで凹んでしまう方がおられるらしいということです。なんで?と思いますけどね。んー、凹んで止めるぐらいなら、最初からやらないほうがいいよね。 ぼくなんか意気消沈大歓迎?というところがあって、凹んだ方が書ける?というか自分をよく見つめなおせるんです。 有頂天が一番ピンチ、というか。
いろんな雑誌に応募して、入選を何度かして編集部から「ちょっと書いてみて」と言われて有頂天になる人の話が出てくるけれど、そういうのがいやがられてるのかも。生々しすぎて。 わりと調子に乗りやすいぼくなんかは常にこの本を横において置きたいと思うほどですが。
で、もう1冊本屋さんに発注しました。えっ、最初の本?読めないぐらいぼろぼろなんです。何故でしょう・・。はははは。
とまれ、凹むことは「モノカキ」志望には大事なことだと思う、今日この頃でした。 ではでは。
2002年09月20日(金) |
寝入りばなに音楽は・・・・。 |
犬のハナが布団の横で寝るようになりました。暑いときは板の間でごろんとしてるんですが、ずいぶん涼しくなったわけです。 秋の夜長、とはいっても寝るのがとても早いのでそんなに夜が長いとは感じてません。寝る前にはノートになにか書いてるか音楽を聞いてます。 もっと書くことに集中したほうがいいかな、と最近では思ってます。 音楽が耳に残って眠れなくなるときがあるから。
クリエィティブな人たちは夜の静けさの中で、がんがん作業してるんだろうな、と思いながら爆睡してます。だけど3時に起きてる、といったら友人に夜中じゃねェかと怒られました。
ラジオは聞き出すと朝までつけっぱなしになるんで、慎重になってます。 音楽がアタマに残ると寝たのか寝てないのかわからない状態になって、昼間ボーっとするはめに。10時ごろの眠たいことといったら・・・・。 そこらへんの切り替えが器用な方じゃないから、寝る前の音楽には用心深くなってます。
えーっと、今、午前4時になりました。珈琲を淹れて、猫のご飯の用意もしなきゃ。朝は音楽聴きます。目を覚ますのもありますしね。 なんにしようかな・・・・。パット・メセニーにしよう。 秋ですね。外がまだ真っ暗だもの。白んでもきてない。
今日もいい天気のようです。いい1日を。
2002年09月19日(木) |
散歩のことも書かねば。 |
昨日も今日も朝はとても涼しくて、少し肌寒いぐらい。 本来は山の犬であるところのジャン君、夏の間とは別の犬のようによく歩きました。 太陽の軌道がずいぶん南へ移動しました。だからまぶしさを感じる地点も変わり、風景につく影もだいぶ変わりました。
秋です。歩くのにはちょうどいい季節です。ハスの咲いていた近所の古寺の池、もうハスも終わってるかな・・・。これからは紅葉へゆっくりと傾いて行きます。
街のど真ん中に最近また、とんとご無沙汰。別に用事がないから行く必要もないけれど、自転車でぷらーと流してみようかな。なにか変わったことがあるかも。
そういえば京都市美術館や京都市歴史資料館などがが自らのコレクションのデータベースのうち、著作権の問題をクリアしたものを、「京都デジタルアーカイブ研究センター」のウェブサイトでの公開を始めました。 これはいいですね。日本画や洋画、二条城の天井絵、昔の京都の写真などなど。
展覧会か画集でも買わなきゃ見れなかったいくつかの作品が常時見ることができます。ぼくは早速、上村松園さんの絵と黄金の天井を見に行きました。ほかにも日本画の好きな作家の方の作品がたくさんあります。 洋画も浅井忠さんはじめ、なかなかのコレクションです。
データが多いので、うまく入っていける方法を書いときます。 URLは http://www.city.kyoto.jp/bunshi/kmma/index2.html そこの「サイトマップ」をクリック。続いて「静止画アーカイブ」をクリツク、赤に白抜きの「詳しくはこちら」をクリック。 そこから各機関のデータベースに入る検索ページですが、「検索」ボタンをクリックしないでファイルボックスのアイコンをクリックした方が早いです。
それに鳥類のほうでは、あの山階鳥類研究所がサイトをたちあげました。これからデータベースも整備してくれるそうです。これもいいですねー。 散歩で見かけた鳥をサイトでチェックできるし。 http://www.yamashina.or.jp
情報がこういう形で開かれてくるのは大歓迎です。
2002年09月18日(水) |
「Nearness of you」を聴く。「語ること」を読む。 |
聴かず嫌いというわけではないんだけど、なぜかあんまり聴かなかった、マイケル・ブレッカーのニアネス・オブ・ユーを聴きました。 バラード・ブックとサブタイトルがついているように、珠玉のバラードが集められています。いわゆるスタンダードは少なく、このセッションのメンバー、ハービー・ハンコックのチャンズ・ソング、パツト・メセニーのサムタイム・アイ・シーとセブンデイズ、ブレッカー自身のオリジナルなど、本人曰く「現代のバラードアルバム」として仕上がっています。
東京JAZZ2002で現在の充実ぶりを見せつけたブレッカーですが、このアルバムでも実に気持ちのいいテナーサックスを吹いています。 ロマンティックでメロディアス。コルトレーンのバラードを念頭において作ったというだけあって、心に染み入るような音を聴かせてくれます。
最初聴いた時に少し違和感を感じたジェイムス・テイラーの歌2曲も、優しさを強調するように聞えます。もともと嫌いな人じゃないですしね。
ハンコックとメセニーのバックアップはすばらしくて、それぞれのピアノとギターはさすがです。とても美しい。 一番綺麗なバラードだな、と思ったのはミルトン・ナシメントの書いたナセントという曲。メロディがたまらなく好きです。
以上、「朝の部」でした。
さて、「昼の部」です。 サンデー毎日に連載されている辺見庸さんの「反時代のパンセ」。週刊誌の中では唯一、読みつづけているコラムです。書かれていることすべてに同意を持つわけではないですが、単純明快でなく、自らと苦闘しながら書かれておられる姿には共感を覚えています。 古くなりますが9月1日号の第51回「語ること」も考えさせられる内容でした。
20歳ほども年下の評論家と話をしていて、一種の失語症になりかけたというのです。意識が「割れて」しまった、と言いますから、言葉の意味も文脈もトンでしまったのでしょう。「彼は『正しい男』だ」と辺見さんは書きます。「正しすぎる男」だ、と。しかし、彼は正しいことばかり語っているにもかかわらず、意識が割れ、「言葉が舞い散らかってしまった」というのです。
辺見さんは言葉を選んで慎重な言いまわしをしておられるけれど、つまりその「語り」がうわっつらだけだと批判しているのですね。 そして、それは言葉にかける語感や重さの違いによるものだと述べておられる。 語られる言葉に肉体が貼りついていない。その言葉の脆弱さを語られて(書いて)おられる気がしました。
その若い評論家とは別に、辺見さんと思想信条もまるっきりことなる、故・古山高麗雄さんとの語らいを紹介されています。 思想信条が異なるけれど「精神の生理」がぴたりとあったと。意識は割れなかったし、言葉は舞い散らからなかった。 それは何故でしょう? 「正しさ」一辺倒の語りは、辺見さんもあげておられるロラン・バルトの言うように「言葉の損耗」が起きます。「泡の中に支えられている」に過ぎなくなります。 心を打つもの、あるいは響くものはそうじゃない。 「光を語るのに光の側からの抽象のみではだめなんだ」と辺見さんは述べます。
ぼくが一番反応したのはその部分でした。 闇がなければ光もないのです。例えば絵です。幽霊の絵が何故、不安な存在感のなさがあるのかというと、影がないからです。幽霊は気持ち悪いですけれど人の心は打ちません。 それが言葉にも言えるんじゃないでしょうか。陰影のないただの「正しい美しい言葉」は「幽霊」じゃないか、と。
辺見さんが古山さんから得たヒントを教えてくれています。
『他者にせよわれにせよ、人間の正しさや美点よりも瑕疵(かし)にこそ世界を考えるヒントがある』
辺見さんは闇を撃つのは光ではなく、もっと深い闇だと。闇に肉薄する言葉を持つことだと述べておられます。そして、それは口で語ることではない。語りを減らし、書くことを増やそう、と決意を披瀝してこの稿を終えています。
文春9月特別号でも、ネットの世界でも書くことに意識的な人ほど「言葉が舞い散る」ことに鋭敏に反応しています。たんに正しいこと、たんにうそぶくこと、影のない言葉たち。肉体のみえない言葉たち。そういうものに対して。 松本さんが書きつけておられた「うそくさい言葉」への拒絶感覚にもつながっていると感じました。
なかなか考えるポイントを頂いたコラムでした。
で、朝から雨です。午前4時20分ごろは、いったんあがっていて、この日記を書こうとしていたんですが、「通い組」がみゃあみゃあとうるさくて、せっせとご飯づくりをしました。連中が食べた直後からまた雨です。
なにを書こうとしたかというと、ビル・エバンスのこと。 小説なりドキュメントが一つ書けそうなほど、劇的なリバーサイド時代のビル・エバンス。人によってはこの時代の4枚を、彼は生涯、超えられなかったともいいます。 無論聴いていたのはワルツ・フォー・デビィとサンディ・アット・ヴィレッジヴァンガード。ジャズピアノのファンならよくよくご存知の2枚です。
詳しくはまた、後日、Webのミュージックレヴューに書きますが、あまりにも有名なワルツ・フォー・デビィが好きな人なら、必ずヴィレッジヴァンガードのほうも聴かれることをお勧めします。
今朝は、家の人ぼくの詩のことを少し話しました。Websiteには1974年からの作品をアップしてます。実を言うとぼくの中では1994年で人間がごろんと変わっているのです。さらにこのサイトを開いた2000年でさらに書くものが変わったと自覚してます。だから、もう古いものはサイトから削除しようかという話になったんです。
でも「ま、人に歴史ありだから」の一言で残すことになりました。ちなみに圧倒的に今の方がいいという意見がまわりには満ちていますが。 なんでもいいですけど続けていくと、書いているのは同じ人間でも作品は変わるものですね。 うまく言えないけれど、まるで落ち葉がゆっくりと積み重なっていくような感覚があります。
そう、今度晴れたら、詩仙堂のほうへ彼岸花を見に行こうかな。あのへんは田んぼのあぜ道に一面、彼岸花が咲くのです。そろそろ咲き出していないか様子を見にいこう。
暗いけれど、いい雨です。空気が落ち着きます。
2002年09月16日(月) |
ジョン・コルトレーン |
久しぶりにコルトレーンを聴きました。 ”マイ・フェバリット・シングス”1960年の録音です。なんだか昔よりもすんなり聴けた気がします。
ぼくはジャズのアーティストの名前もアルバムのタイトルも曲名も、どんな演奏かもすべて、ジャズ喫茶で学びました。特に18歳ぐらいから23歳ぐらいまで、集中的に。 そもそもジャズの膨大なタイトルの中から何を選ぶのかさっぱりわからなかったし、お金もなかった。レコードも持てないし、優秀なオーディオ装置もない、大音量で聴けない、・・・おいしい珈琲も淹れられない。そんな空間がなかったんです。ぼくには「ジャズ喫茶」にいくしかなかったんですね。 今ではそんなお店もずいぶんと減った気がします。
タバコの煙が揺らぐなか、濃い目の珈琲をすすりながら、まず自宅には置けないだろう、すんごいスピーカーから大音量でジャズを浴びつづける。ぼくは来る日も来る日もそれを続けていました。
まず、家でも聞いていたマイルス・デイヴィス。続いてピアノ、そしてサックスと興味の矛先を変えていきました。そして、そういった「ジャズ喫茶環境」にぴったりとはまって響いてきたのが、コルトレーンのサックスだったのです。
ヴィレッジ・バンガードのライヴ。延々と呪術のように続くソプラノサックスのインプロに度肝を抜かれてしまって、たちまちコルトレーンの虜になってしまいました。 ただ、難点があって、それは聴き終わるとぐったりと疲れてしまうこと。のめりこむように聴けば聴くほど、直後は何も手につかないぐらいになってしまうのです。
だから、リクエストする回数も減り、店で覚えたタイトルをレコード屋さんで発見してもつい、買うことを躊躇するぐらいになってしまったんです。 たしか、ジャズ喫茶でコルトレーンがかかると急に店でタバコを吸い出す人が増えたなぁ。
CDにマスタリングしなおしたものが出まわりだしてからも、なかなかコルトレーンの旧作には手が出ませんでした。聴きやすい「Ballad」なんかは聴いても、あとは買ったまま置いてあるだけのような状態だったんです。 ほんとに、最近、ぼちぼち昔の耳を頼りにもう一度聞き出したんです。
ずいぶんすんなりと聴けるので、そのことに少し驚いています。聴く側にある程度の緊張と覚悟を強いるのは相変わらずですが。 それでも今聴いてる、マイ・フェバリット・シングスなんかはとてもチャーミングに聞えます。マッコイ・タイナーのうねる海を想わせるピアノも素晴らしいし、エルビン・ジョーンズの歌うようなドラムも素晴らしい。
1960年、まさにこれから神かがりのような精神性の高い孤高の演奏へ突き進んでいく「とば口」に彼は立っていました。 昔のように、なにも手につかない、ということはありません。むしろ音楽がとてもよく聞こえます。ぼくのなかに何か変化があったのでしょうか。
湧きあがるイマジネーションの泉のように聞こえるのです。まるで励ましのような。 とても、嬉しい変化です。
そうなりそうな日記の書き込みです。 1日が始まる時に、前の1日を総括するような感じですね。 一人だけ、という時間。犬も猫もまだ寝ていて、ま、世間様も寝ていて、自分に集中できる時間が「このあたり」です。起き続けているんじゃないですよ。3時50分か4時10分ごろに起きるのです。
ただ、暖かいときはいいけど、寒くなったらピンチかな、とチラリと思ったりもしますが、なんとかなるでしょう。 で、最初に書くことは「海辺のカフカ」のこと。ここんとこ、この本の事ばかりですね。それぐらい没頭して読んでました。昨晩、寝る前に読了して、そのときに書いた走り書きのようなメモをを今見てます。
煎じ詰めて言えば「いかに生きるか」という本だと思います。どうしようもなく抱え込んでいる傷をいかに乗り越えて行くか、ということでもあるし、恋の話でもあると思います。笑いあり涙ありのはなしです。 並行するストーリー、重要なセンテンスがたくさんあって、また何度も読み返すことになるでしょう。
ちなみに、ぼくはホシノさんとさくらさんのファンです。 お気に入りのフレーズとしては「戦いは戦いによって成長する。だから戦いを止める戦いはない」というような意味の部分。 さて、次は何を読もうかな。 今日は曇天。肌寒いぐらいの朝でした。
「東京都中野区」、思いもかけず「海辺のカフカ」のもうひとつの舞台となっているこの地名に少し感慨を持ってしまいました。 中学、高校から大学とずっと関西で、今も関西にいるのですが、東京の中野が本来の「出発点」です。
父は仕事の関係で全国を転勤しました。ほんとに全国津々浦々に支店のある会社の子弟はぼくに限らず、みな「転校生」という行を潜り抜けたんだと思います。 とうとう関西になじめず、東京に帰りたかった兄も、今は中野に戻りました。もう二度と目を覚ましてはくれませんが。
中野の思い出といえば、ぼくが小さいころ、まだ未舗装の道路がありましたね。 そこでよく遊びました。 で、まだ3歳か4歳のぼくには、「早稲田通り」が果てしなく広い川のような通りに見えたことを覚えています。 祖父母が健在なうちは、毎年、中野の家に遊びに行きました。住宅街の静かな一角です。
東京がフルサト、という自分も京都に住んでいる年数の方がはるかに長くなりました。 だけどどこが、といわれたら・・・京都じゃないですね。東京に二度と帰らないとしても、ちいさかったころ兄と一緒に遊んだ中野が、やはり一番大事にしたい場所です。「東京だから」ではなく、たぶんぼくと兄があれほど一緒に遊んだ場所はないからです。
さあ、本に戻ります。 もうひとつの魂も中野区を離れ四国にたどり着いた所です。
2002年09月13日(金) |
猫としゃべれるナカタさん。 |
カタカナで「ナカタ」と表記すると、ほぼ自動的に「中田英寿」と判断する昨今ではあります。が、しかし、 とても好もしく切ないキャラクターの「ナカタ」さんに小説の中で出会いました。 「海辺のカフカ」です。字も読めないし計算もできないけれど猫としゃべる事のできる「ナカタ」さん。読むほどに好きになってしまいました。
今ちょうど中間点です。作品を包む空気にすっぽりはまっていたい作品です。 後二日ぐらいで読んでしまうでしょう。すでにかなり響くものがあります。 舞台は四国。高松、高知。 同じ時代のなかで同じ空気を呼吸する精神。何故だか不明ですがそんな事を感じつつ読んでいます。きっとそんな手触りがするのでしょう。
選ばれた「孤独」、というものを考えました。自分を実現しようと、まさに自分と向き合うしかない環境に身を置くこと。これはとても大事な事だと思います。 そこに四国・高知の山の中が選ばれている事はまっすぐに空海を想起させます。 だけど、それ以上におもわずにんまりしたのは、その田村カフカ君が篭る事になった小屋を実はサーファーの先達が作ったということ。 ほとんど、そうだ!!!と言ってしまいそうになりましたね。人生をサーフィンに捧げたようなサーファーはほとんど哲人のようなことを口にします。 ぼくには彼らは「あちら側へ渡ろうとしている人」という認識があって、特にそう思うのかもしれません。波の上を歩くような人間の認識はやっぱりどこか「抜けて」ますから。
そんなこんなで上巻の最後をこれから読みます。テレビで中国の九さい溝の映像を流しています。全編ウォン・ウィンツァンさんのインプロヴィゼーション。映像もピアノもきれるほどに綺麗です。
だけど春樹さんの作品は何故にいつも切ないんだろう。今回のもかなり、切ないな。今のところ。 ではでは。
たぶん溺れます。 と、いうのは「海辺のカフカ」が発売されたから。 うちの近所の冴えない本屋も、力こぷ入れて棚にどーんと置いたんです。あっという間にあと2セット。(上下巻なので)ぼくが買ったのであと1セットです。
大学が近いということもあるけど、大学生協書籍部なんかでも大量発注してるのにキャンパスに行く途中で買うのか・・。いやいや春樹氏の読者は幅が広いから、主婦、サラリーマンも買っていったのかななんて思います。
実は今、田川未明さんの作品集と井坂洋子詩集と北村太郎詩集と夏目漱石全集第8巻を机の上に積んであれ読んだり、これ読んだりしているんですが ここに分厚い春樹氏の新刊が加わるわけで、ちとたいへん。詩集を・・・・・。
それと期間限定サイトに出た春樹氏からのメッセージ。ローラ・ニーロのライブ2枚組がいい、というのはわかるとしても、ソロモン・バークは意表をつかれました。ヴァン・モリソンのカバー、ブライアン・ウィルソンのカバー!!! 今から探しても遅いだろうな。ハルキマニアが押さえてると思います。
まぁ、本読む時のバックミュージックぐらいは自分で決めますが。 「作家をめぐるマーケティング」なんてのもありそうですね。
朝顔がまだ咲いている。こう言うとおかしくきこえるでしょうか。 通りを歩きながら家の前などに置かれている朝顔の鉢を見るとついそう思ってしまいます。実は今を盛りに花はたくさん咲いているのですが。
朝顔が夏の花だというイメージが強すぎて、9月に入るともう枯れ始める、と思ってしまっているのでしょう。 奈良時代には桔梗のかわりに「秋の七草」に選ばれているくらいだから、朝顔は少なくとも「夏だけの花」ではないようです。
うちの近所も朝顔を育てている家が多く、早朝の散歩の際に目を楽しませてくれています。それを思いながら「朝顔の夢」という詩を書きました。
てもとに井坂洋子さんの詩集があります。 このなかの「始動の水」というエッセイを読みました。まさに詩人の覚書とでも言うべき内容なのですが、そのなかに
現実は起伏に満ち満ちていて、そのディテールを観察すれば、自分の両手ではない第三の手が私をひょいと向こうへ押し出そうとしているのがわかる。 その第三の手の働きが言葉の世界にもあるようなのである。
という部分があります。「自分の」ではないゆえに、時として第三の手は「わたし」をすら追放しようとするでしょう。 何も自分に都合の良い事ばかりは起きません。だけども「生かされている」あるいは「詩のことばがやってくる」と思えれば。つまり何が起きても「第三の手」を信頼していれば、人生を途中で捨てる事も、執着する事もなくなるのかな、と思います。
「朝顔の世話を続けるひと」という姿をじっと見ていたら、その前に立つ仄かな姿が見えたのでした。
(エッセイの引用は「井坂洋子詩集」・思潮社・によります。)
2002年09月10日(火) |
プラクティカル・キャット |
朝の最低気温が20℃にまで下がりました。夜は肌寒いぐらいでしょうね。 昼間はまだ暑いぐらいですが、ずいぶん過ごしやすくなりました。 これぐらいだとずいぶんアタマも体も落ち着きます。
北村太郎さんの詩集を読んでいました。故人の70年代の詩やエッセイです。 北村さんは猫を飼われていて、「猫について」というエッセイ、73年のですけれど古さとは関係なく面白く読みました。(ほかにも「音楽について」というエッセイも面白かったですけれどね)。
T.Sエリオットの「オールド・ポサムズ・ブック・オブ・プラクティカル・キャット」をどう訳すかという部分で北村さんはひそかに疑義をはさみます。 日本で出ているタイトルは「おとぼけ爺さんの猫行状記」。 「プラクティカル・キャット」とは何ぞやと北村さんは問いかけるのです。
北村さんは翻訳の仕事もなさっていたけれど、このふたつの言葉に困惑してしまったんですね。 ぼくはかんたんに「実用的な猫」なんて訳してしまうけど、なんせエリオットですから。 氏はCODでプラクティカルを調べて、ぴったりの意味を見つけるんですが、これをどう日本語にするのか悩みます。 で、いろいろ思いをめぐらすうちに、 『猫はプラクティカルがぴったり。ファンタスティックでも、セオリティカルでもないんだ。いやー、猫というのは実にプラクティカルだなー』 という結論に達します。
北村さんが見つけ出したプラクティカルの意味とは次のようなものです。
inclined to action rather than speculation
さてさて、ほんとに日本語にどう訳しましょうかね。ちょっと涼しくなった夜にでも辞書片手に思いをめぐらすのも一興。 訳出された「おとぼけ爺さんの猫の行状記」も読んでみたくなりました。 はたして今でも手に入るかな?あ、全集がありますね。 ではでは。
(エッセイの引用は現代詩文庫/北村太郎詩集・思潮社によります)
日中はまだ暑いですけれど、朝は涼しくなりました。 歩いていて気がつくのは、今が夏の花と秋の花の境ということ。秋と言えばコスモスとか萩とか・・・・。コスモスはもう咲きだしていますね。ちょっと早すぎるかなという気もしますが。 空の雲も高くなってきました。風が時々北西から吹いたりしてます。秋がゆっくり来ています。
ここのところ猫と犬にくっついているので、自転車でどこかへ、ということが激減しました。最近では動脈系から静脈系に生活が変わったんだと、なだめるように自覚しています。ほんとに、見事なぐらいどこにも行きません。 ただ、住んでる所が天下の観光地なので、少し歩けば何かがある、と。それぐらいでしょうか。 ただ、近所でも目を凝らしていれば結構面白いものが転がっていて、そういうものを見る感覚を大事にしたいです。
動画を自分のサイトで公開できそうなので、短い秒数(なんと5秒)でそんな近所の映像(動画)をお見せできれば、と思っています。 いまのところ犬のジャンと猫のルルをアップしてます。動きがあるとやっぱり面白いです。windows media playerで見てます。
そう、それとこの日記についているカウンターの更新が早いです。まだそんなに日がたっていないのに自分のウェブサイトに追いつきそうな勢い。 そのへんのからくりは「みうしん」さんに解説してもらいましたが、やはりどんどん数が回るとびっくりしますね。
ところで、本の話。もうすぐ村上春樹さんの「海辺のカフカ」が発売されます。本屋さんの店員さんのプレビューがサイトで紹介されていて、かなり読み応えがありそうですね。上下ふたつに分かれていて、主人公は15歳の少年です。 それと糸井重里さんの「海馬」という対談を収めた本。これも絶対読みたいです。この本は糸井さんのサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」でのマーケットが先行していて、本屋さんに本が並んだ時にはすでに5000部が売れていたといいます。 これからそういうやり方も増えていくでしょうね。ネットがリードするやり方。 プレビューによれば内容はもう脳の刺激的なお話ばかり。読みたいです。
やがて9月11日です。これでもかというぐらい報じられるニューヨーク、アメリカのイベント。アフガニスタンではいまだテロは続いています。 もぬけの殻になったパキスタンの難民キャンプの映像を見ました。もう二度とこの場所に人々が逃げこまなくてもいいようにと思いました。 それよりも日本の状況にこそ焦点を当てていたい、今はそんな気分です。
2002年09月08日(日) |
Peace People |
「溺レルアナタ」の余韻を引きずりながら、昨晩寝る直前に突然、ある曲が聴きたくなりました。それは「Peace People」という曲。ウォン・ウィンツァンさんの曲です。 この曲のはじまり方が好きでした。硝子のかけらのような音が降ってくるのです。
「静かな音」というのはあります。「静かな」ということは聞き耳を立てるような気持ちになる、とも言えるかと思います。 WIM、つまりウォン・ウィンツァン・トリオの演奏には静謐な力と言うべきものがあります。
その「静謐な力」というのは「溺レルアナタ」でも感じたことでした。 言葉の数が減り自分の内面を自然と覗きこんでしまう。そうしむける力、とでも言いましょうか。
ここのところ「雨」に関することばかり書いてます。いや、続けている詩作の事ですけどね。雨の降る場面ばかりを追いかけています。 雨が降ると無口になるでしょう。そのぽかんと開いた時間が綺麗だな、と。 そのあいた狭間にいろいろな気持ちを埋める事ができるな、と思ったのでした。
そうそう、それとトップページの画像もやっと落ち着きました。動画があまりにも面白いんで調子に乗ってたんですけど、「ぼくとジャンの足の写真」にすとんと落ち着きました。これ、自分では気にいってます。
「静か」、「雨」、「足」、たぶんぼくは落ち着いていたいんでしょうね。 この日記もウォン・ウインツァントリオを聞きながら書いてます。 たぶん、自分で感じている以上に「溺レルアナタ」にインスパイアされているのかもしれません。もし、そうだとしたら未明さんからのプレゼントだと思っておきましょう。それほどミメイワールドは「静かな力」に満ちていました。
同じような力。最近聴いた音楽だと、鈴木重子さんの「プレゼンサ」からも感じとれます。 実はそう感じとれる自分に、自分が一番ほっとしているのですが。
ところでホームページのトップ。ぼくのデッキシューズはシアトルマリナーズのマーク入りです。へへ、まぁどうでもいいんですけど。
2002年09月07日(土) |
「溺レルアナタ」とエゴン・シーレ |
田川未明さんのオンデマンド出版の第一作。「溺レルアナタ」が送られてきました。すでにゴザンスマガジン上で読んでいるテキストもあるけれど、やはり本は格別です。
その日のうちに一気に読んでしまいました。前から未明さんの作品は好きで、けっこう掲示板に書きこんだりしていたんですが、今回はノートをとりながら読んで見ました。
やっぱり短編集最後の「溺レルアナタ」の中盤から後半へのうねりながら盛り上がっていくテンションがよかった。 4作共通の柱も見えました。一言で言えば「おんな」です。ぼくには「港の女」という風にも読めました。 ノートにいろいろとメモをして、それをまとめただけだけど出版元のゴザンスへ送りました。未明さんの目に触れてくれるといいんですが。
読んでいない方も、ぼくのサイトのコンテンツにある「溺レルアナタ」へのリンクをクリックしてもらうとカバーを見ることができます。 このカバーが重要で、未明さんが是非にこの方で、と書いていた宮崎郁子さんの人形です。この「腕」ですね。眼を瞑り自らを抱きしめる姿。あるいは夢の中で男の体を抱きとめているのかもしれない。 この姿が作品全体を象徴しています。
宮崎さんはエゴン・シーレを題材に制作されるとききました。なるほど「腕」と「からだ」がシーレです。 ドイツ表現主義の異彩エゴン・シーレ。痛ましいまでに削ぎ落とされた肉体や孤独のあまりに閉じることを忘れたかのような目をデフォルメして描きつづけました。 ただ、その一見悲惨な絵が、それゆえにこちらをえぐってくる鋭いパワーをもっているのです。 まるでダイイングメッセージのように腕は普通ありえないような形にまで捻じ曲げられています。 ブヨプヨした現実。うそ臭い言葉。いんちきの虚飾を剥ぎ取ることで命そのものの力を静かに叩きつけるような「あり方」。
実は「溺レルアナタ」の主人公たちはみずからそういう立場をとろうとする女たちだと思うのです。 未明さんの丁寧な書きこみは、実はそのことをとても引き立てていました。
ロックミュージシャンでもシーレの影響を受けたアーティストは多く、典型的な例としてデビッド・ボウイの「ヒーローズ」、イギ―・ポップの「イディオット」のアルバムカバーをあげておきます。ご存知の方も多いと思いますがCDショップで いちどご覧になってください。
「手」と「目」です。
2002年09月06日(金) |
小糠雨が降ってます。 |
久しぶりの雨です。「慈雨」ですね。こないだ高野川が干上がったことは書きましたけれど、その後の猛暑続きで、桂川の上流にある日吉ダムも貯水率が激減。ピンチです。おまけに琵琶湖もどんどん水位が低下して、そうなると現れる「藻」が浮き出しました。下流の京都、大阪も交えて水量調節の話し合いが近く持たれるそうです。それこそ2,3日ぐらい降ってほしいです。
今日、田川未明さんの「溺レルアナタ」が届きました。オンデマンドで初版の本は初めてです。再版ではありましたけれど。 ネット時代の一番新しい本のスタイルです。田川さんはうちの掲示板に「ミメイ」さんで書きこんでくれている方です。
ゴザンスマガジンやポプラ社の作品市場で作品を読ませていただいて、独特の「ミメイワールド」のファンになっておりました。 今まではミメイさんの掲示板にざっくりした感想を書きこんできましたが、今回はじっくり読んで、自分の言葉で感想を書いてみようと思っています。
雨が本降りになってきました。玄関の前にある薔薇のプライド・オブ・イングランドが鮮やかな赤に濡れています。夏の間けなげに咲いた花に、慰めの雨です。 もう少しで夏の花も終わりですね。 街の家々の花壇ではダリアが咲いています。秋がゆっくりと立ち上がった気配がしています。
ダイアリーは朝の3時に書いたり、昼の休みに書いたり、寝る前に書いたりのつぎはぎ。今日は・・そうだなジャンゴ・ラインハルトでも聴きながらミメイさんの本を読もうかな。 案外、コルトレーンがあってる気もするんです。ジャイアントステップスなんか。 ジャズです。はい。
あと、本はやっぱり縦書きですよね。 パソコンの画面とやっぱり違う。紙とインク。そして縦書き。盛ってある内容が同じでも、まったくの別物と見たほうがいいかもしれません。 「本の世界」ってやはりあると思うから。
2002年09月05日(木) |
‘Chaをどう訳すか。 |
ROMEという歌手がいます。 「ローマ」でも「ロメ」でもなく「ローム」といいます。 若手R&Bシンガーの一人。デトロイト出身。シカゴやデトロイトといったノーザン・ソウルもいいです。好きですね。
この人はあくまで伝統的なR&Bスタイルにこだわっていて、じっくり歌い上げるバラードが得意。自分でも曲を創ります。 今年に入って2枚目がでていると思うけど1枚目をしつこいぐらい聞きつづけています。
男と女の歌。スロウでだんだん熱を帯びてやがてシャウトにいたるコテコテのR&B。都市のダウンタウンのロマンティシズムのようなものを感じます。 ブッ飛んでいないぶんリアルでなまめかしいです。夜の匂いも。
その1枚目にThat‘s the way I feel about ‘chaという曲をやっています。はっきりいってこの曲をやっているから買ったんです。 これが若かりしころのボビー・ウォマックを代表する曲だから。 この曲はいろんな人にカヴァーされていて、代表的なところではOV.ライトがいます。ウォマック本人やOVの火の出るような凄さはないものの この曲になるとかぜんテンションが上がり、なかなかのシャウトを聞かせてくれるんです。 「この曲をやるんだから・・・」という信頼感のようなものが生まれて、じっと注目しつづけています。
英語のThat‘s the wayという言い方は常套句のようなもので、「こんなふう」とか関西弁だと「こんなん」見たいなニュアンスだと思うんです。 問題はI feel about ‘Chaをどう訳すか。 歌全体は愛をためらう彼女への求愛の歌です。ウォマック独特の言葉の多いもってまわった言い方で。 ずばり言えば「俺を信じてくれ」という歌なんです。だけど延々とリフレインされる「ザッツザウェイ あ フィールバウちゃ」といフレーズが気になってしょうがないんです。
Chaをなんの略と見るかなんですが、chapterかchantじゃないかなと思っています。 CDの歌詞の対訳では飛ばしてあるという・・・・。うむむ。
Chaというのはロックの歌詞にもよく登場する言葉です。ソウルにも当然多いですね。語感だけのものかもと思い今では 「俺はこうおもうんや!!」「これが俺なんや」みたいに意訳しています。
秋へ、ノーザンソウルの似合う季節がもう少しできますね。
2002年09月04日(水) |
環境サミットに想う。 |
ヨハネスブルグで行なわれていた環境サミットが終了した。あいもかわらずドラスティックな結論は出ず、技術論に終始したきらいがあります。
今年は、というか今年も異常気象が全世界を覆いました。ヨーロッパの洪水、中国の洪水。イギリスの異常高温。そしてあまり報じられていないけれどアメリカの干ばつ。日本も関東以西は猛烈な高温の夏ですね。 アメリカの干ばつの影響で大豆やとうもろこしの値が上がり出しています。これは家畜の飼料の値上がりも意味し、来年度全世界で食料品が約3%値上がりするだろうと予想されています。
日本はまだ持ちこたえられるかもしれませんが、世界には12億の飢えた人々がいるといいます。彼らは直撃を受けますね。 もし来年もさ来年もアメリカで干ばつが起きたら。そして今や食料も石油も自給できなくなった中国を異常気象が襲ったら・・・・。 年々上がる地球の平均気温から予想して楽観はできないと想うのです。
今、生きている人類はもって、あと60年だろうという説があります。食料、水、空気の汚染、戦争、エネルギーの枯渇などから。 石原慎太郎さんも瀬戸内寂聴さんとの往復書簡でこのことを書いておられました。 ぼくらは、こういう言い方をすればへんですが、無責任にもそのころすでに死んでいます。 ただ、今生きている、これから生まれてくる子供たちは生存のために必死の努力を強いられるでしょう。そして親や祖父母たちの生きた20世紀という時代をどんなにか苦々しく思うことでしょう。
誰もが環境悪化の原因が何かわかっている。事態はどんどん悪くなっていってる。だけど止めようとしても止まらない。 いまだに狭い経済的見地からしか動けない。自らのカンパニーエゴのみに生きることが是とされる。社会的見地を意識している会社もあるにはあるけれど。東京電力や日本ハムや雪印みたいな会社が次々とでてくる。 これではだめでしょう。こういうと「じゃ、どうやって飯食ってくんだ」という反論が来る。 だからだめでしょうね。そう、そうしないと飯くってけない社会だもの。
ぼくも石原さん同様、後60年で終わると思う。地球の他の生命のためなら終わったほうがいいのかもしれない。 しかし生きている間は・・・生きている間は自ら、そして子供たちが生きていくべく全力を尽くそうと思います。 愚かで哀れな人類の一人として。
2002年09月03日(火) |
デザイナー系のサイト。そして、ジャンと「時の雨」 |
厳しい暑さが続きます。まだ2,3日は続くそうです。この時期の暑さはこたえます。 昨晩はデザイナー系のサイトをあちこち放浪。やっぱりさすがに素晴らしいですよね。特に映像作家の宇田敦子さんのサイトがとても楽しかった。 新しいしんですよね感覚が。動画の作品もよかったけど、インタラクティヴムービーがとてもいいのです。 「上海日記」「とうきょうぐらし」はとてもキュート。「たけ子」にはしばし爆笑。こんなのできたら楽しいだろうな。
それからアート系のプラスグルーカフェとかクリエイターズチャネルとかをぶらぶら。 アーキテクトのデザイナーからWebデザイナーまで、目の保養になりました。 宇田さんのサイトはあんまり教えたくないけど、興味のある方覗いて見てください。 http://www.imas.ac.jp/~makura/index.html
いま、朝の3時45分です。起きてから30分ぐらいかな。また続きの日記を書きますから夜にでも見てくださいね。
今、21時30分すぎです。 ほんの思いつきでジャンの動画を入れてみました。もういちどプロバイダの容量をチェックして見ます。ジャンとハナ、猫3匹もやってみたいですね。 ジャンと立ち止まった右側にハナがいます。ここが「折れる。」に書いたストレートな大学横の道。犬二匹とカメラですからとりあえず、ってかんじです。 これからは短い動画も入れよう。
夜になって高橋順子さんの「時の雨」を再読。この詩集はフェヴァリツトのなかの1冊です。削ぎ落とされた平易な言葉で精神の嵐とそれに向かって立ち続けようとする精神が見事に表現されています。 ご夫婦の結婚から闘病にいたる時系列にそって詩が続きます。で、そのなかに植物が登場するんです。アロエと沈丁花。沈丁花は数編に渡って登場してきます。
新婚で入った家に植え付けられ、遂に咲かず。家賃が払えなくなって掘り起こして次の家に運ばれた沈丁花。 水浸しになった家の中で絶望のあまり「枯れておくれ」と問いかけられた沈丁花。 しかし、この家に新しい朝が訪れたように思えて詩集は閉じられます。 (アロエは冬の中で枯れます。アロエはまるで毒の塊のようにご主人の呪詛を浴びせられたのでした)
この詩集を読むたびに沈丁花を思います。ぼくにとっての犬や猫、薔薇なのかもしれないから。
昨日書いた音声入力作業、カメさんなみのスピードでやってます。 ツールの検討、スタイルの検討、それだけでだいぶかかりそうですね。 ホームページへの埋め込みはそんなに難しくないのですが、容量と時間の長さも決めないと。 それよりなによりウォークマンが壊れてたのには爆笑してしまいました。 てなわけで、時間かかりそうです。 ちなみに、詩の朗読をしているサイト、検索したけど少なかったです・・・。 ぼくがやろうとしているのは詩というよりも「お話」というかんじかなぁ。
そんなこんなで手を取られていると、そんなことする時間があったら書いたらどうか、という気にもなるんです。 小説だったらそうするけど、えっ?詩もですか。 いろいろ見ていると、DJの方のサイトが一番無理なく音声ファイルが載せてありますね。「みなさんこんにちは・・・」で始まるスタイル。
歌手のサイトだとCBSの作っている平井堅さんのオフィシャルサイトは、よく彼のメッセージと画像が見れます。現在は確認していませんが。 アマチュアの詩人はほんとにほとんど朗読してません。 昨日聞いたサイトの方は音楽もやっていて、自作曲をBGMに朗読をしてました。
ぼくがイメージしているのは詩の本文の朗読だけじゃないので、やっぱりDJの人のサイトが参考になります。といってもお一人だけですけれど。
「やりなれないことはするな」というのと「おもしろそうだからどんどんやろう」というのが半々。あまり期待しないで待っててください。 ある日突然、「こんにちは・・・・」とホームページからしゃべり出すと思います。もちろん「聞きたい人だけクリック」としますよ。ご安心を。
秋は新刊ラッシュが予想されます。CDも。 それより自分の創作最優先で・・・・こつこつやっていきます。
たてつづけに台風が来るようです。これでは「熱帯」はなかなか解消されませんね。 昨日、ふと思ったのですが詩人の社会への参加のしかたあるいは登場のしかたとして、文字ではなく声ではどうかな、と。
詩人の朗読CDは結構出ていると思うんですが、自主制作で詩集を作るんじゃなくてCDをつくるんです。 いやいや、そんなもの誰も買わないからWeb上で詩の朗読をするんです。 どうでしょう。すこしは「うそ臭さ」も消えないかな。 60年代に寺山修二が主張していたように戦後詩は「書き言葉の詩」であって、実はいまだに肉体を喪失したままであるのかもしれません。 肉体、つまり「声」ですね。
最近ぼくのサイトの掲示板で話題になった「詩のボクシング」もその流れでの試行であるのでしょう。 「ボクシング」じゃなくて詩人の朗読というのは一度だけ目撃したことがあります。吉増剛造さんのもの。驚きましたよ。はっきりあれはトランスだと思いました。 いつだろう・・・・もうずいぶん昔です・・・。
声に出しても出さなくても詩を書く人は「頭」の中で自作詩を誦していると思うんです。だけど書くだけでも恥ずかしいのに朗読だけは勘弁してほしい、という詩人の多いことも知ってます。 ぼくだって自分の声がインターネットに乗ってるとおもうと、「恥」と思うかもしれないです。 詩をどう捉えるか、ですよね。読むのか読まないのか・・・。
ミュージシャンのサイトだとやってる人は多いです。音楽家は書き言葉じゃなくて「音」が表現媒体ですから当然だけど、詩人もそうかな、と。
で、想像するだけで詩は変わるものが出てくるでしょうね。 「ナトリウム」とか「猫と南風」なんて、どう読んでみんなを驚かしちゃろ、と楽しくなります。 ぼくの独特の読点のつけ方もおもしろがってもらえるかも。
うむむむ、書きながらずんずん恐ろしくなってきただよ。 しかし声に出す、と考えただけで血がかぁーっとなってくるからこれはやはり、すごいことなんだな。
松本さんの一言「言葉を二次元の紙の上から解放する」
音楽ができないで詩を書いているひとりとしては、こう考えて見ました。 だけど、にわかに自作に自信がなくなったら漱石の短編でも朗読するかもしれません。
顔も住所も電話番号もあきらかじゃないけど、声は許容できるリアルかもしれません。 でも、サイトに来る人減るだろうな。。。。
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