やっぱり涙腺がたいぶ緩くなっているのかもしれない。 本屋の立ち読みで不覚にも泣きそうになってしまった。 本は「夜回り先生」書いた人は木村修さん。教師です。 たぶん本屋さんに平積みしてあるんじゃないかな。
要約すれば夜を徘徊する少年少女の指導。シンナーなどのドラッグの世界から引っ張り出す。 暴走族や暴力団にひとりで交渉にいってそこから引き戻す。 それを単独でやっている先生のお話。
はっきり言って無茶。無謀。警察からも「あんたいつか頚動脈切られて死ぬか、おもりつけて港に沈められるぞ」と言われている。
木村先生をここまで駆り立てる動機を読んでグラっときてしまったんだ。
それはマサフミという少年の話。 極貧の母子家庭で母親は病気で働く事ができない。最低のぼろアパートに住んでいて、無知から生活保護の存在すら知らなかったという家庭。
食べられないから、給食のおばさんには「犬を3匹も飼っているから」と言って給食の残りを、スーパーのおじさんにはあまった弁当を分けてもらって それで母子で食事をしていた。
ところがそれをクラスの連中が嗅ぎつけて、酷いイジメを始める。犬が食べるのならこれでも平気だろうといってパンを靴で踏みつけたり…。そういうやりかたで。 それでもマサフミは頑張った。しかし、イジメは延々と続いたんだ。
と、そこで見るに見かねてイジメるやつらをコテンパンにやっつけて、マサフミをイジメから解放したのが、同じアパートにすんでいた暴走族の少年だった。
当然のようにマサフミは暴走族に加わっていく。根が優しくてまじめだったマサフミは、自身の中でも葛藤があり、暴走族のやっていることに対して、また相変わらず苦しい生活について悩んでいたという。 そしてシンナーに手を出す。木村先生はそれに気づいて、やめとけよと声をかけてはいたという。
そして、ある夜。マサフミが一晩でいいから泊めてくれ、と木村先生のところへ訪ねてきた。 それを何かの理由で断った。そりゃそうだ。あまりに突然だもの。 帰っていったマサフミはその晩、ダンプカーの前に飛びこんで死んだ。
たぶんラリっていたんだろうね。 最後はヘッドライトの光をまるで抱きしめるようにして跳ね飛ばされたんだという。
木村先生が「夜回り」を始めたのはそれからだ。
このマサフミのことをぼくは責める事ができない。 あとからならなんとでも言える。 マサフミに寄り添うようにしてケアする大人はいなかったのだ。
大人たちが子供たちを滅茶苦茶にした。 何がバブルだ。何が失われた十年だ。 何が勝ち組だ。何が負け組だ。ふざけんな。 その時に子供時代を過ごした連中を見てみろよ。
木村さんを「いいカッコしい」というのは容易い。 だけど彼は実際に少年少女を助けている。 誰もが木村さんのようにはなれないのも事実だ。 しかし、傷だらけの子供の魂に おとなは 寄り添うことさえできないんだ。
本を汚すといけない、と思って慌てて本を戻して本屋を離れようとしたら 横にいたおばさんが一人、じっとぼくの眼を見ていた。 彼女も読んだのかな。
ぼくはゴザンスに漢字の横の線が抜けてしまう人の事を書いた。作品ではかれは暴走族にバットで殴られた事になっている。 彼のモデルはぼくの学生のころの友人で、漢字の横線が抜けてしまうのは本当なのだ。ただ原因はシンナーである。
シンナーは一度やると潰れた脳細胞は二度とよみがえらない。 彼は崩れていく自分をたてなおし、大学の入試を突破するほどにまで回復したけれど この後遺症は一生ついてまわるのだ。
だけどマサフミは辛かったんだろう。逃れたかったんだろうな、と。 「光を抱くように」という下りから先は読めなかった。
この本にこう書いてあった。 「マジメなやつほどマジメにドラッグをやり、きっちりしたやつほどきっちりと壊れていく」 これはほんとう。
そんなやつをぼくも何人か知っていて、もうみんな故人になった。 …。
明日、この本を買いに行きます。
2004年02月28日(土) |
根源的なネガティヴィティー…井坂洋子… |
むずかしい言葉です。だけどそれが詩人、井坂洋子であると指摘されると、それは、と聞きかえしたくなります。
そのような刺激に満ちた特集が現代詩手帖3月号で組まれました。「井坂洋子特集」です。 ぼくはここ2年間、ずっと井坂さんの選評のある詩の投稿欄に投稿を続けてきました。 (「評価」のほうは自分のサイトのプロフィールに書いてあるので参照されたい) それは確かに井坂洋子という詩人の詩が好きだからという理由が最大です。だけれど、この特集のタイトルにもあるように彼女は『女性詩を超えて』いる、ということも書き添えておきます。
「男のくせに」という論外の言を吐く人とは根本的にぼくは違います。詩、そのものをぼくは読んでいます。それだけのこと。
詩を書いている方で何人の人が「散歩主義」を覗いてくれているかわからないけれど、そういう方には是非一読をすすめたいです。
コンテンツは豊富で、これからひとつひとつ砕きながら読んでいきたいのだけれど、一度目に読んだ中では
●『街を汲み上げる』井坂洋子x森山大道…対話「写真・視線・ポエジー」 森山さんは写真家で「箱入豹」のカバーは森山さんの作品。詩集「地上がまんべんなく明るんで」でも森山作品は使われていて、井坂さんは森山作品の「ファン」です。
●『イノセントな暴力』北川透 詩人・北川透さんによる井坂論。緻密に組みたてられた論に眼を開かされる。何度でも読みたい井坂論。
●『文学の普遍性について…井坂洋子、多和田葉子、小川洋子…』神山睦美 今日の日記のタイトルは神山さんのこの論考からの引用です。 並べられた三人の名前。そこに共通する「ネガティヴィティー」とは。 井坂、小川両氏は大好きでよく読むので、ちょっと驚き。多和田さんは未読に近いです。今度読んで見よう。 みんな「ようこ」ですね…。
●『詩を作る方法・井坂洋子の場合』川端隆之x井坂洋子 二人の詩人が詩の実作方法について語り合います。詩を書いている人には面白く、かつ厳粛に読めるでしょう。 ぼくと似たところがあるので少し驚きました。ヒントがごろごろ。
と、こんなところがとても興味深かったですね。 え、似たところ? 原稿用紙に書くところ。コクヨというところまで一緒でした。
違うところは 書く時に無音にすること。 ぼくはジャズを流しっぱなしで書いたりします。それが弱点にもなってます。 つまり、コンセントレーションの方法、なのですが。
全体を読むと、やはり詩はいい、詩は自由だ、そういう思いを新にしました。
元気が出ました。
ほんの少しの間だけれど、フィレンツェを訪れた詩人・高橋睦郎さんの映像を見た。 BSで。たぶん同じものを二度か三度見ている。
詩人の立ち居ふるまいは、その薄い煉瓦色のコートともあいまっていつも「詩人」そのものを感じさせる。
この番組はフィレンツェ共和国のもっとも輝いた時代。つまりルネッサンスの特集なのだけれど、ボッティチェリの絵にさえ出てきそうなリズムと気配で高橋さんは言葉を使う。
「言葉を使う」というのは、読み、そして書く事。 フィレンツェに持参した、自らが書き込む事で本になる、まっしろな本(ノート)。高橋さんは毎日、書きこんでおられるのだろうか。それとも 旅のために1冊を用意なさったのだろうか。
たしか詩集「小枝を持って」に収録されていた「さようならフイオレンツァ」は、この旅行の中で書かれ、この番組の一番最後に高橋さんによって朗読されていた詩である。
しかも、詩人の直筆の「まっしろな本」の文字も読めた。 鉛筆で書かれていて、消した跡さえあったけれど。2ページに渡る詩の行わけとレイアウトまでされていた。 書き上げれば私家版の詩集である。直筆の。この世に1冊しか無い。
実は今日、日陰のために活用されていなかった狭い植栽スペースを活かすべく、プランを練っていて、以前、家庭画報で紹介されていて、ファイルしておいた藤沢の高橋邸の緑と白の庭を観察していたのです。
イングリッシュ風によく手入れされた庭のテーブルで詩を書く高橋さんのポートレイトは、そのままで詩であり、ぼくが見習いたい姿でもあるのです。 氏はそして、まさに植物を世話するように言葉を紡がれる。
大好きな詩人の素晴らしいお手本。 切りぬきとテレビのおかげで、またふかく刻みこまれた気がします。
さてさて、そのシェード・ガーデン。高橋邸にある緑でお手本にするのはジキタリス。ぼくはホスタを組みあわせようと思っています。 なんと日陰に強い薔薇というのも見つけましたけれど、ピンクなので使わないでおきます。 日陰は緑のリーフ・プランツ中心にしましょう。
高橋さんのところのメインの薔薇はアイスバーグです。
「光函」が校了しました。 編集部のお話では桜の咲くころの出版になるそうです。
作業としてはあとはサンプルのチェックが残っています。
最後にプロフィールを書かねばならなくて、気が抜けるほどのプロフィールになつてます。最後の最後までこれはいやだった。
とにかく書く作業を止めたくないので、「魚子薔薇」という作品を書きました。 それから詩です。今準備を進めているのは、とにかく短い詩です。 お手本になる詩集を今、頼んでいるところで、それを読みふける事になりそうですね。 誰の詩集ということではなくて、選集です。
「光函」からどんどん遠ざかっていく気がしています。 もう二度と本を出す事はないかもしれませんけれど、「光函」という本が作れただけでも生きてきた甲斐はあったと。 今はそんな気持ちです。
予約してくれた皆様、ありがとうございました。 今しばらくお待ちください。 本を送るまでは絶対死にませんから。
…愛を学ぶために孤独があるなら 意味の無い事など 起こりはしない… (jupiter/平原綾香・詞・吉元由美)
では。
誂え専門の洋服屋さんと、短い時間だったけれど話をしました。 今のスーツの主流が三つボタンであることとかを。
ぼくらの世代だと、若いころは上を開けて下二つ掛け。今の連中は上まで掛けてるのが多いですね。で、主流はまんなか一つ掛けなんだとか。 ズボンは絞り気味。 つまりは60年代のイギリスのスタイルがベース。若いころのビートルズやストーンズのスーツ姿です。
スーツに関してはそれがたぶん、ブリティッシュ・スタイルの定番。それが今、メンズの主流。ズートな雰囲気のイタリアンが流行ったのはいつの事だっけ。 イタリアンのロウボタンのダブルを1着持ってているけれど、全然着ませんね。 低い位置のボタンというのも好きなんだけど。
スーツは値段が「適正」なら絶対、オーダー。 神戸の高架下なんかには生地屋さんがあるから、いいメーカーの生地が格安で仕入れられます。腕のいい職人さんに頼むのもいいし、そこで創ってもいい。
ダーバンのセミ・オーダーで8万円ぐらいから。それなら意外と安くて腕のいい職人にたのんだほうがいいというのがぼくの考えです。 たいてい一匹狼の職人なんだけど、プロの人と話していると楽しいですよ。だれないし。 今日はミラ・ショーンのグレーの綺麗な生地を見せてもらいました。
ぼくの若いころの詩には鋏や糸や針がよく出てくるんだけど、すきなんですよ、針仕事。サパークラブでバイトした後はしばらくジーンズショップでもバイトしたぐらい。 服屋さんの感性も好きなんです。デザイナーももちろん。
「つくりあげる」という感覚に惹かれるのだと思います。 和服についてはまだまだですけど。
さてと音楽は夜になってバンシゲを聴いてます。ジュピターを聴いた後にはバンブー聴かないと落ち着かなくて。…浮いてしまうんですよ。
サカサイ氏のギターももちろんだけど、ぼくにとっての歌姫はタケコさんです。 ライブで聴く、というのが決定的なんです。バンシゲのライブはそれほどよかったんです。
平原さんのライブもいつか聴きたいです。テレビに出るのかなー。
噂の「jupiter」の入った平原綾香さんの「オデッセイ」というアルバムを聴きました。
ある人から強く勧められたんです。今日の今日まで知りませんでした。 アルバムそのものは彼女自身のオリジナルの素直な歌がいいな、と。まだまだ伸びそうですね。 「Jupiter」は…
ご存知かと思いますが、これはクラシックのホルストの作品に日本語の歌詞がついたものです。 ホルストの素晴らしさがわかります。当然とはいえ曲が全然違う。明らかにこの歌だけがアルバムから浮いています。
最後に置いてある様に、全ての楽曲が「jupiter」に向かっていくように作られています。
たぶん、出だしの低音に魅せられた方が多いのでしょうね。 ぼくは時々素晴らしい音楽を聴くと頭の後ろの方がジーンと痺れるのですが、この曲でも反応しました。でもそれはホルストに対するものだと思っていました。
アルバム中のアーバンな感覚の歌なら、バンブー茂の方がはるかにいいし、蘇州夜曲のような曲ならクミコさんで聴きたい。そんな感想でした。 正直、「JUPITER」という超弩級の凄い歌一曲を繰り返し聴くはめになってしまったんです。
そのうちホルストの曲も凄いけれど、それにぴたりと嵌った平原さんの声が凄いのかも知れないと思い始めました。曲と声の邂逅はかくあるべしという見本のような歌ですね。 それは平原さんにとってもたぶん幸福な事だと思います。
ただ、ぼくが一番強調したいのは吉元由美さんの詞です。 この曲で、この声で、しかしこの詞でなければぼくはここまで揺さぶられはしなかったでしょう。
アルバムの中で吉元さんの詞はこれだけです。 しかし、今、日本中を駆け抜けているこの歌の最大の功労者はこの詞だとぼくは思います。傷ついた魂、それも若い魂にこそこの歌は届くべきです。
曲と声はこの詞を得て、また一段と多くの人に届いたのだと思います。日本中の多くの人がこの歌の気持ちなのだという予感がしますね。 たぶん快進撃はこれから当分続くでしょう。
これだけの括りの大きさを彼女がしょっていけるとしたら、スケールの大きな歌手が現れたものですね。
CDでの声は素晴らしいです。ライブはどうでしょう。聴いてみたいですね。
今BSで映画「今を生きる」をやっています。 ロビン・ウィリアムス主演です。マット・デイモンもでてます。ビデオで何回も見ました。だから、途中でPCに移りました。 最後がとても可哀相ですし…。
とにかく詩の生まれる心、その生み出し方についての教育について、これほどみずみずしく描いた作品は無いでしょう。 大好きな作品です。
ゴザンスの800字の題材につかった「つり雛」がどうしても気になって、夕食の後の散歩のついでに脚を伸ばし、画像を撮ってきました。 この日記を書いてからサイトのトップに貼りつけたいと思います。 サイトも「雛祭りヴァージョン」です。
そもそもこの「つり雛」は九州・柳川の伝統文化財なのです。 今日、そのウインドウのなかの説明書きを読むと、制作されたのは九州の方でした。
使われている毬がとても綺麗です。 毬といえば、加賀手毬もきれいですね。京都にもあるにはあるんですが、京刺繍はどうしても帯などの和装がメインです。
京都の方でこの実物が見たい方は右京区の妙心寺門前。花園会館の向かいの妙芸さんのディスプレイに飾ってありますので、通りがからはったら、ごらんになったらよろしいかと。
今日発売の婦人公論の詩フォーラムで紹介された「時折、白」もゴザンスにアップしました。サイトの西原文滴堂からごらんください。
とにかく暖かな一日でした。春そのものですね。 あすは曇りで雨が降るかも知れません。 で、来週はまた寒くなります。
フェイクですね。2月に必ずある…。
校正は終わっているのですが、「光函」のこと。原稿段階から最後までずっと悩んでいたのが、京都弁と東京弁のことなんです。 ごっちゃになっているんですよね。 今書いているの言葉は関西弁ではありません。普段喋っている言葉は京都弁。だけど地の人は関西にはない言いまわしにすぐに気がつきます。「〜しちゃって」なんて京都では使いません。 いや、使わなかったと言う方が正しいでしょうか。
このことをめぐっていろいろな人と話をしたのですが、若い人は使うようなんです。 だから、にしはらさんの混在している言葉づかいも、今の京都らしいのかもしれないということで直さずにいきました。
次に書くテーマは京都にかかわりがあります。版画家の方の素敵な話がベースになりそうです。 ぼくの癖なのかもしれませんけれど、美術から受ける影響がとても大きいです。特に光の表現のしかたですね。フェルメールとバルデュスには夢中になりました。
生命と肉体。生命を精神と置き換えてもいいですが、その接点として、エドガー・ドガの絵を画集で見ます。 つまり、バレエです。
踊り、垂直、水平、記憶、そのような要素で物語を作り出せればと、ノートが始まりました。
ところで先日ブログでアップした「魚子薔薇」の舞台のモデルは大阪です。
今日で「光函」はこちらのチェックを離れました。 泣いても笑ってもあとは制作のほうに進行していきます。 ゴザンスの編集部には、ずいぶん御世話になりました。 ありがとうございます。
今日は22日発売の婦人公論を本屋さんが配達してくれました。 月に一度の詩のコンペティションです。「光函」の原稿がだいたいできたころに、シフトを一度戻して、投稿を続けました。
今回は珍しい「入選扱い佳作」。ページが1ページしかないので、多くの作品が掲載できないのですね。散文詩なんかはまず無理で、長い詩は(中略)を入れて掲載されています。で、選者の井坂洋子さんは入選に該当する作品が多い場合は、選評のところにそういう人たちをずらりと並べるわけです。
今回はその中にぼくが入っていました。 入選は何回かさせていただいていますが、「お見事」と書かれたのは初めてです。 「西原流」とも。
今回も、そして全体を見ても、そしてこないだ書いた掌編でも共通して感じたことは、『これっ!という一行』を見つけ出すことです。 その一行さえ見つければ、見つかれば、書けます。それは本当にそう思います。 それだけの切実な一行を掴まなければと改めて思っています。
ところで婦人公論には常連の投稿の人が多いのですが、自身で詩集を出している方がとても多いんです。現代詩手帖の思潮社から詩集を出しておられる田添明美さんも「投稿」の常連。 それだけレベルの高い所で読んでもらっている、というのは大きな励みになります。
詩は基本的には「言葉づかい」だと思います。ですけれど、それ以上に重要なのは、止むに止まれぬ「その一行」への想いです。 たぶん、それが詩の命ではないでしょうか。 忘れないようにしたいと思います。
いよいよ作品集「光函」の最終校正に入りました。 もう、この段階に来たら殆どなおす所はないのですが、それでもなんどもじっと読んでいます。
そもそもが婦人公論やゴザンスで初出のものばかりです。だからスムーズにいくと思っていたのですが、予想外のフィードバックがありました。 まだ出版はされていないのにこんなことをいうのは早いかもしれませんが、自分の原稿をああいう形で検討したことは、まちがいなくぼくの財産となっています。
この作品集のために書き下ろしたものは途中で全編書きなおしました。ほかにもゴザンスのページ上やぼくのウェブサイト上の作品ではあるものの、大きく姿を変えたものもあります。
どれだけのヴォリュームで出すのか迷いました。当初は全作品ぐらいの感覚だったのですが、現実はその逆。絞りに絞りました。 とにかく安くすること。 それは今回ぼくの本を読むことがわかっている多くの京都の人や友人のためにそうしろ、というアドバイスがあったからです。
で、「出しつづけるようにしろ」、と。 次からも読んでもらえるかどうか。それが大事だと思っています。 ゴザンスにも婦人公論にも投稿が続きます。
ゴザンスへは「魚子薔薇」をアップしました。 詩を書いて欲しいという要望が強くて、今は詩を書くモードに変えてます。 しかし、そんなことを言われるなんて、ほんとに幸せなことですね。
モチーフは「植物・花」です。いろいろと書いていきます。 なぜか最近、子供がよく登場するようになりました。理由は自分でもわかりません。
今日は久しぶりに早く寝ます。 たぶんビートルズ聴きながら寝ます。
ではでは。
書きながら自分を変える。 エゴイスティックだろうか。「誰かのために」ということが、どうしようもない自己満足であるのなら、よほど正直かもしれない。
書き終えるたびに自分を捨てる。 そうしたい、と今日書いていて思った。自分をぐしゃぐしゃにして捨ててしまう。 そうやって死ねればいい。
前進するだけ。 それ以外なにも考えない。
まだ朝は寒いですけれど、冬がゆっくりと崩れていく感覚がしますね。 「光函」の再校をしました。 うーん、と思うことしばし。……。
で、つぎのものへ、ということで「魚子薔薇」という作品を書いて、なおしながらサイトのブログに出し始めました。 詩の方は婦人公論に三つ送りました。結果待ちです。 「魚子」が全部終われば詩を書きたいです。
音楽はマイケル・ブレッカーの「テイル・オブ・ハドソン」。バラードもアップテンポもいいです。特にスローなナンバーが好きです。ここでのパット・メセニーはいいですね。 それと大西順子さんの「ピアノ・クインテット・スーツ」。これも名盤。最後のAトレインはほんとにいいですよ。 「毎日マイルス」。今日はリラクシン。コルトレーン、初々しいなぁ。
ところで1951年のマイルスのCDが発売されました。テジテルリマスターだと思います。20代のマイルス。麻薬に苦しんでいたころです。 余裕ができたら買おうかな。
今日から原稿用紙に書いた「魚子薔薇」という20枚ぐらいの作品をブログの方に分けて掲載し始めました。 以前ここに書いたように、今、まず原稿用紙に書きます。で、推敲してPCに打ち出すんですが、とたんに書き足す所が見えてくるんですよね。 なんだろうな。 客観的に見ることができるからかもしれないし、レイアウトが綺麗だからアタマも整理しなおされるのかもしれない。 だから枚数は増えると思います。
そんなふうに書き「足さされて」いると、物語が「いきもの」におもえてきます。なんというか枠のなかに収まりきらず、自由に動き回る。 そもそも最初書き出した思惑からどんどんはずれていった小説なのに、まだまだ動こうとしています。
今回はなるべく書いていて、「いきもの」が動き出したらそれを、できる限り忠実に反映していこうと思っています。 譜面が原稿用紙でインプロヴィゼイションがPCのような気分です。 最後のシーンまで書いていますけれど、いろいろと盛りこんだり膨らます部分が増えそうです。
そういうものにぼくはものすごく期待しています。どういう作品になるのか…ぼくの作品と言うより、テクストを最初に読む人間のような感覚ですね。 いつでもこういう感覚になること。実はそれも達成目標の一つです。
「いきもの」といえば 今日聞いたマイルスの「マイファニィバレンタイン・インコンサート」。このマイルスのペットは凄いです。まさに「いきもの」。音のはずし方、ノイズの入れ方まで計算しているのではと言いたくなるぐらい、生々しい感触を与えてくれます。
音が違うとか、音に関してのエクスキューズの遥か上をマイルスはいっていたわけで、亡くなってもう何年も経つんだけれど、偉大さ、力の大きさは死後になお、再発見、再認識されつづけていますね。 実は自身のスタイルにおいてスポンティニアスということに徹底的にこだわり続けた人なのだと思うのです。
「バース・オブ・クール」や一連のギル・エバンスとのコラボレーションのように譜面にぴちっと会わせた演奏も、そのまったく逆のフリーフォームに近い演奏も作品に「生命力」があるかどうかというとに、こだわり続けた結果だと思うんですよね。
マイルスの晩年の作品についての言及は、メディアでも圧倒的に少ないけれど、例えば「AURA」という作品などは、名作だとぼくは思っています。 曲のタイトルが全てAURA、つまりオーラの色なんです。 「いきもの」「生命力」のもっとも美しい形を作るためにどこまでもアイデアを提出し続けたといってもいいでしょうね。 最晩年の『ドゥー・バップ』なぞ、ラップのアルバムとして記念碑的であるとさえいえるのでは。
ということで「魚子薔薇」。全部で5回ぐらいでわけて載せていきます。
そろそろ山茶花も散りだして、椿が咲き始めました。 ゴザンスの「ゴザ本」に書かせてもらった「鈴木さんの椿」も一番花を咲かせました。記事でも書きましたけれど、まったくわざとじゃないかと思うほど、目立たない所に咲きました。
椿はこれからしばらく楽しめますね。 梅が咲き、椿が咲き、水仙もまだ咲いています。
ところで… 音楽が何かを呼び起すことがあります。文章であるとか詩であるとか絵であるとか、イマジネイティヴな起動が起きる感覚です。 ラジオからの音楽も例外ではないです。あれっ!と思うんですよね。なんだろう、という感覚。気配はいがするんです。 自分の中で何かが立ち上がったという。
今日聞いた淡谷のりこさんの歌にはほんとに驚きました。 「ブルースの女王」とか言われている方ですけれど、この人はシャンソンを歌っておられたのではないのかな。聞きようでは越路吹雪さんのようにも聞こえる。 えーっなんだこれわぁー。となってしまったのでした。
バックではアコーディオンが鳴っていて、有名な「窓を開ければー♪」とは全然違う世界。なんだろう、誰だろうと思っているうちに曲が終わりました。 ラジオからは淡谷のりこというアナウンスしか聞こえてきませんでした。
声が若々しくて、音楽がとても「新しい」んです。 たぶん古い曲なんだろうけれど、耳が立ったのは久しぶりです。 曲が終わってしばらく、何故こんなにそそられるんだろうかと考えて見ました。
すると声そのものがすでに物語を秘めているからじゃないか、と。 声をきいているだけで、歌詞を聞いているにもかかわらず、別の一つのストーリーをさらさらとメモにでも書き出せそうな声なんですね。
曲名がわからないのですが、なんとか調べてみようと思っています。
確認していないけれど、多分、今日の激しい風はそうでしょう。 昼過ぎに天気は激変しました。 大きな樹や竹林が轟音を上げてうねり、弱い枝は折れて通りに散らかっていました。
午前中、用事で銀閣寺の方にひさしぶりに行ってきました。吉田山の回りは、昔と殆ど変わらず、静かでした。 天気があまりにもよかったので、コルナゴで左京区を一回りして帰りました。
春一番がこれほどくっきりと吹いたのは、なんだか久しぶりのような気がします。 音楽はマイルスと鈴木重子さん。 マイルスは「サムディ・プリンス・ウィル・カム」これも名盤ですね。
小説は頭の部分を追加しました。詩はきょうはなし。
マイルスはカインド・オブ・ブルーの録音のとき、5小節だけのスケッチをスタジオに持ちこんで、メンバー全員で膨らませていったといいます。 当時で言う「インタープレイ」。今で言えば「インプロヴィゼーション」でしょうね。ほとんど。
このころもマイルスのコンボは強力で、マイルス、コルトレーン、キャノンボール・アダレイ、ビル・エバンス、ポール・チェンバース、ジミー・コブ、一曲だけウィントン・ケリーがピアノですが、全員でアイデアをどんどん積み上げていく自由闊達さは素晴らしいです。
詩も、小説も書いていて、「インタープレイ状態」になるときがあります。モチーフは最小限にして、メモ程度で書きはじめて、しばらくすると物語が全然違う方向へ走り出す。いったいこれは誰が書いてるんだという気になるときがあります。 実は昨日書き終えた、超短篇もそうです。30枚ぐらいなんだけれども、最初、こうなるかなと思っていたものとは、全然違う物語になりました。
書いているときは、むしろそうなってくれたほうが質が良いとさえ思っていて、そうなるように仕向けますが、具体的に、どうと決まったやり方はないんです。 そうやって書いている作業は、書くということだけに限定して言えば楽しいんですよ。書いてる本人がうんうんいいながら書いてる状態。それがいいんですよね。書くことが好きなのはそんなことも理由になると思います。 終わるとたいてい書こうとしていた自分とは違う書いた自分がいます。
「わからないもの」とのインタープレイ。それは登場人物であることが多いのですが、そうなる瞬間を捕まえるべくいちばん集中するようになってきました。 そこが強靭になればな、といつも思ってます。
方法よりもそこですね。
So what,マイルス・デイヴィスの口癖にして、彼の代表曲のひとつでもあります。 「だから、どうした」というぐらいの意味。
カインド・オブ・ブルーの一曲目。あまりにも有名なベースのイントロから始まります…。 と、いうわけで今日もマイルスを聴いています。
今日も暖かでした。夜になって雨が降っています。通り雨らしいけれど、あすは春一番が吹くかもしれないとか。 いよいよ寒暖の繰り返しの激しい時期に入って来ましたね。
今頃になって今年購入の薔薇の色が決定しました。黄色です。白でいこうかと思ってたんですけど、結局黄色。 黄色ならまだ手に入りそうです。
いつもCDを注文しているショップのシステムが動かなくなってしまって、CDをネットで注文できなくなりました。ほかのところにしてもいいんですけどポイントが溜まってるから。これ、大きいんですよ。 一杯になるとあと一枚、千円引きで買えますからね。 はやく復活してくれないかな。
今日の成果、今のところ小説2/3枚。詩もこれから。 なんでもいいからアウトプットしてみます。
so what?
最近、ほんとにテレビを見なくなりました。 その代わりラジオをよく聞きます。 もともと何かをしながらだから、どうしてもラジオになりますよね。テレビは視覚も使うから。視覚と聴覚をを奪われるとまず何もできなくなるし。
今日、婦人公論に投稿しようとして、編集部の住所を調べるため引っ張り出した去年の9月22日号に、ラジオについての座談会があることに気がついたんです。 出席者は糸井重里、永六輔、山田美保子。ラジオで仕事をしている人であったり り、大のラジオ好きでもある人達です。
ラジオの魅力が様々な切り口から語られるのだけれど、最近は老人のリスナーがとても多いとか。(ちなみにみんなAM派です。) これはインターネットでもいえることで、60歳以上の人がとても増えているそうです。 で、それまでのラジオ聴取率調査というのは60歳までを対象に行なわれていて、ニッポン放送がダントツだったんだそうです。 だけど、永さんたちが60歳以上が切られているのはおかしいと運動を展開し、60歳以上も聴取率調査にいれたら、とたんにTBSラジオが首位に躍り出たそうな。 ネットもかつては回線の混み合う時間は深夜だったんだけれど、老人がネットに参加しだしてピークの時間帯が夜の7時から9時頃になったといいます。
ぼくはラジオはFMばかり聴いてました。音楽に特化してたのかな。今はバンブー茂のプログラムがなくなったから殆どききません。 朝の5時とか6時にCDを聴くこともあるけれど、AM聴きますね。それもKBS京都。(ローカルですんません) 若いころみたいにバロックやジョン・ウィリアムスのギターだとかを聴きたくなるときはFMききます。 それ以外のFM放送は耳について仕方ないんです。CD聴いていた方がマシ。
AMの面白い所は、パーソナリティーの面白さ。あと地元情報。 KBSの朝の6時半からのは面白いですよ。 あのね、FMって言葉が貧弱ですよ。音楽は凄いかもしんないけど。
で、糸井さんはご存知「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイトを運営しているんだけれど。ご本人曰く、ラジオの真似をしているつもりだとか。
「まず、『邪魔にならないように』ということを考えてはいけない−−。一生懸命喋りましょう。で、難しそうにして通じなくなることに気をつけましょう。ただし、『これは難しいから言うのはやめよう』というのもやめましょうと。ね、ラジオとおなじでしょう」
うーん、なんだか個人のサイトに似てますよね。 どこで線を引くかというのが難しいけれど、「やっぱり書いてしまう」というのが基本なのかな、と思いましたよ。 ちょっとそのあたりは永遠の課題のようなところがあるから。
一つのテーゼではありますね。「ラジオのように」。
朝は放射冷却でとにかく寒かったのですが 昼は気温がぐんぐん上昇。 3時ごろにはまるで3月になったかのようでした。
文章を原稿用紙に書くようになってから、ほとんどそのためにPCを開けなくなりました。 朝と夜と少しだけ。忙しいと夜だけになりそうです。掲示板への近況と感想。それとこの散歩主義は毎日書いていきたいですね。
薔薇の剪定を早朝のうちに済ませました。大苗はバッサリ。ミニは傷んだ枝をとりました。時間があれば大苗を買いに行きたいのですが、なかなか…。
音楽はハービー・ハンコックのTakin‘ OffとマイルスのKind Of Blue。 詩はようやく一つ完成。明日投稿します。 小説は通算で20枚。ただし余白の書きこみが多いから正確に何枚かわかりませんけど。一度清書しないと…。
「蛇にピアス」をもう一度読もうかなと思いましたが時間もないし、読めませんでした。それともう一度読みたい、というよりも次に待っている江國さんのほうにどうしても先に手が伸びます。 それよりなにより海外の短篇小説集が面白くて、それを読んでます。 あと池波正太郎さんのグルメ本も。乱読ですね。
明日は朝も暖かいらしいです。 でも、お水取りも比良の八講もまだですから。必ず寒波が来ますね。 風邪ひかないようにしなきゃ。
さて寝る前に何聴こうかな…。 フィニアス・ニューボーンでも聴こうかな。 ではでは。
文藝春秋が発売されて芥川賞受賞作の二つがそろって掲載されました。 なんせ安いし、ほかの人のも読めるし、二人のインタヴューもあるしというので早速購入。 綿矢さんのはすでに読んで、感想文も書きました。インタヴューも「京都新聞」の方が詳しかったですね。彼女は京都弁がいやで早稲田で「音声学」の講義まで受けて、克服しようとしてます。でも、本人は「だめですねー」と。で、文春では京都弁の受け答えがそのまま活字になってます。 地元の新聞は「標準語」でした。なんだかおもしろい。 地方の言葉と標準語。そのことはまたいつか書ければ、と思います。
で、金原さん。あっという間に読みました。これぐらいの長さの作品だと、最近読むのが速いんです。綿矢さんのときのような読後感想文も書ければいいかな、と思います。 面白いのはこの作品も、書きたいという気持ちが充満しているということ。「書く以外」ないんですよ。音楽にも絵にもならない。たぶん小説にしかならない気持ちが「わかる」なんていったらおかしいけど、作者はそうなんだろうな。だから書いたんだろうな、というところまで想像できる、ということです。
ピアスだとか火傷だとかの描写は別に驚きはしなかったですね。回りにいくらでもいるんで。ピアスと刺青の世界。まあ、やりたいひとはやるよ、ぐらいの感覚。 じつは感情移入というか物語りのなかに入って行きやすかったのは、「蹴りたい背中」よりも「蛇にピアス」でしたね。 彼女が「マッド」と形容するタイプの人間は30歳になるぐらいまで、回りにたくさんいたんで、彼等の事を思い出したり、時々ゴザンスに書いている「ジル」の短い話にも登場させることができるな、とか。
作品を読んで自分にフィードするものがありました。 だから、感想文の代わりになにか創作を書いてみようとも思います。
あとは余談。 綿矢さんは「左きき」という理由から、また金原さんは当然のようにパソコンに打ち込んでいます。ただ原稿用紙を使わないというのではなくて、とにかくお金がなくても、ほかに何もすることがなくても、紙切れ一枚でいいから、とにかく書く事をやめなかった金原さんの姿勢がふたりに共通していますね。
セロニアス・モンクを聴きながら 本日の小説の前進3枚。詩さらに推敲。
我が家の梅が咲きました。 高さはまだ2メートルぐらい。狭い場所で隣家の塀の横なので、高さをここで止めて、横へ枝を伸ばして見ようかなと思っています。
大分の別府でもらったものです。もう何年になるのかな、7年ぐらいかな。とても小さな苗でした。花をつけだしたのは3年前から。花数はまだまだ少ないですけれど、これからも大切にしたいです。 強い木ですよ。
久しぶりにアート・ファーマーのCDを聴きました。ジャズのトランペットです。 マイルスばかり聴きこんでいる耳には、少し物足りないけれど柔らかでチャーミングな音です。50年代から60年代に活躍した、やはりこの人も「一流」のジャズマンです。
本のほうはある短篇集を読んでいます。外国のもの。いいです。
書くほう。 掌編のつもりで書き始めた小説が今日で11枚目。一日2から3枚ペースです。原稿用紙なので、その日、書き出す前にアタマから飛ばしながら読んでいきます。で、前日の部分は推敲しながら。その前の書き足りないと思っていたところなどは、余白にじゃんじゃん書き足していってます。 ペンはペンテルハイブリッド。今日、替え芯を三本買ってきました。すぐなくなるんで、替え芯じゃないとお金と資源の無駄。替え芯だと一本60円ですからね。
ほかにも資料にあたってみようかなと思っているものが一件。 書きかけの詩が一つ。一行に苦しんでいます。
昔のロリンズが聴きたい!!
寒さに強い花ばかりをいただきました。 「花かんざし」「くもま」「桂華」「ぼけ」の三つ。種苗の各社が競って新しい商品を市場に出していて、「桂華」なんてお菓子みたいな名前。 花そのものはサイネリアにそっくりなんだけど、とにかく寒さに強いらしくて、夏の1,2ヶ月以外は年中咲くそうな。 恐るべし人間の執念。
「くもま」という花はとても小さな白い花で、グラウンダーにいいかな。たぶん曇り空の中の晴れ間のような意味だとおもうんだけど、葉の緑が強くて花の白さが際立っています。
「花かんざし」は本当にかんざしのように花をつけています。キク科で原産はオーストラリア。夏の高音多湿が駄目。とにかく寒さに強い。
「ぼけ」は有名なあの「ぼけ」です。木になるやつですね。それの盆栽ふうというか、高さ10cmぐらいのミニ鉢を二つ。 もう蕾をつけていて部屋の中だと花が咲いてしまいそうです。
家の中はデンドロヴュームが花ざかり。これも強いんですよ。いくらでも株分けで増えていく。家の中に取り込んだローズマリーも花をつけています。
植物が増えるのはいいのだけれど管理が大変。ちいさな温室が欲しいぐらいです。 箱でいいから。
さて、すっかりジャズモードの体になってしまってます。ジャズのCDは街中のでかい所へ行ってもあんまりなかったりするんですよね。 特に古い名盤なんかはネットで探したほうが早いし確実。
ブルーノート系を徹底的にコレクトしなおそうかなとも思ってます。 あとビリー・ホリデイ。ただし若いころの。果たしてCDとしてあるかどうか、ですけれどね。 ジャズファンには頑固にLP盤で聴いている人も多いけれど、管理が大変だろうと思います。しょっちゅう聴くのはどうしているんだろう。
ぼくはある時期にLP盤は全部廃棄してCDに買い換えたんです。 再生装置がそんなにいいものでなかったというのもあるけれど。 この歳になると、そろそろもう死ぬまで手放さないぐらいの、これだという装置が欲しいですね。 特にスピーカーです。
2004年02月07日(土) |
The Sidewinder |
「天才少年」リー・モーガンの代表作です。1963年の作。 何故、天才少年かというと15歳ですでに自分のコンボを率いていたから。 18歳で初のリーダーアルバムを出しています。 で、33歳で愛人にピストルで撃ち殺されました。
ジャズファンでない人でも、「サイドワインダー」のリフを聴けば「あー、聴いたことある」という人が多いんじゃないかな。 昨晩、村上−和田コンビの「ポートレイト・イン・ジャズ」というジャズ名鑑、3回読みました。 リー・モーガンについての春樹氏の評価は、なるほどというシビアなものだったけれど、ぼくはロックやってる人がこれ聞いたらどう思うかな、と思ってにやりとしてしまうんですよ。
「ザ・サイドワインダー」こそ、荒削りでチャーミングな故に、バンドのあらゆるヒントがぎっしり詰まっているんじゃないかな、と。
ただ、モンク、マイルス、コルトレーン、ブラウニー…と比べるとちょっと辛い。だけどスイングするのが楽しくて仕方ないという、天衣無縫なとこがいい。 だからいつまでも「天才少年」なんですけど。
ジャズ屋、というかジャズ喫茶、春樹氏は新宿、おいらは京都だけど同じですねー、よくかかってましたよこれ。
さて次は若かりしころのフレディ・ハバードとハンコックを聴きます。 ではでは。
2004年02月06日(金) |
ジャズに引き戻される |
アビイ・ロードなんか引っ張り出して、ジャズを聞かないでいたら、どえらい文庫本がぼくをジャズに連れ戻しに来ました。
村上春樹・和田誠 共著の「portrait in jazz」の文庫本が新潮社からでたのです。かつて単行本で2冊になっていたものが合体し、さらに書き下ろしが三人増えました。 人選はほとんどイラスト担当の和田さんのようですね。そもそものコンセプトの一つが亡くなったジャズマンだったそうですから古い人が多いです。それも途中からはその枠もとって自由に選んだようです。
この55人のジャズマンとその作品の紹介。「ジャズ名鑑」ですね。 まさにストレート・ジャズ。 にやりとする部分も多いし、ふたりともとことんジャズが好きなんだというのが、よくわかります。
たとえばセロニアス・モンクで「5xmonkx5」を取り上げる人はあまりいませんよ。それと春樹氏がそれを手入れた当時の新宿の様子がなんだか「わかる」んです。時代の匂いもね。 60年から70年ごろ、東京にすんでいたジャズファンには、もっとリアルだろうなと思います。
それと音楽を表現するのに春樹氏が渾身の力を振り絞っているのがよくわかって、彼の「詩人」の部分もわかる気がします。 初めて、だとかジャズをあまり聞いていない人が読んでも引きこまれるのは間違いありません。
だいたいここに取り上げられている作品やジャズマンは全部聴いていますが、今、てもとに無い!といちばんあせったのはソニー・ロリンズの「橋」でした。 だいたいコルトレーンですから。 理科系コルトレーン、純文学系ロリンズという春樹氏の「読み」は、まさにその通りで、ぼくのなかでは「左脳のコルトレーン」「右脳のロリンズ」なんですよね。 理詰めと閃きの違い。 だからコルトレーンの演奏には「はずれ」はなく、緻密に積み上げていく音の壮大な綴れ織りのようなのですが、ロリンズは、はまると大変!という演奏。 天才なんですよね。だから、外れるととんでもない。
コルトレーンばかり聴いて、ロリンズ聴いてなかったなぁ、と反省しきりなのであります。 よーし、ジャズを聴くぞ!!
もうひとつ文庫本のお話。 小川洋子さん。「博士の愛した数式」が読売文学賞を受賞しました。めでたしめでたし。 この本で小川洋子さんの大ファンになつたのですが、(書評をゴザンスに書きました)彼女の「偶然の祝福」が角川文庫から発売になっているようです。早速、注文しましょう。
春樹氏と和田さんののジャズへの愛着に触れて、元気になりましたぜ。感謝!!
ゴザンスに一度、ぼくの高校卒業したころのビートルズ狂いのことを書いた事があります。
ビートルズは最初、聞かず嫌いだったんです。ストーンズですね。なんといっても。アビイ・ロードから逆算するように聞いていきました。高校生になってから。 なぜかと言うとビートルズ好きが多すぎたから。 ひねくれてたんです。
でも、やはり凄いグループです。20世紀の音楽を降り帰れば必ずビートルズでしょう。 ここのところジャズ浸りだったので、久しぶりにアビイ・ロードを聴きました。
やはりビートルズを聞くと元気になります。 ぼくの中ではサージェント・ペパーズよりもアビイ・ロード、ラバー・ソウル、リヴォルヴァーの評価が高くて、 グループが良くも悪くも煮つまるとこうなるという見本のような、通称「ホワイト・アルバム」のなかにも大好きな曲は何曲かあるんだけど アルバム全体のまとまりとしてはアビイ・ロードが最高だと思っています。
特に9曲目から17曲目までぶっとおしで続く、いわゆる「アビイ・ロード・メドレー」は圧巻です。 ビートルズに関してはデータがほとんど完璧に明らかになっているので、実は「アビイ・ロード」が実質的なラストアルバムである事は ファンなら誰もが知る事になりました。
だから肝いりの最後の曲「In the End」はビートルズ最期のメッセージになります。
”And in the end,the love that you take is equal to the love you make You make your love”
結局、得られた愛は 与えた愛と 等しいんだから 愛を与えなさい(意訳・にしはら)
”愛が欲しければ 愛を与えなさい”…ニュー・エイジの人々のはるか昔にすでに結論はあって、そして彼らも同じことを歌って…。 しかし、与えつづけた人たちはやはり、ただ空しく死んでいったのではないと、最近思いますね。
今日はビートルズの夜になりそうです。
2004年02月04日(水) |
寒気が西風にのって余呉のあたりに雪を降らせる晩に |
知人のところに新しい生命が誕生しました。 男の子です。 名前はまだ決まっていないとか。 例によって、姓名判断でいろいろとひねり出している最中のようです。
名前、といえばペンネームを作ったらどうかという話があります。 ぼくは本名でずっとやってきてますけど、本を出すとなるといろいろあるぞ、と。
複数の漫画家の方は、絶対つけろ!とおっしゃいます。 とにかく信じられないぐらいいろんな事が起きるとか。 売れるとか売れないとかに関係なく。
昨日の夜もそんな話が出て、じゃあ、と作ってみた名前のいくつかが、姓名判断だとことごとく駄目。 結局今のままでいくことになりました。
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寒くなりました。 外猫たちはサカリがついてしまって大変です。 中の猫たちはのんびりしたもの。キキはますます甘えん坊になってきていて ぼくのお腹の上で寝るのが大好き。
犬たちはジャンもハナも元気です。ハナが足の裏に擦り傷をつくってますけど、対したことはないみたいです。
そろそろと次の作品の資料集めをしています。これは「京大方式」で一度やってみようかなと思っています。「京大方式」というのはテーマを書いた紙袋をいくつも作っておいて、メモやらコピーやら切抜きやら、そのテーマに関するものはなんでもそこに放り込んでいくやり方です。
で、あとでそれを整理しながら考えなり、論を組み立てていくやり方。論文書くのにはいいんですよ、このやり方。 資料集めにはいいかもしれません。 ネットだとgoogleの検索がいちばんなのかな。
だけど文学は結局「自分」に帰ってきます。 「自分」の検索には思索、瞑想、散歩、筆記、結局そこに戻るのかな。 どれだけ資料を集めても最後はそれを全部捨ててしまいますね。
自分が何を考え、どこへ向かおうとしているのか。書きながら考えています。 今日は夜の珈琲は止めときます。 これからコルトレーンを聴きます。 では。
All BLUES… マイルス・ディヴィスのナンバーです。カインド・オブ・ブルーに入ってます。
昨日に引き続き、早朝のうちに書きなおし分にもう一度手を入れ、午後のあいた時間にゴザンスに送りました。 これで、少し一息。 そして表紙絵のラフを見せていただき、感激しています…。
書きなおしのバックに、朝4時からマイルスを聴こうと思ったんです。最初はイン・ア・サイレントウェイを。 だけどしっくりこなかったので結局昨日と同じく、カインド・オブ・ブルーを聴いていました
いいですね、マイルス。 珈琲を呑みながら、リラックスできました。
ここのところ、とにかく忙しくて、怒涛のような日々です。
また寝不足気味かな。
犬とか猫とか人とか…周りに迷惑がかからないようにしなければ。 それと、やるべきことをあきらめないこと。
では。
2004年02月02日(月) |
とうとうやってしまった…。 |
「光函」の初校。とにかく真剣に。コツコツと…。 すると、どこかのスイッチが入ったみたいで、原稿をバッサリと斬りたくなりました。 どうにも我慢ができないところが出てきて…。 結局ひとつ、全部書きなおしました。なんでこの時期に…。 どうか通ってほしいです。
やればやるほど見えてくる。自分の力のなさ。 溜息なんてついてる時間も惜しい。いいものを…。なんとか、と思います。
前にもかきましたが、ノートや原稿用紙に書き殴り状態です。 あっちこっちに飛んでるもんだから、後でまとめる時に大変。 これは今の「本」向けのものではないです。「次の」もの。
積み重ねて積み重ねて、なにか溢れるよう状態になると作品がまとまるようなので、こつこつ…ですね。 重ねていって何が出てくるか、自分でもわかりません。
ひさしぶりにマイルスのカインド・オブ・ブルーが聴きたくなって、それをしょっちゅう聴いてました。 BLUE IN GREEN。これが聴きたかったのでした。
とにかく忙しいです。
去年に引き続き、京都美術工芸選抜展に行ってきました。 時間があまり無いので、三条高倉の京都文化博物館の開館10時ちょうどにつくように、コルナゴで市内を滑走。
日本画、洋画、版画、彫刻、染織、陶芸、諸工芸、ミクストメディアの各分野からの選抜です。 条件は年齢が35歳以下で、京都を主たる創作活動の拠点としているということ。 今回は各界から156人の推薦があり。40人が選抜されました。
去年に引き続き、というかぼくは絵画ばかり見ていますけど、日本画、洋画が興味の対象。全体の中の最優秀と優秀の賞が設けられていて、今年はミクストメディアがほぼ独占していました。
ミクストメディアとは、それこそ様々な技法のミックス。表現方法は自在の分野です。確かに狙いはわかるし、面白い。「新しい」という観点から見れば、他のジャンルにはない新しさがあるのは確かでした。
絵画部門はだいたい一人の人しか見にいっていないので、全体の印象を言っては悪いけれど、綺麗なんだけれど、ぐっときませんでしたね。 一人の人というのは、竹林柚宇子さん。 この日記を延々と読んでくれている人がもしいるとしたら、去年も彼女の絵のことを書いているはずです。
日本画の方。 今回は2点。「ながれゆく」と「めぐりくる」。竹林さんは人物画が多いんですが、今回は渚に仰向けに寝てこちらを見ている少女の絵が「ながれゆく」。 まるで胎児のように膝を抱えたり、横になっている子供たちの絵が「めぐりくる」。
グレーと白の絵。この絵を見ていて「呼吸」のことを考えていました。 このモデルたちの髪の先から足の先までの姿が、臨済禅の瞑想のいちばん基本、「横になり、力を入れずに全身を伸ばし、眠らずに、腹式で深呼吸をする」 まさにその姿を連想させたからです。 とくに「ながれゆく」のほう。眼がこちらを向いていて背景の白と脚の肌色とが溶け合って、人の気配が消えていきそうな感触。
この「気配が消えていく」というのが、特に「禅」を感じさせたのかもしれません。「めぐりくる」のほうはさらに進んで、横になった子供たちは半分、灰色の中に溶けこんでいます。これから白くなっていく、その前段階のような。
じっと見ていたら、絵の中から静かな呼吸が聞こえてくるようでした。 竹林さんの絵が好きで、京都で出品がある時は必ずいくようにしています。 今回は「めぐりくる」が特によかったです。
で、帰りにリーフレットを買おうとしたら、できていないんです。 2月末にできるとかで、お金を払って予約しておきました。 ま、いろんな分野があって、展示しないと作品にならないものもあるから仕方ないですね。
竹林さん、また素敵な絵をかいてください。
*京都府美術工芸新鋭選抜展2004 2月8日まで。京都文化博物館にて。午前10時から午後6時まで。 月曜日は休館日です。明日はお休みです。 住所は京都市中京区三条高倉です。
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