この日記を書くのに、夜中の12時を回るのは久しぶりです。 今の今まで来客あり、で 実はパソコンすらなかなか開けられなくて、さっき自分のサイトのBBSを覗いてきたところです。
世間ではそろそろ会計年度末の慌しさが始まり、どんなに遅い所でも4月からの人事異動、それも上層の方はもう決めておかないと、4月いきなり、では立ち行きませんからね。少なくとも12月ごろには決まっていないとね。
そんなこんなのドタバタの話をきいてました。 あ、世間はそうやって回っているのだなぁ、と…。 ぼくのことではありません。
明日はお休みです。朝が少しゆっくり出きるのでもう少し、これを書いて、本の初校は頭がしゃきっとしているときに見たいので、明日に回します。
それと新しい物語のスクリプト?というか「案」が、やっと、ふうわりと浮いてきました。忘れないうちに書き出しています。 あたらしいテーマ、あたらしい構想です。 軸は「花」です。
ああして、こうしてとアタマの中でぐるぐる回していたのを書き出す作業です。 そこから、少しづつでも前進させていきます。
読む本は江國さんのが待っています。 音楽は…うーん、スモーキー・ロビンソンでも聴こうかな。
ではでは。
| 2004年01月29日(木) |
【読後感想文】「蹴りたい背中」を読んで |
…いろんなものを蹴り飛ばしたなぁ… これが、読み終えた直後の感想。それは爽やかで、だからこそ、この若き作者の次回作はなんだろうと、とても興味を持ちました。
小説の軸には「さみしさの塊」があるようにイメージしました。「さみしさ」を扱いかねて、あるいは対処すべく高校生たちは自分や「関係」と格闘しています。しかし、高校生活が素材とされてはいるものの、様々な位相からの読みこみやイメージができる広がりは十分にがあるように思えます。 それは主人公ハツの独白が多く、そして彼女が見つめていることのほとんどが、どう生きようとも人間は関係の中を生きていくしかないことへの、抗いや諦めや苦々しい気持ちであったりするからです。結局、彼女はこの鬱陶しい自分も「蹴り飛ばしている」と思うんですが。
実は彼女は無意識のうちに「関係」を断ちながらも、熱望もしてもいるのです。「熱望している」と、彼女はそぶりすら見せようとしませんが、同じくクラス内で疎外されている(かにみえる)「にな川」との出会いと、付合っていく中での様々な所にこぼれているように思えました。
「にな川」は「オタク」です。モデルの「オリチャン」の熱烈なファンで、彼のその徹底的なオタクぶりが詳細に描かれます。 主人公に背中を蹴られるのはこの男です。 ぼくも、蹴りたい気持ちわかります。はは。 さみしさの内側に篭る事で生きようとする事への嫌悪が正直に現れます。
もうひとり重要な登場人物に絹代という中学時代の親友がいますが、中学時代に、グループでつるんでいた事へのしんどさから、もうグループは二度とごめんだと思っている主人公とは違い、絹代はクラス内での位置を獲得すべくグループの中にはいっていきます。クラスでは主人公ハツにとって彼女が唯一の友人といってよい状況です。しかし、ハツは自分自身を他者に擦り合わすような事を、よくも平気でできるものだと絹代をみています。
そういう意味でのキーワード 『余りものはいやだけど、グループはもっといやだ』 群れるのがいやなんです。自分自身を損ないたくない、という強い気持ち、ですね。 それと自分はリアルであり、「にな川」はそれから逃げている、という自負もあります。主人公はモデルの生のオリチャンとあったことも口を聞いた事もあるのに比べ、「にな川」は『オリチャンから与えられるオリチャン情報』をありがたがっているだけなんだ、と。 しかし、そのようなプライドも作者は巧妙に崩していきます。
詰めて言えば、何も見ていないと思っている「にな川」は、しっかりと主人公の言葉や行動を捉えていて、その鼻もちならないプライドの趣味の悪さを、さらりと指摘するし、絹代は、自分の事しか見ていないために、他者との関係に躓く主人公の「ありかた」を指摘します。 そしてぼくが大事だなと思ったキーワードをハツは呟きます。 『自分の内側ばかりみているから、何も覚えていない』 そういう自己認識は 『人にして欲しいことばっかりなんだ。人にやってあげたい事なんて何一つ思い浮かばないくせに』という独白に至ります。
後半のライヴに三人でいくシーンがいいです。特に会場に走っていく部分の描写がとても素敵でした。 そういえばこの小説は走るシーンがとても多いのと、主人公が走る事が大好きなことが特徴的です。 このライブの一日の描写はいろんな意味を作品に与えています。三人は三人そのままで、しかしひとつの「関係」が出来上がっているのです。絹代は相変わらずの絹代だし、相変わらず「ハツ」は「にな川」の背中を蹴りたいのです。 もっと苦しめ、と。 …が、しかし決定的に違う何かが生まれています。 その意味は読まないと汲めないので、ここでは書きません。 たしかに「孤立した存在」であろう人間をどう考えるか、冒頭の行がとても象徴的です。 『さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞えないように、私はプリントを指でちぎる』
そこから始まり、自らと他者を認識し、蹴るべきは蹴り、あるいは蹴られ(いろんな意味で)、最後は前に向かって、未来に向かって広がった形で終わっていること。(だから次が読みたい、と思ったのかも) そのことにとても好感を覚えました。 ぼくはこの小説が好きです。
「蹴りたい背中」綿矢りさ・河出書房新社
| 2004年01月28日(水) |
「準備はできていた」のかな? |
昨日から綿矢りささんの「蹴りたい背中」を読み始めています。 各書店、売り切れ続出なので、手にはいるかなと思っていたんですが、やはり地元はしっかり買い占めてましたね。(出身高校近くの本屋さんでget!)
江國香織さんの「号泣する準備はできていた」も市内の主だった書店では売り切れ。ネットでも重版待ち。 こういう時は、たいてい普通の、ごくごく普通の街の本屋さんにあるもので、案の定スーパーマーケットの二階の本屋さんにありました。
京極さんの作品もあります。手に入らなかったのは金原さんの「蛇にピアス」のみ。
とりあえず、綿矢、江國のニ冊から芥川、直木、両受賞作を読んでいく準備ができたわけです。 まだ最後まで読んでいないんですけれど、綿矢さんの作品は「既読感」に時折襲われるんですよね。 なんだろうな、と首をひねっているんですが、理由がわかりません。 19歳というのは、素材の扱い方に(あぁそうなのか)と思わせる部分があって、それが新鮮。
技術的には歳がどうこうと言うのはまったく関係ないと最初から思っていました。小説家を志す誰とも同じように、綿矢さんも日々書き続けているんだろうなと思うばかりです。 今半分ぐらい。もうすぐ読み終えます。
一つ思ったのは、この作品は「小説の歴史の流れ」に乗っているな、という感覚です。綿々と続く日本文学の流れの上に乗っている、という感覚。 それはたぶん、彼女の読書の量と質に正比例しているのだろうな、と。
本をたくさん読んだからといって、優れた作家になれる訳ではないですが、本を読まない人は小説家にはなれません。 彼女の作品の何気ない言いまわしに、彼女の経験が滲み出ているんだろうなというのは読書家なら、或いはどの作家にも抱く感想かも知れませんね。
江國さんのほうは、もともと好きな作家ですから、一読して「江國さんらしい」と。心の動き方、道具立て、ふうむとおもうところなど、ぜんぶ「らしい」。 変ないい方かもしれませんが「安心して読んでいける」のです。
江國さんはじっくり生活を組みたて、愛しながら、自分のペースで物語を紡いでおられるのではないかな、と思います。 表紙に小さい女の子が描かれているのですが、作者はこの子と語らっていたようですよ。 京都新聞での受賞を受けてのエッセイに書いてありました。江國さんは「本」が大好きなんですね。「本というモノ」が。 なんだか、受賞は彼女の本に寄せる信頼が報われたような気がしました。
本と物語と詩と、それらを含めて文学ということが許されるのならば、彼女はこよなく文学を愛しています。だから、愛が報われたともいえる気がします。 こういうようにひとつひとつ、丁寧に物語を紡ぐ事ができれば。 ぼくの目標です。
さて、ぼくの「光函」ですが、もう少しでレイアウトができあがります。 また緊張感が高まってきているのですが、フィニッシュの言葉にもう一度、全神経を集中してあたりたいと思います。 それができればぼくの作業は終わりです。
もう一息です。
セロニアス・モンク「セロニアス・ヒムセルフ」を聴きながら。 おやすみなさい。
| 2004年01月26日(月) |
静かな眼〜作品集「光函」について |
風邪に効用なんてないはずなんだけれど、風邪をひいたおかげで見えてくるものがあるかもしれない。そんなことを感じました。 体力がジリジリ消耗していき、動きが緩慢になっていくのを、抗いつつ受け入れて認識するころには 世界を違う目で見ている気がするのです。 で、こうなった時の自分を結構気に入っていて、いいんだろうかととまどったりもしています。 「気に入ってる」ぐらいに思わないと、病気に人格が蝕まれそうなのも事実なんですけれどね。
「違う眼」というのは、健康なときよりも周囲を見わたす速度が遅いということからきているのかもしれません。丁寧になるし、見えていなかった部分を見つけたりもしますから。 自分の中では「静かな眼」、というふうによんでいます。
勝手に「ロード小説」と呼んでいる、「歩行」を描いて抜群な小説があります。そのなかでも太宰治の「富嶽百景」と志賀直哉の「城之崎にて」のふたつが大のお気に入りです。 汽車でも構わないのなら、そこに内田百�里痢岼に捨鷦屐廚魏辰┐泙后�
これらの小説の描写はとにかく抜群なんですが、人物が動いていたり乗り物が動いていても、書き手の「眼」がとても静かだという印象があるんですよ。それがとても気持ちいいんです。 余計な事が一切ない。だけど堅苦しくもない。不思議な情感が読んでいて乗り移って来る感覚ですね。 太宰の月見草と夜の闇。志賀直哉の後ろからついてくる影など。
活きていて、静か…。
舞い上がっている眼だと見失ってしまうようなものへのフォーカスのしかた。 静かで透徹した眼。余分な力が全然入っていない、流れるような隙のない文章。 そういうのを読むだけで、いや、読ませていただくだけで、あり難く思ってしまうのです。
今日もそんな事を考えていて、結局「呼吸」なのかな…。などと思ったのでありました。 ********************************** ぼくの作品集「光函」の制作が、インターネット出版局のゴザンスで進んでいます。 今日、レイアウトの一通り終わった原稿を見ることができました。 さすがに、胸に来るものがありました。 部数も少ないですし、豪華本でもありませんが、少なくともぼくの初めての本として、胸を張って人に手渡す事はできると思います。
大きさも小ぶりですし、ページ数も絞りました。価格もオンデマンドではいちばん低いところを狙っています。
校正などがこれから詰めの作業が続きます。 いい本ができればと、それを願っています。
まだ、この日記でこの程度の報告をするにとどめておきます。 大きな動きがあり次第、またこの場に書きますね。
| 2004年01月25日(日) |
ジョン・ハッセルと近藤等則 |
昨日、ゴザンスの800字を書きながら、ジャズ・トランペッターの奏者で初めてハーモナイザーというエフェクターを使ったジョン・ハッセルのことを思ってた。
今では、世界に近藤等則という実力者がいるものの、かつては彼一人だった。 メロディーというよりも風の音のような印象が強い。 BLOWそのものというか。
そんな彼はデヴィッド・シルビアン、ブライアン・イーノ、ライ・クーダーといったキャリアの出発点をポップ/ロックにもつ音楽家とのコラボレーションをとおして ロックファンにもその名を知られるようになった。 上の三人も実はロックをつきぬけてしまうほどの実験的な作風を持っている。(ライ・クーターはトラディショナルな面しか知られていないけれど、そういう側面もある)
面白いのはどのアルバムでも、ジョン・ハッセルのスタイルは微動だにしていないこと。同じペース、同じ呼吸で音を出している。 デヴィッド・シルビアンの楽曲でも彼の入っている曲がいちばん好きだ。
近藤さんもアコースティックな楽器としてのトランペットは限界まで可能性を引き出され、新しい広がりを持つためにはエレクトリック・トランペットが不可欠なんだ、といって単騎、世界へ乗り出していった。 そして世界で高い評価を得ている。
近藤さんのトランペットも凄い。凄いとしか言いようがない。 彼はギターのアンプにマルチエフェクターを接続して音を加工している。もちろんハーモナイザーもディストーションも、ワウも…。
日本のトランペッターといえば、ぼくは「とにかく」孤高の男、近藤等則をあげる。京大出身の彼についての毀誉褒貶はいやというぐらい知っているけれど、 それでもなおかつ、やっぱり凄いと言わざるを得ない。
音でそう思わせるのは、実力以外のなにものでもないわけだから。 噂は噂。音にそんなのは関係ないから。
彼のアルバムも紹介できれば、と思っています。
芥川賞発表の波紋がまだ続いています。 なんといっても19歳と20歳の受賞者というのがトピックになっているけれど、新聞や週刊誌上での、それに関する批評が出揃いつつありますね。
そんななかでいちばん面白かったのが京都新聞1月22日・夕刊の小泉義之氏の論評。なんせタイトルが「文学に蹴りをいれる」だから。
しかも、論の半分近くをここのところの小説のメインラインの解説に当てていて、それが『保坂和志の系譜に連なる作家たち』となっているのです。ふうん、であります。 どんな作家たちかというと、岡崎祥久、鈴木清剛、長島有などとなっています。 少し引用してみます。
『文学は、脱落して降り立った生活の有様、社会に流通する言葉では捉えられない有様を描き出す。無意味で無目的に見える生活を、別の角度から描き出す。そのことによって、文学は、いかなる生活にも肯定されるべき何かが潜んでいる事を示したのである』
しかし、現実の人間はこんな生活に耐えられない。放浪や貧乏に耐えられないというより、それ以外に何もせず、何も起こらない生活に耐えられない、と。 で、ここを打開する方向は近年の作品に見られない、と。
そういわれても、そうなんだー。といえるほど小説を読みこんでいないんでなんともいえないのだけれど、綿矢さんはここに「蹴りをいれた」そうなのです。 これは読まなあきませんな。
で、「友情でも恋愛でもなく、孤立した者たちの連帯でもない、別の関係を創出しようとする」そうだ。 これは、言われるまでもない。自分で読んで確めてやろうと思ったわけです。 ほんまかいなー、という気が半分と、びっくりさせてくれるのかなという気持ち半分です。
とにかく『蹴りたい背中』、大至急読みます。できるものならレヴューにしてみたいですね。
本当に久しぶりに風邪をひきました。 一年以上罹っていなかったと思います。 無理が続いて免疫系がダウンしていたんでしょうね。あっさりやられてしまいました。 聞いてみると、回りは風邪の人ばかり。流行っているんですね。
関東で流行りだしているインフルエンザも関西でもそろそろではじめたようです。 今年はSARSに加えて鳥インフルエンザもあるから怖いですね。最悪の状況だとスペイン風邪の再現だという説もあります。
今回は寝不足で体力が落ちていたのが原因なので、よく休んで何事もじっくり行きます。 風邪で好いこと、なんてほとんど無いんだけれど、休んでいる間、静に本を読めたのが好かったです。 読んだのは保坂和志さんの通称「かきあぐ」。もう一度読みました。
こんど「光函」という本を創ることになりましたが、修辞的な部分、だいぶ落としたつもりです。少し残っているかも。
作業は自分の全作品からの選定作業からはじめました。 すでにWeb上で発表している2000年以前の作品は、やはり入れることができませんでした。一つだけ入っています。それもだいぶ書きなおしています。
ほかは2003年以降のWeb上の作品、全ての婦人公論入選作が対象です。 サイトの上と紙の上ではやはり読んだ感覚が全然違います。 新しく書いたのも少しだけあります。
無論、書きなおしたりしていますけれど、サイトに出ているのと変わらないのもあります。もちろんそんなの無駄だと思う方はサイトの作品の方を読んでいただければ結構です。
次にもし本を創るのなら、サイトには一切載せないで、紙だけでいこうかなとも思っています。 原稿の執筆そのものは完全に原稿用紙です。ゴザンスのテーマなども全て原稿用紙に書いてます。そうするとそれをまたPCに打ちこむのが二度手間になりますからね。
もう一つのアイデアはゴザンスの800字、婦人公論への投稿作品、他の場所に書いたものなどを年に1度まとめる「西原正図鑑」みたいなもの。 ネオブックの方が、以前のようなシステムに戻れば制作費の費用のみのオンデマンドでてきます。 今回の100人の読者の半分以上を束ねている某氏は「そうせえよ」といってます。「やれよ」と。
もう一つのアイデアは、完全にテーマを一つに絞った論文を書くということ。 これはテーマを見つけるのが先決。資料を集めて、検討して、読みこんでという作業が待っています。 同じような作業をして作品を作る、ということもあります。
とにかく「光函」が最初で、そこからどれだけ書いていけるか、出した後に自分のなかに次に進むべき道が見えてくると思ってます。 そのために作った部分もあるのです。
さて、風邪で苦しんでいる間はジャズではなく、ハワイアン・チャントを聴いてました。それとバンブー茂の「クロール」。 「ゆるめる」神経系と「休めるべき」ところがあったようです。
今日はじわりとよくなったので、ゴザンスの「ことばあそび」を書くことができました。テーマの節分。800字もゆっくりと書いていきます。
あーあ、とうとう風邪ひきました。 あれっと思ったら、もう…。 家のものが鼻からきていて、アレルギーかななどといっていたんですが、それが風邪だったんですね。 見事にうつりました。
インフルエンザの予防注射はしていますから、それはだいじょぶなんですけれど、風邪はまた別ですね。 鼻炎カプセルがよく効いてます。寝る前に抗生物質をのみます。ここのところ12時就寝、4時起床がずっと続いていたんで、早く寝るとします。
今日は婦人公論の発売日。投稿している詩のフォーラムには記載無し、でした。 出すのも遅かったし、昨日出したのとあわせて、来月に期待します。 同じ婦人公論で保坂和志さんの「書きあぐねている人の小説入門」が著者インタヴューを交えて、レヴューで紹介されています。
保坂さんは優しいなぁ、と…。
さあ、早く風邪、治します。
ではでは。
「日日是好日」。 禅語です。「にちにちこれこうにち」と読みます。 普通は「ひびこれこうじつ」って読みますね。
つまりはその日その日を「好き日」として生きよという教えです。 大事なのは悪いことがあっても好き日として生きろ、ということ。嵐にあっても好き日、怪我をしても好き日、というように。 考えて見れば厳しいかもしれません。「時に足をすくわれるな」「囚われるな」という教えなんです。 価値判断をするなという事でもあります。
実は禅宗の弱点にもなりうる部分ではあるんです。つまり、全くの自由を目指すためにどんな状況下でも、それを「可」としてしまう強靭さを逆手に取られて、権力に戦争に利用されるという側面です。 実際、太平洋戦争のときはそうだったようです。 現在の禅宗はそういう部分への「工夫」もされているようですが。
個人の生活、日常に徹底的にこだわるというのが禅宗なのです。ぼくが興味を持つた側面もそこにあります。 「自由」とは何か。少しわかった気がします。簡単に言えば字のとおりなのです。 「自らの由」です。由とは因にも近いですが、自らが出発点であるということですね。
生きることが苦しいとき、時間の無限の連鎖のように苦しみが続くと考えてはいけないし、楽しいときもそれが明日も続くなどと考えてはいけない。 禅とは徹底的に「今」を生きよ、といっている気がします。 「今」全てとつながっている。 「今」世界を味わい尽くしている 「今」自らを捨て去っている そのような「今」の連なりで、生きていく。
それが徹底された人は、たぶん現実生活の中では浮くでしょうね。 しかし、そういう精神状態を現実の生活に活かす事は可能です。
玄侑さんの本を読んで、ぼくが思ったのは 「日々新たなり」という言葉です。この言葉は本には出てきませんでした。 流れはあるとしても、今日の続きの明日は無いのです。今日は昨日の続きではありません。苦しみも、幸せも。全てを込めた「今」が続いていく。 その日を精一杯生きる。それに尽きるな、と。
その時の態度が「日日是好日」です。 ものを書くことの、例えば、続きの仕事などはどうなるのか、というとやはりこれも「日々新たなり」でなければ書けないんじゃないのかと思いました。 その日その日に、作品に一からワクワクできるような心が無ければ。
人には「役」があると禅では教えています。 その「役」が「ものを書くこと」であるのなら、粛然と役を全うすべし、ということなのでしょう。「役に徹せよ」ということです。
「主人公」という言葉も禅の言葉です。 「主人公」。これが悟りを表現しようとした言葉だとして、わかりますか?
わかるなどと到底はいえませんが、禅の思想に触れて、ずいぶん元気になりました。 「役」に徹しようと思います。
玄侑宗久さんの「禅的生活」を読み始めました。 ちくま新書です。新書だから安いです。 (ぼくの本も出きる限り安くしたいと思ってますよ。だから薄いです…)
これはおもしろいです。まだ読み始めて数ページだけど嵌りそうです。 モノの考え方、暮らし方なんですけれど、禅のめざす「自由」がいいですね。 「自由」といっても奥が深くて、いわゆる「放縦」とも違い、自由の阻害者としての「自分」からも自由になるというなかなかに面白いお話になりそうです。
もちろん「考え方」と「身の処し方」ですから、詩なり文章なりを書く上でのヒントも満載です。満載と思う人にとってのみ満載ですが。 というのも禅というのは、最終的な悟りにおいては言語を超えていくものですから。
詩、文章というのも方便となります。そういう突き放した見方。これがぼくにとっては大事な点。学びたい点です。何かに染まった心を信じないという考え方。 簡単に言えば、好き嫌いを超えるということです。 禅語でいう「可もなく不可もなく」です。 これは一般には「良くも悪くもない」と理解されている言葉ですが、出典の孔子も禅でも「あるものごとに価値判断をしない」という意味になります。 「自分は、為すべきことや為してはならないことや、これは良くてこれは駄目という判断しない」ということです。
混沌の中から禅はたちあがってくるのですね。 おお、という感じです。 今日のタイトル「一切唯心造」といのも 「所詮全ては心がつくりだしたものやんか」という禅語です。 玄侑さんも指摘してはりますが、かぎりなくフッサールに近い考え方です。
たぶんぼくに、世界の見方を変えたいと思うところがあるのでしょう。 それが動機で、そして作品を作りながらいか自分を変えて、そして人にどう寄与していことができるのか。 勉強は続くのです。
それにしてもオモシイぐらい心を馬鹿にしますよ。 ほんとに気持ちいいぐらい。
心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな
つまりは、それほど心を大事にしているということとぼくはみました。
一昔前ですけれど、ある詩人が、アメリカの詩人は自分の名刺に「poet」と書いて持っているということを書いておられました。 これが日本だと、ずいぶんそれだけで怪しまれるのだろうな、とも。 たしかに日本で「詩人」という肩書きの名刺を持っている人はあまりいないと思います。 詩を書く人は健康保険や免許の書き換えの時の職業欄に「詩人」と書きこむのでしょうか。文筆業とか著述業とかくのかな。
そう考えて見ると「詩人」という言葉は「職業」という言葉になじみませんね。生産性も無いですし、職業にあらず、ということでしょうか。
サイトの方の掲示板に「にしはらさんはプロのかただったんですね」と書き込みがありました。 こことは別に「心太日記」にも書いているんですが、そこのプロフィールに『職業・詩人・ゴザンスライター』と書いたからなんですが。
「プロ」というのが、それでお金を得て、生活を支えているというのなら、ぼくはアマチュアです。 「職業」というものが社会におけるその位置であるとするなら、ぼくの職業は「詩人」です。ただし、今のところ、です。
荒川洋治さんの詩にもあるように「詩人」というのは、とてもみっともないものでもありましょう。(『美代子、石を投げなさい』)
しかし「作品」でお金を得ていなくても、ぼくは自分を「詩人」としか言いようがありません。みっともなさも含めて。
詩人にとってのプロとアマの違いが「所得と生活」という尺度で測られるのなら、いったい何人のプロの詩人がこの国にいるでしょうか。 ほとんどの人は別に収入のみちを持っています。ただし、詩を携えて社会に立つときは「詩人」なのです。
『職業・詩人』と読んだ時、あ、この人は詩ばかり書いているんだ、と思ってくれて結構です。ただ、この国の詩人は、本で認知されている人も含めて他の職業ほどの収入も認知もされていないと理解してください。
みんな食べるために様々な仕事をしています。詩人たちの問題です。それは「詩人」を名乗る全ての人、ひとりひとりの問題です。つまりぼくの問題でもあります。
そういうことがら全てをひっくるめて、それでもぼくは「詩人」としか自分をいいようがありません。
| 2004年01月17日(土) |
なんだか盛りあがっております |
どこが、というと京都です。 やっぱりね、文藝賞よりも芥川賞なんですね。綿矢さんの受賞に京都は沸きかえっております。文藝賞のときとは比べものになりません。 彼女の出身校、紫野高校には『祝・受賞〜』の垂れ幕が下がりました。ぼくの記憶では笹野笙子さんが受賞されたとき、立命館大学の関連施設に垂れ幕が出ましたね。 平野啓一郎さんの時はどうだったのかな。京大では…。いやぁわかりませぶん。
で、京都新聞が伝えるところによりますと、全京都的に綿矢さんの「蹴りたい背中」がほとんど売り切れになったそうです。
地元なので細かな情報もあって、太宰治が好きだった彼女、高校時代に全著作を読破。特に『女生徒』が好きだったそうです。 また彼女は2002年4月から京都市の「こども読書活動振興市民会議」の委員で、 『学校の図書室で、楽しい時間を持てたおかげで今の私がある』 『古い本にもメッセージ性がある。古い作家も自分と同じ考えを持つ人間だと感じれば、若者も本を読むようになる』 と、こんな発言が紹介されていました。
ぼくはというと、今回の受賞作のなかでは江國さんの本以外は、読む予定がありません。 それと「禅的生活」が大手のJ堂でゲットできたんで、そちから読みたいのです。 一連の騒動が収まってから、おもむろに手にとってみるってのも、いいんじゃないですかね。
芥川賞が発表されました。20歳と19歳の女性ふたり。 トリビアじゃないけど、「へぇー」でした。だからどうというのは全然無いです。きちんと読んでないから何とも言えませんよね。 あ、綿矢さんの「インストール」はさっと読みました。
若いからどうのこうのという感想もありません。「小説」に関しては彼女たちはずっと書きつづけてきたわけだし、書き始めたのが若かっただけ。 それよりも読書歴の長さと深さを賞賛すべきかもしれません。
「文学離れ」はどのような観点からそうなのか、点検が必要かも。「文字離れ」「文章離れ」というのはありえないです。ありえないどころかみんな違う文体で達者になっているんじゃないかな。日本は一種の「ケータイ文化」ですから。
だから、そんななかで小説に親しむ人は、ごくごく自然に書き始めると思います。 漫画もしかり。 みっともないのは文学誌の編集者で、小馬鹿にしたような発言している人たち。ほんとに発言しているのかどうかも怪しいけど。匿名だしね。新聞に書いてあるだけだし。いずれにしても揶揄してるだけじゃ駄目ですよ。
これからの文学の担い手は若い人と老人になるのかもしれませんよ。すでに高齢化社会になっていて、これがさらに進むわけでしょう。ものすごく遅いデヴューとかがあたりまえになっていくだろうし、「誰がホンを買うのか」「いちばん人口の多い世代はどこか」を考えれば当然かもしれません。 それに小説書いたり詩を書いたり俳句をひねったり短歌を詠ったりって、全然お金がかからないですから。 若い子が書くのは、どんな時代になっても続いていくと思いますしね。
ところでワタヤさんて、うちの町内にいはるんですけどね。彼女の実家は京都市×区…。うちといっしょ…。いやいや、まさかぁ…。だけどなぁ…。
| 2004年01月15日(木) |
メトロポリタン美術館 |
19世紀のフランス画家のイタリア留学時の絵画。おもしろいテーマでコレクションをした画商の方がおられたものです。それがニューヨークのメトロポリタンで展示されます。NHKのBS−highでのメットの特集、その第4回を固唾を呑んで見ました。
光の扱いがすばらしいんです。描いているのはコローなど、のちの大家といわれたフランス人たち。その若き日の作品。素晴らしかったです。 光がイタリアです。空の青が素晴らしい。ニューヨークまで見に行きたいぐらいです。 おもわず溜息。
そして故ライラ・ウォーレス婦人。この人が14億円という「花基金」を寄付。それ以来毎日、メットの玄関ホールのフラワーアレンジメントが続いています。 またしても溜息。
コンサートはあるし、屋上で夜景を見ながらカクテルも飲める。コレクションは凄いですしね。アメリカの財力の底無しの強さ、というか…。
それでも冒頭に書いたようなコレクションがメットで管理されるのなら、散逸もしないし絵画の状態も良好であるだろうしと思うのです。ただ、あまり無理な運営はしないで欲しいと、いらぬ心配をしています。
メット経由で日本でも展覧会やって欲しいです。 「19世紀のフランス人画家のイタリア留学時代展」 このタイトルまで決めてるんですけど…。
原稿のチェックと書き進める作業と削除する作業と、こつこつ進んでいます。 冷静に見て、ぼくの句読点はたいへんユニークなんです。言い方を変えると「とても変」。今日は行がえも含め、句読点の検討と変更をすすめました。
その前に内容がだぶっていたり、論理的な整合性の無い部分、つまり思い込みであったり辻褄の合わない部分の修正をしています。
そして今回、本を出すにあたって積極的に「地の言葉」を特色にしようという考えがありました。したがって「京言葉」が随所に出てきます。その総点検もしました。 生粋の京都人の読書家にチェックしてもらったのです。 すると思わぬところにででてくるんですよ。「東京言葉」というか「江戸弁?」。
ぼくが東京出身だというのがもろにわかるそうです。そこを具体的に指摘されて驚きました。 東京は幼稚園までと仕事をしだしてからとの何年間しかいなくて、圧倒的に京都に暮らしているのが長いにもかかわらず、ポロッと出てくるんですよね。
今書いているこの言葉でも、たぶん「東京」と指摘されそうな気がします。 それでも、たとえば「胡麻屋の辻」のような作品だと、「立派に京都や」といわれてほっとしていますが。
だけど、抜けないんですね。…東京。これだけ時間が立っているのに。 ちなみに中野です。
東京と京都のハイブリッドってのもいいじゃん、なんてね!!
コミックスを一時の様には読まなくなって、だいぶたちます。 ニ、三人の作家を除いて、まったくといっていいほど手を伸ばさなくなっていました。
井上雄彦氏の「バガボンド」は存在は知っていて、最初のころは読みましたがその後は全然読んでいませんでした。 昨日、全巻揃えようかと思ったきっかけをくれた、ある方から、是非にと勧められて読んでみました。
吉川英次の「宮本武蔵」を原作というか底本としての作品ですが、これほど精神性の高いものだとは。 10巻、11巻の柳生石舟斎との対決のあたりを読んだんですが、圧巻でした。
特に石舟斎と武蔵との語らいの場面の質の高さには唸らされましたね。 映画やドラマ以上の迫力。漫画でしか描き得ない心理描写でした。 講談社漫画賞、手塚治虫文化賞、文化庁メディア芸術大賞、これらを受賞されたのも頷けます。
今、自分の本にするための原稿をまとめている、自分の姿勢にも大きくかかわってきそうです。「為す事への姿勢」という意味で。
では作業に戻ります。 ではでは。
| 2004年01月12日(月) |
こんな本を読んでます。 |
PCの調子が悪くて、作業効率がかなり落ちています。 ほんとにいい加減、新機種を買わないとヤバイかもしれません。 酷使してますからね。
原稿をまとめるのに神経を使うかたわら、最近、やたらと本を購入しています。 白川静さんの「常用字解」。これは辞書です。だけどべらぼうに面白い。すでに重版されたものがでてますね。隠れベストセラーです。 ほんとうは「字解」のほうがいいんですが、コンパクトであるということで「常用」を。 おなじく白川静さんの「初期万葉論」「後期万葉論」。これは文庫ですが、急いではいません。
藤原新也さんの「なにも願わない手を合わせる」 「メメント・モリ」「全東洋街道」など、藤原さんの本は愛読してきました。 本の帯にこうあります。 …これまであらゆる祈りを拒否してきた著者が愛する者の死をへてたどり着いたもの。それは なにも願わない ただ、手を合わせる。…
ゆっくりと読み進めていますが、「愛するもの」とはお兄さんだということ。藤原さんをしてそのように決意させたものは、手を合わせる少女の姿であったということなど、噛み締めながら読んでいます。 舞台は四国。御遍路さんです。ただし、藤原さんはそのルートとは離れて自由に移動していますが。
たぶん明後日に来るのが玄侑宗久さんの「禅的生活」。これは新書です。新書なんだけど、玄侑さんが「わたしのこれまでは、この本を書くためにあった」とおっしゃる本なのです。天竜寺に修行された僧侶であり芥川賞作家である氏のエッセイが好きでいろいろと読ませてもらっていますが、その決定版だと思っています。
生活のなかで、平日の執筆は夜の数時間に固定されつつあります。リズムを壊すわけにもいかないのであまり長くはできません。それと、実はいちばん大事にしたいのは、瞑想の時間なんです。 直接、誰からも教えてもらったことは無いんですが、自分なりのやり方でやっています。いろんな本を読んだのと、実際にやってみてぴたりと来るやりかたでやっています。
「無心」になること、です。なんにも考えないし、考えようともしない。「自分を忘れる」ということです。実はまじめにやりはじめてから、そんなに時間は経過していないんですが、どんどん新しい事に気がついていきます。 「自分を忘れる」のが無心です。或いは無を感じるのがそうなのだとしたら、なにかに没頭するのも一種の瞑想ですね。歩くことも、掃除も、ゲームだってそうかもしれません。質はどうだかわかりませんが。
「自分を強調する」ところから離れる。それこそ「なにも願わない手を合わせる」という心境に近いものがあります。「なにも願わない」…実は無こそが、凄まじいパワーの根源なのですね。怖がらずにそう思えるかどうか。 自分から離れるためにどうするかというと、人のためだけを考えればいいんです。そうすれば無になれる。無になれば自分の奥深くの自分に素直になれる。 あるいは、呼吸の事だけを考えるのです。 まぁ、そんな事いってもつまらない人には、こんな退屈な事はないでしょう。
コミックスの「バガボンド」を全巻揃えようかと思っています。どうもいかがわしい偽宗教よりも、はるかに瞑想を語っている気がするのですよ。
ではでは。
| 2004年01月11日(日) |
Blame it on my youth |
昨日に引き続き、ジェシ・ヴァン・ルーラのトリオをよく聴いてます。聴けば聴くほどいいですね。ベースやドラムの細かなところまで聴きこみだすと、ますますトリオとしての音にはまっていく感じ。
で、時々おりまぜて聴いているのが、ピアニストのブラッド・メルドーのトリオ。その「Places」。この人達はホームがLAなんだけど、ジャケットみたらどういうコンボか想像つかないと思う。カヴァー・フォトそのものがポップアートというか、現代美術展覧会のチラシみたいだし、インナーをみたらトリオの三人がトイレに並んでいるから、パンクスかとも思える。だけど、出てくる音はダイナミックなピアノトリオの音。 こんなジャズピアノトリオもあんまりないですよ。
トリオというのは、ギターやピアノの音がもろにわかってしまうから、力のない人だと、ちと辛い。逆に抜群の音も聴かせることも可能なわけで、J・ルーラやブラッドといったところは後者の方です。
ブラッドは見かけはそんなだけど、哲学者のようなインテリで、インナースリーブにかかれた文章だけでも読んでいて楽しい。特にワルター・ベンヤミンの言辞からの文章はとても示唆ぶかいです。(丁寧な日本語訳ついてます)
本の原稿を一度止めました。ちょっと方向が違う気がしてきたんで。で、何故だかゴザンスの800字のほうを書いてしまうという…。
別に「短文」を書こうと思ってます。 昔のをもっと入れたら良いんだろうけれど、なんだかできないんですよね。 新しいのを書いたほうがましじゃないか、とか。 自分の原稿に対する自信どころか、疑心の方がおさまりません。
ま、腹を括るしかないですね。
”Blame it on my youth” J・ルーラのトリオのなかで、いちばんリピートしている曲です。
歩き、瞑想し、掃除をし、、、少しづつ整えていきます。 それで書ければいちばんいいのですが…。
参考CD ジェシ・ヴァン・ルーラ「TRIO」(ユニヴァーサル) ブラッド・メルドー「Places」(ワーナー)
「TRIO」、三人編成のバンド形態です。 圧倒的に有名なのはジャズのピアノ・トリオでしょうね。 ありとあらゆるピアニストがリーダーのトリオによる音源が世に出てきました。 いちばん耳になじんでいる形態かもしれません。
今日は、ジャズ・ギターのトリオを聴いていました。これが案外少ないんですよ。 ギター、ベース、ドラムスというトリオなんですけど、ジャズ・ギターのジャンルではほんとに少ないです。
ロックの方はというと、基本形態として圧倒的にギター・バンドが多いから、トリオとしても凄いのがありました。ぼくにとってはジミ・ヘンドリックス・エクスペリアンスとクリームですね。トリオだから各パートの楽器がとにかく浮き彫りにされて、アプローチはとてもジャズっぽくなってましたけどね。
Zepにしてもジェフ・ベック・グループにしても、ギター・トリオ+ヴォーカルという感じですね。日本にもスピード、グルー&シンキという凄まじいバンドが横浜にありましたが…。
で、今日何を聴いていたかというと、ジェシ・ヴァン・ルーラーというジャズギタリストのトリオのアルバム。オランダの人です。ヨーロピアン・ジャズですね。 この人のカルテットでの演奏は聴いていたんですけど、トリオは初めてでした。
いんやー、新しい!!これがファースト・インプレッション。 こんなジャズギターは聴いたことがないかも。ギタリストじゃないからスキルの事はわからないけれど、ジャズトリオというよりも、「バンド」という感覚の一体感、つまり三人が音の塊になっていく瞬間がとてもスリリングで、前のめりになるんですよ。
ジャズで、またギターがリーダーだと延々とソロパートが続くというパターンが多いんだけれど、三人が反応しあうかたち、ジャズで言う「インタープレイ」がとても斬新に聞えてきたんですよ。 「インタープレイ」はピアノのビル・エヴァンスが始めて、確立したスタイルだけれど、ギターではこんなのは初めて聴きました。
パット・メセニーやジョン・スコフィールドは、多くの音を重ねるか、ソロかというスタイルなんです。こういう音はだしてないんじゃないかなぁ。
なんだか曲の「つかまえかた」というか、「解釈」が、大物二人には悪いけれど、世代が違うという気がしてしまいました。
実はそれはピアノにも波及しています。え、ロック?と思うようなグルーヴを平気で出すピアニスト。次は彼のCDを聴きます。感想はまた明日。
と、こんな事をやりながら本の原稿を書いています。 書いてる時は無音です。ネット未発表というか、まったくの未発表のものもいれました。
とにかく作品を書ききること。それしか考えていません。
| 2004年01月09日(金) |
On The Road |
昨日、書いたジャズシンガーとは鈴木重子さんのことでした。 少しかすれた、低めのキーの、情感溢れる声が聴きたかったんです。 この日記にも何回か彼女か登場したと思いますが、歌唱の履歴は着実に 重ねられているようです。
いつもはジャズやスタンダードの名曲を歌う彼女ですが、「Breath of silence」では彼女のオリジナルが何曲か聞けます。日本語の歌もあります。このアルバムの中の「On The Road」と「かぜのみち」という曲が好きで、よく聴くのです。彼女の作詞作曲です。ちなみにプロデュースも彼女自身。
丁寧に丁寧に、音と言葉を孕んで、どこまでも届けようとする声。 乱雑にならないんですよ。 きいているとこちらの精神状態も整ってくるから不思議です。
この方の歌の魅力を語ろうとすれば、形容詞が層になってしまうでしょう。単純には捉えられない複雑な豊かさがあります。
徹底的な「スローライフ実践者」でもあって、ステージのトークなんかでは、いつも例の「ほわああん」とした受け答えで、聴いてる人を「ほわああん」としてしまいます。 だけれども、その「ほわああん」がめげないし、負けないし、胸をはっているのです。いつでもね。 強い人だと思います。
新年に送られてきたピアニスト、ウォン・ウィンツァンさんの事務所からのメールでは、そんな鈴木重子さんが今年はウォンさんと全国ツアーにでるとのこと。 これは凄いことです。ふたりのファンとしては見逃せないステージです。 ただ、京都は今のところ予定に入っていないんですよね。少しがっかり。
京都という街はこぶりなライブハウスが結構あるように見えますけれど、ある程度の収容力のあるホールとなると、ほんとに少ないんです。 これは京都新聞で拾得の寺田さんも語っていたけれど、だからある程度の音量を確保したいバンドや200人ではキャパが少なすぎるというようなプレイヤーは皆、京都を素通りしていきますね。名古屋か大阪になります。
平安神宮のウォン・ウィンツァン コンサートのように、あれだけの人をいれるとなると、京都だと野外になるのかな。でも円山の野音はロックには貸さないしね。 鈴木重子+ウォン・ウィンツァンならいけると思うんだけども…。 京都で実は今いちばん頑張っているライブ空間はお寺や神社の境内かもしれません。いやほんとに。
話がずれてきたけれど、重子さんとウォンさんのデュオは強力ですよ。せめてCDに音源を残してくれないかなと思っています。
と、いうことでまた夜にでも重子さんを聴きます。
| 2004年01月08日(木) |
機能を使ってみましょう |
5日とか7日の日記は、かなり硬いですね。うん、袋小路の突き当たりみたいな文章。 実は、ここに書いているのと別の日記があるのです。 と言ってもそれは皆さんには読めません。それはA4のノートだから。内容も自分しか読まないから、他人が読んでも訳がわからない?(はず)。
暗号とか使っているんじゃなくて、考えの途中をすっ飛ばして書いているから。だけどここ2回ほどの「散歩主義」は限りなくそれに近いかもしれないな、などと読み返して思ってます。
今日のタイトル「機能を使ってみましょう」というのは、エンピツの大幅アップした機能のうちのひとつ、「草稿保存」を使うということです。 一日のうちに落ちついて書ける時間が今、あまりないし、夜はもう、息もたえだえになっていますから、書けるときに書いておいて、夜にまとめてアップしようという考え方です。
今、午前11時10分です。 朝聴いたジャズはダスコ・ゴイコヴィッチ。ボスニア出身のトランペッター。70歳から、さらに輝きだした人です。(60年代からアメリカで活動としてます) さて、昨晩呟いたジャズシンガーを昼休みにでも聴ければと思っています。 これはねー、…もう少し秘密にさせといて下さい。 昔からこの日記読んでる人なら、「ああ、たぶんあのひとだろうな」とわかる女性シンガーです。日本のね。
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はい、現在、夜の10時20分です。 昼にジャズシンガー聴けませんでした。で、今聴いてるのはバンブー茂。 本のほうの作業で、とりあえず自分で目次を立てたぶんを全てプリントアウトしました。ファイルまるまる1冊…。
また、朱を入れていきます…。
だいたいの目安としてどれぐらいの作品を1冊の詩集に入れるものなのか、僭越ながら自分の持っている詩人たちの詩集を見なおしました。 すると、谷川さんも、井坂さんも、天野さんもみんな30篇前後なんですね。 それで100ページを越えるぐらい。
今、目次に挙げているのは27作品。短いのも長いのもあります。「詩」としてならあと三つ。それとも…。
本が欲しいというかたも、増えてこられました。ピッチを上げます。
| 2004年01月07日(水) |
わたしは何も持たない |
本の原稿の整理をしていて、いれるべきかどうかとても迷っている作品がある。 ベージ数の関係からいくと、余裕はあるように思えるのだが、「今、この本で」いいのかどうか。「今こそ入れなければ」いけないのかどうか考えている。 一度全部出してしまえばいいのかもしれない。そうすればはっきりわかるだろう。
それにしても今日は眠い。寒すぎて午前三時に目を覚ました。寒いことにかわりはないものの、もっと寒い日もあった。体調のせいかもしれない。 で、昼間はやたらと眠たい。たぶんアタマは夜型になりたがってる、というのがわかる。だけど体が許さないからね。daytimeになんか寝てられない。
予約してた歯医者に行って、歯石をぜんぶ取ってもらった。ついでにフッ素をつけて、消毒も。歯医者さんにはもう当分行かなくていい。歯痛で書けなくなるということは無くなったわけだ。
今日から「心太日記」というところで、毎月7日に「日記」を書かせてもらう。とりあえず第一回は、自分の言葉への自註となった。 「いのち」ということばを使った。なんだかんだと書きつづけていて、段々わかってきたことがある。とにかく「創る」こと。それしかないということだ。 次回からは「詩作品」か「掌編小説」にしたい。
何かによりかかるのではなく、少なくとも「作品」として完結させ、立たせなければ何にもならないということ。 それができるのならなんでもする。引っかかりがあるのなら、手を掛け足を掛け、掘ってみる。
ここのところの文芸誌に出ている短篇のプロットは、驚くほどゴザンスの各作品に似てきている。たぶん、シンクロが起き始めている。 流れができつつあるようだ。そんな中で書くぼくはなんだろう。 そういう自問はずっと続いている。 それでも「作品」なのだ。「創る」…本当にそれしかない。
何十年も生きてきたなかで、これほど自分を掘る場面に直面しただろうか、と思う。たぶん10代にけっこう本質的にそういうモノがあったように思うけれど、言語化できなかった。意識化できなかったということかな。 だからおもしろかったし、夢中になれた。 今はそういうわけにはいかない。それは人を傷つけるし、それでは何も生み出さない事を知ったから。
とにかくぼくの場合は書いてみること。そこにどこまでもこだわりつづける。 「声」や「音」を探すのも当然だ。 今度一人のジャズシンガーを聞く。彼女の「気」に触れたいから。 何も感じないかもしれないし、何か感じるかもしれない。
それが何かをうみだすのか。自分に問う日々は続く。
| 2004年01月05日(月) |
よかった。動いた…。 |
サイトのほうで、購読しているゴザンスのメルマガの感想を全部書いていくっていうのが、自分で決めたポリシーだったんだけど、ここ2日ぐらい書けなかったんです。 原因は自分の本の原稿。結局、焦点が曖昧だから、創っていて不安なんだとわかりました。 ぼくは「コンセプト」という言葉があんまり好きじゃないんです。「テーマ」という言葉を使います。 「コンセプト」つまり「概念」という意味なのだけれど、これによって切り捨てられる部分に結構、面白い芽や、大事なことがあったりするんです。 「テーマ」というのはあくまでも「くくり」であって、ひとつの絵を完成させていくために、「色を重ねていく」ということに似ています。
実は日本画家のかたに「色を重ねる」ということばを教えてもらったのです。(ここを読んでいる人にも伝えておきましょう) つまり、作品の中で色を表現したいとき、「色を作る」とは言わないんです。何人かは言う人もいるだろうけれど、ほとんどの方は「色を重ねる」と言います。 「混ぜる」とはいわないんですね。絵をやっている人にはあたりまえなのでしょうけれど。 よく音楽でもミックスという言葉を使うけど、あれも「混ぜる」んじゃなくて「重ねる」んじゃないのかな。
前置きが長くなったけれど、つまり作品を創るときに、一つのコンセプトに縛るというよりも、一つのテーマ(色)に向けていろんな色を重ねていく、ということなんです。簡単な事なんですが、なかなか気がつかなくて…。
最初に詩の駆動としての「光函」というコンセプト(概念)をたててしまったものだから、がんじがらめになって硬直化していたようです。 「重ねる」ということばに助けられました。
で、ある本で閃いて(とある辞書です)、一気に本全体が動き出しました。 作業を進めます。
ところで、明日、1月7日にこのエンピツの中の他のダイアリーに原稿を書かせて頂きました。「心太」という日記です。日替わりで執筆陣がおられて、ぼくは毎月 7日を担当させていただきます。 編集人はワタナbシンゴさんです。 読んでみてください。 こちらをクリック 心太日記
| 2004年01月04日(日) |
後期ウエス・モンゴメリーの世界 |
今日は素晴らしい晴天。にもかかわらず外出はできないという日です。 ま、いろいろありましてね。
で、なんだか朝からウエス・モンゴメリーを聴きたくなって、朝に聴き、今また聴き。たぶん夜にも聴くでしょう。
ウエス・モンゴメリー。たぶん彼のようなギタリストは二度と現れないでしょう。天才ジャズ・ギタリストです。 朝から聴いたのはピアノのウィントン・ケリーの絶頂期のトリオ(このトリオがそのままマイルス・デイヴィスのコンボのリズム隊でした)とのライブ。「smokin‘ at Half Note」というタイトルです。それから、ジャズギタリストとしての白眉ともいうべき「インクレディブル・ジャズギター」。こちらはトミー・フラナガンとやってます。 まぁ、最初聴いた時は言葉を失いました。指の速さだけじゃなくてフレージングからなにもかも。最近、やっと落ちついて聴けるくらいです。
ミュージシャンではないぼくでも凄さはわかるといいきれます。あるいはジャズギターを初めて聴く人でも、彼の音は一度聴いたら忘れられないと思います。ほんとですよ。親指から弾き出されるあの音…。
と、彼の代表作を聴いていって、(ほかにも「Full House」というライブの傑作があります。)やはり亡くなる前のヴァーブとA&Mに残した作品に行きつきます。
1966年 California Dreaming 1967年 A Day in the Life 1968年 Road Song 1968年 Road Song発表の1ヶ月後、心臓麻痺で死亡。
思えばイージー・リスニングだとかなんだとかつまらない論評がされたものだと思います。これだけのギターを弾ける人がいますかね。つまりなにを弾いてもジャズになる。ジャズにしてしまう人。ウエス流のジャズに。
キーワードはひとつ。 「歌心」です。
彼の遺作「Road Song」がぼくの見方ではいわゆるフュージョンの先駆けとなりました。彼がもう少し生きてくれていたら、素材の組み合わせだけの音楽じゃなくて、ジャズか歌心を広げるためにエリアを広げていくというフュージョンにもっとリードしてくれたのではと思います。個人的に。
好き嫌いはひとそれぞれだけど、ぼくはこの後期ウエス・モンゴメリーを高く評価しています。 たしかにポップな味付けの各作品だけれど、よく聴けばもう抜群のギターだし、彼が選んでいる曲のどれもが美しいメロディーラインを持っています。 「カリフォルニア・ドリーミン」はママパパで有名な曲。ほかにもR&Bの名曲「サニー」、ポップチューンの「バルセロナの風」。 「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」はビートルズのサージェントペパーズだし、「エリナー・リグビー」もビートルズ。あ、「国境の南」も入ってます。 「スカボロー・フェア」「グリーン・スリーブス」「イエスタディ」…
たぶん「男が女を愛する時」とか「花はどこへ行った」とかの題名を聴いたら顔しかめる人がいるんだろうけれど、まぁまぁまぁ、どれ聴いてもウエスですよ。
それにそれぞれに収められているウエスのオリジナルがとても美しい。 「SUN DOWN」「Mr.Walker」「ANGEL」など。 ポップがいやな人はこういう曲だけでも聴く価値はありますね。
あんまり語られていませんが「カリフォルニア・ドリーミン」にはマイルス・ディヴィスがバッキングしているし、若かりしころのハービー・ハンコックはウエス・コンボには欠かせないピアニストでした。ロン・カーターも参加してます。 バックの演奏もご機嫌なのです。
カテゴリーは必要だとは思うけれど、孤高の天才というのはもっと根源的に「歌」を求めているんじゃないのかな、と。ウエスやマイルスの生涯を思うと、そんな事を考えてしまいます。
参照CD 「California Dreaming」(Verve)(邦題「夢のカリフォルニア」) 「A Day In The Life」(A&M) 「Road Song」(A&M)
正月の三が日は、まぁしかたがないんですよ。 アルコールに溺れる人々が現れる、と。 こちとらは、細かな用事がごちゃごちゃとあるし、「待っている」モノたちもいるわけで、正直とんでもないんだけどね。ぼくは一滴も呑めないしね。 まぁ、正月だからせいぜい酔っ払ってくださいませ。
で、みなさま、ぞろぞろお帰りになった後の戦場の如きテーブルと洗い物。 いま、それが終わったところです。 「待っている」モノたちの用事も終わり、PCに向かいました。
新年早々、こちらの「みなさま」は気合が入っていて、新着の原稿がぞくぞく到着。読むのも大変だけど、刺激を受けますね。 書くことに集中しきれる時間というのは、創り出さなければならないから、できる時には一気に、という感覚があるのでは。ぼくにはありますけれど。 書くことに関しては今年は自分らしく、構えないですらっと出てくるものをもっと大切にしたいと思ってます。
今、バックで鳴っている音楽は大貫妙子さん。「TCHOU」という古いアルバムなんですが、これ好きなんです。 リオデジャネイロ録音もある、リズミックでサンバ色の強いアルバム。 「永遠の夏」のようなバラードもあります。
宴のあとに一人でPCに向かっていて、なんだか気持ちが洗濯されるような音楽です。 今日来た人たちはみんな本を買う人たち。婦人公論に出ていたぼくの詩をじっと読む人や、読んだあとに「これは西陣織会館に100冊やな…」などと恐ろしい冗談をいう本屋さんなど。
さあ、いよいよです!!
「散歩主義」をごらんの皆様。 あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いいたします。
穏やかに年が明けました。 今年も近所の神社に初詣しました。 朝、通りにも境内にも人っ子一人いない、しんとした空気の中を歩けてよかったです。
なんといっても正月は駅伝づくし。きょうは群馬県で全日本実業団駅伝がありました。通称「ニューイヤー駅伝」というとこの駅伝のことです。 コニカミノルタの圧勝と思われたんですが、中国電力の逆転勝利。世界陸上のマラソン代表が三人いるんだから強いのはわかっていたんですが、ブレーキの選手がいなかったというのが勝利の要因でしょう。
明日からは箱根駅伝です。ある意味こちらの方が面白いです。 ひとり約20キロ走るという過酷なレース。しかも箱根の登りと権太坂のある長丁場の2区をはじめ、コースがバラエティに富んでます。 この駅伝はひとりが躓くとあっというまに置いていかれるし、チームそのものが棄権せざるを得なくなる場合と常に隣り合わせという、駅伝のもっとも本質的なスタイルを持ったレースといえるでしょう。 学生ですがスターも悲劇も生まれます。
ところが、箱根で鳴らした連中も今日の実業団では、やはり社会人のキツイ洗礼を受けます。力の差は歴然としてますね。 やはりオトナはすごい。なんてね。
明日、明後日の箱根駅伝。みかんと原稿用紙をテレビの前において過ごそうかな。 原稿用紙はちとまずいか…。
スーパーやデパート、CDショップなんかも明日から営業するところが多いですね。うちの近所のスーパーやコンビニなんかは休みなしです。 ジェシ・バン・ルーラは結局ネットでたのみました。 ネット注文の本は3日に本屋着です。もうあっという間ですね。
本の原稿に集中していきます。 毎日、何か書いていないと不安でしょうがない気分もあります。二度と書けなくなるんじゃないかというのはいつも思いますね。
「ルーティーンを壊さない事」 まるで呪文です。
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