冬の底のような寒さが続きますが、家の白梅が咲き始めました。 季節は進んでいます。
昨日から、開いた時間にはSEALの新作「システム」を聴いています。 相変わらずの渋い声。ただアレンジとプロデュースが大胆にデフォルメされています。エレクトロニック・ポップというべきか。 プロデュースがスチュワート・プライスによるものだから当然といえば当然。
地の果てまでもぶっ飛んでいくダンス・ビートに満ちたアルバムです。
そんなSEALから力を得て、連載の原稿を書きました。 全然「ぶっ飛ばない」内容です。ただ前を向くように、と。 明日、「おとなのコラム」に掲載されます。
今朝の京都新聞を読んでいて、あらあら、と思わず目の止まったコラムがあった。京都で注目される人が取り上げられる「この人」というコラムである。
取り上げられていたのは「まぐまぐ」の新社長、横尾茜さん。 「まぐまぐ」といえば「ゴザンス」系の人なら誰でも知っているし、メルマガ発行者、購読者なら誰でも知っている会社だ。 創業者はかの有名なあの方である。
昨年11月に創業者からバトンを渡されたのだという。29歳。
今日「京都余情」を「まぐまぐ」のサーヴィスで配送したところだったので、ふーむこの方がボスでありますか、とじっと読んだ。 「埋もれた才能を世に出すお手伝いをしたい」とのことだった。
(メルマガも大事だけれど「テキスポ」に早く何かをアップしよう。)
もう一つおもしろかったのは桜庭一樹さんへのインタヴュー。 自分が「小説オタク」であると告白し、とても素直で力強い言葉がこちらに飛び込んできた。
(ぼくも渾身の作品を書こう。)
2008年01月23日(水) |
事実は小説よりも「本当に」奇なり。 |
■ポール・オースターの「トゥルー・ストーリーズ」が文庫化された。 ぼくにとっては待望のことである。
「偶然」「シンクロ」「偶有性」といったものが現実を作り上げるのに大きく作用している、と感じる人や、「事実は小説より奇なり」ということが本質的な真実だと思う人は、とても励まされると思う。
ポール・オースターは、現実がいかにダイナミックなものかを鮮やかに示してくれている。 世界は人の予測なんか簡単に裏切るし、世界に定まった意味なんかないのだ。
ぼくはこの本を読むと元気になる。 この本を読むと物語を書く作業にに向かっていけるのみならす、生きてることに素直になれる。 何度読んでもわくわくするエッセイ集だ。
■最近よく読んでいるサイトは「日経ビジネスオンライン」の様々なコラム記事。とにかくおもしろい。
http://business.nikkeibp.co.jp/index.html
2008年01月19日(土) |
たまには国文を想いだして…。 |
たまたま友人から借りた中村真一郎「源氏物語の世界」がことのほかおもしろくて、あっという間に読んでしまった。
昭和50年の新潮選書。読みやすい体裁ではあったけれど、書かれていることは急所をついていて、肯くことしきり。
中村氏は仏文学が専門である。サルトルなどの訳が有名なのだけれど、日本の王朝文学を伝統として蘇らせるべく著書を何冊か書かれている。
ぼくは「王朝文学」云々ということには関心がなくて、中村氏か指摘する世界文学の中の「源氏物語」の位置というものにとても興味をひかれた。
「源氏物語」がヨーロッパで訳出された時、ヨーロッパではいわゆる「反自然主義」の運動が盛り上がっていた時であり、つまり並び称されていたのがプルースト「失われた時を求めて」だったというのである。 欧州における「源氏物語」の位置はたぶん今でもあまり変わりないのであろうか。
また中村氏による国文史の概括もおもしろかった。 単純にいえば「源氏物語評価盛衰史」が我が国の小説のメインストリームをなぞっているいるように読めるのだ。
漱石も鴎外も「源氏物語」には一切触れようとしなかったし、そもそも明治期においては天皇に対して不敬である、とみなされていた部分もある。 まして、継母、藤壷と愛しあってしまうという最初の巻は無視され続けたともいう。(『道徳的に見れば最初から最後までろくなことは書いてない』同書より)。
また、あまりにも巨大な物語であるが故に、亜流がいくつも生まれては消え、徹底的な審美、唯美に彩られた世界を懐かしみ、幻想によって追体験しようとする公家どもが呆けてしまっては、ぼろぼろになってゆく様も中村氏はきちんと押さえていて、ざあっと見てみると武士の台頭から始まる「宗教」の時代のなかで、よくぞ命脈を保ってきたものだと想うのだ。
江戸時代はどうか。 やはり、ごく一部の人にしか読まれていなかったのだと想像する。
現代は多くの作家による口語訳が書かれ、別格の存在としての地位は揺るぎないように思える。
評価は文芸の流行によって左右されたものの、書かれた頃からのライバルである清少納言「枕草子」と裏表で日本文学にの原点のひとつであることは間違いないだろう。
中村氏はこう書いている。
「話を文学だけに限っても、日本文学史の背骨が勅撰集であることは明白であるし、散文芸術においても、「源氏物語」と「枕草子」の対立が、伝統となって現代まで繋がっている。たとえば私小説的モラリストの系譜とフィクションによるロマネスクの系譜とが、微妙に交錯しているのが、今日の日本小説の姿であるが、前者の祖先は「枕草子」であろうし、後者の源泉は「源氏物語」にあると考えても不自然ではないのである」
さて、 この中村氏の本が書かれてから40年近く経っている。果たしてその後の日本文学はどうなったか。ぼくには、とてもじゃないけど言えないけれど、流れというのは流れてしまってからでないと見えてこないようにも思えるし、流れのただ中にいると何も見えないんじゃないかとも思える。 それは評論の仕事になるのだろう。
ぼくが源氏物語に惹かれるのは、やはり「心理」につきる。いい加減うんざりする時もあるぐらいだけども…。 「小説」として破格であり巨大だといつも思うのだ。
今年は「源氏物語」が世に出てちょうど千年にあたる。
「おとなのコラム」の連載、更新されました。 「爆風」とという作品です。
畸編小説 「樫の樹に帽子」アメブロにアップしました。
中村真一郎「源氏物語の世界」(新潮選書)を読んでいます。とてもおもしろい。こういうことを書く人が今はいないからか。 読みやすい。昭和50年の本です。
この冬初めての雪らしい雪が降った。 ここのところ寒い日の続く京都だったから、空が堪えきれずに降ったような感じがする。
昨日、山田玲司「非属の才能」(光文社新書)を読んだ。おもしろかった。語り口に説得力がある。情報の繋ぎ方に少々「力わざ」を感じたものの、読み切らせてしまう力がある。
つまりは「自分らしく生きることへの強力な応援メッセージ」なのだけれど、主張のメインは「群れるな」ということ。
特に創造的に生きることをめざすなら「できた作品は人に見せるな」と強く主張する。インターネットには手を出すな、とある。ケータイなど問題外である。
ネットに作品をだしても、罵詈雑言を浴びるだけだ、と。 なるほど、山田さんは優しいさ人なんだな、と思う。 ここまでばっさりとネットを否定されたら、気持ちがいいくらいだ。 いやほんとに。
彼の意見、メッセージを大切にしておきたいと思う。
ぼくの方は、彼の意見の「真逆」でネットに作品を発表しつづけてきた。 そんな中で動きが一つ。 「おとなのコラム」で編集部がぼくの作品の一つを縦書き表示をしてくれた。 それがこちら。「あかるくて、洗われていて」
同じく連載を続けている田川ミメイさんの作品も縦書きで表示されている。 それがこちら。
是非、一度ご覧下さい。
2008年01月11日(金) |
一年遅れのイチロー・スタイル |
ぼくの回りで二日に放映された「プロフェッショナル」のイチロー・スペシャルがいまだに話題になっている。 結論から言えば、2007年のイチローのテーマを一年遅れて踏襲しよう、という「決意表明」がぼくの回りでよく聞かれるのだ。
2007年のイチローのテーマは「プレッシャーから逃げない。むしろその中に飛び込んでいく」というもの。 彼はメジャーリーグで7年連続200本安打という大記録を達成したのだけれど、無論、とてつもないプレッシャーに押し潰されそうになりながらクリアしてきたわけで、去年以外では確かに170本を超えたあたりで、ぱたりとあたりが止まっていた。 それでも達成するのだから凄いのだけれども、その達成への苦しみにどう取り組むかを考えたのだった。
そこで、なんとかリラックスするように様々な手だてを講じながらのこれまでの達成と、プレッシャーにがちがちになりながら真正面からそれを受け止めての達成とでは「質」がまったく違うのではないか、と自分の中で感じ、意識し、そして取り組んだのだ。
(つまり、それをやろう、という人が多いのだ。)
2007年をこえて、番組で本人は得たものは全然違うといっていた。 確かにイチローは一段と「強く」なったように思う。
精神論の限界を語り、技術と肉体の向上と維持管理に細心の注意を払う。そのうえで語られる「目に見えない何かがある」という言葉がとても重く、そして魅力的だ。 プレッシャーとまともに格闘したからこそ出てきた言葉なのかもしれない。
ぼくなんかはむしろ 彼の肉体へのこだわりというか、作り上げ方に興味があって、分厚い胸板も太い筋肉もいらないかわりに、できうる限り細く、しなやかで、しかも強く、感受性の高い筋肉をつくるという方に興味がいく。 それはまるでイチローが使う極細のバットであったり、超軽量のシューズに共通する感覚だと思うのだ。
また、プレッシャーに立ち向かうために、精神論ではなく、時間の管理と肉体の所作を徹底しているような所に興味を持った。
番組で茂木健一郎さんが、無意識をてなづけるには肉体から入っていく方がいい、というかそれしかない、ということをいっていた。 無意識から何かを抽出する、引き出すには言葉は届かないのだろう。 というか言葉はすでに意識そのものだから、入っていきようもないのだ。
野球に無意識、とは。 イチローは打席でヤマをかけない。「来たどんなボール」にも対応するのだ。意識していては間に合わない。「感覚」がいかに大事か、ともいえて、イチローはそれを研ぎ澄ましている。
そしてイチローがいう「目に見えない何か」を掴むためには、脳ではなく身体から入り、表面にでてきたものを脳で処理する、とぼくは理解した。
茶道でもそうだし、剣道もそうだ。 一度掴んだ感覚を、もう一度呼ぼうとするなら、呼吸と姿勢と所作で自分を「思い起こしていく」道筋をつくるしかあるまい。 イチローはそういうところをとても大事にしているし、ぼくもそれはとても大事なことのように思える。 理由は簡単。「道しるべ」はつくっておくべきだとおもうから。
さて、ぼくたちが一年遅れのイチロースタイルを実行しようという時、当のイチローの今年のテーマがスポーツニュースにでたびたび報じられている。 それは「楽しむ」ということ。別のインタヴューでは「快楽」という言葉がイチローの口からでていた。 さあ、どうなるだろう。イチローのスタイルはいつもスリリングでわくわくさせてくれる。
さて、自分のことだけれど、メルマガの「再開準備号」を発送した。 やるっきゃない。
スピーカーコードを変えても左スピーカーからの音がおかしいので、アンプ本体を分解して掃除。接続の悪そうな所はあっても素人では無理。 たぶんどこかに油性のゴミがついたか、カバーや基盤そのもののガタかもしれないので、塵を吹き飛ばし、拭えるものは拭い、カバーをもう一度組み直した。 おかげでようやくまともに音が聞けたけれど、もうそろそろ寿命だとおもう。
直って最初に聞いたのが、バグダッド・カフェのサントラ、シールのベスト。それからディアンジェロ。
二日の「プロフェッショナル」イチロー・スペシャルをもう一度ビデオで見てから、小説のことを考え始める。
2008年01月09日(水) |
春のよう/「重力ピエロ」 |
ぽかぽか陽気の日が続く。これも温暖化のなせる技なのだろうか。 すぐに寒気が来ると言うけれども…。 人類に残された時間はあと80年だという説もある。こんな時にどんな文学が可能なのだろう。音楽にしても美術にしてもそうだ。
今日、伊坂幸太郎「重力ピエロ」を読了。とてもおもしろかった。込められている「情報」と「感情」の、この質にしてはとてもよみやすい。
作品中、なんどか繰り返されたネアンデルタール人とクロマニヨン人のエピソード。何万年か共存した後、ネアンデルタールは絶滅する。どう考えても「大虐殺」があったんだ、とする認識は、クロマニヨンの末裔たる我々の現在の所業に鑑み、肯く以外にないように思う。
善と悪、遺伝子と絆、作品中でクローズアップされる、それらの二者択一を迫る生き方は、それこそ「重力」になぞらえることもでき、重力に逆らうようにみえるサーカスの空中ブランコのピエロのように、我々は生き方を選んでもいいんじゃないのかという問題提起があった。 それこそ「大虐殺者」の遺伝子を持って生きていたとしても、という含意もある。 本文中に何度もでてくる「自分で考えろ!」という言い方は、ふいに読者に向いてくる。
ところで。 経営の苦しい弱小書店にずっと本を注文している。 苦しいにもかかわらず無料で配達してくれる。 今日、吉行淳之介「美少女」伊坂幸太郎「アヒルと鴨とコインロッカー」を注文した。
■伊坂幸太郎「重力ピエロ」を読み始める。■シガー・ロス「Takk」を聴く。■ステレオの左スピーカーの調子が悪いのでいろいろと調整する。なかなかよくならない。■ヘッセ「シッダルタ」ミラン・クンデラ「不滅」吉田健一「時間」…勉強する本が山積みだ。
■「重力ピエロ」のような作品は、今までの読書傾向にはなかった作品だ。こういう本を読んで、どういう影響が出るんだろうか。どんどん読んでいるところ。 ■ウエス・モンゴメリー「ロード・ソング」を聴く。■ライトニン・ホプキンスのブルースで一日が終わる。
やはりブルースを聴くタイプの人間なのだ。
久しぶりに一緒に外でお茶を飲もう、ということで平野神社近くのグレープフルーツゼリーのおいしい店に行った。
歩道を歩いていると、母と妹の後ろ姿が似ていることに気がついた。親子なんだから当たり前なんだけど、こんなに似ていたか、と改めて思い知った次第。 店の中ではお互いのことをぶつぶつ言うけれど、性格までそっくりになっていることに気がついた。
ロンドンと京都。ネットがなければもっと疎縁な雰囲気になっていたかな、と思う。ちょっとお茶でも行こうか、なんて言える関係はなんだか嬉しい。
年が明けました。 当然のことながら、今年はいつになく静かなお正月。 犬と猫の相手をしつつ二日まで新年4日に更新される「おとなのコラム」の小説を打ち込んでいました。
年末に宇多田ヒカルのCDをもとめ、新年もよく聴いています。 今、シャンプーのCMのバックで流れている曲が聴きたいんだけれど、その発売はまだ先のようです。 (着うたで先行配信されてますが)だけど”Beautiful World””Kiss&Cry””Fly me to the moon”のカップリングもなかなかよくて、これだけ聞き込んでいるのはファーストアルバム以来です。
彼女のウェブサイトではほとんどのアルバムの一部が試聴出来るので、今まで聴いていなかったシングルやらアルバムの「さわり」を聴いてみました。”Deep Rever”と波長が合いそうです。
今年の目標は「英語」。勉強し直そうと思います。 イギリス人が親戚になり、それがどうも春頃京都に押し寄せてきそうなので…。ぼろぼろの英語力が元に戻るかどうか…。 特に会話が問題。耳を英語に慣らしていかないと。
それと、ヒッキーじゃないけど英語圏の小説は英語で読まないと「翻訳待ち」になってしまう、というのはずっと思っていたことでもあって、そちらの勉強のほうが取っつきやすいかな、とも思っています。
英会話は苦戦しそうだなあ。
連載が更新されました。 こちらです。
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