2011年04月28日(木) |
「デス博士の島その他の物語」を読み終えた。 |
ジーン・ウルフという作家を何故知ったのか。 読み終えて考えてみると、全く思い出せない。 ダン・シモンズの作品を探していて、PC画面の「こんな本も…」というところで見つけたのか、誰かが「呟いて」いたのか…。 思い出せない。
いずれにしても、よくぞこの作家に出会えたものだ、と今では自分の幸運を思うのだった。
そもそもが「SF」というジャンルを意識したことがない。意識して読んだことがない。 ぼくにとって小説はやはり「空気」と「手つき」なのだ。
帯に書かれた但し書きに従えば、「SF作家」としてはウイリアム・ギブソン、ダン・シモンズ、バラード、筒井康隆しか読んだことがない。
本当にどういう経緯でウルフに行き当たったのだろう。 それこそ「スペキュラティヴ・フイクション」でも書けそうな謎。 読んでるあいだに「3.11」があったせいか。
この本はウルフの中短編集。例によってまったく「SF」と考えることもなかった。 むしろ併読していたエドガー・アラン・ポーに 「効果を考えてから小説を書き始める」 という一文があって、そこにに通じる構成の手さばきの鮮やかさを強く感じた。 それはマグリットの抽象絵画に感嘆を覚えた時とよく似ている。
作品は 「まえがき」 「デス博士の島その他の物語」 「アイランド博士の死」 「死の島の博士」 「アメリカの七夜」 「眼閃の奇蹟」 からなる。
まずこの「まえがき」が凄い。僅か13ページ。最後の数行ででアタマの中がリセットされる。 そして続く「物語群」に突入していくわけだが、そこでは時間と登場人物が入れ替わり、立ち替わり夢とうつつの境界が融けていくのだった。
そして読み終えると、全く違う読書経験をした自分を見つけたのだった。 ちょっと今までになかった読後感だ。 「アタマを書き換えられた感」とでもいうか。 それが愉快。
「エモーショナル」という言い方は陳腐かな。 だけど物語は感情を撃ってくる。かなりクールに。 そんな「物語」が創り出す「空気」を存分に楽しんだ。
で、読後に「これSFでいいんだよな」と思い、じゃあ「SF」ってなんだろう、とまたしてもしつこく思ってしまった。
朝吹真理子の「流跡」は?丸山健二の「日と月と刀」は? サイエンスではないにしろ「スペキュラティヴ」とはいえないか、などと。
ツイッターでこの本を読んでいると呟いたところ、「ゲルベロス第五の首」を是非、と先行して読んでいる方から教えて頂いた。
もちろん読みます。
2011年04月05日(火) |
「新冷血」連載50回を読み終えて。 |
サンデー毎日で高村薫さんが連載中の「新冷血」が第50回を終えた。 衝撃的な殺人事件を中心にしてもつれた糸を解すように高村さんは前進していく。 これまでの「新リア王」にしても「太陽を曳く馬」にしても、なんと難しいテーマに挑むのだろう、と畏敬の念をもって読ませていただいたが、今回はよりその感が深い。 出口はまったく見えない。
「犯人捜し」だとかトリッキーな設定とは無縁の小説だ。高村さんの作品は以前からそのようなミステリではない。むしろ殺人者の内側へ内側へと入り込んでいく。そのことを書き尽くす。
詳細に書き込まれていく犯罪者のディテールは、今回もまだまだ執拗に重ねられていく。作者のそのまなざしの先にはたぶん「21世紀の日本人」がいる。今回読んでいて不意にそんな気がした。 (設定は2002年暮れから始まる)
「思考停止」と書いてしまえばそれまで。 はて、そうしなければ生きていけない人間をあまりに造りすぎてきた時代であり国家ではないか。 そんな思いがする。 或いは 「考えると生きていけない」といってもいい。
そして「人」をいとも簡単に殺すのは、なんの動機も持たない「思考停止」だ。 高村さんは「思考停止」の後ろ側にまで手を伸ばしていく。まるでメスのような言葉で。
ところで今、この国は未曾有の原発の大惨事に直面している。その背後にいくつもの「思考停止」が重なっていたようである。
後戻りはできない。 作品では人が殺され。 現実では天災と人災が重なりあって人々を蹂躙している。
阪神淡路大震災を経験されて高村さんの作風は変わった。 現在の連載途上でのこの大震災と原発事故が高村さんに突き刺さっていることを想像する。
この連載は長くなるだろうか。
果てしない…。 砂漠の果てを見つめているようだ。
まだ沈丁花の香りが残る路地をゆくと、レンギョウが黄色の、続いてボケが桃色の花を咲かせていた。 目を上げると遠くに枝先が染まりだした桜もみえる。 さらに歩いていくとコンクリートの門柱の上に白いプラスチックの小さな鉢が置いてあり、高さ10センチほどの桜が満開になっていた。 (部屋にいたんだな) と、立ち止まり心の中で呟く。 (もう散るんだものな。まだ早いけれど、そうだなこんな南風の中ならいいな) と、そこまで思いめぐらしたとき、脚はもう踏み出されていた。言葉を踏みにじるようにして。
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