2003年06月05日(木) |
『ancorau foje2』(蜃気楼前提ほぼオリジナル北条小ネタ) |
分娩室に入ると、赤ん坊の泣き声はさらに大きく、氏政の耳に届いた。
甲高い、よく通る声。 生まれたばかりの命を象徴するかのような強さと、庇護なしではまだ生きてゆけぬ、弱々しさも感じさせる声。
氏政は看護士が手渡す白衣を殆ど上の空で身につけた。 そうして妻が横たわる診療台に近づくと、妻の馥子は、少し疲労した様子を見せながらも、夫の姿を見つけると微笑んでみせる。 その笑顔は、氏政がこれまで見てきた彼女のそれとは、また違った美しさを見せていた。 「…ありがとう……」
そうとしか、かける言葉は見つからず。 しかしその一言で、妻はまた微笑み、そして涙を流した。
「ほ〜ら、お父さん、元気な赤ちゃんですよ〜」 看護士が、既に産湯を使わせ、白いおくるみにくるまれた真っ赤な顔をした赤ん坊を氏政の前に差し出す。
赤ん坊は、泣いていた。
その小さな手を握りしめ、全身の力を使うかのように、泣いていた。 「生きている」――と、自ら、叫んでいるようにも聞こえた。 この小さな体のどこに、このような大きな声を上げる力があるのか――
看護士の介添えで、そつと、その命を氏政は腕の中に抱いた。
――軽い。
こんなに、小さな命。 こんなに、頼りない命。 自分と妻の血を分けた、唯一の存在。
そして――遠い過去、心の奥のどこかで恐れていた、煌めく眼をした――末の弟。 末に生まれた者に、嫡子たる己の苦しみなど理解できぬとつきはなした。 その力に嫉妬した。利用することしか考えなかった。 自分の心の中で、澱のように溜まっていた存在。
しかし…それは。
今、腕の中にある。
「…小さいな……」
…そう、まっさらな命として、ここにいる。
氏政は、そっと赤ん坊に顔を近づけた。 耳に響く鳴き声。 力一杯息を吸う息吹きを、頬に感じる。 少し長い産毛が、唇をかすめる。
氏政は、我知らず、微笑んでいた。
――これは、命。 たったひとつの、守るべき命。
「おかえり…三郎…」
氏政はそう囁き、生まれたばかりの我が子を愛しげに見つめていた。
「あなた……三郎は…女の子ですわ。ですから、女の子の名前をつけてあげてくださいね」 馥子の言葉に、氏政は振り返る。 三郎の魂を持つ、彼の転生した存在だからと思いこんでいたため、彼女の言葉は以外だった。
「そうか…女か」 泣きつかれてきたのか、腕の中の赤ん坊の声は少しずつ弱くなってくる。 何も知らず、何もこだわらず、父親の腕の中にすべてをゆだねて、眠りに落ちようとしている、小さな命。 上下する胸。口が、ほのかに動いている。 新しい命となって。そして今回は性別も変わって、すべてをやり直させてくれるというのか。 前生の、掛け違えられた釦のようにねじれて歪んでしまった、絆を。
――ならば。
氏政は目を閉じた。
「ならば……この子の名前は、『高耶』としよう。大地に根を張り、天に向かう巨木のように、高みを目指すように。自分より大きな存在を、ありのままに感動して受け入れられるように」
「『たかや』……ですね?よい名前……」 馥子はふわりと微笑んだ。氏政も微笑み返す。
『高耶』は、父の腕の中で、うとうとと眠りにつこうとしていた。
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