2003年09月09日(火) |
『マイ・フェア・レディ 4』(女の子ヒカル オガヒカ) |
一時間後きっかりに、緒方は呉服店『あつみ』に姿を現した。
「…さぁて、少しは見られるようになってるといいがな」 店に入る前に煙草を一本ふかしつつ、緒方は呟いた。 あの伯母の見立てと着付だから、おそらく間違いはないと思うのだが……。およそ色気とはかけ離れたような普段のヒカルを思うと、まぁあまり期待するのも酷か、という気もする。
(…期待?何をだ?)
緒方は、自分自身の思考が思わぬ言葉をはじきだした事に、改めて驚いた。 あんな子供に、何を期待するというのか? 何を期待したがっているのか?
緒方は一瞬眉をひそめ、そして苦笑いとともに紫煙を吐き出した。 そして半分ほど吸った煙草を携帯の灰皿を押し付け、ぱちん、と蓋を閉じる。
「ありえんな」
そうひとりごちた時、彼の背後から声がかかった。
「ちょいと精ちゃん!店の中で煙草吸われるよりゃマシだけどさ、吸い殻をそこらに捨てなかっただろうね!」 「伯母さん…流石にそこまで俺もガキじゃありませんよ」 呉服屋の女将である美登里は、店の中で煙草を吸われるのを非常に嫌う。反物に匂いがしみついてしまうのと、うっかり火のついた灰でも着物の上に落とされた日には、目もあてられなくなってしまうからだ。 美登里自身も煙草を吸うのだが、店に出ている間は絶対に吸わない。 緒方が学生時代いくら煙草を吸っても何も言わなかったので、気を許して店の中で煙草を咥えた途端、怒鳴り声とともにものさしがうなりをあげて飛んできた。 店の中がだめなら、と少々ムキになって店先で煙草を吸い、その吸い殻を足下に捨てようものなら、水が桶ごと飛んできた。 そんなこんなを繰り返し、緒方のヘビースモーカーなりの「マナー」は確立されて いったのである。
「そうだよー、美登里さん。緒方さんは白スーツだけどちゃんとマナー守る人だよ。ポイ捨てなんか絶対にしないもん!」 「こら進藤、そこで何で「白スーツ」が出てくるんだ!」 白スーツとマナーの遵守。――関連性なんぞかけらもないではないか。 そう反論しようと緒方は振り向いて……息を呑んだ。
「緒方さん?どしたの?」
きょん、と首をかしげてそこにただずむヒカルは。 色鮮やかな着物と、薄く化粧をほどこされた彼女は。 とても、緒方が知る「子供」のそれではなく。 しなやかに成長し、美しく咲くであろう「華の蕾」として立っていた。
緒方の驚く様に、美登里は満足そうに微笑んでみせる。 「どうだい?良い仕上がりだろう?ふふふ、磨けば光る原石のような子だとは言ったけど、ここまで鮮やかな柄を着こなせる子なんて、そうはいないよ」
ヒカルが着ていたのは、昭和初期に作られたという、アンティーク着物だった。肩から胸にかけてはあざやかなオレンジ。地紋に流水と楓が入り、その上に白や黄色、オレンジの菊の花がちりばめられ、それが下に向かうにつれて、鮮やかな空のにも似た青へと変化している。そしてその青がひときわ鮮やかな振り袖の部分には、豪奢な白牡丹と緋牡丹が並んで咲いていた。 鮮やかな意匠による着物は、現在のそれではかもし出せない豪華さとモダンさを演出し、そのせいか、着物には不向きに見えがちなヒカルの髪が、全く気にならない。…いや、むしろより映えている。 しかしそれでいて妙な「女」を感じさせないのは、美登里が着せたやはり蒼い袴のせいかもしれない。それが、ヒカルを無理に背伸びさせることなく、年相応の「愛らしさ」を見せていた。足元には、これも可愛らしい茶色の皮製のブーツを履いている。
ヒカルは、自分を振り向いたまま何も言おうとしない緒方の様子に、少し不安になった。 「えっと……美登里さんが選んでくれたんだけど、そんなに、変?」
――緒方は何も言わない。 …という事は、そんなに「似合っていない」という事なのだ。面と向かって「変」と言ったら傷つくだろうから…でも、お世辞のひとつも思い浮かばないくらい、自分はおかしな格好なのだろう。
「……そっか。そんなに似合ってないんだったら、写真、撮る必要ないよね。棋院に電話するよ。俺、この仕事、断わる。だいたい最初から、俺なんかがポスターに写ろうなんて事自体、ムチャだったんだ。」
―着物に袖を通したとき、あの人に、少し近くなったような気がして、少し嬉しかったのだけど。 ヒカルはうつむいた。
「美登里さん、電話貸して……」
――その瞬間、ドスッ、という鈍い音がして、ヒカルは慌てて顔を上げた。 そこには、にこにこと微笑む美登里と、脇腹を押さえてうずくまりかけた緒方がい る。 ヒカルがうつむいた瞬間、美登里が甥っ子に肘鉄を食らわしたのは言うまでもない。 もし、それに台詞をつけるのなら、「こんな可愛い子を目の前にして、何ボサッとしてんのさ!こぉの唐変木!!!」というところだろう。
「……な、何?緒方さん、具合悪いの?!」 顔色を変えるヒカルに、美登里はにこやかに微笑んだ。 「何でもないよ。ヒカルちゃんがあまりにも可愛らしくなってて、びっくりして声もでないのさ。ほぉら、ヒカルちゃんが気にしてるじゃないか、何か言っておやりな!」 あくまでもにっこり微笑んで……しかし、甥っ子にはそれはさながら夜叉のように寒気のする笑顔だった。 まだ痛む脇腹に眉をひそめながら、緒方は何とか自分を取り戻す。
「まぁ…あれだな」 「何?」 「『馬子にも衣装』って、やつだ」
「精ちゃん!!」
途端に怒る美登里を余裕でかわし、緒方はヒカルの手を掴んだ。
「行くぞ、進藤」 「へ?」
ヒカルは緒方にひっぱられるまま、車へと導かれ、そのまま助手席に押し込まれた。緒方は素早く運転席に乗り込み、ロータリー独特のエンジン音をふかせて呉服『あつみ』を後にした。
「まったくもう!相変わらずやんちゃ坊主なんだから!」 ちっちゃい頃と全然変わりゃしない、とため息をついてから、美登里はふふ、と微笑んだ。あの甥っ子の行動は、単に照れ隠しなだけなのだと、彼女は見抜いていたのだから。 「花嫁衣装と…そうそう、精ちゃんは丈があるから、キングサイズの羽織袴も作っておこうかねぇ♪」
いそいそと楽しそうに美登里が店に入った頃、棋院へと向かう車の中、ヒカルは緒方にのんびりと聞いた。
「ねー、緒方さん」 「何だ」 「『孫にも衣装』って、何?」
「……お前今別の漢字考えたな………」
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