2003年09月20日(土) |
『danko kaj prego』(ヒカル18歳。誕生日おめでとう) |
ケーキは、いつもの店のオリジナル。 住宅街にある、小さなケーキ屋。 しかしそこのパティシエは、とびきりおいしいケーキを作ってくれる。 この店の評判を聞いて緒方が連れていってくれた、店内がすべてアンティークの家具でうめつくされた店。そこのテーブルについて出されたおひやのグラスは、ヒカルにはよく分からなかったが、まるでワインでも入っていそうな、華奢で精緻なデザインがほどこされたグラスだった。 どこの酔狂なオヤジだと緒方が呆れていると、ケーキを運んできたギャルソンが、実はオーナーで、おまけに緒方の高校時代の同級生だった。 あの時の緒方とオーナー、2人の驚愕の表情は、ちょっと見物だったかもしれない。
ヒカルはくすくすと思い出し笑いをしながら、その店に向かって歩く。 …それ以来、ヒカルの誕生日のケーキは、ここで注文して作ってもらっていた。 いつもなら、毎年緒方が注文するそれは、彼自らが取りに行くのだが。
『ヒカル……悪い』
手合いが入っているのでは仕方がないではないか。それも大一番。
「いいよー。その日は俺オフだし、昼に家族と食事するくらいで、大した予定ないから。俺が取りに行くよ」 『すまんが頼む。…昼は家族の方に譲るが……今夜は……分かってるな?』 耳元に聞こえる、心地よい低い声。わざと吐息まじりにした…誘い。 緒方が、メールで済む用件を、わざと電話にする理由が、ここにある。 ヒカルも微笑んで、そっとささやいた。 「うん。分かってる………。だから、早く帰って来て」 『ああ。中押しでな』 タイトルリーグ戦だというのに、かなりの自信だ。緒方の不遜な態度が見えるようで、ヒカルはくすくすと笑った。 「期待してる」 『ああ、待っていろ』
緒方は言う。「待っていろ」と。ヒカルにとっては、何となく新鮮なひびき。 いつも、何かを追い掛けて走り続けるか、 時間に追い立てられるか(これはただの遅刻も含む)、 …その必要がないくらい、「一緒」にいたか。
「待って」いてほしいのだと。「待って」いて良いのだと。 緒方は、教えてくれた。
――だから、待っていよう。 緒方が注文した、ケーキを受け取ってたら、彼のマンションで。
ヒカルは、目的地にたどり着くと、カランコロン…と、カウベルのついたドアを開けた。 「いらっしゃいませ」 迎えてくれたのはサングラスをかけた長身の男。オーナーは休憩中らしかった。 「こんにちはー、千景さん。予約してたケーキ、できてる?」
外が暗くなるのも、やはり夏に比べたら早くなった。 ヒカルは、あたためた牛乳にインスタントコーヒーを一匙と砂糖をふたつ入れたマグカップを持ったまま、ぼんやりと外を眺めていた。 ヒカル専用のジャンボクッションにぽすりと座り込み、空を見つめたまま。 今夜は、月が出るのだろうか。 熱帯魚の水槽の浄化装置の作動音が低くひびいて、それが、この部屋を完全な無音状態から切り離していた。
突然の携帯電話の着信音が、その静寂を破る。 メロディーは、「ゴッドファーザー」 ……緒方からだ。
「はい?」 『ヒカル?』 「うん」 『今、外にいる』 「わかった」
ヒカルは携帯を切ると、玄関へ走った。 そしていくつかの鍵を開け、チェーンを外して扉を開く。 ――そこには、一目で今日の手合いに勝ってきたと分かる緒方が立っていた。 そしてその白いスーツ姿は、扉の中にすべりこむ。 ヒカルは、ごく自然に彼に向かって手を伸ばし、すり…と、前髪を煙草の香りのする胸にこすりつけた。 「おかえり…」 緒方はヒカルを抱きとめ、腕の中にしっかりとその存在を閉じこめた。 「ヒカル……」
ここに在る。 ここにいる。 求めるものは。確かに。 ひとりではないと。思える。
そんな彼が生まれた日。
「…生まれてきてくれて、ありがとう」
毎年、ヒカルだけに聞かせてくれる言葉。声。響き。思い。 生まれてきて、良かったと。 生きていて、良いのだと。 その言葉が許してくれる。
祈りにも似たその言葉に応えるように、ヒカルは少し伸びをして、緒方の唇に、くちづけた。 その誘いに、緒方も応えて、少しずつ色づき始める唇をついばむ。
音をたてて、深くなってゆく。
冷蔵庫の中の、「Felican naskigtago al Hikaru」と書かれたケーキの出番は、もう少し後。
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