petit aqua vita
日頃のつぶやきやら、たまに小ネタやら…

2003年09月30日(火) 『視線』(オガヒカ小ネタ。ヒカル19歳)

そこは、確かに「音」が存在するのに、その場を現す言葉は、「静寂」意外のなにものでもなかった。

記録係の棋譜を読み上げる声。時計係の秒読み。碁笥の石を探る音。観戦者のため息。お茶を注ぐのどかな音。
そして。

ぱちり。

かすかな音すら聞き取れるほどに静かな空間は、この音に一瞬、すべてをかき消される。
…言いかえるなら、それ意外の音を忘れさせる。
そこにあるのは、白と黒との星の宇宙を創り出す、棋士が、ふたり。



……その空間に、ひとりの棋士がするり、と入り込んだ。
ジーンズにトレーナー。そして背中に背負われたデイパック。
どこの若僧が観戦しに来たんだ……と、古参の記者はうさんくさそうに彼を見上げ……そして慌てて座を空けた。

本因坊リーグ戦、緒方二冠 対 芹澤九段。
この対局を観戦に来たのは、先日緒方を破り、現在本因坊リーグ全勝を誇る進藤 ヒカル天元だった。
ヒカルはひょい、と軽く頭を下げるとデイパックを静かに下ろしながら座る。デイパックには、彼の愛用する扇子が、無造作に差し込まれてあった。
緒方とはもう対局したものの、芹澤とはまだこれから当るのだ。その様子見といったところだろうか……と思いつつ、記者は、これまでの対局の様子について棋譜をのぞき込んでいるヒカルを眺めていた。



ぱちり。



緒方の一手に、ヒカルの目が煌いた。
打たれた芹澤が、膝に置いた手を思わず握り込む。
記者はその気配に慌てて盤面をのぞきこみ、あっと声が出そうになったところを何とか堪えた。

半目勝負の対局でシノギを削っていた局面で、緒方が左上の黒の芹澤の陣地へ苛烈な攻撃の一手を切り込んできたのだ。
こうなると、芹澤も中央の戦いだけに集中してはいられなくなる。今の一手を無視すれば、取れるはずだった何目かは強引にえぐりとられてしまうだろう。このようなギリギリの対局において、それは命取りだ。
芹澤の周囲だけ、暖房のせいではない熱さが発生したようだった。
しかし彼はそこから一息つくことはせず、さらなる気迫を込めて盤面を凝視する。

そして緒方は、先程の一手と同様に、触れるものすべてを切るような、鋭い気配を漂わせたまま微動だにしなかった。
他を威嚇しようとするそれではない。
全てに動じずに相手の動きを待つものでもない。

凍り付いたように動かない、緒方。
しかし、その彼からにじみ出てくるような激しさは、彼のその動作とは裏腹に、他を圧倒せずにはおかない。
眼鏡の奥に光る、鋭い視線のように。
沈黙を保ったまま。
「焼刃の匂いのする、氷刃」
対局時の緒方をそう言ったのは、誰だったか。

激しく躍動する紅い炎よりも、強烈な光と熱を発する、白い炎。
緒方が身にまとうのは、その色と同じ。


芹澤が、額の汗をぬぐおうともせずに次の一手を指し、
緒方は、すい、と眼鏡を上げた後、碁笥の中の白石を取り、その長い指で弄んで、盤上に打ち込んだ。


記者はぶるりと震えた。おそらく、先程の一手が、この対局の勝負を分けるものとなるだろう予感はした。そして、「それ」を「そう」たらしめるには、ここからの薄氷の上で戦うような、繊細さと苛烈さをないまぜにしたような戦いが繰り広げられるのだ。
そしてこの部屋を、実際の圧迫感を伴う戦場へと、変えてしまう。
彼のペンを握る手は、自然に汗ばんでいた。



ふと。



彼は、隣に座るヒカルを見る。
このような激しさを見せるこの対局を、若きタイトルホルダーはどのように見つめているのか………興味があった。

息をころして、真剣に見詰めているのか。
頬を紅潮させて、見入っているのか。
…まさか、若いとはいえ、タイトルを取った棋士がこの対局の気迫に押されて青ざめるなんてことはないだろう。



どれも違っていた。







ヒカルは、微笑んでいた。



この緊迫した空気の中で。
くいいるように、見つめながら。
「嬉しくて嬉しくてたまらない」といわんばかりに、ただ、微笑んでいた。





彼の視線にあるものが何なのかも知らず。
記者はそんなヒカルの表情に、口をわずかに開いたまま、何も言えずにぼんやりと見つめているだけだった。


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平 知嗣 [HOMEPAGE]

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