2003年10月01日(水) |
『月光 4』(ヒカ碁小ネタ。搭矢邸にて) |
丁度、アキラが床几の上での対局が終わり、彼は何か温かいものでももらおうかと、縁側を振り向いた。
するとそこには、先程まではいなかった、彼がよく知る人物が、ひとり。 あの特徴的な前髪は、この薄明かりの中でも見間違えようがない。
「しんど……」
声を、かけようとして。 アキラは、彼の表情が、いつもの明るいそれではないことに気付いた。
碁盤の前に座る時の、張り詰めたような、 小さな子供が親の腕に抱かれる時の、甘えたような、 いまは無いふるさとに焦がれて、嘆くような。
しゅるり、と衣ずれの音をさせ、縁側に座った彼は、そのすべての表情を混ぜたような雰囲気で、鼓を自らの前に置いた。 一度、眼を伏せた後に、ふ、と顔を上げ、微笑む。
アキラが、行洋が、明子が、緒方が、そこにいた一同が。 その視線を追い、そこに、十五夜の月が煌煌と浮かんでいることに気がついた。
大好きだった、十五夜の月。
ほのかな灯りのともる、和風の庭。
何よりも好きだった、碁盤と碁笥と碁石。 それによって創り出される宇宙……囲碁。 そしてその宇宙を紡ぎ出す、棋士。
その全てが揃うこの庭で。
(……佐為………今から、約束の合奏、しような)
月の光が、ヒカルには、かつて佐為が聞かせてくれた笛の音のようにも思えた。
ヒカルが、鼓の締緒をほどく。 麻の調べ紐を左手でそっと握ると、鼓を右肩の位置でかまえた。
すっ、と息を吸い込む。 一瞬の緊張。
そして、右手をゆるく前へ差し出し、一瞬後、ヒカルの腕が鼓へとしなる。
9月、十五夜の月の下。
澄んだ鼓の音色が、こだました。
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