2005年01月06日(木) |
『初春』3(女の子ヒカル。着物のうんちくしかないかも…) |
「……まぁ…良い着物」 美登里はたとう紙から取り出された古風な着物に、目を細める。 彼女たちの目の前に広げられたのは、ヒカルが選んだ黒地の着物だった。 同じ黒でも、それぞれに違う糸を使って、微妙に光沢の違う縦の縞模様を浮かび上がらせている。その縞の間には、光る糸がアクセントとして織り込まれ、地の色に変化をもたらしていた。そんな洒落た黒の地紋に浮かび上がるのは、友禅で上品に染められた、大小の紅梅。開いた花の真ん中には、控えめにではあるが金が置かれ、華やかさを添えている。 大胆な色使いながらも、どこか落ち着いた雰囲気のあるそれ。
「でしょvvオレ、見た途端すっげ気に入ったんだ〜♪」 ヒカルは横でにこにこと上機嫌だ。 そんな彼女の様子に、美登里はにっこりと笑った。 「ええ。きっとよく似合うよ。…丁寧にとってあって、痛みも少ないし。お母さん、大切にお手入れされてらしたんですねぇ」 関心したような女将の言葉に、美津子はかえって慌てた。 「い、いえ…これは私のではなくて、姑……ヒカルの祖母のものなんです。私の着物ではこの子に似合うものがなかったので、夫の実家から…」 自分は着物などごく稀にしか着ないし、着るとしてもいつも着付けてもらって、その後はクリーニングに出して返ってきたのを箪笥にしまう程度なのだ。手入れなんてできる訳がないし、知識もない。 恥ずかしそうな美津子の様子に、美登里はころころと笑った。 「…まぁ。ますます素晴らしいじゃないですか。お祖母さまのものなら、この着物は昭和の初めくらいのものかしら」 「はい…そのくらいにはなると思います。…でもこんな古い着物、お正月に着ても良いものなんでしょうか。普通はもっと…華やかな、振袖とか……」 美津子の言葉に、呉服屋の女将はゆっくりと首を振った。
「いいえ」
そして彼女はゆっくりと、まるで宝物を扱うかのように着物を取り上げた。 「振袖は確かに未婚女性の正装ですけれどね。――ヒカルちゃん、ちょっとこれ軽く羽織ってごらん」 「はーい」 美登里は立ち上がると、前に立ったヒカルに着物を着せ掛ける。
「初詣に行く時なんかは、そりれこそ人ごみの中に出かけるんですから、ほんのちょっと、「おでかけ」くらいの感覚な着物の方がよろしいんですよ。長い時間歩く訳だし、大掛かりな格好したら、着ているだけで疲れちまいます」
美登里は話しながら、その着物がヒカルによく映る事を確認して、満足げに頷いた。
「ほんとによい品だこと。…さ、ヒカルちゃん、もういいよ。奥の冷蔵庫にしょうがのはちみつ漬けを置いてあるから、お湯で割っておあがりなさい。あったまるし、良い香りだよv」 「やったぁ♪」
ヒカルはするりと着物から抜け出すと、勝手知ったる様子で奥に駆けていった。 「…こ、これ、ヒカル!」 慌てる母親だったが、ヒカルはもうその場にはいない。 そんな様子に、美登里はくすくすと微笑った。
「…それにねぇ……。まだ着物に慣れてもいないヒカルちゃんですよ?あんな調子で駆け回るのに、振袖着せてごらんなさいな」 美登里の言葉に、美津子は頭の中で娘に振袖を着せてみた。 …そしてため息、ひとつ。
「……いつ袖や裾を汚すか気が気じゃないです……」
思わず漏れる本音。 あまりに正直な言葉に、美登里はぷっ、と吹き出した。 「……でしょう?お母さんの気苦労も増える、染み抜きのお金も余計にかかる、こちらとしては、あまり勧められませんよ」 さばさばと言いながら、美登里は手際よく着物をたたみ始めた。 そんな美登里の様子に、美津子は少し安心する。 相手は呉服屋なのだ。着物を売ってこその商売である。「この際、娘さんに新しく振袖を…」なんて、高いものを勧められるのではないかと危惧もしていたのだ。 …しかし彼女は一向にそんな発言はしないばかりか、こちらのことまで細かく気を配ってくれるのだ。
「商売っ気を出させてもらうなら、どちらかというとお母さんに作っていただきたいんですけどねぇ?」 いたずらっぽい美登里の微笑みに、つられて美津子も笑った。 「…ええ、その時には相談に乗ってください。…でも、ウチは庶民だから、そんなに高くないのを」 「あら。庶民が楽しんでこその着物ですよ。世間じゃ高いばっかりのものがよく目をひいていますけどね、安い値段でも楽しめる着物や、汚れても自分で洗える化繊の生地だってあるんです。自分なりの楽しみや着方があるんですから、それに合わせたものを選んだらよろしいんですよ。…最近は、若い子の間で昔の着物が「アンティーク着物」なんて流行しているらしくてねぇ。大正や昭和の頃のモダンな柄が好まれていますよ。……この着物だって、ちっょとしたアンティークですよ」 「……え?」
ただの古い着物、という認識しかなかった美津子は改めて目の前の着物を見つめる。 「…ほら、この地紋の黒が縦縞になっているでしょう?これは錦紗と繻子を交互に縦に織り出してあることで、黒の質感を変えてあるんです。昭和の初期の頃でも今でも、珍しい…そして昔ながらの丁寧な織りですよ。しかも同じ幅の縞ではなく、色々に変化をつけて……。それにラメ糸をところどころに入れて、単調になりがちなところにちょいと洒落っ気を出したりしてね。柄はそう珍しくもない古典柄ですけど、こんな洒落た……しかも黒の地に紅梅を散らすなんて、何とも粋じゃないですか。こんな良い着物、ちょっとありませんよ。……それに」
ここまで話して、美登里はふふ、と微笑んだ。 「亡くなったお祖母さまは、お祖父さまに随分、愛されておいでですねぇ…」 「…そう…なんですか?」 美津子の疑問に、美登里はええ、と頷く。 「この着物は正絹……絹でしょう?絹に限らず、天然素材のものは虫がつきやすいし、しまっておくのにも湿度や温度など、気を使うことが多いんですよ。たまに風を通してあげないと、折ったところから糸も弱りますしね」 要は面倒ともいいますけどね。…と、美登里は苦笑する。 「この着物は、古いものでありながら、虫食いもないし、痛みもそれほど見られません。…きっとお祖母さまが娘時代に着られたものでしょうけど、大事に、大事に着ておいでだったのでしょうね。……そしてそのお祖母さまが愛した着物を、お祖父さまは大切に、大切にとっておかれた。そんな「気持ち」が、この着物にはいっぱいに込められていますよ。幸せな着物だこと……」
「…………………」
美登里の説明に、美津子は改めて着物に手をふれてみた。 さらさらと、着慣らした感のあるやさしい手触り。糸の違いからくる微妙な違いも、言われてみればよく分かるような気がする。 細かい心配りのされた、一枚の着物。 思いがあふれる、一枚の着物。
…自分の着物も、そうやって、母がいろいろと考えて、持たせてくれたのだろうか。 …そう思うと、美津子は帰ったらもう一度自分の着物を出して見たくなった。 (お正月には、ちっょとがんばって一人で着てみようかしら) 帰りに、分かりやすい着付けの本を買いに行こう、そう思った。 (…あの人、どんな顔するかしら) きっと驚くであろう夫の顔を、思い浮かべながら。
「かーさん?何か良いことあった?」 ヒカルが美登里と母のぶんのしょうが湯を入れて持ってきた時、母は美登里とあれこれ話しながら、様々な色の帯を着物の上に置いて選んでいた。 その表情が、どこかしら柔らかいのに気がついたのだ。 「何話してたの?」 美津子はふふふ、と微笑んだまま、答えない。 美登里も同じ。 なんだか仲間はずれにされたような気分がして、ヒカルはむぅ、とふくれた。 「なんだよ、もぅ〜////」 そんな娘に、2人はくすくすと笑う。 「ヒカルちゃんがこの着物を着てくれて、お祖母さまはきっと嬉しいだろうねって、そう話してたのさ」 …ね?と美登里が目くばせすると、美津子もにっこりと微笑んだ。
「ヒカル、初詣には、私の草履を履いて行きなさいね。履き馴らしてあるから、歩いても痛くないと思うわ」 「いいの?」 ヒカルは美津子の肩に腕を回して、背中にもたれかかる。 「ええ。母さんはこちらで新しいのを買うから」 「え〜ずるい〜〜」 「良いじゃない。アンタはこちらで帯も借りて着付けてもらうんだから。母さんはがんばって一人で着るのよ?」 「かーさんもお正月に着物着るの?!」 「そうよ。…後でお祖父ちゃんにも一緒に見せに行きましょう」 「うん!」
そんな母娘の会話を、美登里は微笑ましく眺めていた。 …後で、美津子に似合いそうな足にやさしい草履を出さなくてはね、と思いながら。
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