蝉時雨、扇風機、腕枕

 お盆を過ぎれば急に涼しくなる。
 だから寝苦しいということはないはずなのだけれど。
 このところなかなか眠れない。
 睡眠薬を服用すると、しばらくして口が苦くなる。
 効き始めの兆候。それを合図にお布団にもぐり、電気を消し、眼を閉じる。或いはベッドサイドのライトだけ点けて本を読んで睡魔を待つ。

 ワタシの宵っ張りは物心つく前からのこと。
 母上から聞かされた。夜鳴きもしない代わり、眠らない子だったと。
 保育所でお昼寝できなかった罰として、みんながおやつの時間にひとりお布団で取り残された古い記憶がある。アレ、イジメだと思う…。お昼寝できなかったからってなんだっつーんだ。
 夜は夜で眠らない子だった。
 父と母の会話を聞いていた。
 かーちゃんはとーちゃんを「タンシン」(あなた)と呼んでいた。
 おいらたちの前では「アボジ」(お父さん)と呼ぶのに。おいらたちも「アボジ」と呼ぶのに。
 時々尋ねてくるとーちゃんの生徒や同僚たちは「ソンセンニン」(先生)と呼んでいた。
 とーちゃんにはたくさん名前がある。それが不思議だった。
 長屋みたいなおうちの、子供用二段ベッドの上。
 昼の間隠しておいた絵本が数冊、頬に触れる。
 暗闇のなか、こっそり開く。見えないけど、字も読めないけれど、全部覚えている。
 見つかったら怒られるから、本を閉じて頭のなかで諳んじる。
 それが一番古い記憶。
 3歳か4歳、だったと思う。

 睡眠薬を処方されて半年。耐性ができてきたのか、徐々に強くなってきた。
 いま飲んでいる薬も結構強い、らしい。ほんとうは二週間を越える処方は禁止されている薬らしいけれど、医者にムリを言って四週間分出してもらっている。副作用も強いらしく、急に服用をやめると眩暈と吐き気と不安が強くなる。とても恐い。
 五時になると空が明るい。この頃は明るくなるのがだんだん遅くなってきた。
 眠くない。瞼も重くない。
 口の中は苦いけれど、やっぱり眠れず、次の本を探すかPCの電源を入れる。
 明るい。すぐに飽きてお布団を頭からかぶる。
 そこまでして眠らないといけないのか。
 一日のうち数時間も眠っているなんて少しモッタイナイような気がする。
 睡眠が足りないと思考は定まらないし、集中力に欠けるけれど、そこは頑張ってカバーするとして。
 もう少し起きていたい。
 でも眠りたい。ぐっすり。なにも考えないで。


 蝉時雨、扇風機、腕枕。
 あのうとうとを思い出す。きもちよかったな。
 ああいう風に眠りたい。


 お布団から顔を出して頁を繰る。活字の世界に滑り込む。
 その延長のような浅い夢をみて、ハッとして眼が覚める。おなかの上の夢にでてきた世界を閉じる。腕時計を見ると3時間経っていた。
 眼鏡、かけっぱなしだった。フレームが少し歪んでいる。
 重力で縫いとめられているような身体をむりやりに起こす。
 強い、眩暈。
 それが去るのを待って、犬の散歩に出かける。
 平日の朝、駅に向かうきちんとした身なりのサラリーマンや学生たちの群れを逆流して、スッピンTシャツスウェット姿のおいらが犬を連れて歩く。
 半年前までワタシもあの群れのひとりだった。眠れないのが恐かったはずだった。
 少しの優越感と、それを上回る焦燥感。
 なにひとつ成長していないような気がする。
 おやつ抜きでひとり広い部屋に取り残された頃から、なにひとつ。
2005年08月19日(金)

メイテイノテイ / チドリアシ

My追加 エンピツユニオン
本棚