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正答率3割は無いだろ - 2003年06月27日(金)

パキスタンにいる人から、

「最近(私の)母校が3面賑わしてますね」

と言うメールが送られてくるのだが、これは取りも直さず例のサークルの件がマスコミで熱く叩かれていることを示している。サークル代表の和田某は中大に入学して1年で退学して、1994年に早稲田大学に入学したそうだ。つまり、私と同級生で、しかも私と違って我が大学が誇る政治経済学部入学の彼は、言ってみれば早大Aグループ(入学式とか卒業式が午前中に行われる)に属するエリート階級で、我々Bグループ(午後に行われるから前日飲んでても全然平気)とは異なる人々だ。まあAグループとBグループは従って入学式でも顔を合わせないから、明らかに私とこの超有名人和田君は、全然会ってもいないと思う。しかも、比較的行動範囲の狭い私は、大学内の居場所は所属していたお堅い英語サークルか、所属していた硬いコンクリート研究室であったため、超有名サークル「す〜ふり」は、何と今まで全然知らなかった。恐らく、このサークルを知らなかった人は相当大学内でもモグリであるかもしれないが、ここまで「内外でも有名だった」と書かれると、私は本当にあの大学にいたのかと自問自答をしてしまうほど、そんな存在だったようである。つまり、俺はモグリだと。入学式の際、記念会堂から出てきてサークル勧誘の嵐に同じく身を投じていたと思うのだが、和田某はこの時点で「す〜ふり」に入っていたのだろうか?

本件に関しては、私としても出身大学(本当にその大学にいたのかを自問自答すること含む)のことが囃し立てられているため、記事など見つけると読んでしまう。また、会社の部内では何と早稲田出身は私だけなので、昼休みに誰かがインターネットを見ていて何か記事を見つけると、必ず私に声がかかる。とは言え、本件に関しては島が既に詳細な考察を記述しているため、特にこれ以上書くことは無い。いや、別に人が書いてるからって俺が書かない理由は無いんだけどさ、なんつうの、実際ここまで書いてきたのがこの数日で記事とか読んで把握した内容で、これ以上のことは知らんのだよ。

で、ようやく本題だが、今日の朝日新聞で目を引いたのは、す〜ふり解散を嘆く短大生の胸元カラー写真の左下にある、大阪府で学力不足により解職された高校の数学の先生の話である。

何でも父兄や生徒から「数学の授業が全く分からん」と言う苦情が寄せられていたため、府が矯正研修みたいのを科したらしいのだが、この一環でやらされた大阪府立高校入試問題で3割の正当しか得られなかったそうだ。センター試験も全国平均を下回る惨状で(そりゃ高校入試でそれなら大学入試はセンターと言えども無理があるだろう)、指導力不足以前に学力不足(おいおい)でクビになったようである。この先生は「準備も無く突然やらされたからこうだったんだ」と反論しているようだが、これが反論になっていないのは自明の理で、先生なら準備無くても出来るだろ。しかも8割とかならまだしも、3割ってどう言うことよ。

ここで再度登場するのは、私の高校の頃の日本史の先生、A先生だ。

彼は指導力こそ5点満点中0点、100点満点中0点、1億万点中0点と言う、一億万と言う謎な桁数を用いても0点にしかなりえないものを持っているが、学力に関してはそんなことは無かったと思う。要は、先生に問われるのは学力じゃなくて指導力で、自分の持った学力をいかに生徒に伝えるかが大事なのであり、従って頭脳的な仕事と言うよりむしろ気の遣い様が問題となる仕事と言えると思う。生徒がどうすれば自分の持っている知識なりを分かるのか、一体どう言えば理解してくれるのかと、気を遣いながら授業展開して行くもの、と思うのである。

と言うより、思っていた。ある時点までは。でも、学力と言うのは先生も付けていかねばならないものだと言うのは、バイトで塾講師やってから分かってきた。

学力のある先生が指導力のある先生と言うことは必ずしも無いが、逆はほぼ100%の割合で成り立つように思う。つまり、指導力の優れた先生は、彼自身の学力(自分が教えるレベルの学力ね)も間違いなく相当優れている。そして、いくら中学校の数学だとか高校の数学だとか言っても、実際は先生でもかなり訓練しないと、その相当な学力と言うのは身につかない。つまり、指導力の優れた先生は、先生のくせに入試問題といたり問題集といたりしているのである。先生のくせにだ。

私がバイトしていた塾のとある教室は、指導力のある先生が揃っていて、指導力の優れていると言う先生は、全員(本当に全員)担当教科に関してかなりの学力を持っていた。彼らは確かに名門大学の学生でもあったりしたが、だからと言って彼らが昔から持っていた(?)卓越した(???)学力を引き摺っただけで食いつないでいたのかと言うと、実際は全くそうではない。何と、彼らはともすると自分で本屋で過去問題集とかを買って、それを家で解いたりしているのである。勿論、それは授業で使うプリントに載っけるために「授業準備」の一環としてやっていた面もあるが、単に自らの指導力向上のための学力を付けるための自主訓練と言う側面の方が大きかった。

中学生が解く問題といっても、大人でも難しい問題は少なくない(と言うより、かなりある)。だが、先生業に足を突っ込んで感じるのは、そういう難しい問題を教えるのが大変と言うより、むしろ全く簡単と思っていたのを教えるのが案外難しく、実際予習をやってみると、実は中学生レベルの簡単な事柄が、良く分かっていない(つまり学力が低下している)と言うことに気付くのである。だから、改めて学習が必要になってくる。これは衝撃的な事実だが、実際先生といっても新米は驚くほど学力が無いものである。

学力をつけるにはどうするか。それは勉強しなおすしかない。だから、結構みんな授業準備以外に、勉強しなおすのである。しかも、先生はいつも先生であることが必要であることから、普段から研鑽を積んでいる必要がある。つまり、いつでも準備が出来ている。電車の中で日能研の問題見ても、すぐに答えが出るように、常に学力を高度に一定以上保っていなければ、すぐに学力が低下する。繰り返すが、常に研鑽が必要だ。入試研究なんて当然やっているべきである。

先生としての指導力は、気の遣いようが最も重要。しかし、最も基本的な要求事項は、先生の学力である。学力が無ければ、そもそも問題が解けないから生徒を教えることは不可能だ。だから、学力が無い先生は、どうあがいても結局何も出来ず、従ってクビになってしまうのはしょうがねえんじゃねえの。


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