+女 MEIKI 息+
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その部屋は、山小屋風の洒落た造りで少し埃が目立つ絵画が数枚壁に掛かり木目を生かすように煌びやか過ぎない調度品は、部屋の飾りとなってしまっている暖炉の上に並べられていた。
部屋の中央には大きく厚い一枚板のテーブルが落ち着きを尚更主張しているかのようだ。
西日が優しい光のカーテンを織り成す先に、珈琲と灰皿を用意して読みかけの本を開く。 重く木肌の艶やかな椅子が、ある程度の固さで包んでくれる。
部屋の中に人気を感じて本から目を離すと、まったく私には気にも留めずにまるで誰も居ない部屋の中に入ってくるような感じで真っ直ぐ前を向いたまま私の左隣ひとつ席を空けて、青年が座るではないか。 一体誰なんだろう? 訝しげに見ても、彼の目には私など映っていない素振りである。
声をかけてよいものだろうかと唖然とするこちらの思惑なぞ無視した自然な態度で彼は、洗い晒しのGパンの右後ろのポケットから綺麗に装飾の施された柄の小刀を取り出し、それを左手に持ち替えたりしている。 まるで体温を確かめるかのように、時に頬ずりし愛でている。
もう、その時点で既に私は目を逸らすことが出来なくなってしまった。 次に彼がどんな行動を取るのか、一瞬たりとも目が離せなくなっている。 彼は、知ってか知らずか広いこの部屋の中で、息をしているのは自分だけだとでも言うような世界を作ってしまっていた。
優しい西日は茜色に染まり、風は急ぎ足でやってくる夜の香りを運んでいた。
「あ、あの、」 やっと声に出したその言葉が、とても間抜な響きに思えてせっかく声をかけたのにとても恥かしいと感じ頬が高揚するのが判った。
すぐ傍に居る彼には聞こえていないような、全く変らない姿勢のままで時が止まった。 (それは一瞬のことだったのか)忘れていた声を思い出したかのようにそれでもゆっくりと、こちらに身体ごと向き直る。 右手には、鞘から抜き出されて茜色を鋭く反射させているナイフが握られていた。 私がそのナイフに目を奪われていたことを確認すると初めて彼の顔に表情が生まれた。 哀しくも艶やかに笑う顔の半分は既に夕暮れに霞んで隠されていたのに関わらず、それはたじろいでいた私を充分に魅了するだけの色気を放っていた。 その微笑を崩さないままに、静かな動きで彼の右手のナイフはテーブルの上に置かれた彼の左手の上を滑っていった。 ナイフの動きより少し遅れて、茜色よりも熱い紅が線を作りやがて流れ落ちている。
「あっ」 放たれた私の声は、恐怖のためでない。 いや、敢えて言うならその光景に興奮を覚え、半身がマグマを抱き溢れ出すように濡れていることに驚き口を吐いて出た音だった。
金縛りが解けたように、その声で目が覚めた。 おそらく午前4時を過ぎた頃。曖昧な視力が次第に暗さに慣れると柔らかい何かが闇の中心にあった。 よく見ると一筋の月光だった。カーテンの隙間から漏れてきていた。 それは弱々しく、冷たく、暗い洞窟の中で密かに息づいている蛇のように見えた。 私はゆっくりと月光の下に移動していった。 あれ程、夢では熱く感じ溢れ出していたものが、今は満ち潮のようにゆっくりと海面が上がって行くように感じている。 それでも海水は間違いなく上がっていき、月光はそこに沈んでいくように見えた。 心臓の音や血の流れる音が、時計の秒針の音を掻き消すように感じた。 まだすっかり覚めきらず覚束無い指は、人知れず膨張したそれを擦りつづける。 不意に地の底まで引きずり込まれた後、打ち上げ花火のひとつの光になったような絶頂を迎え下部から全身へと波及していった。 すっかり眠りから覚めた指を、別の生き物のように痙攣する下部から引き抜き、ゆっくりと口へと持っていく。 甘く生臭い、私の身体の今在るありのままの味。 夢の中の彼の流した血を想像して、少し哀しいふりをした。
銀色に鈍い光を放つナイフのようなものはそこには無く、海水に沈むように見えた月の光もいつの間にか消えていた。 蛇は跡形も無く、消え去っていた。
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