2003年03月06日(木) |
お蔵だしで更新をしたことにする売れっ子作家のような手口 |
今日は疲れたので、就活用に書いた旅行記をそのまま張り付けます。
なんだか出来過ぎなくらいの「いいこちゃん」文が 普段のぐだれ日記と違いすぎて可笑しいわ。
私は小学校中学校と頑張り抜いて優等生をやっていた関係上、 (そのあとやさぐれてしまい今に至る) 「賞がとれる文章」というのを感覚的に体得していました。
だからこのような文体が私の原点なのかなという気がします。 起承転結が決まり過ぎると、作品としては面白くなくなるという好例です。
注)加筆、修正前のものですので誤植など至らぬ点は多々あります。
「もどかしいから伝わるもの」
大学二年生の夏休み、一人でベトナムを旅行しました。一ヶ月間も日本を離れるのは、初めての体験でした。旅行初日に参加したメコン川クルーズで突然2万円をぼったくられ、私はホーチミンの街で途方に暮れていました。その日に泊まる安宿を探していたとき、バイクタクシーの運転手であるャンおじさんが助けてくれました。その出会いをきっかけに、私と彼の「ベトナム南北大移動バイクの旅」が始まったのです。
おじさんは職業柄、なかなか流暢な英語を話し、私もそのおかげでどうにかコミュニケーションをとることが出来ました。 一ヶ月の間に、私はホーチミンからスタートしてメコン川の町カントー、ミトー、ソクチャン、ヴィンロン、さらには海岸沿いのリゾート地ファンティエット、最後に古都はフエまで、ずっと彼の運転するバイクの後ろにまたがっていました。
ガイドブックのない旅は、「冒険家っぽい」日本人旅行者にはひとりも会えなかった代わりに、沢山のベトナム人の生活に肉薄することが出来ました。
ャンさんはあらゆるごちそうで私をもてなしてくれました。彼の家族(私と同じくらいの娘さんがいました)と一緒に家庭料理を食べたり、市場の屋台でフォーと呼ばれる麺をすすったり。
ソクチャンでは彼の大学時代の友達だという男性の家庭で、子供たちと鍋を囲みました。カンボジアの国境に近い町は、ホーチミンとは違って貧しい生活があからさまに垣間見られ、船の中には物乞いをする人々が沢山寄ってきました。日本人相手の店で、売春婦をしている女性たちにも沢山会いました。ャンさんは彼女たちと仲良く話しながらも小声で、「あの子たちに近づいちゃだめだよ。」と言うのです。まるでテレビのドキュメンタリーみたいだ、と思いました。
しかし、一週間ほど一緒に旅を続けていると私は慣れない英語でコミュニケーションをとることにも疲れてきて、ャンさんの欠点も目に付くようになりました。初めのうちは「親切」と感じていたものが、わたしの中で「おせっかい、押しつけがましさ」に変わりました。彼は私にはとうてい食べられない量の食べ物を出してきて、「もうおなかいっぱいだよ」と言っても「遠慮するな、遠慮するな」と言って自分の分まで差し出してきます。
断言するようなものの言い方にも疑問を感じました。「日本の男の子はみんなピンサロに行く。女の子は若くてハンサムなガイドを買うんだよ。」 「東京は物価が高い。ゴミで汚い。ベトナムは何でも安いし果物が新鮮だ。」事実だからこそ苛立ったのかもしれません。居心地の悪さや疲れを感じたときも、わたしはそれを彼には伝えず、いつもへらへらと笑顔でいました。英語で日本の文化的背景を説明するのが面倒くさかったし、何より、ャンさんと気まずくでもなったら私はこの異国の地にひとりで放り出されてしまうのだ、ということが怖かったのです。 旅の中盤、二週間たった頃に、私は食中毒になりました。のたうち回るような腹痛と吐き気が一晩中襲ってきて、眠れない苛立ちと不安で私は一人で泣きました。ムイネーという小さな海岸の町に泊まっていたときでした。原因は、昨日たっぷりごちそうしてもらったム「食べさせられた」とその時の私は思ったのですがムシーフードにほぼ間違いありません。「下痢」「ここでしばらく安静にしていたい」「病院に行くには保険証がない」英語はすぐに浮かばなかったけれど、我慢の限界に来ていた私は、すべてをャンさんに伝えなければ、と思いました。
翌朝、おなかを押さえながら辛い病状を話しました。予想通り、ャンさんは本気で心配してくれたのですが、また食べ物を出してきました。「食べないと元気が出ない」「遠慮することはない」・・・なんて無神経なんだろう。”LEAVE ME ALONE!”(ほっといてよ!)私のいらいらがついに噴出し、叫んでしまったのを覚えています。ャンさんは驚いた様子で、“Sorry, sorry”と繰り返しました。興奮していた私は、その場でただ泣くばかりでした。
ャンさんはしばらく黙ってから、きれいなホテルを手配し、「ここで今日は一日寝ていなさい」と言って出ていきました。薬と沢山のミネラルウォーターも買ってくれました。
次の日、またバイクで迎えに来てくれた彼に私はすべての本音をうち明けました。日本のガイドブックには「生ものは食べるな」と書いてあるので不安だったこと。それでも好意に背くのが嫌で断れなかったこと。この人も“ぼったくり”ではないかと常に疑ってかかっていたこと。つたない英語では伝わりにくい、ベトナムと日本の文化の違いがあること・・・時には辞書を引き、紙に単語を書きながら必死で説明しました。彼はすべてを受け入れ、父親のように優しく私を理解してくれました。私は、両親以外の他人に対してこんなにも自分をさらして向かい合ったのは久しぶりだということに気がつきました。
言葉が通じる日本では、どうでもいい話でとりあえず人間関係をつなぐことができます。伝わらないもどかしさを知るまで、私はそのことにさえ無自覚でした。本音を語らずに、すこしずつの我慢を重ねていても、それほど苛立つことはなかったのです。しかし、それは本当のコミュニケーションではなかったことに、ャンさんとの交流が気づかせてくれました。
浅く広い交友関係は居心地がいいけれど、私にとっては意味のないものだったと思います。ベトナムでは日本では見ることのできない大自然や、食べ物、貧しい生活、片足のカンボジア人、日本の工場群、きれいなアオザイの女性の存在を直接体験しました。
しかしもっとも大きな収穫は、どこの国でもあるはずの人間と人間の、一対一の暖かい交流だったと思います。暖かい、というのは生ぬるい(=どうでもいい)ということとは違います。わがままとも言える本音を受け入れてくれたャンさんのおかげで、私はそれを思い出すことが出来たのです。それと同時に、自分の人間の小ささ、自己中心的であったことを思い知らされた良い機会でもありました。
|