「起こして」と昨晩に頼んだので母がしつこく布団をはいできて、7時半に目覚め。頼んでおきながら申し訳ない、という気持ちはけだるさと寝ぼけた頭に敗北し、「うるさい」と一喝して再び目を閉じる。シーツはまだ冬物の毛布生地のものだから寝床はぬくぬくと温かくここに入ってさえいれば何も怖いものはないのに、とそんな高等な思考が寝起きからできるほど私も頭がよくなれたらいい。
母はくじけずに「7時45よ」「8時よ」「れいちゃん、「9時過ぎたわよ」最後は掛け布団をベランダに干しだされ、結局1時間半ほどの格闘の後に私はベランダを降りた。
顔を洗って初めて、昨日コンタクトのこすり洗いをせずに就寝したことを思い出し 憂鬱な気分になりながらたんぱく質つきっぱなしのそれらを無理矢理目に貼り付ける。毛糸などが混入すると生老病死に匹敵する苦悶が訪れるのが一般的だがなかなか今日はつるっと入った。つるっと入るかどうかで朝の私の機嫌が決定する。良好。
おきるのが遅れたためひとりで朝食。 納豆 ご飯 味噌汁 のり 母の育てたブロッコリーにマヨネーズ いちご このいちご、4パック600えんよ、安いでしょう。母にうん、と頷きながら600÷4を暗算するがなかなか出てこなかったので「あー割り算できない、でも安いね」と適当な返事。そんなに安いのにいちごは甘くておいしかった。ブロッコリーは買ったのよりも格段に柔らかく、「うちで作ったのは違うね」と母を誉めておいたら「アスパラもぜんぜん違うから今度とってくるね」。嬉しそうでよかった。無農薬栽培に感謝していますよ、それからやりたいことにすぐ手をつけてしかも長続きするってすごいなあと頭の中で考えながらロイヤルミルクティー。緑茶で花粉症の薬を飲む。意味があるのかないのか、と飲むたびに思うが飲んでいなかったらもっとひどいのかもしれない。
父のノートパソコンをこたつまで運ぶ。「4月ってこんなに寒かったっけ」いらだったので口に出してみた。メール2通。活字でクールな人というのは本人もクールなのだろうか。文章のみで、この人から受けるイメージは透明だ。ホームページをチェックする。好きなページは復活していた。
母が掃除機を書ける間、ひとりでごろごろと横になり、眠ったり主婦の友のホームページを開いたり。後悔先に立たず、気づけば12時だった。「いいとも」で豊胸美人を探せ、をやっていたら「あんなの絶対癌になるんだから。やめなさいよれいちゃん、おかーさんいいの、胸なんて」と意味の分からないことを繰り返し始めたので完全無視。コーヒーに牛乳を入れた。
昼食はトースト。「バターとって」と台所に向けて大声出したのに、母が皿に盛る前にもうぬってくれていた。気づかなかったのよ、裏を見なかったから。また大声。バターは溶けたほうがいいでしょ、と得意げなのはなんとなくいけ好かないのが事実なので突っかかるつもりはないので黙る。
黙りながらチャンネルをいじりつづけるが面白くないので昨日買った新書「童貞としての宮沢賢治」(ちくま新書)の続き。抑圧された文学少年の性欲に興味があったので購入したものの、あまりこのような話ばかりについて論じられた文章を読んでいると気分が悪くなり、自分が至極汚い人間に思えてくる。次はプラトニックな恋愛小説を読もうと決意しながら、「いやしかし、文学と性は切っても切り離せないものであるのだからして、目をそらしてはいけないのだ」半ば自制心が働き、読み進める。それでは自分が小説を書くときは如何にすべきか。私はセックスを含んだ物語は書きたくない。断じて。
昼間からくだらないことに思いをはせているうちにテレビ。母の意向がはたらいて瀬戸内寂朝に画面が切り替わった。「この人って講話にお金取るの?」「気持ちくらいは取るのかなー、お賽銭みたいなものかね」「俗世から離れてるって気がしないんだけど。お母さんも聞いてくれば、寂庵のやつ」「だって簡単に入れないでしょう、大人気で」「こういう癒される人が一人いたら楽になれるんだろうなー」「いいよね」「でもさ、前アテネの修行僧のドキュメンタリーあったじゃん。実際にすべてを捨てるって、ほんと大変なことなんでしょきっと」
「れいちゃんもう1時半だよでかけないの」 2階でスーツに着替えてストッキングをはいた。先日フジテレビの情報番組で見た、”スローストッキング”=ちゃんとした体勢でストッキングをはけば一日快適でいられますよというのを実践するなら今だ、とふと思いつき、ベッドに腰掛けて足首をくるくる回したりひざの当たりでしっかりずれを直したり、とにかくスローにはいてみるとありゃ大変。伝染してるよ。2度目にはきなおす際もここでてんぱらないのが大人、てな具合にスローにしてみる。やはりさすがスロー、なんといってもむくみが取れますねという即効的な効果ははき終わった時点では分からなかった。しかしスローライフ全盛の今の時代、スローストッキングが市民権を得る日も近いはずだ、こんどよしかちゃんに教えてあげよう。
14時21の新宿に止まる電車に間に合わせるためなかなか慌しく眉毛を描く。チークを入れすぎたので派手な印象を与えてはまずいのか、等についてしばし考えるが、電車に遅れると乗換えという至極退屈な作業をしなければならず、そのときの自分の倦怠感も予想ができたので急ぎを優先する。
電車の中でまた「童貞〜」。自慰について1章を使い論ずる作者。桶川を過ぎたあたりで眠りにつき、赤羽の手前でよだれがたれそうになった反射神経で目を覚ますも結局新宿まで熟睡。この時間を有効に使えたらもっとすばらしい人間になれるかもしれないけれどでも眠るほどに楽な行為が人間界どこを探してもあるとは思えないので特に無駄とは思わない。
電車の中で、 の企業セミナーメールがくる。帰ってからでは満席な恐怖におびえ、友人に電話。予約を頼む。今までこうして頼めば皆やってくれるとなんとなく分かっていたけれど、それでもなぜか、こういうことは一人で向き合っていきたいと考えていた。都営線に乗ろうとしたらさらに転送メール。 社の面接と先ほどの予約が重複し、もう一度友達に電話。こんな我が侭を頼める人がいて本当によかった。結局こうやって、許してくれる人に私は甘えているのかなど、怠惰な自分について深く反省をするうちに電車は神保町駅に滑り込んだ。
小さな会社の最終面接。ほとんど相手が話す。マガジンハウスが第一志望だったという。ポパイ黄金時代の編集長、木滑さんに会ったと。おおー。それでも今の仕事も満足していますと。ここの会社には持ちねたがかれはてるほどにすべてを話したので何の悔いもない。伝えたいことをすべて伝えても、受け入れてもらえないことというのはしばしばある。というかそればかりのように思える。伝えたいことがつたわらないもどかしさ、等というものは要するに技術技巧の問題であって、私の欠陥の本質はそんな小手先云々のところにはないのだ。だからこそ問題なのだ。「きみに悪いところなんてない、嫌いじゃない」と一体何度言われたろうか。就職だって同じことだ。おそらく。小手先でうまくやれるなら別だが。小手先というと言葉が悪いが、実際技巧の部分でどうにかできるのであればそれはそれでやってしまいたい。私の作文がレトリックだらけで何も含んでいないことを、誰も気づかなければいいことなのだ。
セミナー予約を二回も頼んだ友達にありがとうの意味でご飯をおごることになり、高田馬場へ。東西線では初任給の話をする若い男女。竹橋で乗ったから、毎日新聞社だろうか。凄いなあ。読売ウィークリーの中吊り、特集は「眠れない女たち」。この紫と黄色のデザインをどうにかするだけで部数が伸びるのではないかと心底思うが、そこにはえらい人たちのさまざまな意図が隠れているのだろうということに頭を丸め込む。差別化の方向性が間違っていはしないか。
芳林堂で待ち合わせてひとまわり本を見て回るが、毎日買っているので今日こそはと思いとどまり、友達はノベルズを一冊。焼肉かるび先生がいくらだっけと考え抜いた末にまあタイ料理でということになりグリーンカレー。思い出話。タイでタイ人に口説かれたことや日本人男の屈折=楽しみの幅の広がり、について。あ、チャーハンがよかったのにいい間違えた。おかわりのご飯は友達に譲って私は辛味に耐えつづける。「だって扶桑社に入ったらいきなり松尾スズキに近づけるじゃないですか」「そうだけど、うーんあんまり期待しないようにします」「そんなこといってないで」「うん、頑張る。そうだよね、松尾さんの本を出していないところだったら開拓するところからはじめないといけないのだものね。SPA!なら懇願すれば担当になれるかもしれないもの。筆記だなあ」
ルノアールでエントリーシートを仕上げることにする。ミルクティーで胃をいたわった。コーヒーには耐えられない。ほかのお客がいないのでアルバイトが雑談していて本当に集中できない。いまどき風の、毛先だけカラーリングした男とそのおとこに敬語を使う女。学生だろうか、なぜルノアールにしたのだろうか。制服がかわいいから私も経験してみたい、などとはおくびにも出さず作文を仕上げようとするも努力はなかなか見を結ばない。盗み聞き。「おれのおやじリモコンのことスイッチって言うんだぜ。おかしくねえ?」とかそんな。おかしいわ、それ。12時ぎりぎりに郵便局に駆け込んだ。同じ人が5人ほど。久しぶりに走って、長距離呼吸法がどんなものだったか、(鼻ではいて口で吸うのが原則だが、鼻が詰まっていたりすると、鼻水が流れ出てしまうので本当につらい、その場合は口で代用することになるためのどにかかる乾燥という負担が大きくなり、呼吸困難になることが多い)思い出した。あの、持久走大会の匂いがする。
早稲田大学へ向かう道すがら、一人暮らし時代にここをしばしば歩いたことを思い出し、ビデオ屋とコンビニエンスストアをちらりとのぞいた。しかしこれも記憶であって「物語化」された信用ならぬものだ。そんなことを思いながら六本木ヒルズ周辺で亡くした指輪の行方を考える。ものが消えるときというのは必ず覚えていないものだ。2万円のものでも100円のものでも。ああ、それにしてもあゆみブックスは優秀な書店だ。信号無視をしたさきに、学校のパソコンルーム。たどり着くと安心するのは少しいけない。たどり着いて書き始める。しかし一日を何の脚色もせず、切り口も交えずにこうして書き付けることの何という退屈さよ。これでも確実に、どこかで切り捨てられている情報はいくらでもあるわけで、人間が言葉を交わすことを前提とした生き物であるときにその捨てられた部分はどこへ行くのかという大いなる疑問。捨てられた部分を真実と取ったならば人っ子一人信用できなくなるのだ。おやすみなさい。
先日ネットサーフィンをしていたら、「恋愛日記」というのを見つけた。 女子高生が、彼氏とのメールのやり取りを中心に日常をつづったものだ。 「おはよ〜」 から始まる生産性ゼロのやりとりと、 それに連なる本人の不安、戸惑い、喜びが赤裸々につづってある。
自意識のサイトという点では、ここと変わらなかった。 しかし、おもしろくて夢中で読んだ。
「おはよ〜」「テストガンバローね」 (おそらく)脚色のために削ったり、嘘をついたりという 私のような姑息な手段は使っていない。 それなのに読ませる、日常生活自体の面白さがそこにはあった。
私の一日を、記憶のままに綴ったらどうなるのだろうか。 少し興味があったので試した。 最後までたどり着く人がいるのかと心配なほど、 陳腐で退屈で、読めないものになった。
「世界はノイズであふれている」。 松尾スズキが書く。 ノイズをカットせずに一つ一つ拾い上げて ノイズだらけのエンターテイメントを作るのがいかに難しいということ。 そういう仕事を生業としている彼の仕事のすばらしさを、改めて思う。
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