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2003年05月06日(火) じゃあみんな、一体何を買ってるんだ?

全身の力が抜ける。やっちゃいけないよそれは。どう考えてもいけない。オリーブ休刊。

出版社は厳しいだとか色々聞くけれど、あの雑誌をなくしたら日本は悲しい国になってしまう。なんて大げさかな。雑誌なんて人の人生を変えるものではないし、週か月に一回、流れ流れて旅人のように、忘れ去られて束ねられて、年一回くらいある大掃除のときに廃品回収に出されるのだろう。最近は、ブックオフで物好きが買うのを待つのかな。それは分かる。でも置いておく。私は涙を流す、この大きな「文化」の悲しい末路に。(ってやっぱり大げさだよね)復活を願ってやまない。

気を紛らわすために思い出話をする。語っておきたい年頃らしい。私にはいくつかの転機があった。生きてきて21年。転機と言ってもたいしたものではなかったけれど、私がただいま生きながら作成中の「私物語」の中ではクライマックスを形成している部分だ(と勘違いしている)ことは確かだと思う。それらのひとつが本の世界との出会いだった。

小学校まで、私はシャーロックホームズとポワロ、それからX、Y、Zの悲劇シリーズを読みあさるこどもだった。何故そうしたのかは知らない。一冊目の記憶は全くない。しかし読むことは本当に快感で、同時に書くことも自然な行為になった。何かを読み、吸収して自分の言葉としてはき出すという繰り返しを、当たり前のように続けることは、少しも苦痛ではなかった。それを人に見せるのは快感だった。読書感想文を嫌がらなかった。(感想文はミステリーでは書けないことは知っていたけれど)

しかし、中学・高校と私はほとんど読書をしなくなった。ぱたりと。優等生な自分のイメージををなるべく消し、馬鹿になりたかった。「読書を教室でしちゃう子」は敵だった。ああいう真面目ぶった人たちに、私はあらゆる場面で勝たないといけない。証明しなくてはいけない、私の実力を。外側で真面目なことはしたくなかった。書く時に出てくるプロットは、すべて小学校までの読書から引き出してきたものだった。考えてみれば大したものだ。どんなくだらない文章であれ、読まなかったら絶対に書きつづけられないからな、今は。それでも感想文を書けば、私は「読書を教室でしちゃう子」よりいい賞を取った。ファッキンな15歳だ。なんて書くとかっちょええな、ってのは勘違い。ファッキンファッキンファッキンオン!

村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』。大学二年の夏。私はこの小説から、読むという麻薬に再び取り憑かれた。村上春樹を読み続け、読み踏み、読み倒して、彼の作品に関しては新作が出るまで読むものがなくなった。(『海辺のカフカ』読了後の現在も)まわりの世界との違和感。自分が、どこともつながっていない感覚。無欲。心がない男。何かを失った人が新しい何かを見つける物語。誰も求めない主人公。私の味わったことのない感覚だった。本当に綺麗で空っぽで、しかし非常に精巧な世界がそこにはあって、私は私が好きになる人の心の中を覗いたような気分になった。

私はつまらないアルバイトをしていた。コーヒーを売ってはたまにこぼして怒られる。繰り返し。それでも地下鉄のシートに座っている時も、仕事が終わった後に寄るスターバックスの椅子にもたれながらも、一人暮らしのひとりの部屋に戻ってスウェットで寝ころんでいても、私にはもう一つの世界が待っていてくれた。「デタッチメント」。春樹作品と共に、私は自分の内へ内へと降りていった。脳の中にはもう一つの世界があって、そこには私がもう一人住んでいた。ああ、何と素敵な経験だったのだろうと今思い出してもため息が出る。

一冊の本との出会いが、今の私の進むべき道を決めているといっても過言ではない。村上春樹さんに感謝している。(あんなに有名な方なのに、何故か遠く感じないことが不思議だ)大学に入って、春樹作品を勧めてくれた友達にも感謝している。「でも愛というものがなければ、世界は存在しないのと同じよ」そのくだりを思い出すだけで、私には希望が見えるのだ。


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