2005年07月30日(土) |
「くだらない」と切り捨てては見えてこないこと |
仕事で、キャリアアップのためのセミナーというものに参加した。今度、キャリアアップのための雑誌を担当することになったので、上司が「勉強もかねて取材に同行してきて」と突然言いだしたのだ。
金曜日の夜7時からキャリアアップについてまじめに考えている人たちとはいったいどんなだろうかと半分興味本位で、半分バカにしながら麹町に向かう。100人近く入る会場は、20代半ばから30代前半の若者たちでいっぱいだった。1/3くらい女性もいる。
セミナーでは、超大企業からベンチャーに飛び込んだやり手サラリーマン(パネリスト)2人が自分の体験を語った。大企業時代、1プレイヤーであった一人の男性は、転職先のベンチャーで現在は部長。30代前半にもかかわらず、会社内では社長に次いで大きい決裁権を担っているという。決して気取ったりプライドを振りかざす風もなく、淡々と仕事内容について語る様子からは、静かな自信が伝わってきた。清々しかった。
世の中の「第一線」を走る人たちとは、一体誰なのか。「降りる」人生など想定外だと言わんばかりにどん欲に勝ち続けようとする人々とは、一体どこにいるのか。少し答えが出たように感じた。そして彼らがきっと、私が作る雑誌の読者なのだろう。絶対にリアリティが交差しない人々に向けて、私はこれから記事を書くのだ。くだらないだろうか? 否。快感だ。
セミナーの質疑応答を聞いていて、ふと気付く。「あ、何かに似ている」と。就職活動である。あの戦いは、社会人になってからも目に見えない形でずっと続いていたのだ。こうして視覚化された場面を見て、ようやく気付いた。
私は、社会的に上昇していくことを誰よりも憎悪しながら、そこからどうしても、目をそらすことができない。就職活動を消したい思い出だと言う。しかし、同時にあの時の「負けてたまるか」というとても子どもっぽく、シンプルな欲求だけが今の私を支えている。そして、言うまでもないことだが、そうした欲求があるにもかかわらず、私は社会的「負け」に属する。
佐野眞一の『カリスマ』に描かれたダイエー元会長の中内功は、最後まで過去の栄光から逃れられずに滅んだ。私は自分のこの巨大なコンプレックスの源が、中学時代の成功体験にあるように思えてならない。
だから私には年収1億を目指す金曜の夜のセミナー参加者も全てを捨てて海外に行く友人も、どちらも笑うことはできない。今の私はそのどちらにも行けずに彷徨う大多数に属するのだ。
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