2006年08月06日(日) |
寅さんはいい映画だったこと以外も書いてます |
世の中のよいことと悪いことがあるとしたら、今の彼といて本当によかったと思うのは、お互いに話す内容は世の中や身の回りで起こっている良いこと、悪いこと両方なのだけれど(当たり前だ)それを話す雰囲気や、これからの展望、私の中の結論は、良いほうに落ち着くところだ。私はもともと非常に楽観的な人間であるにもかかわらず、周りの雰囲気に非常にのまれやすいため、暗いほうに暗いほうに考える相手といるとどうしても自分が暗くならなければならない強迫観念めいたものに襲われるし、真面目な人といると自分の不真面目さを必要以上に呪ってしまうところがあるので、相手が楽観的であったり、明るい雰囲気の人であったりすると非常に助かる。
こんなことを考えたのは、世の中のブログを読んでいると本当に精神的に辛い思いをしているひとというのはたくさんいて、私の思春期の何千倍もこんがらがっている人もいるということに改めて気づいたからだ。そして自分という人間の底知れず複雑な部分について私はここのところまったく書いていないのは、自分がそれをあえて避けているからだと分かったのだ。
あえて避けているというのはどういうことかというと、私だって普通のOLとして日々会社に行き、その後のアフター3くらい(ファイブもない)と週末を個人として過ごしているわけだからそれなりに楽しいことも辛いこともそのどちらでもないけれどもしていることもある。しかし、そのうちのたとえば辛かったこと、直接的には辛くなかったけれども人間の複雑な部分に触れようとすればそうできたことについて言葉にするのが、本当に嫌なのだ。そんなことよりも同じ複雑でも自分が書いていて気持ちの良い内容を、文章にしたいと思ってしまうのだ。
日記が面白いのか面白くないのかということはまた別問題でおいておくとして、私は気持ちのいい文章を書きたいし、それが、今の私にとってけっこう大切な信条(というと大げさだが)なのかもしれないと、なんとなく思った。
私は村上春樹の作品に対して、「〇〇の頃のほうが好きだったけど、最近は変わってきちゃった」なんていう文句を言うけれど、そんなことを読者である私がいくらいったところで作家の作風は変わらないのだなと思った。もし〇〇を欲している読者が100万人いたとしても、本当に信条がある人はそれを曲げるのは本当にむずかしいんじゃないだろうか。それをさらっと変えられる人もいるだろうが、それはその人にとって変えることがなんてことないことだからだろう。
私は相手が望むことにはこたえてあげたいなと思う人間なので、たとえば仕事では、当初自分が思っていたことと違うことが相手からオーダーされても、ほとんど答えてあげている。言葉を変えれば妥協することもある。でも突き詰めて考えるとそれは私にとってさほど重要ではないことだからなのだろう。
話を戻すと自分の心のままに文章を書けるというのは私にとってとても大切なことなので、ここで日々自分の中に沸き起こるどろどろした部分だけをまとめて書くというのは、今の私には非常にしんどく、信条(というにはやはり重い)に反する行為なのだろうと思う。こうして書いている文章も、無駄な言葉が多くて本来気持ちよくかけているものとは違うが、私はウエットな人間なので、こちらの文章の書き方が自分の本質なのだ。何も考えず書くとこういう文体になるというのが本当に怖いが。
何を言いたいのかよく分からなくなってきたので、今日見たテレビのことを書く。NHKのBS寅さん映画祭なるものをやっており、初めて寅さん映画をはじめからおわりまで集中して見た。見たら、これが非常に面白く、いい映画だった。山田洋次と趣味合うんだ多分。あのおじさんがテレビでしゃべってるところすごく好きだもの。「負け組勝ち組の世の中はいやだ」とか、ぼそぼそつぶやいてるところ。まず風景がいい。柴又行こうと思う。金町も。先日書いた池上線沿いといい京成線沿いといい、東京にはまだまだ行くところがあるらしい。普通の人の、普通の暮らし。働いて、ごはんを食べて、食べ終わったらお茶を飲んで、その後少し楽器を弾いたりして眠る。そういう暮らしが、この映画にはある。
ほらね、また気持ちのいいほうに行こうとするでしょ、私、と書いていて思った。まあいいです。週末に徹夜して仕事ばっかりしてたらなんかもやもやしたので駄文を書いてやった。まどろっこしくて何を言っているか分からなくて雰囲気の言葉が多くて一文が長く、論旨が段落によりぶれぶれな文章を書きたくなるときもあるんだよばか。悪いか。俺は眠い。
|