橋本裕の日記
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最近、山さんと時々メールの交換をする。山さんは私の同僚で、北さんと同じ国語科の先生。掲示板にも書いてもらったことがあるが、やりとりはメールの方が多い。私のクラスの副担任でもあり、弁当仲間なので、学校では日常的に付き合っているが、メールや文章を通した交流もまた改まった雰囲気が感じられて、日常の雑談よりも思索的で、格調の高い対話が出来そうである。
というわけで、今日は彼にあてた私のeメールを紹介しよう。ただし「」の文章は彼の文章である。了解を得ずにここに引用してしまったが、やかましく言うとこれは著作権の侵害になる。しかし、山さんなら許してくれるだろうと言うことで、使わせて貰うことにする。
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私はかねがねの主張通り、仕事は1/3と割り切っています。それ以上の進入を許さない。まあ、ウルトラエゴイストというところでしょうか。新任の頃から手ぶら主義を貫いています。
残念なのは、結婚してマイホームというお荷物を背負い込んだこと。だから、なるべくはやく、家出して、一人になりたいと願望しています。(家族に対する不満は一切なし。妻も娘もよくできています)これもウルトラエゴイズムですね。
昔から西行や芭蕉にあこがれています。良寛は私が最も尊敬する人。いずれも漂泊の詩人達です。西洋で言えば、樽の哲学者ディオゲネスでしょうか。無一物の生涯を、精神の自由と高雅さをたもちながら生きて行ければと思っています。
「少々乱暴かも知れないけど、言葉が思惟だと言うべきだろうと思います。心の中の言葉とともに心の中にふさわしい思惟が生まれるし、口から発する言葉とともに口から発するにふさわしい思惟が生まれるし、さらにそこに身振りが伴えばそれにふさわしい思惟が生まれるし、手を使って書けば、それにふさわしい思惟が生まれる。言語ではないけれども、音楽・絵画・演劇・・・など、演奏したり描いたり演技したりするとともに、筆舌に尽くしがたい思惟が生まれます」
音楽、演劇。絵画、それぞれに言葉=思惟がかかわっているという捉え方はいいですね。私が「人間を守るもの」の中で展開した考え方もこの精神で貫かれています。西洋流に言えば「ロゴス」ですね。初めに言葉(ロゴス)ありき、という訳です。
「表現力を高める、表現技術を磨くということは、思惟を高める、思惟を深めるということになるし、自己の人格を高め、深めることになると思います。物事の本質についての問いかけも、言語表現なくしては不可能ですが、その答えに近づけば近づくほど、世界(身の回り)ともうまくつきあえるようになります」
人格力の根底には言語能力があると思います。粗暴な言語は粗暴な人格と結びついている。私たちの考え方や感じ方は「言語能力」によって基本的に規定されている。だから言語能力をたかめることこそ、教育の第一の目標でなければならないと思います。私は数学も論理性を重視する言語能力の一部だと理解しています。
問題点は、言語は我々を支配するシステムであるということ。私たちは母国語の限界の中で考えています。システムの中で生きながら、そのシステムに一方的に支配されるのではなく、ときとしてそのシステムを超える生き方が出来るかどうか、その辺のことを私はいつも考えています。
言葉について、またいろいろと議論したいですね。言語を基礎においた教育論にはとくに興味があります。
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