橋本裕の日記
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プラトンは「人間は永遠なもの<イデア>と触れることで、魂がたかめられる」と説いた。そしてそのためには、魂全体をそちらの方に「転回」しなければならないという。なぜなら、人間はいってみれば洞窟の囚人のような存在で、普段は洞窟の底に映った影ばかり見ているからだという。そしてこの永遠なものの中でも究極のものを<善のイデア>と呼び、太陽になぞらえている。
「だから、思うに、上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。−まず最初に影を見れば、いちばん楽に見えるだろうし、つぎには、水にうつる人間その他の映像を見て、後になってから、その実物を直接見るようにすればよい。そしてその後で、天空のうちにあるものや、天空そのものへと目を移すことになるが、これにはまず、夜に星や月の光を見るほうが、昼間太陽とその光を見るよりも楽だろう」
「知的世界には、最後にかろうじて見てとられるものとして、<善>の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとられたならば、この<善>の実相こそはあらゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならぬ、すなわちそれは、<見られる世界>においては、光と光の主とを生み出し、<思惟によって知られる世界>においては、みずからが主となって君臨しつつ、真実性と知性とを提供するものであるのだ、と。そして、公私いずれにおいても思慮ある行ないをしようとする者は、この<善>の実相をこそ見なければならぬ、ということもね」
上に引用したのは、プラトン『国家論』第7巻の有名な「洞窟の比喩」の部分である。プラトンの「イデア論」の核心部分であるが、実はここで「イデア」という言葉は使われていない。というか、意外なことだが、プラトンの全著作の中に「イデア」という言葉自身は一度も登場していないという。
「イデア」ということばは、彼の弟子のアリストテレスが名付けたそうである。プラトン自身は、「饗宴」「パイドン」「国家」など一連のイデア論関連著作の中では、「実在」「実有」「本性」「実相」「真実性」といったさまざまな呼び方をしている。しかしこれら<永遠なもの>を「イデア」という一つの言葉で呼ぶことで、イメージがはっきりする。プラトンの思想も永遠で不滅のものとして後世に残ることになった。彼はよき弟子を持ったものだ。
イデア思想は、はじめ「饗宴」の中で、<美>のイデアとして登場したが、その後、『パイドン』に至って、美だけではなく、<勇気><敬虔><徳><健康><強さ>などにも拡張された。そして、「国家」で至高のイデアものとして、<善のイデア>が力強く登場した。しかし、私は個人的には、「饗宴」の中で魅力的に説かれている<美のイデア>こそ至上のものではないかと思っている。最後に「饗宴」から、一部を引用しておこう。
「一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして、美しい肉体から数々の美しい人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へ、もろもろの学問からあの美そのものを対象とする学問へと行き着くわけです。つまりは、ここにおいて、美であるものそのもの<美のイデア>を知るにいたるためです。いやしくも人生のどこかに人間の生きるに値する生活があるとしたら、それは、まさに、ここにおいてなのです。いうまでもなく、彼はそのとき美そのものを観ているからです。そしてあなたも、ひとたび美そのものを観るならば、黄金も、装いも、世の美少年や美青年も、それを前にしては何するものぞと思われましょう」
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