橋本裕の日記
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論語に次の言葉がある。
子曰く、吾十有五にして学に志す。 三十にして立つ。 四十にして惑わず。 五十にして天命を知る。 六十にして耳順ふ。 七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。
私もちょうど50歳、そろそろ天命を知る年頃である。「30にして立つ」というのは、世間的に一人前になるということだろう。経済的に自立し、家族を養い、 市民としての義務をはたし、社会貢献をする。
これに対して、「天命を知る」というのは、そうした世俗を超えたもっと大きなものの価値に目覚めるというだと思う。いわば、精神的・宗教的な目覚めであり、新しい自分に生まれ変わるということだ。社会に順応するだけではなく、もっと大きく深い精神世界の存在を知り、その声に耳をかたむけようという姿勢を持つことではないだろうか。その努力があって、「六十にして耳順ふ」「矩を踰えず」という人生の理想境に入ることができるのだろう。
こういうことは、壮年時代にはなかなかむつかしい。社会の仕組みを知り、生きること、生活することに一段落した50代がその時期なのだろう。人生を「起・承・転・結」で区切るならば、50代はちょうど「転機」ということになる。つまり先の人生を考え、自分の生き方を再確認する必要に迫られる時期かもしれない。
老年は青年に似る、という言葉がある。考えてみれば私たちの多くは青年時代に精神世界とのなにがしかの出会いを経験している。「生きると言うことはどういうことか」「愛とは何か」そうした人生問題に悩み、文学や哲学に助けを求めたりする。しかし、社会にでて、あくせくと働いているうちに、人間は次第に現実的になり、そうした理想主義の美しさ、魂の純粋さを忘れてしまう。
そうした意味で、老年(熟年。50、60歳代)はこれを回復するチャンスだろう。もういちど、青年時代に読んだ本や感激した音楽、思想に出会い、その価値を再認識する時期かもしれない。
ところで、最近の青年はほんとうにそうしたゆたかな精神的世界と出会っているのだろうか。今の高校生や大学生を見ていると、物質的な豊かさに幻惑され、精神のゆたかさをを忘れているような気がする。そうした乏しい青年時代を経験したものが、50歳になって「天命」を知ることができるだろうか。とうてい見込みがなさそうにも思えるのだが。
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